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実際に起きた物質化現象(無から有の奇蹟)
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無から有を生じさせる「物質化現象」は、強い力と弱い力を生み出す“力のプログラム”が、何者かによって機能させられることにより発生します。それにより、何も無い空間から、突然、三次元の物質・物体が出現するという奇蹟現象が起きます。
つまり、これは現代科学では、完全に否定されている現象ですが、現実に起きている現象なのです。しかも、かなり古くから知られている現象です。
『聖書』の中には、そうした実際に起きた現象の幾つかが記されています。
【 モーセが起こした奇蹟 】
『旧約聖書』に登場するモーセは、その偉大な能力を用いて、数々の奇蹟現象を起こしました。その中には、この物質化現象も含まれます。下に、その内容を紹介しておきます。
〔 パンの物質化 〕
モーセたちの一行が、エジプトの地から逃れて荒れ野に入ると、ついに手持ちの食料が尽き、人々は飢えと渇きに襲われました。
そうした情況下で、モーセは、まず次のような奇蹟現象を起こしました。パンを物質化させたのです。
○ 天から降ってきたマナ
「 主はモーセに言われた。
『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる、民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 ーー 略 ーー 」
「 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄く壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。/ ーー 中
略 ーー /
モーセは彼らに言った。
『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。ーー 略 ーー 』
( 出エジプト記 16 )
○ 四十年間、食べ続けたマナ
「 モーセがアロンに、『壷を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい』と言うと、アロンは主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。一オメルは十分の一エファである。( 一オメルは、約、二リットル ) 」
( 出エジプト記 16 )
〔 水の物質化 〕
人間にとって、水は必需品です。荒れ野をさ迷うモーセたち一行が遭遇したのは、激しい喉の渇きでした。民衆は、モーセに「我々に飲み水を与えよ」と詰め寄りました。
そうした情況下でモーセは、水を物質化する奇蹟を起こしました。
○ 岩の下から湧き出した水
・ ・ ・ 主はモーセに言われた。
「 イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持っていくがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
( 出エジプト記 17 )
上と同じ出来事が、民数記には、より詳しく記されています。
主はモーセに仰せになった。
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」
ーー 略 ーー モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。
( 民数記 20 )
【 エリヤが起こした奇蹟 】
モーセの物質化現象の能力を引き継いだのは、少し後に登場した預言者、エリヤでした。
エリヤは、主の言葉に従って、あるやもめ女の許に身を寄せました。しかし、その家には、食べるものが何もありませんでした。
壷の中にある一握りの小麦粉と、瓶の中には、わずかな油があるだけでした。女と息子がそれを食べてしまえば、あとは死を待つばかりというありさまでした。
それにも拘わらずエリヤは、自分のために、それでパン菓子を作って持って来いと言いました。
○ 使っても無くならないパンの粉と油
『 ーー 略 ーー なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで 壷の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。』
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。
こうして彼女もエリヤも彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壷の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
( 列王記 上 ・ 17 )
【 エリシャが起こした奇蹟 】
次に登場した預言者、エリシャも、その特殊な能力を引き継ぎました。
エリシャと同じ預言者であった夫を亡くした貧しい女が、エリシャの所へ、子供たちが債権者に、奴隷として連れて行かれそうになっているから、助けて欲しいと言ってきました。
○ 増えた油
女の家に何があるかと訊くと、女は、油の壷が一つあるだけだと答えました。
エリシャは、
『外に行って近所の人々から器を借りて来なさい。ーー 略 ーー 家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。ーー
略 ーー 』
彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、子供たちが器を持って来ると、それに油を注いだ。器がどれもいっぱいになると、彼女は「もっと器を持っておいで」と子供に言ったが「器はもうない」と子供が答えた。油は止まった。
ーー 略 ーー 彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」
( 列王記 下 ・ 4 )
○ 増えたパン
エリシャは、ギガルに帰ったが、その地はちょうど飢饉に見舞われており、人々は食べるものが無かった。そうした情況下で、エリシャが起こした奇蹟は、次のようなものでした。何と、パンが増え続けたのです。
一人の男がバアル・シャリンから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持ってきた。
神の人は、
「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、
「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。
エリシャは再び命じた。
「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す』 」
召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。
( 列王記 下 ・ 4 )
【 ギデオンが起こした奇蹟 】
士師記に登場するギデオンも、神と対話することが出来た人物です。しかしギデオンは、自分が選ばれた人間であるという自覚がもてないために、神に対して、そのことを確認することにしました。
