宇和島でもウィンドサーフィンとヨットに明け暮れた。1985年38才の時初めて南予マラソン10kmを走った。48分かかってビリから2番目だった。出場した病院関係者が集ってジョギングクラブを創った。練習会には真面目に参加した。翌1986年愛媛県で初めての中島トライアスロン大会が開催された。古い記憶が蘇り勇んでエントリーした。スイムは自信があった。ランも速くはないが、かなりの距離を走れるようになっていた。バイクは、レースこそしたことは無かったが、50キロほどのサイクリングは苦ではなかった。ただ、三種目を連続してやった経験は無く、ちょっぴり不安を抱えて出場した。結果は完走者145人中52位と過不足ない成績だった。中島大会は1991年の第六回大会まで連続出場した。1988年からは玄海大会にも出場させて貰った。当初から、何時かハワイアイアンマンに出るのだ、と心に決めていた。気持ちとは裏腹にロングの大会は申し込んでもことごとく蹴られた。 1990年玄海大会の後、国東大会を前にランを熱心に練習し始めた。バイク終了時まではまずまずの順位なのに、ランで失速してしまうパターンから脱出するためだ。甲斐あって玄海ではキロ5分15秒かかっていたのに、国東では10Kmを42分06秒で走破した。 1992年は初参加のレースが続いた。まず4月の宮古島、バイクでディレーラーのプーリーが飛んでしまうというアクシデントに見舞われ、一度はリタイアを宣言したのだが、メカニックサービスに助けられ211位でゴール。6月は念願の琵琶湖大会へ出場。ランでつぶれたものの総合280位、年代別(45-49)6位でハワイ大会出場権を獲得した。初めての参加を許された憧れのアイアンマンハワイ大会は想像以上に素晴しく、一生の仕事を見つけた、という思いに興奮した。レースの方はバイクで力を抜きすぎたのが尾をひき総合736位、年代別(45-49)39位と低調であった。 この年を含め、1992-1995年は琵琶湖からハワイへと連続して出場した。1993年琵琶湖のランで大痙攣を起こしピンチを経験した。それを教訓に、以後琵琶湖は予選と割り切って無難なレースを心がけた。それ故、年代別で初年の6位を皮きりに、6位、5位、5位と進展は見られない。一方ハワイでは、92年の39位の後、28位、18位、14位とエイジ内の順位が上がっただけでなく、総合でも736位から724位、637位、571位と上昇を続けた。この間年齢が46才からエイジ最年長の49才に成ったことを考慮すると努力のほどが伺える。 50才でハワイを迎える1996年は、年代別入賞を狙えるチャンスの年だ。ウェイトトレーニングで筋力アップし、ダイエットとウォーキングで体脂肪を減らした。三種目の練習量も例年の5割増で琵琶湖に臨んだ。結果は…。バイクトラブル(スペアタイヤのバルブエクステンションが短かかった。)であえなくリタイア。幻のハワイ表彰台となった。 1996年9月7日、50才の誕生日を迎えた。この年琵琶湖で失敗しハワイアイアンマンに出場出来ない私は、来年の出場権を賭けて、9月29日ホノルル国際トライアスロンに参加した。そして、50-59才にたった一つの出場枠をもぎ取った。 1997年は最良の年であった。長年のトライアスロンに注いだ努力が花開き実を結んだ。4月宮古島、6月徳之島、7月皆生、9月佐渡、いずれも年代別1位を頂いた。そして、51才で迎えたハワイアイアンマンでは、念願の5位入賞を果たし、表彰台が現実となった。 |
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