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■ ペリー来寇から160年後の日本 アニマルマインドを取り戻そう |
今年の7月19日は、土曜日だった。浦賀水道の神奈川側に立って、しばらく燈明堂の先の海面を見つめた。対岸に、房総半島の鋸山の稜線が眺めた。今日でも、徳川時代後期に木造の灯台としてつくられた、燈明堂が建っている。
ペリーが旧暦の嘉永六(1853)年6月3日に、浦賀水道に4隻の黒船を率いて侵入して、私が目をこらしたあたりに投錨した。今日、私たちが使っている新暦に換算すると、7月なかばになった。
あれから、ちょうど160年目に当たった。あの日と変わらずに、鷗(かもめ)や、鳶(とび)が飛んでいた。
この日から、ペリー艦隊は9日後に江戸湾から退去するまで、江戸は上から下まで慌てふためいた。江戸の街に「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」や、「アメリカが来ても 日本はつつがなし」という、「恙無(つつがな)い」と「筒(大砲)」を掛けた戯れ歌が現われた。
ペリーの黒船外交の意図
今日、箱根芦ノ湖の上のほうに、昔の東海道がそのままの姿でのこっているが、幅が2メートルもない。あのころの日本では、長距離の物資の輸送に馬車や、牛車が使われることがなく、海路によって運ばれていた。ペリー艦隊に居据わられると、150万人の江戸が餓えてしまうことになった。
ペリーは砲門を並べて、幕府を傍若無人に威圧して、開国を迫った。要求に屈しなければ、江戸が焼き払われかねなかった。ペリー一行は6月9日に久里浜に上陸して、幕府の御用掛に、フィルモア大統領の親書を伝達した。
私はワシントンを訪れた時に、当時の銅版画を売っていたのを見つけて、安価で求めて所蔵している。幔幕が張られた仮設会見所に、幕府側とペリー一行が向い合って、着席している。
もっとも、江戸時代の日本には椅子が存在しなかった。そこで幕府が役人に命じて、神奈川中の寺から、急いで曲彔(きょくろく)を掻き集めさせた。
曲彔は僧侶が法要に当たって、座る椅子である。幕府側が上等な曲彔のほうに、座った、銅版画を見ると、徳川幕府体制を葬る法事を思わせる。
歴史を学ぶことは国の自立を学ぶ
幕府の必死の説得によって、ペリー艦隊は翌春に戻るといって、6月12日に退散した。
幕府はただちに品川沖を埋め立てて、大筒台場の造営工事に着手した。当時はブルドーザーも建設機械もなく、すべて人力で行われた。品川の御殿山と八つ山を削って、人足がモッコを担いで、土砂を運んだ。人足の1人ひとりが、日本を守る愛国心に燃えて、夜に入ると篝火(かがりび)に照らされて、昼夜兼行で働いた。
今日、お台場公園として残っているが、いったい、ここを訪れる人々のうち何人が、先人たちが幕末から明治にかけて、日本の独立を守るために苦闘したことを、偲ぶものだろうか。
お台場公園には、砲台と火薬庫の跡がある。御台場を建設するために、手漕(てこ)ぎの二千艘(そう)の土砂運搬船が往復した。
ペリーの再来寇の目的
ペリーは翌年1月16日(旧暦)に、江戸湾に7隻の軍艦を率いて、再び来冠した。2月にもう1隻が到着して、8隻となった。3月3日に、ペリー一行が神奈川の横浜村に上陸して、日米和親條約が締結された。
その前日に、5人の応接係など約70人が、旗艦ポーハタン号の艦上に招待されて、ワイン、料理によって歓待された。応接係の1人が酔って、ペリーに抱きついて、「日本、アメリカ同心!」と叫んだが、後の「日中友好」の走りのようなものだったのだろう。
安政五ヶ国條約
日米条約を先例として、その4年後の安政5(1858)年に、幕府はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、ロシアとの間に、修好通商條約を結ぶことを強要された。安政五ヶ国條約として知られる。
和親とか、修好通商條約といっても、内容はとんでもないもので、開港地に諸国の軍隊が駐留する、諸国が西洋人に対する裁判権を持つ、一方的に関税率を決定するという、屈辱的な不平等條約だった。
明治に入ってからも、不平等條約を撤廃することこそが、国民の悲願となった。日本は、ペリーが来冠してから41年後に、国民が大きな犠牲を払って日清戦争に勝ち、その10年後には白人の大帝国だったロシアと戦って、打ち破って、世界を驚かせた。
不平等條約の改正に辿りつくまで
最後の不平等條約が改正されたのは、日露戦争に勝ったことによって、日本が「一等国」の仲間入りをした後のことだった。
いま、占領憲法を改正するべきだという声が、ようやく高まるようになった。私は現憲法が、アメリカによって占領下で日本を再び国家としないために強要された、憲法の形を装った不平等条約であると、論じてきた。
吉田茂が幣原喜重郎内閣の外相として、首相として現憲法の制定にかかわったが、回想録『回想十年』のなかで、マッカーサー総司令部と憲法草案について接衝した時のことを、「外国との条約締結の交渉と相似たものがあった」と、証言している。
国家の自立とは認識がいる
明治の先人たちは不平等条約撤廃のために、国をあげて苦闘した。
いまでも、実体が不平等条約である現憲法を後生大事にして、墨守しようという人々が、珍しくない。日本の大新聞によって嗾(けしか)けられて、現実に目を瞑って、軍事力を強化すると外国を刺激して、日本の安全が危くなるとか、平和を守るためには軍備が弱いほうが望ましいと、唱える人々が少なくない。
平和呆けが保護呆けを生んだ
「平和呆け」だといわれるが、冷戦下でもソ連が日本を狙っていたから、日本の周辺が戦後これまで一刻も平和だったことはなかった。これは、アメリカによる「保護呆け」である。だが、アメリカがいつまで日本を守れるだろうか。
吉田松陰はペリーが来冠すると、日本が無防備だったために辱められたのを、「太平に馴れて腹づつみを打っているから、大事になった。あわれむべしあわれむべし」と、嘆じた。そのまま、いまの日本に当て嵌(はま)ろう。
日本は動物であれば、かならず備えている本能を、失ってしまっている。国際社会は、いまだに野獣が横行するジャングルであるのに、ペットのようなひ弱な社会となった。
アニマルマインドとは何か
近刊『アニマルマインドと新・帝国主義』(松原仁著、ジョルダン・ブックス、1200円)を読んで、日本は動物を見倣うべきだと考えていたので、わが意を得た。著者は衆議院議員で、民主党政権で拉致問題担当大臣、国家公安委員長をつとめた。
著者はアニマルマインドとアニマルスピリッツを、闘争心、向上心、自己への自信として定義して、「国家の根源的パワー」として位置づけている。少年も、働く人も、会社も、国家も、アニマルマインドを欠いてしまうと、力が萎えてしまう。
この本のなかで、イギリスの経済学者ケインズや、ノーベル経済学賞を受賞したアカロフの著作から、会社から国家まで「アニマルマインド」が必要なことを、引用している。
著者は「国家における福祉、社会保障、年金、住宅、教育などの問題は肉体の問題であり、それらが健康であること、国家の基礎体力を向上させることは、国民の『アニマルマインド』のための下地なのである」と、喝破している。拍手したい。
アニマルマインドは自立心の根幹
英語のアニマルanimalの語源といえば、ラテン語の「息、魂anima」「活気あるanimalis」と同根のanimaleである。animalisは、英語の「活気づける(アニメート)」になる。
東京は世界の首都のなかで、異常な都市だ。ペットブームで、街なかで犬を散歩させている人に行き合うが、すべてひ弱な血統書付きの犬で、1匹も逞しい雑種犬を見かけることがない。制(軍)服を着た自衛官(軍人)の凛々しい姿を、見ることもまったくない。
■ 本土決戦を回避した昭和天皇の「御聖断」 |
暑い8月が巡ってくると、先の大戦で日本が敗れたことを思い出す。
私は国民(小)学校3年生だった。疎開先の長野県で8月15日を迎えた。母が泣きながら、「負けたのよ。頑張って、日本をもう一度、立派な国にしてね」といったので驚いたが、敗戦の意味を理解できなかった。
私は大学時代から売文によって、収入を得るようになった。敗戦後も、両親から日本が世界一の国であることを教えられたから、軍国少年の誇りを失うことなく育った。
私はあの戦争になぜ敗れたのか関心をもって、大戦中に政府、軍の中枢にあった人々をたずねて、回想してもらった。終戦時に大本営参謀だった稲葉正夫中佐が、「本土決戦を戦わなかったから、日本がこのように堕落した」と憤ったのを、忘れられない。
私は37歳だったが、昭和49(1974)年から翌年にかけて、『週刊新潮』に昭和20年元日から、マッカーサー解任までを取材したノンフィクションを、50週にわたって連載した。
終戦の御聖断が下った、8月9日深夜から未明にかけた、御前会議について書いた時には、目頭に涙がこみあげた。
深夜の御前会議では、東郷外相、阿南陸相、平沼枢密院議長、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の順で、意見を開陳した。東郷、平沼、米内がポツダム宣言受諾を、3人の将官が焦土決戦を主張した。
鈴木老首相が意見が3対3に分かれたことから、「まことに畏れ多いことではございますが、ここで天皇陛下の思召しをおうかがいして、会議の結論といたしたく存じます」といった。御聖断が下ると、陛下をはじめ列席した全員が、とめどなく溢れる涙を拭った。
この5月に、JR東海の葛西敬之会長が産経新聞に、「原爆が投下されてなお、阿南惟幾陸相は本土決戦に固執した。自らが敗戦の説明責任を負うのを避けるためだった。最後に無条件降伏を決定したのは昭和天皇の聖断であり、彼は自らの果たすべき説明責任を天皇に押し付けた」と、寄稿されていた。
私は日頃から葛西会長の高見に敬服しているが、もし、あの夜の廟議(びょうぎ)が3対3に割れずに、ポツダム宣言を受諾することが決まったとしたら、御聖断が下されることがなく、陸軍が反乱して本土決戦がたたかわれたにちがいない。今日の日本がなかったはずである。
あの夜の廟議が3対3となったことは、天祐だったとしかいえない。
マッカーサーが回想録に、「一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上に前例をみない」と、驚愕している。
昭和20年8月までの日本には、「聖なるもの」があった。だからこそ、「一億総玉砕」を呼号していた軍も、鉾をおさめた。
中国が傍若無人に振る舞うようになったのに対して、国防力の強化が求められるようになっている。憲法改正の声が高まっている。
だが、今日の日本から、どこを探しても、「聖なるもの」がなくなってしまった。アメリカや、イギリスをはじめとする諸国には、アメリカの建国精神や、イギリス王室といったように、そのために国民が生命を捧げる「聖なるもの」がある。
日本はアメリカの占領政策によって、聖なるものをいっさい否定して、今日まで至っている。それで、国を守れるものだろうか。
■ 反日色を鮮明にする韓国・朴大統領政権 |
6月にカリフォルニア州で、オバマ大統領と習近平国家主席による、米中首脳会談が行われた。
2人は通訳を交えて、8時間にわたって会談したが、中身がまったくなかった。通訳が8時間の半分を費やしたうえ、大部は双方の随員が発言したものだった。
5月に、韓国の朴槿恵大統領がワシントンを訪れて、オバマ大統領と会談した。
朴大統領は「日本が歴史観を歪めて、アジアの安定を脅かしている」と訴えた。この発言は、アメリカへ向けたよりも、人気取りのために、韓国国内へ向けたものだった。
両首脳の会談後の共同記者会見で、オバマ大統領が「わたしの娘たちが、漢南文化(ハンナム・カルチャー)にはまっている」と、リップサービスを行った。韓流のアイドルグループのことである。
だが、アメリカの記者たちからの質問は、北朝鮮が戦争熱を煽り立てていたことと、シリア情勢に集中して、米韓関係に触れたものがなかった。
朴大統領は6月末に、北京において習近平主席と会談した。朴大統領は日本を名指なかったものの、「歴史認識をめぐる対立が、アジアの安定を脅かしている」と、述べた。
