『平家物語』 成立の謎
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   『平家物語』は、日本の古典文学の代表とも言える作品です。もう一つの代表作である『源氏物語』と双璧をなしています。しかも超有名な例の冒頭部分は、多くの人たちが暗記しているほどです。


  『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を彰す。
    奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
    遠く異朝を訪らへば、秦の趙高、漢の王まう、梁のしゅうい、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にも従わず、楽しみを究め、諌めをも思い入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の憂ふるところを知らざっしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
    近く本朝を伺うに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、近く本朝を窺うに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝い承るこそ心も詞も及ばれね。 〜 〜 ( ― 以下、略 ― ) 

  ( ぎをんしゃうじゃのかねのこえ、しょぎゃうむじょうのひびきあり。しゃらさうじゅのはなのいろ、じゃうしゃひっすいのことわりをあらはす。
    おごれるひともひさしからず、ただはるのよのゆめのごとし。たけきものもついにはほろびぬ、ひとえにかぜのまえのちりにおなじ。
    とおくいちょうをとぶらへば、しんのてうかう、かんのわうまう、りゃうのしうい、とうのろくさん、これらはみなきゅうしゅせんくわうのまつりごとにもしたがはず、たのしみをきはめ、いさめをもおもいいれず、てんがのみだれんことをさとらずして、〜〜〜 ( ― 以下、略 ― ) 


  【 祇園精舎鐘聲 諸行無常響有 沙羅雙樹之花之色 盛者必衰之理顕 奢れる人も不久 只春夜如夢 猛者終亡ぬ 偏風之前塵同 遠異朝訪秦趙高漢王莽梁周異唐禄山此等皆舊主先王政不随樂極諌不思入天下之亂事不悟民間之愁所知士歟者不久亡者也 近く窺本朝承平將門天慶純友康和義親平冶之信頼奢心猛事取々社有士歟共親六波羅之入道前太政大臣平朝臣清盛公申人之消息傅承社心言 ( ― 以下、略 ― ) 】


  実際に声に出して読んでみると、非常に調子よく読めます。文章が七五調になっていて、言葉としてのリズムがあります。これはこの作品が、盲目の琵琶法師による 「語り」(かたり) によって伝えられて来たからです。それにより文章が書き言葉とも、話し言葉とも違うものになったのです。

  ところでこの『 平家物語 』という作品は、全十二巻もあるかなり長大なものです。琵琶法師たちはこの作品を全て暗記しており、街の辻々で人々の求めに応じて、その一部を語って聞かせたということです。

  しかし、ここに一つの重大な疑問が生じます。それは、なぜこれほど長大なものが、文字によって記録されずに、口承という特異な方法で伝えられたのかということです。
  文字の無い時代であれば、物語が人から人へと口承で伝えられたとしても、べつに不思議ではありません。一説にあの『古事記』は、そのようにして受け継がれたものであったということです。
  また「民話」は、一つ一つが短い物語ですし、子育てのための教訓的な意味も含んでいますから、年寄りが孫に話して聞かせるには持ってこいの内容です。従ってこれは、わざわざ文章として書き留める必然性が無かったということで、それなりに了解することができます。

  しかしこの『 平家物語 』は、「編年体」といういわば歴史書の形を取って書かれています。もし物語の部分が無ければ、歴史年表になってしまいそうなほどです。そうした作品が、代々琵琶法師たちによる「語り」によって伝えられたのです。

  一説には、それは平家の怨霊を鎮めるためであったとも言われています。しかし、本当にそうなのだろうかという疑問が生じます。もし「怨霊祓い」であれば、菅原道真のように神社、仏閣などを建立するのが一般的です。そこで行われる日々の法要によって、御霊の供養がなされるでしょうから、それなりに理に適ったものになります。
  然るに、それと同じことを、物乞いも同然であった当時の琵琶法師たちにやらせたと考えるのは、かなり無理があるように思います。彼らは、必ずしも仏法修行により、高い徳を積んだ人たちではないからです。おそらく怨霊も退散しないでしょう。

  従って、それ以外に、何か、特別な理由があったのではなかろうかということになります。つまり、もっと他に、何か理由があったに違いない!!。
 きっと、きっと、深ーいわけがあったに違いないと、どうしても思ってしまうわけです。σ(^.^)

  そこで今回は、その点を探るべく、『平家物語』成立の背景について調べてみることにしました。


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  平家物語の成立に関しては、兼好法師の『徒然草』 第二百二十六段に、次のような記述があります。

