夏目漱石の『夢十夜』を分析する ―――――――――――――――――――― いかにもっともらしい理論があっても、実際に使えなければ意味がありません。ただのお題目になってしまいます。そこで、ここではフロイトの夢に関する理論を使って、実際の夢を分析をしてみることにします。それにより「夢の象徴化」というものが、具体的にどのように起きているかが分かります。 しかし夢の内容には、かなりプライベートなものが含まれていますので、自分の夢を使うことは少々はばかられます。かといって、聞きかじった他人の夢を勝手に使うわけにもいきません。 また分析のための資料とするには、誰もが知っているものであった方が都合がよいわけです。そこで格好の材料として、漱石の『夢十夜』を選定した次第です。 この作品の中には、漱石がみた十の夢が記されています。いずれも短いものです。しかしここに本文を紹介するわけにはいきませんので、文庫本などを入手して、対比しながらお読みになると分かりやすいかと存知ます。 ところで、もしこの作品の中に収められているものが創作作品であれば、フロイト流の解釈をしてもあまり意味がありません。しかし、もしこれが実際の夢であった場合には、漱石のこころの奥底に隠されていた深層心理を解き明かすことが出来ます。もしかしたらそれによって、新しい漱石像が導き出されるかもしれません。 −−−−−−−− ○ ○ ○ ○ ○ ○ −−−−−−−−− フロイトによれば、「夢は、ある(抑圧され、排斥された)願望の充足である」と定義づけされています。( 『夢判断』 フロイト 高橋義孝訳 新潮文庫 W 夢の歪曲 ) つまり夢は、覚醒時には意識的に抑え込まれたり、排除されてしまった「願望」を充足させるものであるというのです。 しかも睡眠中の半覚醒時に、意識の検閲を逃れて、はっきりとは分からないように「偽装」した形で充足されるといいます。またその偽装については、圧縮、移動、象徴化等があるということです。 この考え方に基づいて検討した時に、もっとも分かりやすいのが「第三夜」の夢です。この夢の中では、圧縮や象徴化をはじめとするいくつかの偽装工作が行われています。 第三夜にはまず、「目の潰れた青坊主」が登場します。フロイトは、男性性器は人物によって、女性性器は風景によって象徴されるといいます。( 『夢判断』Y 夢の作業 E 夢における象徴的表現 ) 従って、これは男性性器が象徴化されたものであると考えられます。また「自分」が歩いていく道すがらにある風景は、女性性器が象徴化されたものです。「大きな森」「八寸角の腰ほどの高さの石」「青田の中のうねった路」はそれぞれ、陰毛、陰核であり、膣口に到達するまでの道筋を現わしていることになります。 膣口は、ここでは「日が窪」「堀田原」という地名になっていて、やや分かりにくくなっています。日が窪は、一段窪んだ場所を意味します。堀田原も、原っぱに掘られた穴を意味します。凹所、空洞が女性性器を現わすことについては、『精神分析入門』第十講 夢における象徴 に分かりやすく説明されています。 青坊主を背負って歩いて行った「自分」は、道が二股に分かれたところで「左がいいだろう」という青坊主の言葉に従って、左の道を採ります。 フロイトは、夢の中での「右」と「左は」道徳的に解釈すべきであるというシュテーケルの説を紹介しています。( 『夢判断』Y E ) これはドイツ語の「右」と「正義」が同じ語であることに由来します。ただし英語でも、同様のことが言えます。 Right は右であり、正義です。これは英文学を学んだ漱石にも当てはまる考え方です。 従って、小僧の指示に従って進んだ道は、不徳儀の道であったということになります。「自分」は、その不徳儀の道で、「自分の子供」を殺したのです。 これは実生活において、漱石自身が立たされた立場に由来するものです。もうすこし明確に申し上げておくなら、かつての初恋の原体験において、はからずも漱石自身が立たされた立場に由来するものであるということです。 ただし「自分で自分の子供を殺す」ということが、具体的に何を現わすかが分かっていなければ、そうした解釈はできません。そこで、この点から説明しておくことにしましょう。 男性性器が人物となって現れることはすでに紹介したとおりですが、その人物(自分)が背負っている子供、即ち、「自分の息子」が何を意味するかですが、これは容易に想像することができます。