中国が力を増すなかで、韓国は先祖返りして、中国の属国だった李氏朝鮮時代に、戻るようになっている。500年にわたった李氏朝鮮時代を通じて、慕華思想(モファササン)といって中国をひたすら崇めたものだった。
韓国はことあるごとに日本を叩いて、快感に浸っている。韓国民はどうして、これほどまで、いじけているのか。自国について自慢できるものが、まったくないために、ただ一つ反日が国の誇りを支えている。
韓国は歴史を通じて、ごく短い期間を除いて、中国の属国で独立することがなかったために、自国を主軸に置くことができない。まるで子供のように泣き叫ぶから、手に負えない。日本は子供のために、叱るべきだ。
6月にワシントンを訪れて、アメリカの外交戦略が変容しつつあることを、痛感した。ブッシュ大統領時代が昔話になった。アメリカは世界を導く自信を、失っている。
オバマ政権はアメリカが超大国であるのか、超大国として振る舞えなくなったのか迷うようになって、外交戦略に焦点が定まらない。
財政赤字を建て直すために、向う10年間で連邦支出から1兆1000億ドル(約110兆円)を削減しなければならず、半分が国防費だ。
オバマ大統領は中央の経験がなく、シロウトの大統領である。日本の鳩山、菅、野田首相と、同じ頼りなさがある。
オバマ大統領は一期目末に、中国の周辺諸国に対する脅威が募ると、「アジアン・ピボット(アジアへ軸足を移す)戦略」を打ち出して、2020年までアメリカの海軍力の60パーセントを、太平洋に移す決定を行った。
だが、巨大化する中国の経済力に魅せられて、米語に中国を指して、「フレンド」と「エネミー」を合成したfrenemyという新語が造られて、さかんに使われている。中国が友か、敵か、判別できないでいる。
オバマ政権は二期目に入ってから、中国に配慮して、「アジアン・ピボット」を「リバランス」と、言い換えるようになった。
オバマ政権も、アメリカ議会も、日本がアジアを侵略したことを詫びた村山談話と、慰安婦について謝罪した河野談話を、安倍政権が否定しようとしているとみて、日中、日韓関係をこじらせるとして、迷惑がっている。
中国、韓国は、日本が歴史を正そうとしているのに対して、これまで卑屈だった日本が自立するのを恐れて、さかんに非を鳴している。
中東が燃えている。アメリカはキリスト教国だから、7回にわたった十字軍の記憶によって、中東をアジアより優先させてきた。中東の危機が深まれば、アジアへ力を集中することができなくなろう。
■ 国力と外交力と存在感は哲学の有無にある |
この6月にワシントンを訪れて、政権、議会、研究所の友人たちと懇談したが、アメリカの外交戦略が変容しつつあることを、痛感した。
今年1月で、オバマ政権が2期目に入ったが、巨額の財政赤字を建て直すために、向う10年間で連邦支出から、1兆1千億ドル(約110兆円)にのぼる額を削減しなければならず、この半分が国防費である。
そのために、オバマ政権はアメリカが超大国であるのか、超大国として振る舞うことができなくなったのか、迷うようになって、外交戦略に焦点が定まらなくなっている。
オバマ大統領はイリノイ州の州議会議員から、ワシントンの上院議員として当選して、まだ1期目を終える前に、異常な人気を駆ってホワイトハウス入りしたために、経験が浅く、信念があるとしても、裏付けが貧しい。シロウトの大統領である。日本の鳩山、菅、野田首相と、同じような頼りなさがある。
ぶれない政策が力を生む
オバマ大統領は就任すると、中国とエンゲイジ――協調してゆこうという方針を採ったが、その後、中国の太平洋圏諸国に対する脅威が募ると、「アジアン・ピボット(アジアへ軸足を移す)戦略」を打ち出して、2020年までにアメリカの海軍力の60パーセントを、太平洋に移す決定を行った。
それでも、アメリカは巨大化する中国の経済力に魅せられて、米語に中国を指して、「フレンド」と「エネミー」を合成した「フレネミー」という、奇妙な新語が造られて、さかんに使われるようになっている。アメリカは中国が友であるのか、敵であるのか、判別できないでいる。frenemyは、アメリカから見た米中関係を表わしている。
オバマ政権は2期目に入ってから、中国に配慮して「アジアン・ピボット」を「リバランス」と、言い換えるようになった。
そのかたわらで、中東の状況が激変しつつある。アメリカはキリスト教国だから、建国以来、7回にもわたった十字軍の記憶もあって、中東をアジアよりも優先させてきために、今後、中東の危機が深まることがあれば、アジアへ海軍力を集中することができなくなろう。
独立国とは何かを原点に
日本は中国によって侮られるかたわら、アメリカが軍事力と、超大国としての意志力を衰えさせてゆくなかで、先の大戦に敗れた後に独立を回復してから、最大の国難に見舞われるようになっている。
日本はアメリカが日本を未来永劫にわたって属国とするために、日本の非武装をはかった偽憲法のもとで、恥しいことに経済的快楽だけ追い求めて、偽国家に甘んじてきた。
日本はアメリカに国家の安全を過剰なまで依存して、国と1億2千万人の国民の運命を、丸投げしてきたことから1日も早く脱却して、独立国としての尊厳を回復しなければならない。いま、まさに国難が募りつつある。
私のワシントン滞在中に、カリフォルニア州のサンタウンズで、オバマ大統領と習近平国家主席による、米中首脳会談が行われた。両首脳は8時間にわたって会談したが、私は今回の米中首脳会談を取材して、記事をまとめなければならない特派員でなくてよかったと、思った。
米中首脳会談には、中身がまったくなかった。8時間にわたって意見を交換したといっても、通訳を通じたから、時間で計ったら通訳が半分の時間を費やすから、主役は通訳だった。
仮に両首脳が2時間ずつ発言したとすれば、通訳するのに4時間かかった。そのうえ、2人だけで話すことがほとんどなく、もっぱら双方の随員が発言した。
米韓首脳会談の行方
5月7日に、韓国の朴槿恵大統領がワシントンを訪問して、ホワイトハウスで米韓首脳会談が行われた。
朴大統領は、オバマ大統領に日本が歴史観を歪めているのが、アジアの安定を脅かしていると訴え、慰安婦問題も持ち出した。もっとも、この朴大統領の発言はアメリカへ向けたものよりも、韓国国内へ向けたものだった。
米韓大統領が会談後に、恒例の記者会見を行った。オバマ大統領が冒頭、「わたしの娘たちが、漢南文化(ハンナム・カルチャー)にすっかりはまっている」と、リップサービスを行った。漢江の南岸を指しているが、韓流のアイドルグループや、ドラマのことである。
ところがアメリカの記者たちからの質問は、北朝鮮の金正恩お坊ちゃまが、戦争ゴッコ熱を煽り立てていることと、悪化するシリア情勢に集中した。米韓関係に触れる質問は、1つもでなかった。
中韓首脳会談は日本の歴史観を自己優位の材料へ
6月末に、朴槿恵大統領は北京において、習近平主席と中韓首脳会談を行った。朴大統領は日本を名指さなかったものの、中韓両国こそが歴史を捩じ曲げてきたのにもかかわらず、「歴史認識をめぐる対立が、アジアの安定を脅かしている」と、述べた。
中国が力を増すなかで、韓国はすっかり中国に幻惑されて、先祖返りして、中国の属国だった李氏朝鮮時代に、あと戻りになっている。500年にわたった李氏朝鮮時代を通じて、慕華思想(モファササン)といったが、中国を宗主国として、ひたすら崇めたものだった。
日本を叩くと自己優位になる誤認脱却を導く道とは
このところ、韓国民はことあるごとに日本を叩いて、いっそう快感に浸るようになっている。どうして、韓国民はこれほどまで、いじけているのだろうか。自国について自慢できるものがないために、反日が誇りを支えるものとなっている。まるで、子供のようだ。嫌悪感をいだくよりも、可愛らしいと思う。
だが、困ったことに、アメリカでも日本の慰安婦問題となると、中国と韓国の多年にわたる工作によって、日本が先の大戦中に無辜のアジア女性を拉致して、軍の「性奴隷(セックス・スレイブ)」となるのを強いたと、ひろく信じられている。
オバマ政権も、河野官房長官による慰安婦についての談話や、日本が前大戦に当たってアジアを侵略したという村山首相談話を否定することには、中韓両国から強い反発を招くことになるので、日本のなかでそのような動きが強まっていることに、反撥している。河野、村山談話の罪は重い。どうして、軽々しく余計なことをいったのか。
日本のマスコミが客観化情報を公表するのが第一歩
私は日韓国交樹立の前年に韓国を訪れてから、足繁く通ったが、韓国の主要新聞に、駐韓米軍のための「慰安婦(ウイアンプ)」を募集する広告が載っているのを、よく目にした。
韓国における「慰安婦」について、韓国の学者グループによる研究があるが、2年前に『軍隊と性暴力』(現代史料出版)として邦訳して刊行された。
朝鮮戦争の勃発時から、国連軍(米軍)と韓国政府が「慰安婦」を管理していたことを、検証している。韓国では米兵相手の「慰安婦(ウイアンプ)」を、「洋公主(ヤンゴンジユ)」(外人向け王女)、「洋(ヤン)ガルボ」(外人向け売春婦)、「国連婦人(ユーエヌマダム)」、「国連婦人(ミセス・ユーエヌ)」と呼んでいたという。米軍向けの売春地区は、「基地村(キジチヨン)」と呼ばれた。
「慰安婦の目的は、第1に一般女性を保護するため、第2に韓国政府から米軍兵士に感謝の意を示すため、第3に兵士の士気高揚のためだった」と、述べている。
韓国軍にも、慰安婦がいた。「『慰安婦』として働くことになった女性たちは、『自発的動機』がほとんどなかった」「ある日、韓国軍情報機関員たちにより拉致され、1日で韓国軍『慰安婦』へと転落した」という。人攫いだ。
「国家の立場からみれば公娼であっても、女性たちの立場からみれば、韓国軍『慰安婦』制度はあくまでも軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷(ソンノーエ)であった」と、論じている。
2002年に、韓国陸軍の「慰安婦」についての研究が発表された直後に、「韓国の国防部資料室にあった韓国軍『慰安婦』関連資料の閲覧が禁止された。(略)『日本軍「慰安婦」問題でもないのに‥‥』と、言葉を濁らせた」という。
ソウルの国会と、アメリカ大使館前にも、慰安婦像を設置することになるのだろうか。
■ 尖閣が日本の未来を変える |
〜佐藤守先生 村松英子先生 加瀬英明による パネルディスカッション〜
6月、米中首脳会談がカリフォルニア州で開かれた。中国は米国に「太平洋2分割管理」を要求した。アジア太平洋圏は世界の3大経済圏、これを領土問題を含めて中国は牛耳ろうという。米国はアジア太平洋諸国による「共同管理」を主張、尖閣については日米同盟の範囲にあると述べた。
過去の自民党、民主党政権で軍事予算をどんどん減らし、集団自衛権の一つも決めきらない。このままでいいのか、日本。
●パネリスト
外交評論家 加瀬英明(内外に豊富な人脈を築き、米国についても詳しい)
軍事評論家 佐藤 守(沖縄那覇基地に司令部を置く南西航空混成団司令を歴任)
女優 ・詩人 村松英子(三島由紀夫に育てられた女優。三島作品の主役を多く務める)
●コーディネーター
中村 功(東日本ハウス創業者、経営者漁火会会長)
◆『尖閣が日本の未来を変える』パネルディスカッションの内容
・具体的にわが日本は何をすべきか。その1つ、国内外で情報戦に参加すること。
・歴史問題、軍隊、憲法、集団的自衛権、靖国参拝、慰安婦等々、日本の立場を発信し続けること。
・国内外の反日マスコミ、米国の占領政策に日本国民は60年間屈してきている。
・一朝一夕で変えることは至難の技であるが、それを可能にする教材が尖閣列島である。
・主張もせず、力なく戦う姿勢がなければ、やられてしまう。
・米国は2つの顔がある。共和党は日本に対して、たとえ補助網としても強い同盟国を望んでいる。
・安倍総理は、中国の脅しには屈しないと断言している。
・わが国にふさわしい憲法、外交、軍事力を持つ。その土台をなすのが国民の覚醒である。
・カリフォルニア州では、韓国慰安婦像設置に反対する日系住民が立ち上がった。
・国民の声が国を動かす。
◆『尖閣が日本の未来を変える』パネルディスカッションの開催情報