   < 本 文 >

  『 後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきけるを、心うきことにして、学問をすてて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給いけり。
   この行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へ語らせけり。
   さて山門のことを、ことにゆゆしくかけり。
   九郎判官のことは、くわしく知りて書きのせたり。蒲冠者のことは、よくは知らざりけるにや、多くのことどもをしるしもらしけり。
   武士のこと、弓馬のわざは、生佛、東国のものにて、武士に問い聞きて書かせけり。
   彼の生佛が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。』


   < 現代語訳 >

  『 後鳥羽院の御時、信濃の前司行長は、学問のあるといふ評判があったが、この人が楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞のうち、二つを忘れたことがあったために、五徳の冠者と綽名のついてしまったことを情けなく思って、学問を棄てて遁世してしまったが慈鎮和尚は一芸でもある者は、下部のやうな賤しい人間までお呼び寄せになっておいて、情けをお掛けになったので、この信濃の入道をもお世話なさったのだった。
   この行長入道は、平家物語を作って、生佛といった盲人に教へて語らせたさうだ。
   だから、延暦寺のことは殊に重々しく書いてある。
   また九郎判官義経のことも詳しく知っていて書きのせた。
   蒲の冠者範頼のことは、あんまり知らなかったのか、いろんなことが書き落としてある。
   武士のこと、弓馬のわざは、生佛が東国の生まれだったので、武士にたづね聞いて書かせたさうだ。この生佛の天賦の声を、今の琵琶法師はまねているのだ。』

            ( 以上、角川文庫版 『徒然草』 今泉忠義 訳 より )


  兼好法師こと吉田兼好は、1283年に生まれて、1350年4月8日、68歳で亡くなった人です。そして『徒然草』が書かれたのは、1331年頃ということになっています。
  それに対して、平家物語が成立したのは内容からみても、平家の滅亡した1185年以後ということになります。一説には、1190年から1218年の約30年の間とも言われています。従って、ここには百年以上の開きがあります。

  百年も後に書かれた『徒然草』の記述が、どの程度の正確性を有しているかはいささか疑問です。しかしこれが、なんの根拠も無く書かれたとは思われません。ましてや書いた人が兼好法師であることから考えても、それなりに信頼してよいものでしょう。
  従ってこれは、有力な根拠ということになります。たいていの本では、この説が紹介されています。

  また『平家物語』は、当初、「三巻」から成っていたと考えられています。それが増補改修されて「六巻」となり、現在のような「十二巻本」になったのが、1240年頃であったということです。


  ところで『徒然草』の中に登場する生佛(しょうぶつ)という人は、比叡山の検校で、「声明(しょうみょう)」の妙手であったということです。
  声明というのは、仏教経典を読む際に、独特の音階をつけて発声するもので、今でいう声楽のようなものです。これは腹式呼吸によって行うことから、独特の響きがあります。演歌歌手もよく「腹から声を出す」と言いますが、それと同じです。身体全体が楽器になるわけです。
  従って、生佛によって語られた『平家物語』は、その「声明」の発声技術を用いて語られたものであったということになります。そして上の文中に、『彼の生佛が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。』とあるのは、それが声明の一つとして代々語り伝えられたことを意味します。それ故に、それを聞いている周囲の人々は、より強い感銘を受けたものと考えられます。


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  ところで『平家物語』は、他のいくつかの軍記物語とほぼ同時期に成立しています。それぞれの作品が成立した状況を分かり易くするために、年代順に並べてみました。


    〈 実際の出来事 〉    〈 物語の成立 〉
        ↓              ↓

   ● 1156年   保元の乱   ( 三 年前 ) (二十九年前)
                          ↑       ↑
                          |       |
   ● 1159年   平治の乱  ( 二十六年前 )   |
                        ↑         |
                        |        |
   ● 1185年  < < <  平   家   滅   亡  > > >
                      |
                      ↓
   ● 1221年   承久の乱 ( 三十六年後 )

                    ○『保元物語』 1220年代に成立 
                     ( 実際の出来事から、64年後 )

                    ○『平治物語』 1220年代に成立
                     ( 実際の出来事から、61年後 )

                    ○『承久記(じょうきゅうき)』 乱以後の1220年代に成立
                     ( 実際の出来事とほぼ同時期か、遅くも、
                      1240年頃には、完成していた。)

                    ○『平家物語12巻本』 (1240年頃) ただし
                     、最初の三巻本は存在せず。故に、そもそもの
                      成立年代は不明。一説には、1190年から
                     1218年の約30年間と言われている。
                     ( 三巻本の成立が、1190年であれば、実際の出来事
                       から、5年後 )

         《 この四作が、琵琶法師たちによって「四部の合戦状」と呼ばれた。》


  一つ捕捉しておと、琵琶法師たちによって語られたのは、『平家物語』だけでないということです。『保元物語』『平治物語』『承久記』もいっしょに語られたのです。「四部の合戦状」と呼ばれたのは、そうした理由からです。