○ 濡れた羊の毛
ギデオンは神に向かって、次のように言いました。
「 もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら,羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く渇いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。
ギデオンはまた神に言った。
「 どうかお怒りにならずに、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけ乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」
その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。
( 士師記 6 )
( この場合は、水を実際に物質化させたのは、主(神)であったと考えられます。従って、人為的に起きた奇蹟ではなく、神為的に為された奇蹟ということになります。つまり物質化現象を発生させる何者かの中には、目に見えない存在である神仏や、心霊といったものも含まれるということです。従って、ここには死者の霊が引き起こす怪奇現象・心霊現象の発生原理があります。時として目撃される死者の霊体は、そのようにして物質化された実体であるということです。)
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【 イエス・キリストが起こした奇蹟 】
モーセや、エリヤや、エリシャが生み出した“力のプログラム”は、その後、『新約聖書』に登場する偉大な能力者、イエス・キリストに引き継がれました。
イエスが引き起こした奇蹟は、何人かの弟子たちによってその場で実際に目撃されており、そうした出来事が各福音書の中に記されています。ですからその目撃談は、一種の証言とも言えるものです。貴重な資料となります。
○ 尽きることの無いパン
洗礼者ヨハネが、首を刎ねられて、処刑されたことを知らされたイエスは、一人で舟に乗り、人里離れた場所へ行きました。しかし、そのことを聞きつけた群集が、後から歩いて追って来ました。
説法を続けていると、すでに夕暮れ時になっていました。しかし、近くに食料を調達できるような場所はありませんでした。弟子たちはイエスに、民衆を家に戻すために、集会を解散するように進言しました。
そうした情況下で、イエスは、次のような奇蹟を起こしました。その場にいた、およそ五千人の人々に、パンと魚を与えたのです。
マタイ
イエスは言われた。
「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。
「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。
イエスは、「それをここへ持ってきなさい。」と言い、群集には草の上に座るようにお命じになった。
そして、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
弟子たちはそのパンを群集に与えた。すべての人が食べて満腹した。
そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
( マタイによる福音書 14 )
マルコ
これに対してイエスは「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」と言った。
イエスは言われた。
「パンは幾つあるのか。見てきなさい」
弟子たちは確めて来て、言った。
「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
すべての人が食べて満足した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠がいっぱいった。パンを食べた人は男が五千人であった。
( マルコによる福音書 6 )
ルカ
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。
「群集を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、ーー
略 ーー 」
しかし、イエスは言われた。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
彼らは言った。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、
「人々を五十人くらいずつ組にして座らせなさい。」と言われた。
弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈り唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
( ルカによる福音書 9 )
ヨハネ
弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは
「人々を座らせなさい。」と言われた。
そこには草がたくさん生えていた。
男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、
「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」と言われた。
集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
( ヨハネによる福音書 6 )
( 少年が持っていたのは、五つの大麦のパンと、二匹の魚でした。それを約五千人の男たちと、さらに女性と子供たちが食べて、しかも残ったパン屑で、十二の籠にいっぱいなったというのです。どう考えても計算が合いません。我々が小学校や中学校で学ぶ算数は、この出来事に対してはまったく通用しないのです。高校・大学で学ぶ高等数学でも、やはり解決できません。
しかし、これを一部の科学者のように、創られたお話であると考える必要がないのは、すでに上に紹介したようなモーセや、エリヤや、エリシャが起こした過去の事例があるからです。
それ等と同様の出来事が、内容をさらに進化・発展させて実現したと考えればよいからです。
殊にエリシャが起こした奇蹟、『増えたパン』とまったく同じ出来事が、規模を拡大して発生したと考えると、非常に分かりやすくなります。つまり、エリシャの百人分のパンが、50倍の五千人分に増えただけなのです。
ですからイエス・キリストは、あちら側の世界にすでに存在している“力のプログラム”を、その場で自分なりに応用して機能させたに過ぎないということです。パンを増やす“力のプログラム”の原型は、エリシャのときにすでに出来あがっていたからです。
ただし、そのオリジナルの“力のプログラム”は、モーセの時まで遡ることになります。つまり、パンの物質化の原点は、かつての偉人、モーセにあったということです。)
○ 再び、尽きることの無いパン
イエスは別の場所でも、まったく同様の出来事を起こしています。それはガリラヤ湖のほとりへ行ったときのことでした。ここでは、約四千人の人々に、パンを与えました。
マタイ