日 時:平成25年8月18日(日)
午後2時〜午後4時(開場午後1時半)
会 場:日本青年館 大ホール
新宿区霞ヶ丘町7番1号(神宮外苑)
TEL.03-3475-2455
参加費:1,000円 前売券あり 当日受付も可
(当日参加者全員に高木書房発行の『われわれ日本人が尖閣を守る』定価千円を贈呈します)
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主催「われわれ日本人が尖閣を守る」会
代表 加瀬英明
事務局 北区田端新町1-21-1-402
高木書房内(担当斎藤信二)
☎03-5855-1280 FAX03-5855-1281
携帯090-7526-3205
E-Mail:syoboutakagi@dolphin.ocn.ne.jp
URL:http://www2.ocn.ne.jp/~tkgsyobo/
■ 反日で国の誇りを支える韓国の不思議 |
『韓国軍の仮装敵が日本』という、新幹線の車上で無料で配られている、月刊誌の広告が新聞に載っていた。
私はブッシュ(息子)政権のラムズフェルド国防長官と、親しかった。下院議員時代に、信越化学の小坂徳三郎氏が主催した、下田会議で知り合った。
韓国の盧泰愚大統領が訪米した時に、ラムズフェルド国防長官と会談した。
盧大統領は会談が始まると、真面目な表情を変えずに、「韓国にとって、日本が最大の脅威だ」と、述べた。
ラムズフェルド長官は通訳が訳するのを聞くと、わきにいた補佐官に聞こえるように、「このバカ(フール)は、いったい何をいっているか」といって、「私は忙しい。そのような話を聞いている暇はない」と吐き捨てて、席を立った。
韓国が次期主力戦闘機を選ぶのに当たって、アメリカの国防省(ペンタゴン)が韓国に滑走路が長い基地が少く、短い滑走路でも離着陸できる、軽戦闘機を薦めたのにもかかわらず、F15を採用した。北朝鮮に対して備えるのに、F15は必要なかった。理由は、日本がF15を持っていたからだった。
韓国は高価なイージス艦を4隻も保有しているが、北朝鮮の脅威に対して役立つものではない。日本に対抗するためだった。
韓国は国産の最大の強襲揚陸艦を、『独島(ドクト)』(竹島の韓国名)と命名している。
5月に、朴槿恵大統領はオバマ大統領とホワイトハウスで会談して、「日本が歴史観を歪めて、アジアの安定を脅している」と、訴えた。さらに、6月に北京における中韓首脳会談を行った時にも、習近平主席に対して、日本を名指なかったものの、「歴史認識をめぐる対立が、アジアの安定を脅かしている」と、述べた。
韓国も、中国も、日本が歴史観を正すことによって自立して、力を増すことを恐れている。
韓国は日本に対して80年代まで、きわめて友好的に振る舞ったのに、このところ、ことあるごとに日本を叩いて、快感に浸っている。韓国はどうしてこれほどまで、いじけているのか。
自国について自慢できるものが、まったくないために、反日だけが、国の誇りを支えている。韓国は歴史を通じて中国の属国で、独立することがなかった。そのために、自国に対して自信を持つことができない。
今日でも、韓国語で「大国(デグク)」というと、中国1国だけを意味している。やはり、中国に臣従していたからだ。「大国」の鼻息ばかり窺って生きてきたから、情緒不安定な民族となっている。
落着きがない子供の国なのだ。そう思って付き合うほかない。
韓国は500年にわたった李氏朝鮮が慕華思想(ムファササン)といって、中国を宗主国として崇めてきたが、中国が力を増すなかで、先祖返りして、再び小中華(ソチュンファ)になろうとしている。
だが、もし今後、中国が混乱して揺らぐことがあれば、韓国は日本にまた媚びることとなろう。
韓国に「10年たつと、川と山も変わる(シプヨンイミョン・カンサントピヨナンダ)」という、諺(ことわざ)がある。
日本は韓国を甘やかしてきたが、子供を躾けるためには、ときには子供のために厳しく叱ることが、必要だ。
■ 韓国がひた隠しする韓国軍「慰安婦」関連資料 |
橋下大阪市長の「慰安婦」をめぐる発言が、内外で大きな波紋をつくった。
いつものように、韓国の反日世論が涌き立った。
ことあるごとに、日本に悪態をついて快感に浸たる。なぜ、韓国はこのようにいじけているのかと思う。
だが、困ったことに、アメリカでも日本の慰安婦問題となると、中国、韓国の多年にわたる工作によって、日本が先の大戦中に無辜のアジア女性を拉致して、軍の「性奴隷(セックス・スレイブ)」となるのを強いたと、ひろく信じられている。
河野官房長官による慰安婦についての談話、日本が前大戦に当たってアジアを侵略したという村山首相談話を否定することには、アメリカの国内世論から強い反発を招くことになるので、オバマ政権も日本のなかでそのような動きがあることに、反撥している。
日本の官憲が人攫いのように、女性の意志に抗って慰安婦となることを強制したようなことは、ありえない。
慰安婦であれ、前大戦で侵略を働いたというのであれ、南京事件であれ、事実無根であるが、民主主義国で一国の政府がまったく虚偽の事実を、公的に認めるような奇想天外なことは、ありえないことだ。そのうえ、謝罪している。全世界が事実だと信じ込んでいるのも、当然だ。
それだけに、河野、村山談話の罪は重い。日本が国家の安全を守るのに当たって、日本の汚名を清ぐのを急がねばならない。日本の名誉を回復することが、日本の価値を高め、日本外交に力を与えることになる。
どの国であっても、軍隊が外地で戦う場合には、将兵が性病にかかることがないように、兵士の性欲の処理にかかわって、管理するものだ。日本軍も例外ではなかった。日本軍の場合には、売春宿を経営する業者に女性を募らせて、慰安所を設けた。
いったい、韓国には、軍人のための慰安婦がいなかったのだろうか?
私は日韓国交樹立の前年に、韓国をジャーナリストとして訪れてから、足繁く通ったが、『東亜日報(ドンアイルボ)』をはじめとする韓国の主要新聞に、米軍のための「慰安婦(ウイアンプ)」を募集する広告を、よく目にした。「慰安婦」という言葉は、旧日本時代から引き継いでいた。
韓国における「慰安婦」について、韓国の学者グループによる研究があるが、2年前に『軍隊と性暴力』(現代史料出版)として訳出刊行された。
同書は、「慰安婦」が朝鮮戦争の勃発から、国連軍(米軍)と韓国政府がかかわって管理されたことが、克明に検証している。
韓国では、米兵相手の「慰安婦」を、「洋公主(ヤンゴンジユ)」(外人向け王女)、「洋(ヤン)ガルボ」(外人向け売春婦)、「国連婦人(ユーエヌマダム)」、「国連婦人(ミセス・ユーエヌ)」と呼んでいたという。米軍向けの売春地区は、「基地村(キジチヨン)」と呼ばれた。
「慰安婦」の「目的は、第一に一般女性を保護するため、第二に韓国政府から米軍兵士に感謝の意を示すため、第三に兵士の士気高揚」のためと、述べている。
韓国軍にも、慰安婦がいた。「『慰安婦』として働くことになった女性たちは、『自発的動機』がほとんどなかった。」「ある日、韓国軍情報機関員たちにより拉致され、1日で韓国軍『慰安婦』へと転落した。」
「国家の立場からみれば公娼であっても、女性たちの立場からみれば、韓国軍『慰安婦』制度はあくまでも軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷(ソンノーエ)であった」と、論じている。
2002年に韓国陸軍の「慰安婦」についての研究が発表された直後に、「韓国の国防部資料室にあった韓国軍『慰安婦』関連資料の閲覧が禁止された。(略)『日本軍「慰安婦」問題でもないのに‥‥』と言葉を濁らせた」という。
ソウルの国会と、アメリカ大使館前にも、慰安婦像を設置することになるのだろうか。
■ 幕末・明治の日本外交 |
1 はじめに
これから幕末から明治にかけての日本の外交というテーマについてお話しします。先ほどの江戸時代の続きのようなお話になるのかもしれません。
今年の5月27日、中曽根康弘元総理が95歳になられました。中曽根元総理は、毎年、親しい人を20人くらい呼んでお誕生祝いの昼食会を行われます。私は昨年は地方に行っていて参加できなかったのですが、今年は2年ぶりに参加させていただきました。31年前、中曽根内閣が発足しましたときに、当時45歳だった私は、首相特別顧問という肩書きを頂戴して対米折衝にあたりました。私は中曽根元総理の右側に座らされました。
中曽根総理が立ち上がり、みなさんに挨拶をされました。内容が素晴らしいものでした。
「お国の御恩と、みなさんの情(なさけ)によって、今日を迎えることができました。」とおっしゃられました。
いまの日本の政治家で、「お国」や「御恩」という言葉を使う人が、今日、おみえの中山成彬先生を除いては、いなくなってしまったのではないかと思います。「みなさんのなさけによって」という言葉は、これは「世間様のおかげで」というのと同じ意味ですが、そういう言葉を使う人も、あまりいなくなってしまったように思います。中曽根元総理のお言葉を聞いて私は、「さすがは95歳だけのことはあるな」と思いました。
そのあと、ひとり1人が立ち上がって、5分間ずつお祝いを申し上げることになりました。このとき、お巡りさん出身の平沢勝栄(ひらさわかつえい)先生が立ち上がり、おもしろいお話をされました。
「自分は岡山県の県警本部長のときに、はじめて中曽根先生にお会いしました。しばらく前に、徳之島に行きました。徳之島には泉竹千代さんをはじめ、110歳くらいのご老人が数多くおいでになります。
そこで村長さんに、『この島にはご長寿の人が多いけれど、どんな秘訣があるのですか?』と問いました。すると村長さんは、『それは風呂にはいることです』と答えました。
そこで私が、『この島のお風呂は、何か効能があるのですか?』と伺いましたところ、村長さんが、『風呂長寿(不老長寿)と言うでしょ』、と」・・・(笑)
中曽根元総理は、2時間の間出て来る懐石料理を残さずたいらげられました。シャンペングラス2杯を飲み干され、最後に立ち上がって、6分ほど、お礼のご挨拶をなさいました。
「私の歳になりますと、親しかった人たちがほとんど、途中下車してしまいました。人生は修行です。これからも修行を続けて行きますから、みなさん、これかもいろいろ教えて下さい。ありがとうございました。」
故人というよりも、「途中下車」のほうが良いですね。人生を「修行だ。これからも教えて下さい」とおっしゃられました。95歳の大先輩にお教えすることなどありはしません。そういう言葉の中に、古くからある日本人の本来の生き方というか姿勢を見ることができました。
2 黒船がやってきた
1852年に、ペリーの艦隊が浦賀沖に現れました。このとき幕府はたいへん狼狽(ろうばい)しました。いま箱根の芦ノ湖の上の方に、昔の東海道が当時のままの姿で残っています。けれど道幅は2メートルもありません。
実は、日本中どこでもそうでしたが、昔は物資を運ぶのに、牛車や馬車を使うことは、ほとんどありませんでした。ではどうやったのかというと、船を使って、海や川から荷物を運んでいたのです。
ということは、江戸湾(東京湾)にペリーの艦隊に居座られてしまうと、100万人以上いる江戸市民が飢えてしまうということを意味します。しかもペリーは、開国要求に応じなければ江戸の町を焼き払うとまで脅してきたのです。日本は屈服せざるを得なかったわけです。
それでも日本は、たいへんな交渉努力を稔らせています。はじめにペリーがきたときには、回答に猶予がほしいともう仕向けて、ペリーに1年間の猶予をとりつけているのです。
その1年間の間に、当時の徳川幕府が築いたのが、東京のお台場です。
いまそのお台場には、「レインボー・ブリッジ」が架かっています。私は、お台場に架かる橋に、どうしてあのようなカタカナの名前を付けたのか、身が縮むほど恥ずかしいと思います。
「お台場」は、ペリーが再びやってくる日に備えて、江戸の町の防衛のために、海を埋め立てた海上砲台として、およそ8ヶ月で築いた施設です。