  今日まで伝えられている『平家物語』は、「十二巻本」です。ただし、その前には「六巻本」があり、もともとの原典とされるものは、「三巻本」であったと考えられています。ちなみに『保元物語』『平治物語』は、いずれも三巻本です。
  ただし不思議なのは、いずれも原本とされるものが残されていないことです。つまり『平家』の三巻本と、『保元・平治』のおおもとの原本は、文章で書き留められたものが見つかっていないのです。
  今日残されているものは、すべて口述筆記されたものであり、琵琶法師たちによって引き継がれて来たものです。従って、そもそもの原本とされるものは、琵琶法師たちの頭の中にだけあったことになります。これもまた不可解な点です。


  ところで、このように一覧形式にして並べてみて気づくことは、『保元物語』『平治物語』『承久記』といった一連の作品が、1185年の平家滅亡の後に登場して来たということです。
  『保元物語』は実際の出来事から64年後であり、『平治物語』は実際の出来事から61年後に成立しています。従って、これ等の作品は、『平家物語』が作られていく過程で、同時進行的に成立したと考えることが出来ます。つまり、この頃の一連の創作活動は、平家の滅亡を描いた『平家物語』の成立とともに開始されたという見方が可能であるということです。


  さて、そうした場合に、ここにもう一つの疑問が生じます。
  『平家』の三巻本と、『保元・平治』がほぼ同時期に作られたのは、単なる偶然であったのかということです。もしかしたら何か必然性があったのではないか、またそれ等が、まったく文章として書きとどめられなかったのは何故か、といった余計な疑問まで生じて来るわけです。


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  ところで、『平家物語』の原典中の原典である「幻の三巻本」には、一体どのようなことが書かれていたのでしょうか。上の疑問を解く鍵は、ここにあると言ってよいでしょう。従って、まずこの点から解明していく必要がありそうです。


  そのことを調べる手掛かりとして、冒頭部分の「祇園精舎」に示されている「盛者必滅」の思想があります。
  そこには「たけき者もついには滅びぬ」として、海外での事例として秦の趙高、漢の王もう、唐の禄山などをあげ、また日本国内の事例では、平将門、藤原純友、源義親、藤原信頼などを上げています。
  そして、
  『 ーーー おごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅(ろくはら)の入道(にゅうどう)前太政大臣平朝臣清盛(さきのだじょうだいじんたいらのあつそんきよもり)公と申しし人のありさま、伝え承るこそ心も言葉もおよばれね。』
  と言って、いよいよ平清盛の事例に移っていくわけです。

  ですからこの作品には、平清盛の生涯と、最盛期の横暴振り、そしてその後の凋落ぶりとが描かれるはずであったことが分かります。
  また、このことは、現在まで伝わっている十二巻本の、全体の流れの中からも読み取ることが出来ます。


   (1) 平家の全盛              ⇒ (巻一・二)
   (2) 清盛の横暴と、平家衰亡の原因  ⇒ (巻三)
   (3) 平家衰亡の兆し           ⇒ (巻四・五)
   (4) 平家都落ち              ⇒ (巻六・七・八)
   (5) 西海での平家の苦戦        ⇒ (巻九・十)
   (6) 平家の滅亡              ⇒ (巻十一・十二)
   (7) 建礼門院の出家           ⇒ (灌頂の巻)


  上に示したように、この作品の骨格をなす部分というのは、平家の「全盛」から「衰亡の兆し」を経て、遂には「都落ち」となり、そして最後に「滅亡」に至るという一連の過程です。
  ですから、原典となるはずのその「三巻本」には、当然のことながらこの基本的な部分が記されていたと考えられるわけです。つまり「盛者必滅」の思想が、平家一族の盛衰とともに、具体的に示されていたに違いないということです。
  従って、現在の十二巻本は、徐々にその内容を膨らませた結果の産物であると言えるわけです。


  さて、問題は、ここからです。
  まず、そのような平家一族の盛衰の歴史というものを文書として書き残すことに、何か問題があったのだろうかということです。当然のことながら何か重大な問題があったからこそ、文書として書き残すことが出来なかったのであろうというのが、そもそもの発想の原点です。
  そして、その問題というのは、いかなる種類の問題であったかというのが、この疑問に関わる最も根本的な部分です。
  その根本的な問題の故に、この作品は、数奇な運命を辿ることになったに違いないということです。つまり、あまりにも重大な問題があったが故に、盲目の琵琶法師による「語り」という方法でしか、この作品を残すことが出来なかったのではなかろうかということです。


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  さて、結論から申し上げますと、それは平家の「滅亡」の際に起きた出来事が原因であったと考えられるのです。そのあまりにも重要な出来事が、この作品の運命を変えたのです。それは具体的には、次のような出来事です。