今でも息子という言葉は、隠語として、一般的に使われています。それは言うまでもなく、自分自身の男根を指します。 ここで問題なのは、自分自身の男根を殺すということが、実際にはどういう意味かということです。安直に考えれば「去勢」や「性的不能」といったことが挙げられます。しかしこれ等は、漱石の実生活上の事実によって否定されます。 また自分で自分の子供を殺すという点だけに捕らわれると、全体の意味を理解することが出来ません。少し角度を変えて捉え直す必要があります。 そこで視野を広げるために補足しておくならば、原文には「早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ」とあります。ここに視点を置く必要があります。要するに、青坊主である自分の男根を捨てたことによって、結果的に死んだものがあるということです。より明確にするために繰り返しておくと、「捨てられたことによって、死んだものがある」ということです。 結論から先に言えば、それは「童貞」です。本文に従えば 「こんなものを背負っていては、この先どうなるか分からない。どこか打っ遣るところはなかろうかと向こうを見ると−−−−」「この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然として頭の中に−−−−」という部分に集約されています。 打っ遣ったのは童貞であり、また殺したのも童貞なのです。これは「自分」が、自らの意思で行ったものです。それが「−−−この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然として頭の中起こった」と記されている部分の中身です。初めて女性に接したことにより殺した、即ち、無(亡)くしたということです。 また、ここに 「この杉の根で−−−」とあるのは、少々興味深いものがあります。多くの種類の木がある中で、なぜ松でもなく、桜でもなく、杉の木が選ばれたのかということです。 そして杉と、菅とが、発音的に酷似していることに注目する必要があります。これは漱石の友人であった菅虎雄という人物との関連性を示唆するからです。つまり友人の菅寅雄が何らかの形で関与したところで、漱石の童貞が捨てられたのではないかという想像が成り立つわけです。ただしこれに関しては、もう少し当時の状況を仔細に調べてみなければなりません。 さて、夢の中に現われる数字が、かなり重要な意味を持つことは、フロイトが指摘しているところです。( 『夢判断』Y F 実例 夢における計算と会話 ) 「第八夜」には、金魚売りの話があります。小動物の金魚は、子供たちを現わします。 そして、その金魚売りは、小判なりの桶を五つ、自分の前に並べています。この桶は、赤ちゃんの産湯に使う桶と考えられます。つまり、この五という数字は、出産の回数を現わすのです。 この当時、漱石には、長女筆子、次女恒子、三女栄子、四女愛子、長男純一の五人の子供たちがいました。この子供たちの誕生が、五つの桶によって象徴されているのです。 また同じ夢の最初の部分では、部屋の中に、六枚の鏡が掛かっていることになっています。この数字もまた、子供たちの数を現わします。 妻の鏡子はこの当時、妊娠しており、この年の十二月には六番目の子供である伸六が誕生しています。壁に掛けられた鏡は、妻の鏡子が産む子供という意味であり同時に、子は親の鏡という古くからのたとえが具現化されたものです。 ところで、「第三夜」の六つになる目の潰れた子供は、大人の言葉つきで、しかも「自分」と対等に話をします。 この六という数字は、六番目の子供からくる六であると同時に、六年前を意味する六でもあります。この『夢十夜』は、明治四十一年に書かれました。その六年前の明治三十五年には、親友の正岡子規が死んでいます。「自分」と対等に話をし、しかも命令までするその青坊主には、漱石に対して勝手気ままに振るまった子規のイメージがかぶさっているのです。 では、「百年前の文化五年辰年」には、いかなる意味が含まれているのでしようか。これには実は、複雑に計算された二つの意味が含まれているのです。 その一つは、「第一夜」に登場する女の言葉「百年待っていてください」に呼応する意味での「百年前」です。 「第一夜」には、大きな潤いのある黒い眸の女性が登場します。この特徴をもつ女性こそが実は、漱石が初めて肉体的に接した女性なのです。