埋め立てに用いる土は、高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達したのですが、ブルドーザーなどない時代です。その時代に、人々がモッコを担いで、あの島を築いたのです。それは、たいへんな労力だったことと思います。私はお台場をみると、先人達が、私たちの国を守るために、どれほどの苦労をしたのかを偲(しの)びます。
2度目にやってきたペリーは、お台場を警戒して、その手前にある浦賀に上陸しました。江戸の町は、守られたのです。
浦賀でのペリーについて、私はたまたまアメリカを訪れたときに、古い銅板の版画を見つけました。版画には、片側にペリーたち一行が座り、反対側に幕府の一行が椅子に座っています。
安かったので買ってきたのですが、実は、この交渉のとき、日本には「椅子」というものがなかったのです。
幕府は、神奈川の役人に命じて、神奈川中のお寺から、坊さんがお経を唱えるときに腰掛ける曲録(きょくろく)を集めさせてきました。そして日本側が立派な曲録に座り、粗末な方に、アメリカ側を座らせました。私には、坊さんが座る曲録に徳川方の代表が座った姿が、徳川幕府体制を葬る法要のような気がしました。結局は向こうの無法な要求を全てきかなければならなかったからです。
こうして日本は、安政5(1858)年に、アメリカによっ
て強いられて「日米修好友好条約」に調印しました。
条約に調印すると、すぐに、イギリス、フランス、ドイ
ツ、オランダ、ロシアが、うちの国とも結びなさいといってきました。これらは安政5カ国条約として知られています。
この「日米修好友好条約」は、友好などいう言葉を使っていますが、とんでもない不平等条約です。たとえば、関税についての決定権を日本は持たず、白人が持っている。白人たちが日本でどんなに悪い事をしようが、罪を犯そうが、日本に裁判権はない。さらに横浜などの開港した港には、これら諸国の軍隊が駐留するというのです。とんでもない条約だったわけです。
「日米修好友好条約」の調印は、ポーハタン号という東京湾に浮かんだアメリカの軍艦の上で行われました。そしてこのポーハタン号に乗って、幕府の遣米使節団が米国に渡りました。
このとき日本人がはじめて日本人だけで操艦する軍艦をポーハタン号に付いていかせました。
それが幕府の「咸臨丸(かんりんまる)」という、三本マストの軍艦です。
この艦長が、勝海舟でした。遣米使節団の団長は正使が新見正興(しんみまさおき)、副使が村垣範正(むらがきのりまさ)という、ともに幕府の外国奉行でした。
咸臨丸には、軍艦奉行だった木村芥舟(きむらかいしゅう)が航海の総責任者として乗り込み、艦長に勝海舟、木村の従者として福沢諭吉が乗っていました。
そして日本人だけの手で帆船を操って、見事に太平洋を横断しました。
3 槍と刀
この遣米使節団がアメリカに渡っている間に、井伊直弼(いいなおすけ)が幕府の大老となりました。そして日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に、攘夷論を無視して、強引に調印をしました。このことから井伊直弼は攘夷派の武士たちからたいへんに恨まれました。けれど私は、井伊直弼は文武両道に秀でた立派な人であったと思います。あの時代の中で、もっとも優れた1人にいれるべきです。
井伊直弼は京都のとなりにある彦根で、36歳のときに藩主になりました。この人は、まず武道(剣術、槍術、居合術)の達人です。そしてまた本居宣長の古事記伝を学んだたいへんな勉強家でした。これは私もまったく同意見なのですが、「儒教というのはくだらない悪いものである。神道こそが正しい道である」と説いていた人です。また、禅の最高位の允許(いんきょ)ももらっているという人物でした。
ペリーが日本に開国を迫ったとき、井伊直弼は、各藩の藩主から意見を求めました。このとき水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)公は、意見の中で次のように述べています。
「槍剣、手詰(てむすび)の勝負は、神国の所長(長所)に候。槍と剣があれば、戦艦銃砲も怖れるにたらず」です。
井伊大老自身も意見書を出していて、こちらも今に残っています。
「暫く兵端を不開、年月を経て必勝万全を得る之術計ニ出可申哉」です。
しばらくのあいだ外国との戦争を回避し、年月を得て、必勝万全の体制をたてるべきである、というのです。
井伊直弼は、遣米使節団がまだアメリカにいたときに、いまの警視庁のある桜田門で、水戸藩と薩摩藩の18人の脱藩
浪人によって襲われ、暗殺されました。
戦後の日本の外交をみましても、攘夷を唱えるような現実離れをした主張、これは戦後でいえば安保反対を叫んでいた現実離れした左の人たちのようなものですが、幕末におい
ても、こういう現実を直視しようとしないで手前勝手な思い込みに凝り固まっていた人たちが、日本を危うくしていたわけです。
桜田門事件については、襲撃した浪人たちを讃えるような風潮があります。ですが私は、こんな卑劣な人たちはいなかった、と思っています。
その日、お伴の護衛の武士たちは、雪が降っていたため、刀の鞘に鞘袋をかぶせていました。つまり刀がすぐに抜けない状態にありました。浪士たちと斬り結ぶことがすぐにはできない状態だったのです。襲う方も武士ならば、正々堂々と、せめて相手に刀を抜かせるくらいのことはすべきです。
また井伊直弼が剣の達人であったことから、駕籠(かご)に乗った井伊大老に、先に拳銃を発射して大怪我をさせています。そのうえで「駕籠の外から」、刀身を差し入れて殺しました。武士の風上にもおけない所業です。武士であるなら、井伊大老に駕籠から降りてもらって堂々と斬り結ぶべきでした。
この襲撃では多くの浪士が命を落としましたが、一部は最後まで逃亡しています。これまた卑怯な振る舞いです。
攘夷論も、攘夷に加わった人たちも、日本を滅ぼすところでした。それを井伊大老が、勇気を持って開国に踏み切ったからこそ、今の日本があります。
徳川斉昭公が主張したように、もしこの時点で日本が、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを相手に槍や刀で戦ったのなら、日本は諸外国によって蹂躙され、分断され、今日の日本がなかったことでしょう。
ペリーの黒船が来たときに、「太平の眠りを覚ます上喜撰
たった4杯で夜も眠れず」という戯れ歌が詠まれましたが、他にも「アメリカが来ても日本はつつがなし」というのがあります。「つつがなし」は(だいじょうぶだ)という意味と、筒(つつ)(大砲)がないという両方の意味を架けています。
徳川斉昭公の意見の、「槍と刀があれば日本は大丈夫だ」という意見ですが、私は、先の対米戦争と占領時代にマッカーサーが解任されてアメリカに戻るまでのノンフィクションを週刊新潮に50週にわたって連載しました。
戦争末期に日本は、日本列島をいくつかに割って、それぞれの防衛計画をたてたのですが、その中で関東平野のあたりは、第一総軍が担当していました。第一総軍の昭和20年7月の作戦会議録には、「決戦思想で攻勢に徹する。死ぬまで
攻勢をとる」と書かれています。
では当時、どれだけ武器が部隊に渡っているのかというと、リストが残っています。そこにはなんと、「槍、1500本」とあり、そして、「敵が上陸するまでに、もっと槍を作れ」と書いてありました。まるで水戸斉昭公が、化けて出てきたようです。
攘夷の人たちが、愛国心に燃えていたのは素晴らしいことです。しかし彼らは「常識のない」人たちです。戦後から今日までは、こういう人たちが左翼になりました。
左ばかりではありません。右の人たちも、ちょっとおかしな人が多いような気がします。私は、自分は右ではなく、中道だと思っていますが、右で典型的なのが故・三島由紀夫です。三島由紀夫の弟さんは平岡千晶さんといって、私より2つ上で外交官です。よく一緒に酒を飲みましたが、お兄さんとは、だいぶ人柄が違う人でした。
お兄さんが亡くなって30年目くらいのとき、雑誌「諸君」が、40人に三島の死について800字ずつ書く、という機会がありました。38人は三島由紀夫をベタ褒めしていました。けれど私と小堀桂一郎(こぼりけいいちろう)先生の2人だけが、「あの死はくだらない死だった」と書きまし
た。
第一に国を動かすために決起したといいながら、当日、市ヶ谷の司令官を騙して縛り上げています。割腹といっても私的な行為で、そのために公の場所を穢しています。これも許しがたいことです。私は、盾の会の制服がまるでキャバレーのドアマンみたいだと書きました。不真面目です。そこには、熱気にうなされた幕末の攘夷の志士達と狂気において通じるものがあるような気がします。
幕末、そうした凝り固まった攘夷思想が蔓延する中で、これを押し切ってまで開国に踏み切る決断と実行をした井伊直弼の勇気は、後世において、もっと高く評価されるべきものと思います。
4 覚悟
勝海舟という人は、たいへんおもしろい人物です。勝海舟の曾祖父は、新潟から出てきた全盲の、いまでいうマッサージ師でした。しかし江戸時代の日本は、身体障害者にやさしい社会でした。
私は、視覚障害者の福祉に40年取り組んできましたが、あるとき韓国に行き、向こうの首相に会いました。24〜5年前のことです。当時の韓国の金さんという首相は、日本語がたいへんに上手で、「恥ずかしい事ですが、韓国では身体障害者というのは、たいへん嫌われ、馬鹿にされます。全盲の人が歩いていると、子供達が石を投げます」と言っていました。
日本は昔から違いました。身体障害者も独り立ちして生きて行ける道筋をつけていたのです。勝海舟の曾祖父は按摩(あんま)の仕事をしながら、貯めた小金で高利貸しをはじめました。これでかなりの金を儲けて、孫のためにと下っ端の侍の株を買いました。当時は、お金で武士の身分を買えたのです。
「勝」という家は、小十人(こじゅうにん)と言います
が、年間で10人だけ食える米百俵の俸禄を支給されるという、一番身分の低いお侍でした。
勝海舟は蘭学を学び、特に海軍について詳しくなり、以後、幕府の海軍奉行にまで抜擢されました。
江戸時代は、不思議な社会です。身分制度が窮屈だといっても、かなりの流動性がありました。もっとも身分の高い方は旗本で「殿様」と呼ばれていました。しかしその下の福沢諭吉とか勝海舟などは、「御家人(ごけにん)」です。旗本が将校とすれば、兵隊にあたります。
ポーハタン号と咸臨丸に乗っていった一行のアメリカに行く用件は、日米修好友好条約の批准書をアメリカの大統領に届けるというだけであり、向こうで交渉する権限は、まったく与えられず、せっかくアメリカに行くのだから、向こうのことを学んで来い、ということでした。
先にお話しした軍艦奉行の木村摂津守芥舟(かいしゅう)ですが、彼は使節団のお目付役といって、実務を監督するのが役割でした。
福沢諭吉の『福翁自伝』によりますと、戦国時代の武士は、戦場に赴く時は家財道具を売り払って、それで甲冑や武器を揃え、また部下を養うために、かなりの額の金を持っていきました。
木村摂津守はこれに倣って、咸臨丸に乗り込む前に家に代々伝わっていた骨董品とか書画などを全て売り払い、それを米国などの金貨や小判に変えています。全財産を処分した大金を持って咸臨丸に乗艦していました。
ところが船が台風で大きく揺れたときに、木村摂津守が金貨を入れていた袋が破れて、中から数千枚の金貨が甲板にこぼれてしまったのです。福沢諭吉ら乗組員は、全員でその金貨を拾い集めて、元通りに袋に戻しました。誰も盗むなどしなかったこともさりながら、木村摂津守が、咸臨丸でアメリカに渡るというそれだけの任務のために全財産を売り払ってまでして、任務遂行に命を賭けたという姿勢に、目を見張るものがあります。昔の人は実に偉いものだと思います。
5 不平等条約
さて、明治の外交の一番大きな目標は何だったかと言うと、不平等条約改正です。こんにちでも外国から国賓がおいでになりますと、宮中で国賓を迎えた宮中晩餐会が催されます。最近では、フランスのオランド大統領がおみえになったり、インドのシン首相がおみえになりました。
すると日本では、「フランス料理」でおもてなしをします。これは実に不思議な事です。韓国に行くと、青瓦台の大統領官邸で国賓を迎えるときは、もちろん朝鮮料理です。中国では天安門広場に面した人民大会堂で、中華料理です。タイではタイ料理、インドではインド料理、みなその国の料理を供します。