  平家は、最終的に「 壇ノ浦の戦い 」に敗れて「滅亡」しました。その時に、ある重大な出来事が発生します。
  巻の第十一、「先帝身投(せんていみなげ)」の章には、清盛の妻であった「二位の尼」が、当年八歳になる「安徳天皇」を抱えて海へ飛び込んだ時の様子が、次のように記されています。

   「 ーーー 二位殿はこの有様をご覧じて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれは、ーー 略 ーー 神璽(しんし)をわきにはさみ、宝剣を腰に差し、主上をいだきたまって、
    『 わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。君の御ともにまいるなり。 ーー 略 ーー  』
       /  ーー 中 略 ーー  / 
    二位殿やがていだき奉り、
    『 浪のしたにも都のさぶらうぞ 』
   となぐさめたてまって、ちいろの底へぞいり給ふ。 」


  つまり二位の尼は安徳天皇といっしょに、「三種の神器」のうち、二つの宝物を抱えて海に飛び込んだのです。『神璽をわきにはさみ、宝剣を腰に差し』 とある部分です。
  三種の神器というのは「宝剣」 「鏡」 「曲玉(まがたま)」 のことです。これは天皇が新たに即位する際に必要とされるものです。ここに神璽とあるのが、曲玉(勾玉)のことです。

  ただし、「曲玉」については、同じ巻の「内侍所都入(ないしどころのみやこいり)」の章で、

  『神璽(しんし)は海上にうかびたりけるを、片岡太郎経春がとりあげたてまっりけるとぞきこえし。』
  と説明されています。つまり、回収されたということです。

  また、「鏡」については、同じ巻の「能登殿最後(のとどのさいご)」の章で、重衝の妻の大納言の佐殿(すけどの)が、持って海に飛び込もうとしたところを、源氏の兵士に取り押さえられたことが記されています。それにより、やはり回収されました。

  こうして「鏡」と「曲玉」は、なんとか取り戻すことが出来たのですが、「剣」は、海中に沈んでしまいました。つまり、三つの品が揃っていてこその「三種の神器」なのですが、そのうちの一つが海に没してしまったのです。
  同じ巻の「剣」の章には、海に沈んだその剣をなんとか探しだそうとして、海人(あま)たちを集めて潜らせたり、僧を集めて祈らせたりしたことが記されています。 しかし、その結果は、

  『 ーーー ついにうせにけり。』
  となっています。
  要するに、とうとう見つけることが出来なかったということです。


  これは歴史的な事実です。安徳天皇が海に沈んで平家一門が滅亡した際に、同時に発生した出来事です。
  従って、これは『三巻本・平家物語 』の中には、必ず書かれるはずのものであったということが言えます。これが書かれなければ、『平家物語』として完成しないからです。


  しかしながら、これを書き記すことには、実は重大な問題があったのです。そして、もし『平家物語』の原典中の原典である「三巻本」が、この出来事を最後に書き記して終わっていたとしたら、それは一体どのようなものになったかということです。当時の社会的背景を考え合わせた時に、この作品が持つ重大な秘密に突き当たることになるのです。


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  平家一門が壇ノ浦の戦いに敗れて、安徳天皇が海中に沈んだ時に「三種の神器」の一つである「剣」も、同時に海に沈んでしまいました。そして『平家物語』の原典中の原典である「三巻本」は、最後に、この出来事が記されて完成したはずです。
  それでは、その当時の “ 時代背景 ”のもとで、この事実を書き記すことに、どのような問題があったのかということです。これこそが、核心部分です。

  巻の第十、「藤戸(ふじと)」の章には、“ 後鳥羽天皇 ”の即位の時の様子が、次のように記されています。

  『 同廿八日、新帝のご即位あり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣もなくしてご即位の例、神武天皇よりこのかた八十二代、これはじめてとぞうけたまはる。』

  これが行われたのは、寿永三年(1184年)、七月二十八日のことでした。壇ノ浦の戦いより、一年半以上も前のことです。つまり安徳天皇が、まだ存命中に行われたのです。それにより現役の天皇が、二人誕生したことになります。
  法皇の宣命(せんみゃう)によって、新帝が天皇の位についたのが、寿永二年(1183年)八月二十日のことでしたから、その約一年後のことでした。( 巻八 名虎(なとら) ) おそらくこれ以上は、先に延ばせない事情があったものと考えられます。
  しかし問題の「三種の神器」は、平家一門が都を出る時に持っていってしまったために、御所の中にはありませんでした。