つまり「この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が−−−−」の対象となる女性であるということです。この特徴をもつ女性が、漱石文学の中でいつも特異な位置を占めているのはそのためです。 もう一つは、年号に関するものです。この作品は、明治四十一年、西暦一九〇八年に書かれました。その百年前は、西暦千八百八年、すなわち文化五年辰年です。 この千八百八年という数字に意味があります。数字で表すと、1808年です。細かく分解すると、二つの8と10が共存する年ということです。二つの8というのは、言い換えれば二重の8です。その二重の八が、文化(分化)した年ということになります。 それは具体的には、明治二十八年、漱石が満二十八歳であった年を指します。そのころ漱石は、小石川の法藏院に下宿しており、この年の四月には突然松山へ行ってしまうのですが、その時期に、「盲目の子供を殺した」という出来事が起きたということです。しかもその法藏院を下宿先として紹介したのが、友人の菅虎雄だったのです。 この「百年前の文化五年辰年」という年号の中には、それだけ複雑な意味が凝縮されているのです。これは夢の中で「圧縮」という作用が働くためです。 さて、フロイトによれば、「夢は、ある(抑圧され、排斥された)願望の充足である」ということでした。では、この夢の中には、いったいいかなる願望が隠されているのでしょうか。 フロイトは別のところで、「一夜のうちにみるいくつかの夢はすべて、その内容上からは、一つの夢とみなすべきである。/ ーー 中 略 ーー / −−−これらの種々なる、前後関係のうちに見られた夢は同一の事柄を語っているのであり、同一の心のうごきを別々の材料によって表現しているということである。」 と述べています。 ( 『夢判断』Y 夢の作業 C 夢の表現手段のいろいろ ) つまり、同日に幾つもみた夢の中には、一つのテーマが貫かれているというのです。そして、この『夢十夜』にも実は、それと同様のことが起きています。つまりほとんどの夢に、同一の願望が含まれているのです。 「第三夜」には、最後の部分に「背中の子が急に石地蔵のように重くなった」と記されています。これだけでは非常に分かりにくいのですが、この中には、漱石自身も気づかなかった無意識的な願望が含まれています。 つまり、これは衰弱している性的活力の復活願望です。背中の子供が象徴するところの男根が、石地蔵のように堅く重くなって欲しいということです。 これは少々意外な気がしますが、実はこれと同じの願望が、ほとんどすべての夢の中に隠されています。参考までに、他の夢についても紹介しておくことにします。 「第一夜」は、外見的には非常に美しい作品です。しかし夢としてみた場合は、まったく異なります。百合の花が象徴するのは、女性性器そのものです。唐紅の天道は、幸福を与えます。そして『百年待っていてください』に対する『百年はもう来ていたんだな』には、性的持続力の回復願望が隠されているのです。 「第二夜」では、男性性器が、朱鞘の短刀に象徴化されています。そして、湧き上がる性欲をやっきになって押さえ込もうとする姿勢が見えます。これはその当時への回帰願望です。 「第四夜」は、蛇になる手拭いの話です。蛇は、男性性器の象徴の最たるものです。ところが蛇になるはずの手拭いが、いっこうに蛇にならない。つまり、陰茎が勃起しないということです。願望は『今になる、蛇になる、きっとなる』という部分に隠されています。立派な蛇になって欲しいということです。 「第五夜」は、馬に乗る女によって、性交渉の場面がそのまま象徴化されています。鶏の鳴き声は、第一夜の「百年」と同じ意味を持っています。願望は、その裏側にあります。 「第六夜」は、一種の芸術論の趣を持つ作品になっています。しかしこの仁王は、たくましい男根の象徴です。自分の彫った木から仁王が現われないというのは、陰茎が勃起しないということです。願望は、日本武尊より強い仁王が欲しいというところに隠されています。 「第九夜」は、子供を欄干に縛り付けておいて、母親がお百度を踏む夢です。このお百度を踏む行為は、性交渉そのものの象徴です。「好い子だから、少しの間、待っておいでよ」という部分に、これまでと同じ願望が隠されています。 「第十夜」は、庄太郎が豚にな舐められる夢です。豚は多産系の女性の象徴です。従って、妻の鏡子が象徴化されていると考えられます。