以前、フランスのヴァレリー・ジスカル・デスタン(Valéry Giscard d'Estaing)大統領がおみえになったとき、随行してきたフランス外務省の外交官と親しかったので一杯飲んだら、彼は、「ウチの大統領が日本に来て一番がっかりしたのが、宮中の晩餐会でもっとも美味しい日本料理
が食べられると楽しみにしてきたのに、フランス料理が出てきた」と、ぼやいていました。
なぜ日本ではフランス料理が供されるのでしょうか。
みなさんもよくご存知と思いますが、明治に入ると、伊藤博文公などが中心になって鹿鳴館というと、いまの日比谷の帝国ホテルの隣に建っていましたが、この鹿鳴館で、伊藤公やその愛人や顕官や、夫人、令嬢たちがヨーロッパの貴族のような恰好をして、仮装舞踏会を夜な夜な催して、在京の西洋人を接待しました。これは、日本もヨーロッパに負けない文明国であることを証明しようとしたことによります。
当時は、世界唯一の一流の文明といったら、白人キリスト教徒の文明文化でした。日本の生活習慣などは、すべて野蛮だとみなされていたのです。そこで宮中晩餐会でも、フランス料理を供するようになりました。当時は日本料理は野蛮なものと思われたからです。
不平等条約を改正するために、日本もヨーロッパなみの西洋の文明を身につけなければならなかったのです。ですから畏れ多い事ですが、天皇陛下や男子皇族の皆様は、公の場では、和服をお召しになることがありません。これも不平等条約を改正するための血みどろの努力のなごりです。
日本が、ようやく戦後、西洋に追いつき並ぶ、世界第2位の経済大国になったときに、宮中晩餐会でも日本料理を出すべきだという議論が起こりました。
しかし私は未来永劫フランス料理を出すべきだと思います。私たち日本国民が白人キリスト教国から受けた屈辱を忘れないためです。それだけ血みどろの努力をして、日本は不平等条約を改正することに成功したのです。
6 大隈重信
大隈重信という人がいます。早稲田大学を創った人です。佐賀藩の下級藩士の息子です。
福沢諭吉とよく似ています。諭吉が九州の大分県の中津藩の出身で、大阪屋敷で下級藩士の子として生まれました。二人とも幼時に父親が病死します。
大隈は、若い頃から旺盛な反骨精神の持ち主でした。諭吉は『福翁自伝』を残していますが、大隈重信も同様に口述による自叙伝を残しています。なぜか復刻版が出ないのですが、私はその本を持っていて、これを読むと、実におもしろい。
佐賀藩の藩士の息子たちは全員藩校の弘道館(こうどうかん)に通わされたのですが、重信は、15歳になると、「漢字は悪魔の字である」と確信します。それで、自分の名前以外は、一切漢字を書かなくなりました。
私も、「漢字は悪魔の字」と確信しているひとりです。漢字は中国で生まれたものですが、一般の人には難しくて読めない。つまり支配階級の人たちが人民を支配するために、難しくて、ややこしい字を使ったものです。
中華料理のメニューには適していますが、漢字だけで書いてあると、まさに悪魔の文字の羅列です。日本の場合は、漢字に訓読みを与え、ひらがな、カタカナを加えることで、漢字の持っている毒を抜いてしまっているからいいのです。
さて、漢字の使用を拒否した重信は、弘道館から、追放されてしまいます。けれども優秀な少年だったから、藩主が目をかけてくれて、「お前は見所のある奴だから、長崎に行って英学(蘭学に代わって新たにはいってきた英語学)を学ん
で来い」と、長崎留学をさせてくれました。長崎で大隈は、ユダヤ人の英語教師、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)から、英語や西洋の歴史を学んでいます。福沢諭吉も蘭学から、横浜に出て英学を学びました。
維新後、大隈重信は明治新政府に加わりますが、この頃、駐日英国公使(当時は日本には「大使」は派遣されていません。それよりも格下の「公使」が派遣されていました)に、パークス(Sir Harry Smith Parkes)という男がいました。これが実に傲慢で嫌な男で、明治新政府の色々な人が交渉役を担当したけれど、誰も勤まらない。そこで最後に若い大隈に、「お前、英語ができるんだから、行って来い」とお鉢がまわってきたわけです。大隈は、明治政府を代表してパークスと談判することになりました。大隈がパークスを訪問する
と、パークスは大隈を見るなり、いきなり、「おまえのような年齢も行かない若造と、まじめに話をすることなどできない」と、恫喝してきました。
大隈は、まったくひるまず、「しかし私は、日本政府を代表して来ています。閣下が私を断るということは、日本政府との話し合いを拒むということでしょうか? それでは日本に来られている意味がないのではないか?」と反論します。さすがのパークスも、これには一本取られ、大隈との交渉に応じています。
大隈が交渉役となったとき、もうひとつ大きな問題がありました。それはキリスト教の宣教を認めるかどうかという問題です。当時はまだ日本は、秀吉によったキリスト教禁教のままです。秀吉がキリスト教を禁止した理由は、キリスト教宣教師が、日本人の信者をそそのかして神社やお寺を壊したり襲撃させたりしたからでした。秀吉は、最初のうちは宣教師のバテレンらを手厚くもてなしていたけれど、こうしたことから禁教に踏み切ったのです。そこで大隈は言いました。
「あなたがたは、キリスト教は愛の宗教だとおっしゃるけれど、しかし北米、南米、中米、アフリカ、アジアで、キリスト教は、何人くらい殺してきたのでしょうか? 日本として対応に時間が必要です。」 これにパークスは、ものの見事に納得し、大隈は大手柄をたてています。
いま、1円、2円という通貨単位がありますが、これを創ったのは、大隈重信でした。それまでの日本の貨幣は、小判をはじめ方形のものが使われていました。大隈は、西洋には四角い硬貨はないから、西洋にならって丸くしようと、「円」の呼称を採用させました。
日本では、大隈重信は政治家になったせいなのか、福沢諭吉よりも人気がありませんが、おもしろい人でした。当時の日本人が偉かったと思うのは、「自分は漢字なんて嫌いだから書かない」と言った人を、外務大臣にし、総理大臣にし、早稲田大学の創立者にしたということです。いまの日本では考えられないことです。
7 人種平等
明治日本は、不平等条約の改正のために、血みどろの努力をしましした。今日は、女性がおいでですが、以下は学問的の話だと思って聞いて下さい。明治10(1877)年4月に、当時の文部省が全国の女学校に、「これからは(女性は)立小便をすることをやめるように」との通達を出しています。
私は戦時中の子供の頃、長野県で育ちましたが、長野では田んぼのあぜ道などで、成人の女性が普通に立小便していました。インドネシアにもよく通いましたが、女性たちが立小便をしていました。ポリネシアとか、ミクロネシアとか、南方系の風俗ですが、明治新政府は、そこまでして、日本は、西洋諸国にならぶ文明国であるということを示さなければならなかったわけです。
最後の不平等条約が改正されたのは、日本が日露戦争にめでたく勝った後のことです。当時の白人キリスト教国の発想では、近代兵器を持って大量殺人ができるということが、文明国の証(あかし)だったわけです。
そして日本は、一等国の仲間入りをしました。
日本国民が、明治にはいってから、抱いていた大きな国民的悲願は何であったのか。
ひとつは、屈辱的な不平等条約を改正すること。もうひとつが、人種平等の世界を創ることでした。
福沢諭吉の『福翁自伝』にある話ですが、ヨーロッパに遣欧使節団として随行したとき、使節団の正使は、もちろん旗本のお殿様です。そのお殿様は、パリで一流ホテルの、一番よい部屋に宿泊しました。良い部屋ですから、ちゃんと室内にトイレがついています。けれどお殿様は、あえてロビーのトイレを使いました。しかもトイレの扉を大きく開いたまま用をたし、その開いた扉の脇には、殿様の太刀持ちが太刀を捧げ持って床に正座していました。これを文化人類学では、カルチュアル・コンフィデンスといいます。(Cultural)文化的な、(Confidence)自信です。
たとえば、西洋料理を食べるときは、スープをズルズルと音を立てて食べてはいけないとか、お皿を持ち上げてはいけないなどとされています。サラダなどのお皿を持ち上げて、フォークなどでかき込む、そういうことをするのは、マナー違反で恥ずかしいといいます。
ところが日本では、だいたい机をみんなが囲んで食事をするということは、もともとありません。全部お膳だったのです。お膳は低いから、お皿を手に取らなければ食事がきません。日本人が、サラダの小皿を持ち上げて食べてどこが悪いのか、スープを音を立てて吸って、何が悪いのかと、そういうことをわるびれずにすることを、Cultural Confidence と言います。
現代の日本人の多くが、西洋のマナーをびくびくしながら守ろうとします。それは、Cultural Confidence が失われたことを意味します。いまの日本人は、すっかり卑屈になって日本人たる自信をすっかり失ってしまっているからです。私は、もっと堂々と、日本の作法、日本人の物事の考え方で良いと思っています。
咸臨丸とポーハタン号に乗って米国に渡った遣米使節団が、ニューヨークのブロードウエイで馬車に乗って行進している写真があります。そのときは、アメリカでたいへんなブームになって、多くの人々が、日本人がくるというので家を空き家にして見物にきたために、向こうの本にありますが、空巣狙いの泥棒が活躍したほどだったそうです。
遣米使節団は、全米どこに行っても大歓迎されました。アメリカ人が書いたものを読むと、日本人は、「威厳がある」、「堂々としている」、「礼儀正しい」と書いています。当時、清国からも使いがやってきていますが、「中国人と比べると、日本人はまったく違う地域から来たと思われる」、「中国と日本が隣り合っている国とは信じられない」と書いているのです。
このような誇りが日本を守って、幕末と明治の聞きを乗り越えました。
幕末から明治にかけて日本人は、誇り高い民族でした。それを残念ながら今の私たちは失うようになっています。先人に申し訳ないことです。
8 安きになれては、おごりくる人心の
みなさんは樋口一葉をご存知と思います。5千円札に肖像画が載っています。樋口一葉はお父さんが山梨県の農家の次男坊で、長男しか跡を継げなかったので、幕末に江戸に出てきて、明治に入って東京市になったとき、東京市の役所の下級役人に就職しました。
下級官吏が住む長屋で、明治5年に樋口一葉は産まれました。本名は樋口奈津(なつ)といいます。「夏」とも書きました。
なつの学歴は小学4年しかありません。当時の小学校は4年までしかなかったからです。11歳までの4年間、小学校に通いました。
17歳のときに、父が病死し、母と妹たちの生活を支えるために、近所の人たちの洗い張り(洗濯)や、針仕事(仕立て)をして、貧しい生活を強いられました。そのかたわらで、明治の女流文学の最高峰と言われる作品を、次々と発表しました。父は農民の出ですが、教養があったからでした。
日清戦争が終わった翌年、25歳のときに、病死しています。
それにしても、樋口一葉というのは、綺麗な人ですね。たった1枚、写真館で撮った写真が、5千円札の肖像のもとになっていますが、お札の一葉は、造幣局で作画した際に陰影をとってしまったので、のっぺりした顔になっています。ところがもとの写真を見ると、蠱惑的な、うっとりする綺麗な人です。
一葉は、克明な日記をつけていました。病死する前年の日記に、次のように書いています。ちなみに一葉は、生涯一度も洋装をしたことがありません。生涯和服でとおしています。日記には、こう書いてあります。
「安きになれては、おごりくる人心の、あはれ外(と)つ国の花やかなるをしたひ」安きに慣れてというのは、なんでも安直なものに流れているということです。安直なものに流され、おごりたかぶった人々の心は、まことにあわれなものです。華やかな外国(西洋)ばかりを慕い、