  後鳥羽天皇の即位の時の状況は、この一行しか書かれていません。しかしながら、これは『 神武天皇よりこのかた八十二代、これはじめて 』 という、未曾有の出来事であったのです。前代未聞の本来であれば、絶対にあり得ないことが行われたのです。現実にはその当否も含めて、カンカンガクガクの議論が行われたことでしょう。しかるに、それがたったの一行しか記されていないことに、逆に注目すべきです。
  そして、この瑕疵のある即位の礼を、後日、やり直すことが出来ない状態になってしまったことに、重大な意味があるのです。


  新しい天皇が、即位するための儀式を行う際に「三種の神器」がぜひとも必要なものあることは、あちらこちらに記されている事実関係からも明らかです。
  まず、巻の第八、「山門御幸(さんもんごこう)」の章には、

  『 法皇は主上外戚の平家にとらはれさせ給いて、西海の浪の上にただよわせ給ふことを、御なげきあって、主上並びに三種の神器宮こへ返し入れ奉るべきよし、西国へ院宣を下されたりけれ共、平家もちいたてまつらず。 』

  とあります。
  ここに「法皇」とあるのは、後白河法皇のことであり、また「主上」とあるは安徳天皇のことです。簡単に要約すると、
  「 後白河法皇は、安徳天皇と三種の神器をなんとしても都へ返すようにと、平家一門に対して院宣を使わしたが、平家側はまったく取り合わなかった」 ということです。


  また巻の第十、「内裏女房(だいりにょぼう)」の章では、源氏によって捕らえられている本三位中将・平重衡(たいらのしげひら)に対して、後白河法皇が、

  『 八嶋へ帰りたくば、一門のなかへ言いおくって、三種の神器を都へ返したてまつれ。』
  と言います。

  さらに同じ巻の「八嶋院宣」の章で、八嶋にいる平家の一門に対して院宣を送って、

  「 もし三種の神器を返却するならば、捕らえてある重衡の命を助けてやってもよいぞ」
  とまで言ってやります。
  後白河法皇としてはなんとしても、三種の神器を取り戻したかったのです。それは新帝を即位させるには、ぜひとも必要なものだからです。

  しかしこれに対して、平家側からは、

  「 三種の神器を持っていてこそ、安徳天皇が正式な天皇の位にあるのだから、それを返すことはあり得ない。安徳天皇が都に帰らなければ、三種の神器もまた、都に帰ることはない」
  という返事が返ってきます。( 同「請文(うけぶみ)」)

  つまり、天皇が新たに即位する際は、必ず「三種の神器」を携えて行うものであり、三種の神器を持っている方が正当な天皇であることを、世間の人たちは皆知っていたということです。
  従って、「三種の神器」が手許に無い状態で行われた “ 後鳥羽天皇 ”の即位の礼は、正式に認められたものではなかったということです。

  これが、その当時の“ 時代背景 ”ということになります。
  兼好法師の『徒然草』によれば、“ 後鳥羽院 ”の時代に、この『平家物語』が創られたとなっていました。しかし、その後鳥羽院が天皇の位についた時には、このようないきさつがあったということです。
  もう少し分かりやすく言うと、この『平家物語』が創られた当時は、正式な即位の礼を行って天皇の位についたのではない“ 後鳥羽院 ”が、絶大な権力を振っていた時代であるということです。
  これこそが核心部分の真相です。そして、すべての問題の出発点でもあったのです。


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  ここで再度、繰り返しておくと、兼好法師の『徒然草』によれば、『平家物語』は “ 後鳥羽院 ” の時代に創られたということでした。ところがその後鳥羽院は、「三種の神器」を携えて正式に即位した天皇ではありませんでした。つまり即位の儀式に、余りにも重大な瑕疵があったのです。
  しかもこの後鳥羽天皇は上皇になってからも、後白河法皇に負けず劣らずの強権政治を行ったことが知られています。要するに「後鳥羽院の時代に創られた」という本来の意味は、このような時代的背景のもとで創られたという意味なのです。


  ところで新帝の即位と「三種の神器」の関係について、参考までに、「安徳天皇」の時はどうであったかを調べてみました。
  巻の第四、「厳島御幸(いつくしまごこう)」の章には、治承四年二月二十一日、安徳天皇が三歳で “ 践祚(せんそ)” されたことが記されています。つまり、天皇の位についたということです。
  そしてそこには、「三種の神器」を引き渡した時の模様が、こと細かく描かれています。

   “ 今日これに触れると、長く新帝の許に止まることが出来ないということなので、その役目の人が、突然辞退をしてしまった ” 
   “ その代わりに、自分から申し出た感心な若い娘がいた ”
   といったような内容です。

  また即位の礼については、 次の章の「還御(かんぎょ)」に、
  『 同、四月廿二日即位の式あり。 』
  として、その時のことが描かれています。

   “ これは本来ならば、大極殿(だいごくでん)で執り行うべきところ、火事でやけてそのままになっているために、紫宸殿(ししんでん)で行われることになった ”  ということです。
  そのことで、ああでもないこうでもないと、様々な議論のあったことが記されています。