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「群集がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べる物がない。ーー
略 ーー 」
ーー 略 ーー イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、
「七つあります。それに小さい魚が少しばかり」と答えた。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群集に配った。
人々は皆、食べて満足した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠がいっぱいになった。
食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
( マタイによる福音書 15 )
マルコ
そのころ、また群集が大勢いて、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「群集がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、ーー 略 ーー 」
イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。
弟子たちは群集に配った。
また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
人々は食べて満腹したが、残ったパン屑を集めると、七籠になった。
およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
( マルコによる福音書 8 )
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―― 今も起きている物質化現象 ――
上に紹介した出来事は、いずれも『聖書』の中に記されている内容であり、今から約二千年も前の出来事です。しかし、過去の偉人たちが生み出した“力のプログラム”は、21世紀の現在も消滅することなく、あちら側の世界に保存されています。
そして、それが人為的に機能させられることによって、今でも科学では解明されない不可解な現象が引き起きるのです。
この物質化現象は、科学の発達や、文明・文化の発展とは関わりなく、21世紀の今日でも発生しているのです。ただ科学万能主義に害された一部の人々が、その事実を、事実として認めないだけなのです。
前に『物質化現象という奇蹟』( ⇒ ) のページで、実際に起きている現象を幾つか紹介しました。以下に、その項目だけを紹介しておきます。
【 髪の毛が延びる人形 】
【 涙を流すマリア像 】
【 聖痕 】
【 目の中から出て来たガラスの破片 】
【 雨乞い 】
【 自然発火現象 】
【 聖者・サイババの奇蹟 】
【 絵に描かれた目から涙が・・・】
【 裁判所が認めた物質化現象 】
長南年恵(おさなみとしえ)
これ等はいずれも実際に起きた出来事であり、今現在も引き続き起きている現象です。その原因・理由は、『聖書』の時代にまで遡る“力のプログラム”に由来します。モーセや、エリヤや、エリシャや、イエス・キリストが生み出した“力のプログラム”が、さらに形を変え、進化・発展して、あちら側の世界に“力のプログラム”として存在するのです。それが何者かによって機能させられることにより起きている現象なのです。
こう考えると、これ等は決して不可解な出来事ではなくなります。しかも、我々の知らないところでは、さらに大規模な現象も起きているかも知れないという想像さえ生まれて来ます。
検索サイトで「物質化現象」の項目を調べると、心霊現象として生じる物質化された霊体のことが紹介されています。これもやはり、何者かの意志(願望)が生み出す現象であり、実際に物質化された人体ということになります。
それについては、イエス・キリストが起こした奇蹟と一緒に、
『 ( 四 ) 人体の物質化(死者の再生)』( ⇒ )のページで紹介しておきました。そちらをご参照ください。そこでは、さらにドッペルゲンガー(複体)についても触れておきました。
以下に、その標題だけを紹介しておきます。
生き返った死者たち
ヤイロの娘
復活した死者ラザロ
イエス自身の復活
ドッペルゲンガー(複体) ⇒ 実体化(物質化)した生き霊
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ところで、「裁判所が認めた物質化現象」として紹介した長南年恵(おさなみとしえ)の事例は、ルルドの泉で起きている出来事と関連付けて考えると、非常に興味深いものがあります。
ルルドの泉から湧き出る水は、多くの人たちの病気を治している実績から、医学的にもその効能が認められています。つまり、その水は、ただの水(H2O)ではないのです。まさに「霊水」なのです。(統計の取り方によって、その治癒率が低く算出されたりしますが、決してゼロにはならないことことから、医学的な病気治癒の効能を認めないわけにいかないのです。)
何か未知の化学物質が含まれているのではないかと、今でも科学的な調査が続けられています。
それに対して、長南年恵が物質化した水も、多くの人たちの病気を治したことが伝えられています。従って、その水も、ただの水(H2O)ではなかったことになります。
両者に共通するのは、その水を飲むことによって、人びとの病気が治るということです。従って、ここにも“力のプログラム”が作用している可能性があるわけです。つまり、どちらか一方が先に創り出した水による病気治癒の“力のプログラム”を利用して、後者がそれと同じ現象を起こしているのではないかということです。
そこで、歴史的には、どちらが先に起きたかを調べてみると、ルルドの泉は、1858年に貧しい少女が、聖母マリアとおぼしき女性の姿を目撃したことに始まります。
対して長南年恵は、1863年(江戸末期の文久三年)の生まれです。その出来事から五年後のことでした。しかも、その特殊な能力を獲得したのは、さらに後のことです。
従って、聖母マリアが創り出した“力のプログラム”は、長南年恵が生まれる以前に、すでにあちら側の世界に存在していたことになります。
長南年恵が、その“力のプログラム”を利用して、万病に効く「霊水」を物質化したのだとしたら、それはルルドの泉から湧き出す水と同じ効果がある水です。つまり、その水によって、多くの病人たちが救われたのは、医学的にも事実であるということです。裁判所が下した判断は、正しかったということです。
そして、もしそれを否定するのであれば、ルルドの泉の水で起きている多くの事実を、すべて否定しなければならないということです。
こう考えると、万病に効く「霊水」というものが存在しても、決して不可解ではなくなります。それはルルドの泉で実際に起きている事例によって、裏付けられるからです。
ただし、長南年恵に匹敵するような能力者は、滅多に現れませんから、多くの場合は詐欺まがいのインチキです。 多額の金銭が絡む場合は、充分に注意する必要があります。
2008. 10. 20 . 店主記す
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