「我が国振のふるきを厭ひて」日本の伝統文化や生活文化を嫌って「うかれうかるる仇ごころは、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、ととどまる処をしらず。かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ」と、嘆いています。まるで今日の日本のようですね。
まだ日露戦争を戦っていないときのものです。西洋文明に浮かれ、このままいったら日本の古き良き伝統文化がなくなってしまう、ということを、深く憂い、嘆いているのです。
いまの日本にとって必要なのは、先人が、この日本を守るために、どれだけの苦労をしたのか知ることが必要であると思います。
私は、英語屋です。他の人よりはるかに英語ができると思います。海外でときどき講演をしますし、シカゴ大学、ペンシルバニア大学で講師をつとめていたこともあります。私の英文著書をイギリス一流出版社が出してくれました。
しかし私は、明治の頃の、岡倉天心とか、新渡戸稲造とか、戦後なら総理大臣をつとめた幣原喜重郎の英語には、まったく太刀打ちすることができません。どうしてだろうと、考えたことがありました。
岡倉天心など、あの時代の人たちは、自分の一身の成功のために英語を学んだのではありません。日本の独立を守るために英語を学びました。私も残念ながら、英語ができれば将来収入が良くなるか、いい地位に就くことができるのかな
など、賎しい動機があって学んだ英語です。だからまったく違います。幕末から明治にかけて日本を支えた日本人は、気概、覚悟というものがあったからこそ、日本は、西洋の白人の帝国主義の脅威を見事に撥ね除け、日露戦争に勝ち抜き、先の大戦では残念ながら敗れてしまいましたが、それでもなお、これだけの国を築くことができました。
日本は、人種平等の世界をつくることを、幕末から夢見ました。
当時の武士たちが、ヨーロッパやアメリカに渡る途中で、アジアを通りました。彼らが書いた多くの文献があります。そこには、アジア人が白人によって、まるで家畜のように酷使されている。
日本が先の戦争に敗れるまでは、日本では白人のことを「白魔(はくま)」と呼んでいたものです。白人は恐ろしい魔物でした。
いま白魔という言葉は忘れられていますが、いまアメリカで黒人の大統領が誕生しました。これは日本が先の大戦を戦って、アジアを解放した高波がアフリカ大陸を洗い、アフリカにも次々と独立国が生まれました。
私は50年代の末にアメリカに留学しましたが、あの頃は、黒人が白人のレストランに入って食事をするなど、想像もできませんでした。ところが、アフリカの独立国から、黒い外交官がやってくる。外交官を差別できないので、白人のレストランに入るのを拒否できない。同じ黒人なのに、どうして彼らはレストランに入れて、我々アメリカの黒人は入れないのだということになって、1960年代にマーチン・ルーサー・キング牧師によって公民権運動が起こり、ようやくアメリカの黒人が解放されたました。
アメリカのメジャーリーグで黒人がプレイできるようになったのは、戦後のことです。
いま、アメリカで人種平等の社会が生まれたのは、日本のおかげです。
人種差別は、人類の歴史を通じて行われたものですが、日本は和の文化であり、先の戦争に敗れたものの、人種平等の世界を実現しようという戦争目的を果たしました。
私達の先人が苦闘したことは、みなさま覚えておいていただきたいと思います。
(第2期日本史検定講座第8講より)
■ 極東に咲いた世界の花、江戸 |
1 極東に咲いた江戸の花
みなさん、こんにちは。今日は江戸時代の話をこれから進めていきます。
しばらく前に、江戸開府400年という年がめぐってきました。ご記憶の方もおいでかもしれません。江戸時代には、伊勢神宮は例外として、いちばん大事な神社といいますと、日光東照宮でした。徳川家康公の御霊をお祀りしているところです。全国に東照宮は40ほどあります。東京は上野に上野の東照宮があります。東照宮連合会がありますが、江戸開府400年を記念して事業を行おうということから、江戸研究学会をつくるということになって、私が以前から江戸時
代が世界でもっとも素晴らしい時代だったということを書いたり、話したりしていた関係から、会長を引き受けております。
江戸研究学会は、いまでも日光東照宮の社務所に本部をおいています。最近は活動をさぼっておりますが、はじめは理事に東京江戸博物館の竹内館長もメンバーで、東京江戸博物館で江戸時代についてのシンポジウムや講演会などを行っていました。
なぜ江戸がすばらしい社会を形成していたのかといいますと、なんといっても260年近く平和が続いたことがあげられます。これは世界で非常にめずらしいことです。その間に島原の乱という、キリスト教徒の天草四郎によって知られる、これは宗教的な反乱ではなくて経済的な理由が原因でしたが、天草の乱を除けば、平和が続きました。こんなことは、世界では他にないことです。
江戸時代ほど庶民が恵まれて、自由奔放に豊かに暮らしていたという社会も、世界に類例のないものです。そういう意味で、私は江戸時代こそ、これからの人類の手本にふさわしいものだと思っています。
いまでも英国の王立演劇団ですとか、全世界で舞台演劇といえば、すべて王侯貴族、支配階級に属したものです。ところが、日本では歌舞伎は「庶民の舞台芸術」でした。ですから武家やその家族は、歌舞伎を観に行くことは禁じられていました。武家の舞台芸術といえば、能楽でした。
私は、歌舞伎の役者に親しい人たちがいますが、昔ですと歌舞伎役者はひとりふたりとは、江戸時代が終わるまで、勘定しませんでした。1匹、2匹と数えて動物扱いしたものでした。けれども歌舞伎が全世界で、もっとも絢爛豪華な舞台芸術だということは、みなさんご承知の通りのことです。
絵画芸術も同じです。日本を除く全世界の絵画芸術は、王侯貴族、支配階級に属するものです。ところがこれまた、日本の浮世絵は、庶民のものです。
2 ジャポニズム
みなさんは、「ジャポニズム」という言葉をご存知だろうと思います。私は絵が好きで、東京駅の八重洲口にブリヂストン美術館がありますが、日本の民間で一番、印象派の絵をたくさん持っている美術館で、私は役員を勤めております。
ジャポニズムとは何か。
19世紀の幕末から、浮世絵が西洋の美術界に大きな影響を及ぼしました。ルノワール、ゴッホ、モネ、ムンク、ロートレック、ドガと、誰をあげても日本の浮世絵の模倣をしています。これがジャポニズムの始まりです。
同じ時期に、女性のドレスのデザインや、室内装飾、庭園造りなどにもジャポニズムの影響が強くあらわれます。次に影響を強く受けたのが、近代建築です。
ブルーノ・タウトというドイツ人の有名な建築家が、戦前に日本にやってきて、東京帝国大学で教鞭もとりました有名な建築家です。タウトが回想録を書いていて、岩波文庫から出ています。ご関心のある方は、読まれると良いと思います。
タウトは伊勢神宮をお参りして、神宮の建築をみて、外容(がいよう)と内容、つまり、外と中のつくりが一致している建築を、はじめて見ました。そして、その感激を、「私は稲妻に打たれたような感動によって身が震えた」、と書いています。
それまでの西洋の建築というと、馬場先門に明治生命の本社ビルがありますが、外壁にデコレーションケーキみたいに、コテコテとした飾りがついたものでした。そういう虚飾をすべてファサード(表面)から取り払ったのが現代建築で、フランスのル・コルビュジエ(Le Corbusier)という
世界的な建築家が提唱した、「装飾のない平滑な壁面処理、西洋の伝統から切り離された合理性や機能性を信条としたモダニズム建築」が代表的なものとしてひろがります。
日本の伝統建築は、ヨーロッパだけではなく、アメリカの建築家たちにも、大きな影響を与えました。いまではすっかり、日本発の機能的な建築物が世界を覆っています。
家具も同じことです。それまでの西洋の家具というと、ゴテゴテと彫刻がついていたのですが、いま世界で使われている現代家具は、すべて機能的です。これもジャポニズムの影響です。
最近では、あらゆるものに、日本の影響が及んでいます。戦後は食器や料理にも、影響が現れました。私はアメリカやヨーロッパ、韓国、中国、印度などから友人が来ますと、和食の店に連れて行っていました。決して高いお店ではないのですが、それでも、出て来るお皿は、正方形とか、長方形とか、六角形とか、様々なカタチをしています。
30年前くらいまで、外国から来た友人に質問したものです。
「あなたの国には、どうして丸い皿しかないのですか? あってもせいぜい楕円形です。四角や変形の皿があるのは、日本だけです。」
すると向こうの人たちはびっくりして、
「それはきっと洗うのが大変だから」とか言い訳をします。 でもそんなことを言ったら、東京でも高いフランス料理店に行ったら、一枚で5千円、1万円もするような高いお皿を使っている店があります。それこそ洗うのがたいへんです。
いまでは、世界のどこへ行っても、四角など、丸くないお皿があたりまえのように使われるようになりました。これまたジャポニズムなのです。
フランス料理も、日本料理の影響を強く受けています。ヌーボー・クズィン(nouveau cuisine)という言葉があります。ヌーボーが「新しい」で、クズィンが「料理」です。もう30年くらいになりますか、フランス料理に、「ヌ
ーボー・クズィン」という新しい分野が生まれました。実
はこれは日本の懐石料理を真似したものです。
それまでは、洋食というと、まずオードブルが出て、次
にスープが出て、その次に大きな魚の切り身の乗った魚料理、次いでメインの肉料理、最後にデザートというのが、西洋料理のフルコースになっていました。
ところが日本の懐石料理の影響を受けたヌーボー・クズィンの場合は、ポーションといいますが、ほんのわずかな、そのかわり美味しくて凝った料理が、10品くらい出てきます。これは日本の懐石料理を模倣したものです。
こういう日本の影響は、最近では、コミックやアニメの世界にもあらわれています。いまや漫画(Manga)というローマ字で書かれていますが、世界共通語です。
どうしてこんなに流行ったのかというと、この元には浮世絵があります。西洋では、ドナルドダックや、スヌーピー、スーパーマン、スパイダーマン、ミッキーマウスなど、4コマあると、4コマの大きさが同じサイズ、ミッキーやスヌーピーは人といえませんが、登場人物も同じサイズで描かれ
ていました。ところが日本のコミックは、中の構図も浮世絵のように、実に大胆です。
それから、最近ではパリを中心に、コスプレが流行っています。日本が西洋をはじめ世界に与えている文化的な影響は、ほんとうに幅広い分野にわたっています。
ちなみに、おとなりの中国はどうなのか。
中国では習金平先生が「偉大なる5千年の中華文明」と自慢されていますが、たしかに中国の文明は古代に、磁石ですとか、火薬とか、紙とか発明しましたが、近代に入ってから中国が世界に与えた文化的な影響は、なにひとつありません。
いま日本政府は、小泉内閣のときだったか、「クールジャパン」というキャンペーンを行っています。クールジャパンというのは、イギリスでクールという言葉が流行ったのを模倣しているのですが、私はそれより、「ジャポニズム」を訴えるべきだと思います。
3 多神教
私の従姉は、いま世界でもっとも名前の知られた日本人だと思うのですが、オノヨーコです。私の母の兄の娘です。私は子供の頃から、ヨーコに可愛がられました。私よりヨーコが3つ年上です。ヨーコがジョン・レノンと結婚したため、私はジョンと親しくしました。
ジョンはよく、ヨーコとともに、日本にお忍びでやってきました。また、私がニューヨークへ行くと、自宅や外のレストランでもてなしてくれました。私は彼に神道の世界の素晴らしさを伝えました。そのためにジョンは、一神教が嫌いになりまして、イマジン(Imagine) という曲を作りました。
イマジンは、爆発的な世界のヒット曲になりました。
Imagine there's no Heaven(天国なんか、ありゃしないって)
It's easy if you try(簡単だから想像してごらんよ)
No Hell below us(地獄なんかも存在しない)
And no religion too(もし世界から宗教がなくなれば)