  つまり、新たな天皇が即位する場合には、それほどこまごまとした気遣いが必要であったということです。それだけ人々の感心が、高かったことになります。しかるに問題の“ 後鳥羽天皇 ”が即位したときには、
  『 同廿八日、新帝のご即位あり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣もなくしてご即位の例、神武天皇よりこのかた八十二代、これはじめてとぞうけたまはる。』
  という一文しか記されていないのです。これほど重大な出来事に対して、何故に、この一文だけなのかということです。新帝の即位は、人々の最大の関心事であったはずです。しかも今回は、現役の天皇が二人もいるという、かなり異常な事態のもとで行われたのです。


  それは、先ほど申し述べたような「時代背景」が、強く影響していたからです。 つまり、結論から先に言えば、当時は、これ以上のことは書けない状況があったということです。おそらく、この事実を指摘するだけでも、ヒヤヒヤものであったはずです。これはそれほどの重大事だったのです。

  当時、新帝が即位するに際して「三種の神器」を携えることは、非常に大きな意味を持っていたのです。なぜならこれは、天皇を“ 神格化 ”するために必要なものだからです。
  新しい天皇は「即位の礼」を行うことによって、天照大神の命を受けて地上に降り立ち、人々を統治する使命を帯びることになるのです。要するに『古事記』や『日本書紀』に記されている出来事が、儀式によって再現されるわけです。

  そのことをもっともよく現わしているものが、「高御座(たかみくら)」といわれるものの存在です。これは八角形の御輿(みこし)のような乗り物です。今日伝えられている神話絵巻には、“ ニニギノ命 ”がこの御輿に乗って、天上界から降臨する様子が描かれているということです。
  従って新天皇がその上に乗ることにより、古事記や日本書紀に記されている“ ニニギノ命 ”の「天孫降臨」の模様が、再現されることになります。その際に是非とも必要なものが「三種の神器」です。天孫降臨の際に、天照大神がニニギノ命に授けたものです。

  三種の神器というのは、正式には 「八咫の鏡 (やたのかがみ)」 「八尺の勾玉 (やさかのまがたま)」 「草薙の剣 くさなぎのつるぎ)」 の三つです。これ無くしては、新天皇は天照大神の命を受けて地上に降臨したことになりません。つまり“ 神格化 ”されないということです。言い換えれば国の支配権が、移譲されないのです。

   ( 参考資料の紹介。 『天皇の本』 (学習研究社刊)
         この本の中には、高御座(たかみくら)の写真が掲載されています。)
 

  もし、この即位の礼を行うのに、「三種の神器」が敢えて必要ないのであれば、草薙の剣を紛失した時点で、この儀式は取りやめになったことでしょう。それであるならば後鳥羽天皇の時に、これを携えずに行ったことの理由が成り立ちます。しかし実際は、無くなった草薙の剣の代わりに、他の剣を使って、この儀式はその後も引き続き行われたのです。
  ( ちなみに、今上天皇(平成天皇)が即位した時にも、昔の通りに「三種の神器」が取りそろえられ、また高御座を使って執り行われたということです。これは宗教的な意味をもつことになるために、抗議をした人たちもいたそうです。)


  ですから当時の人々にしてみれば、新帝の即位の礼を行うには、「三種の神器」は絶対的に必要不可欠のものと認識されていたのです。ところが、そこへ正式な儀式を行っていない“ 後鳥羽天皇 ”が出現したのです。
  しかも、「草薙の剣」が海中に沈んでしまった今となっては、その儀式をやり直すことも出来ません。つまり今となっては、絶対的に“ 神格化 ”されない天皇が、その“ 後鳥羽天皇 ”であったということです。
  こうした時代背景を考慮する必要があるわけです。


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  さて、問題の“ 後鳥羽天皇 ”は、正式に「神格化」されていない天皇でした。「三種の神器」を携えないで即位の礼を行ったために、天照大神の命によってニニギノ命が地上に降り立った「天孫降臨」の場面が、再現されなかったからです。要するに「 神格化 」するための要件を、欠いていたということです。
  そしてこの『平家物語』は、その“ 後鳥羽院 ”が、絶対的な権力を振っていた時代に創られたものです。つまりこの作品は、そうした特殊な時代背景のもとで成立した、かなり特異な作品であるということです。