ステッキは男性性器の象徴です。無尽蔵に鼻を鳴らしてくる豚を、七日六晩も叩いたので精魂が尽き果てたというのは、自分に対する満足の行く言い訳です。隠された願望は、七日六晩も使えるようなステッキが欲しいということです。 漱石の名誉のために、少々捕捉しておきます。 おそらくこの当時の漱石は、胃弱からくる体力の衰えによって、性的な機能もかなり衰弱していたと考えられます。いわゆる修善寺の大患の二年ほど前のことです。男性としての機能が十分でないということは、それだけでも切実な問題です。 しかも妻の鏡子は、しばしばヒステリー発作を起こしました。そのヒステリー発作を押さえるものが実は、性的な結びつきであったと考えられるのです。次のような資料が残されています。大正五年に書かれた「日記」の一部分です。 『 ○夫婦相せめぐ 外其悔を防ぐ ○喧嘩、不快、リパルジョンが自然の偉大な力の前に萎縮すると同時に相手は今までの相違を忘れて抱擁している。 ○喧嘩 細君の病気を起こす。夫の看病。漸々両者の接近。それが action にあらわるゝ時。細君はたゞ微笑してカレシングを受く。決して過去に遡って難詰せず。夫はそれを愛すると同時に、何時でも又して遣られたという感じになる。 』 つまり夫婦が互いにすれ違い、いがみ合った時に、すべてを中和し流し去るものが性的な結びつきであったのです。逆に言えば、性的な結びつきが無いことにより、いがみ合いが生じ、鏡子のヒステリー発作が起きるという図式が繰り返えされていたのです。 このような状況がある以上は、漱石の願望は、かなり切実なものであったと言えるでしよう。家庭内の平安が、自分の体力の不足によって保たれないとしたら、やはりそれなりの責任を感じたに相違ありません。 さて、これまで触れなかった夢についても、一応、簡単に紹介したおくことにしましょう。 「第七夜」は、人生に対する不安を含んだ夢です。行き先の分からない船に乗ってしまった不安があります。その船から飛び降りて落ちていく恐怖は、拠り所の無い人生を暗示します。東京帝国大学の教授の地位を捨てて、市井の一小説家になった時の不安が再現されています。 願望は、「あのまま大船に乗っていたほうがよかった」という部分にありそうですが、はっきりと断定はできません。どうやら重要な部分が書かれていないように思われます。 「第八夜」は、分散的な夢です。性的なものも含まれていますが、経済的な不安や、妻の鏡子に対する不満も含まれています。 「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」の対象になるのは、自分自身の男根です。札勘定の読みが速いというのは、出費が嵩んで金遣いが荒いことを意味します。桶の前に座っている金魚売りは、妻の鏡子です。五人の子供たちを味方につけて、周囲の動きに目もくれずにただ座っているだけです。六番目の子供が出来るのに、何もせず動こうとしない鏡子に対する不満があります。 ただしこの夢も、これで全部ではなかったような気がします。願望は、六番目の子供が生まれてくることに関する何かであったと思われるのですが、その部分が書かれていないのです。故に、不明とするしかありません。 −−−−−−−− ○ ○ ○ ○ −−−−−−−−− さて、以上の作業によって分かったことは、夢の中で起きていることがこの現実の世界の出来事と結び着くということです。フロイトが言うように、圧縮、移動、象徴化等の偽装工作が施されて分かりにくくなっているものの、一定の基準に従って翻訳すれば、現実の出来事と結びつけることが出来たわけです。従って、夢の世界の出来事は、この現実の世界とつながっているということになります。 そして、このことは逆に考えれば、夢の中に働いているいくつかの基本法則は、この現実の世界で働く法則となる可能性を示唆します。とりわけ「夢は、願望の充足である」という基本原理は、実はこの世界に働く基本原理とも考えられるのです。つまり、この現実の世界にも、同様の原理が動いているかも知れないということです。 言葉を換えて言い直しておくと、「願望」が夢の世界で実現されるように、この世界には「願ったことが叶えられる」という基本原理が存在するのではないかということです。 ただし、これに関しては、もう少し確かな根拠が必要となります。またの機会に触れることにします。 2001. 1.12. 店主記す |