All the people Living life in peace(世界の人々は平和に暮らせるよ)
ところが、この曲はアメリカやイギリス、ヨーロッパのキリスト教の保守層から、総スカンを食いました。なぜかというと、この歌はキリスト教を頭から否定しているからです。
私はジョンに、言いました。
「レリション(Religion、宗教)という言葉は日本語には存在していなかった。」
「宗教」というような突飛な言葉は、私たちの日本語には、もともとは存在しなかったのです。
江戸時代の終わりまでは、宗門、宗派、宗旨などという言葉を用いていました。明治に入るまで、「宗教」というおかしな言葉はありません。自分の信仰だけが正しくて、他の信仰はすべて邪(よこしま)である、間違っているという一神教が日本にはいってきたとき、新しい訳語をつくらなきゃならならなくなったからです。
明治訳語は、おびただしい数があります。明治訳語をお使いになるときは、いったいもともと日本語にあったのだろうかと、いぶかってみられることを是非お薦めします。
最近、「原発神話が崩壊した」とか、「神話」という言葉が、まるで嘘という意味で使われています。ところが「神話」という言葉も、江戸時代が終わるまでは、日本語には存在していませんでした。「古事(ふること)」と言いました。古事記は日本最古の歴史書ですが、古事記は、もともと
の読みは、「ふることふみ」です。
あるいは、明治にはいってから、造られた翻訳語に「指導者」があります。これは英語の「Leader」、ドイツ語の「Leiter」がはいってきたとき、日本には、そもそも指導者というのがいなかったし、そういう概念さえもなかったから、新しい言葉を造ったのです。日本社会は、はあくまでも集団で合意が行われるコンセンサス(Consensus、一致)社会です。
私はもともと物書きで言葉に関心をもっていて、25〜6年前に、明治32年に刊行された厚さ10センチくらいある英和辞典を神田で見つけて買いました。当時のお金で10万円近くしたと思います。
たとえば「Leader」という言葉をひくと、まだ「指導者」とは出て来ないんです。色々なもってまわった説明をしています。
それで、こんどは「Dictator(独裁者)」をひくと、こんなおかしな言葉もなかったので、たいへんな苦労して説明をしています。
あるいは、「Individual(個人)」という言葉・・・私はとても嫌いな言葉ですが・・・もなくて、これを「たったひとりの人」とか、おおわず微笑んでしまうような、苦しい説明をしています。
いまの世界は、英語では「Religious strife 」といいますが、宗教的な抗争、憎しみに基づいています。
たとえばシリアを例にとると、国連の推定では、内戦によってすでに10万人が死んでいます。
これはイスラム教がまず2つに分かれ、イスラム本流のスンニ派と傍系のシーア派が殺し合っています。それからキリスト教もたくさんの派があって、これまたイスラム教徒を殺したり、殺されたり、キリスト教同士でも殺し合っています。他にもドルーズ教とかいろいろあって、互いに殺し合っています。アフリカや中東の他の地域でも同じことです。
こういうことは開発途上圏だけにみられるものなのかというと、そうではありません。
英国でさえ、ついこの間までじゃ、アイルランドで、キリスト教のカトリックとプロテスタントの対立から殺し合っていました。3万人以上も死者が出た後に、ようやく停戦協定を結びましたが、まだときどきテロが行われています。
ところが日本では、歴史を通じてこのような宗教がらみの憎しみによる殺し合いがありません。ジョン・レノンがたいへん感心しまして、日本に来ると必ずヨーコと一緒に靖國神社に参拝していました。
こういうジョンの話を私が大学の講義でしますと、そんなことは信じられないという学生が多いので、写真を探したところ、アメリカのAP通信社が、ジョンとヨーコが靖國神社のお社の前で参拝しているカラー写真が出てきました。伊勢神宮にも、よく二人でお参りしました。2人は、二重橋の前で深々とお辞儀をする宮城遥拝もしました。
私は将来、神道の考え方が、世界に大きな影響を与えることになると思います。それは、天皇陛下を崇拝しなさい、拝みなさいということではありません。そうではなくて、神
道の考え方のことです。
みなさんは「クマのプーさん」をご存知でしょうか?
イギリスの童話で、クリストファー・ロビンという少年の主人公が、プーという名前のクマの縫いぐるみと物語をつむぐお話です。この童話は、全世界の若者に知らない者がいな
いくらい親しまれています。
プーの物語には、プーの森が出てきます。そこにはプーの仲間として、子豚とかカンガルーとかフクロウとかトラとか、いろいろな動物が出てきます。全員が楽しく暮らしています。そしてそこには教会がありません。
1930年代に書かれた連作童話ですが、私はジョンに、「プーの森が、神道の森だよ」と話しました。動物たちが人とともに森での生活を謳歌する。とても素晴らしいことです。
また日本は世界の主要な国の中で、最高神が女性でいらっしゃる唯一の国です。アマテラスオオミカミは、女性です。ヒンズー教でも、最高神は男性です。世界中どこに行っても最高神は男性です。
今日は江戸時代のお話ですが、江戸時代にはいってからちょっとおかしくなったのが、侍が空威張りをするようになったので、表面的なことですが、日本が男上位の社会であるかのように強調されがちです。
みなさん、夫婦茶碗(めおとちゃわん)をご存知だと思います。いまは「夫婦(ふうふ)」と書きますが、それは江戸時代にはいってからで、それ以前は「妻夫(めおと)」、あるいは「女男」と書きました。女男の順番です。第一、「夫婦」をどうやって「めおと」と発音できますか?
4 江戸の治安
江戸時代は、270年を通じて、あまり人口がかわりませんでした。地方で飢饉があると江戸に人が流れてくるとか、いろいろありますが、町民がだいたい75万人くらいでした。その75万人の町民を、ではいったいどう治めていたのかといいますと、みなさんもご承知の通り、南北の奉行所です。
南北の奉行所で働いていた役人の数は、江戸時代の初めから終わりまで、人数はまったく同じで、332人です。このなかで管理職、いまでいう部長、局長さんにあたる人が与力(よりき)で50人です。その下に282人の侍が働いていました。
このうち、司法(裁判)関係と警察の業務にあたっていたのが、64人です。さらにこの64人のうち、警察業務にあたっていたのは、町同心(まちどうしん)といいますが、わ
ずか12人です。
そのうえこの人たちは、奉行所が南北二つの輪番制なので、各月はその半分しか働いていません。ですからいつも働いているのは、余程のことがない限り、警察官は半分の6人しか働いていません。それでよく治安が維持できたものです。
もっとも12人の同心は、町方同心とか、八丁堀の旦那などとも呼ばれていましたが、ひとりひとりが、自分の収入から、「岡っ引き」を平均して5人雇っていました。「岡っ引き」は、お侍ではなくて、町人です。ちなみにこの「岡っ引き」という名称は、俗称です。彼らが名乗る時は「お上の御用の誰々」といっていました。
今日では、東京の人口1200万人に対して、警視庁だけで、46000人の警察官がいます。もし江戸時代と同じなら、比率からすれば、いまの東京を、100人に満たない警察官で、東京都全域の治安を守っていることになります。
後藤新平というと、東京がまだ東京市だったときに、市長を務めた人で、出身は岩手県の下級武士です。その後藤新平が東京市長を勤めているときに、「江戸の自治制」という研究書を書きました。昨年復刻版が出ましたのでamazonで買うことができます。
その本の中に、75万人もの町人を、いったいどうして、たった323人で治めることができたのかその答えが書いてあります。
「きわめて人々の徳性(とくせい)が高かったから」
だからほとんど犯罪がなかったのです。
5 江戸の教育
私は麹町に住んでいますから、ここまで歩いてくると30分くらいかかります。歩くと気がつくのが、クズカゴがひとつもない、ということです。これは、ヨーロッパやアメリカでは考えられないことです。パリでもロンドンでも、ニューヨークでもワシントンでも、おそらく30メートルに1個は、クズカゴがあります。
ゴミは、江戸時代の頃から、各自が自分の家に持って帰るという習慣があったのです。アメリカにすこし長く滞在して、ゴミがあると近くのゴミ箱に捨てる癖がつくと、東京に帰ったとき、戸惑います。
こういうことも、江戸庶民の徳性の高さのひとつといえそうですが、その徳性を支えたのが、江戸庶民の教育程度の高さです。
寺子屋は有名ですが、これは6歳か7歳で入ります。正確な統計がないので、いろいろな説がありますが、全国に12000から2万校くらいあったといわれています。
江戸時代の初期には、お寺さんが子供を教育をしていたところから、寺子屋と呼ばれるようになったのですが、次第に、街中で浪人や、多少学問のある町人が、寺小屋をはじめるようになりました。
寺子屋の教師は、6割が男性、4割が女性です。女性が4割を占めていたのです。すべて私塾です。そして街中にある寺子屋では、大きいものになりますと、千人くらいの子供が学んでいました。
生徒は、寺子(てらこ)と呼ばれました。寺子屋教育は、ひとつひとつが手作りです。
徳川幕府にも、それぞれの藩にも、教育を担当する役人はいません。平均して4年間、読み書き、ソロバン、地域によっては漁村でしたら漁の仕方とか、農村なら作物の作り方などを習うのですが、教科書から教育スタイルまで、すべて地域の手作りでした。
ですからいまの言葉で言うなら、チャーター・スクールに近いものといえます。
寺子屋を特徴づけるもうひとつは、躾(しつけ)と体罰がたいへんに厳しかったことです。
いまの日本の教育を悪くしているのは、体罰を禁止しているからだと、私は信念を持っています。
私は戸塚ヨットスクールの戸塚先生にもはいっていただいていますが、「体罰を復活する会」という会の会長も務めさせていただいております。
いまでは教室の片隅に立たせるのも体罰だとして禁じていますが、寺子屋の体罰は、そんなものではなく、はるかに厳しいものでした。
いまの教育をここまで劣化させたのは、私は文部科学省が存在しているからだと思っています。江戸時代のように、文部科学省がなくて、全部地元の手作りにすれば、日本の教育は蘇るのではないでしょうか。
学者も、町人や農民の出身者が多くいます。学閥や門閥、ましてや身分などにとらわれていません。町人でも、学識の高い、いまでもすぐれた学者として評価されている人が多いのです。
そういう人は、町人なら伊藤仁斎、青木篤紀、山崎闇斎、農民の出身ですと石田梅岩、二宮尊徳をはじめ、大勢いました。
6 江戸身分制度
士農工商の違いというのは、みなさんが信じられるほどはありませんでした。そもそも、江戸時代には、庶民の方がカネをもっていました。庶民のほうが支配層といわれる武士たちよりも豊かな生活をしていました。
いまの日本橋三越は、江戸時代から同じ場所にありました。昔は三越呉服店といいました。
そこの売上は、20万石の藩の収入を上回ったといいますが、客のほとんどは町民、あるいは地方から上京してきた農民などです。
世界のなかで、支配階級よりも、被支配階級の方が贅沢をしていたという国は、どこを探しても他にありません。
いまでいうレジャーなども、たいへん盛んです。みなさんも良くご存知の東海道五十三次ですが、お伊勢参りなどは、全国に御師(おし)というトラベル・エージェントがいて、パック旅行がさかんに行われていました。
東海道五十三次には、記録がありますが、全部で千軒を上回る旅籠(はたご)がありました。
この他木賃宿と呼ばれる、お米などを持って泊る施設もありましたが、そうした木賃宿を含めずに、豪華な旅籠が、千軒以上あったのです。
このパック旅行は、お伊勢参りに限らず、秩父参りとか、善光寺参りとか、金比羅参りとか、たくさんの種類があり、全国で数百種類ものパック旅行が行われていました。
西洋で、こうした団体のパック旅行が行われるようになるのは、19世紀の半ばをすぎてからのことです。いまでもありますが、トーマス・クックという旅行社がはじめたものです。