  従って、この当時の社会情勢としては、“ 後鳥羽天皇 ”が即位した際の状況に触れることは、絶対的に御法度であったはずです。それは取りも直さず、後鳥羽天皇の“ 天皇 ”としての資格に、疑義を唱えるものとなるからです。本来、天照大神が支配するこの国に、「神格化されていない天皇」が存在してよいのかということです。支配権を移譲されていない者が、天皇の位にあってよいのかということです。これは後鳥羽天皇にしてみれば、絶対的に触れられたくない傷であったはずです。
  ですからこの当時は、「もし、そのことに触れる者は・・・」と、厳重な監視が行われていたものと考えられます。


  ちなみに、その頃の権力支配の状況は、次のようなものでした。


  1185年 壇ノ浦で、平家一門が滅亡。
        安徳天皇、入水。
        “ 後鳥羽天皇 ”の時代となる。
         (ただし実質的な支配権は、まだ後白河法皇にあった。)
  1198年 土御門天皇、即位。
  1192年 後白河法皇、崩御。
  1210年 順徳天皇、即位。
  1221年 仲恭天皇、即位。
  1221年 「 承 久 の 変 」
           “ 後鳥羽院 ”、壱岐へ流される。
           順徳院、佐渡へ流される。
           土御門院、土佐へ流される。
           後堀河天皇、即位。
  1232年 四条天皇、即位。
  1239年 “ 後鳥羽院 ”崩御 。


  後白河法皇の崩御が1192年ですから、“ 後鳥羽天皇 ”が実質的な権力を握るのは、それ以後ということになります。そして、この後鳥羽院は、1221年の「承久の変」によって失脚します。従って権勢を誇った期間は、約三十年間でした。

  ですから少なくとも「承久の変」によって、後鳥羽院が権力機構から排除されるまでは、そのことをおおっぴらに公言出来ない状況があったことになります。平家一門が、1185年に壇ノ浦で滅亡したあとの、16年間ということです。ただしそれ以後の天皇にも、この一件に関しては、ほぼ同様のことが言えたはずです。海に沈んでしまった“ 草薙の剣 ”の代わりに、別の剣が用いられたとしても、それは過去、八十一代使われてきた正式な宝剣ではないからです。

  「天孫降臨」の際に天照大神が“ ニニギノ命 ”に授けたのは、あくまでも「草薙の剣」なのであって、それが無くなってしまった今となっては、新帝の“神格化”の効力にはどうしても疑問符が付きます。少なくとも地上の統治者・天皇としての権威や、神秘性は半減します。
  当時の人々にしてみれば、神話の世界と現実の世界を結ぶものを失ったことになります。神々しく厳かな存在であった天皇が、もはや雲の上の人では無くなってしまったわけです。

  「承久の変」以後、かつての天皇や皇族たちが、かなり厳しく処断されたのは、こうした背景があったためとみることができます。つまり、“ 神格化 ”されていない天皇というのは、一般の人と同等ではないかという考え方です。それによって歴代の天皇たちが、島流しの刑に処されたのです。この厳しい処分は、当時の人々を驚かせたということでした。

  ですから当時の人達にしてみれば、そのことは誰もが知っている公然の秘密であったのです。そして「三種の神器」を携えずに行われた後鳥羽天皇の即位の儀式は、誰もが納得していなかったということです。ただし、そのことを公然と指摘し、批判することはやはり憚られたでしょうから、文書として書きとどめられることも無く、やがて時代の移り変わりと共に忘れ去られていったものと考えられます。 ここに抜け落ちた歴史の一端を、垣間見ることが出来るわけです。


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  最後に、全体をまとめておくことにします。

  後鳥羽天皇の即位の礼は、「三種の神器」を携えずに執り行われました。しかも「草薙の剣」が失われたことによって、その瑕疵のある即位の礼をやり直すことも出来なくなりました。従ってこの後鳥羽天皇は、正式に「神格化」されていない天皇であったわけです。つまり、国の支配権を移譲されていない天皇だったのです。

  その“ 後鳥羽院 ”が権力を振っていた当時は、いかにそれが歴史的な事実であったとしても、そのことをおおっぴらに公言することは出来ませんでした。そのことを指摘することは、天皇の正当性そのものを否定することになるからです。つまり、後鳥羽天皇は「神格化された正式の天皇ではない」と、あからさまに世間に言いふらすものになるということです。
  それ故に、その経緯が明確に記されている『三巻本・平家物語』は、絶対に世間に公表することの出来ないものであったのです。なぜなら平家一門の栄枯盛衰を描くには、そのことは絶対に省略することが出来ないからです。

  平家一門は壇ノ浦の合戦に敗れて、遂に滅亡しました。その象徴ともいうべき安徳天皇の入水によって、一族の繁栄は完全に幕を閉じたのです。その際に同時に、「草薙の剣」が失われたことを書かなかったら、歴史を歪曲することになります。『平家物語』は、平家一族の盛衰の歴史を描いたものではなくなってしまいます。従って、そのことには、何としても触れないわけに行かないのです。