7 江戸の郵便
信じられないことですが九州から、蝦夷地と言われた北海道まで郵便が正確に届きました。
常飛脚(じょびきゃく)と呼ばれる郵便屋さん兼宅配屋さんが、全国の街道の往復をしていました。
飛脚によって、お金を送ることもできました。
江戸ですと、日本橋のたもとに、茣蓙(ゴザ)が敷かれていて、そこに竹のカゴがいくつも置かれています。そして竹カゴには、〇〇藩とか名前が書いてあります。
たとえば自分が博多の友人や家族に送金をしたいと思えば、お金を袋に包んで、宛名を書き、そのカゴの中にに、ただ置けば良かったのです。
嘘みたいな話ですが、そこには、番人もいません。往来の真ん中です。
金飛脚(かねびきゃく)がいて、金飛脚だけは護身用に腰に刀を挿していましたが、その金飛脚が、日に何回か、そのカゴに、お金をとりに来るわけです。そして全国に配達し、事故がおきない。
しかも、全国津々浦々、たとえば江戸の中央郵便局のあたりに届いた郵便は、町飛脚がいて、江戸の町(町の数だけでも500〜600ありましたが)に、腰から下げた鈴をチリンチリンと鳴らしながら、各家まで届けていたのです。
こんなに郵便制度が発達していた文明というのは、世界で江戸時代の日本だけです。
8 武士と町民
江戸後期の作家の大田南畝(おおたなんぽ)が江戸について書いたものを見ますと、5歩歩くと、小さな料理屋が1軒、10歩あるくと大きな料理屋が1軒、いまの原宿の表参道と同じように、食べ物屋がずっと並んでいて、すべて飲食の店、と書いています。
江戸市中で、お侍さんが威張ったのかというと、そんなこともないのです。実は、お侍さんは、馬鹿にさえ、されていました。お侍さんは、江戸時代も半ばを過ぎますと、町人から金を借りなきゃやっていけない。お金を借りているから、町人に頭が上がらない。ですからお侍は、町人を呼び捨てになんかできないわけです。◯◯殿とか呼んで、腰を低くしていました。
歌舞伎や浄瑠璃の演題は、王侯貴族の物語よりも、町人の物語が多いのも大きな特徴です。近松門左衛門の演題など、主人公は町人ばかりです。
ところが、シェイクスピアにしても京劇にしても、登場人物は全部、王とか貴族たちばかりです。
江戸の町が、庶民が主役だったということが、こういうことからもわかります。江戸は、庶民が豊かな生活を、かなり自由奔放に送ることができた社会であったわけです。
その近松門左衛門のセリフの中に、侍のことを、次のように言っているものがあります。
「刀差すか差さぬか、なんぼ差しても、5本6本は差すまい。差して刀、脇差し、たったの2本」
そしてなんと、「侍畜生」というセリフが出てきます。町民たちの他の演劇の中にも、侍を馬鹿にしてからかっているセリフがたくさん出てきます。
9 心の文化
国語辞典で、「心」という字をひいてみてください。心がけ、心づくし、心構え、心持ち、心繕いなど、150〜160くらいの言葉がつぎつぎと出てきます。
ところが、英和辞典で、英語で心は「Heart」ですから、これをひいていただくと、「HeartAttack=心臓マヒ」、「Heartburn=胸焼け」など、10語くらいしか出てきません。
これだけみても、私たち日本人がいかに「心」を大切にする民かということがわかります。
それから自然、いまでいうエコロジーが尊ばれました。神道は宗教ではありません。神道は、自分の信仰だけが正しいといって、他を排斥するようなことがありません。そして自然と共存します。動物も拝みます。ですから最近は外国の学者の中で、神道はエコロジーの信仰であると説いている人が増えてきています。
私は、江戸時代の俳句で好きなのが、上島鬼貫(うえしまおにつら)の、
行水の 捨てどころなし 虫の声
という句が好きです。行水に使った水を捨てようと思ったら、そこにもここにも、虫たちがいい声で鳴いているので、水を捨てる場所がない(捨てれば虫の音を止めてしまう)というのです。
それから江戸の中期で、加賀千代の
朝顔に つるべとられて もらい水
朝、井戸に水をくみに来てみると、朝顔のつるがつるべに巻きついていて水がくめない。切ってしまうのはかわいそうと、ご近所に水をもらいに行きました、というわけです。
そういう、自然と共存をする、人間だけが偉いわけではなく、生きとし生けるものみんなを大切にする。それが日本の和の文化です。日本の古事(ふること)神話の時代から続く、日本的精神です。
前にもお話しましたが、日本には、独裁者(Dictator)という言葉はもともとありません。指導者(Leader)という言葉もありません。アマテラスオオミカミ様がご機嫌を害されて、天の岩戸に身をお隠しになってしまわれると、八百万の神々がその前に集まって、相談をし、そこでいろんな提案が行われて、最後に若い美しい女神がハダカ踊りをすると、あんまり可笑しいのでみんなが笑う。外で歓声があがって、あんまり騒がしいので、アマテラスオオミカミ様が好奇心から岩戸をちょっとだけ開けて、身を乗り出すと、そこを力持ちの神様が引っ張り出しています。
朝鮮でも、中国でも、インドでも、中東でも西洋でも、すべての神話の神様は、全能の神ですから、なんでも自分で決めてしまうのです。みんなで相談するということをしません。ところが日本では、神様たちが、ああでもない、こうでもないと相談をしあっています。
その日本では、世間が神様です。ついこの間までは、「世間様に申し訳ない」とか「世間様に顔向けができないとか」、「そんなことは世間様が許さない」などと言ったものです。ですから社会そのものが神様であるとされていたわけです。これも、世界にまったく例がないことです。
私は多少、武道をかじりました。空手の高段者ですが、剣道もすこしかかわりました。
まず、武道という言葉は、外国語に翻訳できません。英語では、「Martial art」と言いますが、これは「戦う術」です。日本では、武道は、精神性がきわめて高いものであって、空手でも試合に出ると、勝ち負けを考えるな、何も考えずに無念になって戦え、と言われます。そんなことは、なかなかできるものではない。剣道も、やはり勝ち負けを離れ、無心になって戦え、計算してはならないといいます。
斬り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ
踏み込みゆけば あとは極楽
これは宮本武蔵の有名な言葉です。剣道にはいろいろな流派がありますが、なんと柳生流に無刀流というのがあります。刀を使わないで相手を倒すというのです。ここまでくると精神主義の極みのような気がします。外国人に話しても、わかってもらえません。
こういう、「心を大切にする」ということは、日本の武士の精神は日本刀に宿っているといわれますが、全部で1273点ある国宝の品目の中で、いちばん多いのが日本刀だというところにもあらわれています。
日本刀は平安時代にいまのカタチになり、鎌倉時代に完成して、こんにちに至っています。私は武道に関心をもって、韓国、中国に行ったり、東南アジアや、インドネシア、インド、中東、ヨーロッパを訪ねると、各地の武術について、色々と話を聞きましたが、刀の種類が一種類しかない国は、日本以外にありません。
どこの国でも、剣の種類がたくさんあります。戦場の状況によって、ちょうどゴルフでクラブを状況に応じて、いろいろ取り替えるように、剣を選んで使うものです。
それから、両手で刀を握って戦うのも、日本だけです。
朝鮮でも中国でもヨーロッパでも、刀は片手で持ちます。両手で刀を握るというのは、相手のフトコロに飛び込まなくちゃなりません。
武道に限らず、茶道でも華道でも、香道でも、日本舞踊でも、日本ではあらゆるものが心が一番重要とされます。着物もそうです。
私の母親は着物が好きだったので、幼いころから帯を結ぶのを手伝わされ、成人してからはハクビや装道の顧問をし、着付けの資格も持っています。着物は、ただ美しいのでは、まったく美しくなりません。
西洋や中国では、マリーアントワネットが着ていたとか、皇帝のお后が着ていた服がいまも残っていますが、衣装そのものの見たところが綺麗だったら、それでいいのです。
ところが日本では、着付けがよくなければならない。身の振る舞いが美しくなければならない。
心そのものが美しくないと、着物姿が美しくない。
日本は、心がつく言葉が、世界のなかでもっとも多いと申上げましたが、こういう文化が出来上がったのが、江戸時代です。
私は、江戸時代は、ほんとうに世界の中で、人類の歴史の中で、これほど素晴らしい社会はなかったと思います。
江戸時代の良かったところを私たちが取り戻していく。そうすれば、日本が世界の手本になって、これからは、ジョン・レノンの歌ではありませんが、日本が手本を示して宗教や思想の対立を超えた、本当の意味での平和な世界をつくることができるのではないかと思います。
(第2期日本史検定講座より)
■ “SELF DEFENCE”では国を守ることはできない |
怪しげな日本製の英語が、多く横行している。
その代表的なものが、「マンション」だ。英語で「マンション」というと、壮麗な大邸宅のことだ。
私は英語を生業にしてきたから、若者からしばしば「どうしたら、英語が上達するでしようか?」という質問を受ける。
暗記が一番よい。私は中学から高校にかけて、シェクスピアの『ジュリアス・シーザー』や、『マクベス』の台詞を暗記した。今でも、譜んじることができる。
“Come, gentle night. (略)Give me my Romeo, and when he shall die, I will cut him into little stars. He shall make the face of heaven so fine…”
「優しい夜よ、来ておくれ。私にロメオを下さい。もし、あの人が死ぬことがあったら、細く刻んで、夜の面(おもて)を満天の星のように、美しく飾りましよう‥‥」
『ロメオとジュリエット』のなかで、ジュリエットが露台に立って、独りでロメオを懸想する場面である。
“Oh! I have bought a mansion of love!”
「あゝ、わたしは恋のマンションを手に入れたわ!」
と、台詞が終わっている。
これが、日本でいうアパートのマンションだったら、ぶち壊しだ。ましてや「恋のワンルーム・マンションを手に入れた」のでは、人情噺にもなるまい。
困ったことに、恥しい日本製英語が跋扈している。
前号で憲法を改める前に、自衛隊の階級や、兵科、装備などの擬い物の呼称を改めたいと提案したところ、自衛隊員や、OBから賛成する電話や、手紙が寄せられた。
自衛隊の英語の呼称であるJAPAN SELF-DEFENSE FORCESも、国際的に通用しない恥かしい例の1つである。セルフディフェンス・フォーセスからSELFを外して、JAPAN DEFENSE FORCEに正したい。
ディフェンスは、自衛を含んでいる。軍事用語で「セフルデイフェンス」といえば、部隊、基地、人員、施設の防護しか意味しない。
「セルフディフェンス・フォース」というと、国際的に判じ物だ。
英語でin selfdefenseといったら、「自己防衛」のことだし、selfdefense classesは、女性向けの柔道か、空手の「護身術講座」だ。「セルフディフェンス」では、国家、国民、領土を守る「国軍」のイメージが、伝わらない。これでは、軽くみられることになる。
私は外国の軍関係者から、何回か「セルフディフェンス・フォースというと、基地や、施設を守る部隊のことか?」と、質問されたことがある。きっと、保安隊が自衛隊になった時に、生半かな英語しかできない役人が、そう訳したに違いない。
戦後の日本は「専守防衛」とか、「国連中心主義」といった、内容がまったくない言葉は、英訳することができない。「専守」といっても、防衛するためには相手を攻撃しなければならない。敵から侵攻されたら、自国の領域の外で阻止したい。かつて攻撃的な兵器は許されないといって、F4戦闘機から爆撃装置を外したが、外国からF4JのJは“欠陥機”を意味すると、笑われたものだった。
国連は中心がない。中心がないものを、中心にしようとするのは、無理な話だ。