  しかしながら、そのことを書き記すということは、「三種の神器」との関連で必然的に、“即位の礼”の模様にも触れることになります。実際に起きた歴史的事実を、一方的に偏って書き記すことは出来ないからです。それにより安徳天皇が即位した時の様子は、こまごまとしたことまで書き記されました。そして当然のことながら、後鳥羽天皇の即位の模様も描かれるはずでした。
  しかし後鳥羽天皇の即位の礼は、「三種の神器」を携えずに行われました。この事実にも触れないわけには行きません。歴史的な事実として、ありのままに書き記す必要があります。
  ただしこの当時に、そのことを書き記した書物を公にしたら作者はもとより、その書物の制作に携わった人達も含めて、即刻、総ての人たちの首が飛んだことでしょう。それこそ幾つ首があっても、足りなかったに違いありません。それはたとえ歴史的な事実であったとしても、絶対に触れてはならないことだからです。時の最高権力者の隠された秘密を暴くものだからです。


  そこで、証拠となるようなものを一切残さない方法が考え出されたのです。それが盲目の琵琶法師による「語り」だったのです。
  それは琵琶法師の記憶の中だけに存在するものであり、末端の琵琶法師たちには、作者が誰であるかなどは知らされませんから、権力の側から追及される恐れもなかったと考えられます。要するに、この作品の最後の生き残り策が、この方法であったということです。

  また、そのためにもこの作品は、編年体という一種の歴史書の体裁を取る必要があったのです。いかにこの時代でも、歴史年表を書き記すこと自体は処罰の対象にされなかったでしょうから、そうした逃げ道を作るためです。あくまでもこれは「歴史的事実」を、ありのままに書き記した年表に過ぎないものですという、外見上の体裁を整えたのです。

  しかしながら琵琶法師が、その三巻本の『平家物語』だけを物語ると、いづれ全編を語り尽くしたときに、全体像が知られてしまいます。しかも物語りが「草薙の剣」が海に沈んだところで終わっていたのでは、権力者側の神経を逆撫ですることになります。何も知らずに語る琵琶法師の命さえ危うくなります。
  そこで作品の内容を膨らませて中身を長大なものにし、物語全体の流れを分かり難くする作業を進める一方で、さらに同じ軍記物として『保元物語』『平治物語』が創られたのです。
  つまり、これらの作品は、三巻本の『平家物語』の内容をカモフラージュするために必要だったのです。

  その後、この『平家物語』は、中身を倍増した「六巻本」が創られ、さらに「十二巻本」へと拡大していったわけです。ですからこの増補・改修も、それなりの必然性があって行われたことになります。内容全体を、分かり難くするためです。そうした努力の結果、この作品は今日まで存続することが出来たのです。

  このような成立の経緯から、三巻本の『平家物語 』はもとより『 保元物語 』『 平治物語 』も、もともと文書として書き残されたものは存在しなかったことになります。
  おそらく証拠となるような書き付けなども、琵琶法師たちに引き継がれた段階で、すべて処分されたに違いありません。従って、これらの作品の原典中の原典は、当時の琵琶法師たちの頭の中だけに存在したことになります。『平家物語』の成立には、当初から琵琶法師たちが関与していたという兼好法師の『徒然草』の記述は、極めて正確なものであったということです。


  以上が、『 平家物語 』という作品が成立するまでの経緯です。かなり特殊な時代背景のもとに成立した、特異な作品であったことが分かります。そして、こうした成立の経緯の特殊性の故に、内容もまた、特異な変遷を経て磨かれてきたのです。この作品の魅力は、そこから生みだされたものだったのです。


             ☆           ☆ 


  ところで、天皇については歴史的に見れば、「君臨すれども統治せず」という時代もありました。しかし、それでもやはり影の権力者として、常に睨みを効かせてきたことは事実です。
  そして、その状況は、「天皇制」というものが崩壊する先の終戦の時まで続いたのです。それは1945年(昭和20年)という、わずか五十数年前のことです。この時から天皇は、正式に神ではなくなったのです。

  平家物語の成立の謎については、おそらく過去に私と同様のことを考えた人がいたかも知れません。或いは、兼好法師を始めとする当時の知識人たちは、暗黙の了解事項として、誰もが知っていたことだったのかもしれません。しかしそのことを広く公言することは、当時としてはやはりはばかられたことでしょう。
  つまり、これは“ 天皇 ”という存在が、憲法の定めによって“ 神 ”ではなくなった現在の社会だからこそ指摘できることなのです。
  従って、今という時代は、有史以来、そのことに言及できる初めての機会でもあるわけです。




                         2001. 1.19.        店主記す




 
  



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