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映画「風立ちぬ」と宮崎駿の欺瞞 - NHKとの蜜月の不信
宮崎駿が引退するというニュースがあり、映画「風立ちぬ」を見に行った。宮崎駿について何か論じたい気分になり、新作の映画を見ずにそれを書くのは不具合に感じたので、実際に目で確かめることにした。本当は、封切られてすぐ映画館に足を運ぶつもりだった。今夏の一つの楽しみにもしていたのだけれど、それが、ここまで遅延になったのは理由がある。8月に入って原爆を考えさせられる季節となり、8月15日が近づくほど、やけに宮崎駿がマスコミに露出する機会が増え、映画の宣伝情報でテレビが埋め尽くされ、それへの食傷と反発というか、そういう気分が自然と芽生えて広がった。また、NHKの対談で喋る宮崎駿の行動や言葉に、正直に言って、ひどく胡散臭さと抵抗感を覚え、そのことも映画館から足を遠のかせた原因となった。さらに、時折ネットで目に入るところの、今回の作品へのネガティブな
評判
も影響したかもしれない。今回は、レンタルビデオかテレビ放映を待機することになりそうだと、そう思っていたとき、9/1の引退発表の報道があり、マスコミやネットの反応があり、それに触発され、実際に作品を見ることになった。従来の宮崎作品と違って、今回は評価が二分されていると恵村順一郎が報ステで発言していて、それも気になって確認をしたかった。感想を言えば、事前の期待が低かったので、予想したよりはずっと佳作だったという採点になる。
全体としては退屈せず満足できるし、宮崎作品として合格で、1800円払って劇場で見る価値は十分にある。映画祭で賞を受ける資格もある。ただ、見ながら強く感じたのは、過剰とも言えるほどのヨーロッパへのサービス精神で、今回の引退発表のタイミングも、映画の中身も、9/7のベネチア映画祭の金獅子賞を狙ったものであることは間違いない。宮崎駿は、監督引退の花道に - 本当にそうなるかは眉唾だけれど - この賞を喉から手が出るほど欲しかったのだ。堀越二郎の「夢」の形式で、繰り返しカプローニ讃歌が登場するのも、また、前半、「ドイツの工業技術」の話が戯画的に面白可笑しく強調され、「日本のキャッチアップ」の話と構図化されて、ドラマ全体の基底が説明されるのも、欧州人、特にイタリア人にとっては堪らなく愉快で、作品全体への高評価・好印象を導くに違いない。ベネチア映画祭の会場の審査員は、「紅の豚」も見ているだろうし、宮崎駿の知性と欧州への造詣の深さを知っている。何より、宮崎駿は、世界の誰もが認める偉大なマエストロである。巨匠から「最後の作品」の中でこれほど強烈にもてなされ、イタリア人はこそばゆいほどの愉楽を感じるだろう。それから、深夜の嫁入りシーン。仲人の妻が提灯を持って廊下を先導し、障子を開け、部屋の中にいる仲人の夫と様式的な問答を交わす祝言の場面は、欧州の審査員(特に女性)には新鮮で、価値あるものを見た興奮と感動を覚えることは想像に難くない。
ヨーロッパ工業技術への憧憬と讃歌を - それは日本近代の嘘偽りのない真実だが - これでもかと振りまき、同時に、(東西の文化の専門家たる審査員の)誰も見たことのない、日本古来の伝統文化たる「嫁入り儀式」の真髄を披露して驚かせる。凝ったテクニックの連発であり、この映画作品のメインの顧客が、まさにヨーロッパの観客であることを映画関係者は思い知る。審査会場に座った者も、ここまでくすぐられ、悦ばせてもらえたら、「巨匠最後の作品」にどうぞ賞をもらって下さいという意識になるはずだ。引退発表のニュース直後に映画を見たため、特にその趣向と意図について強く感じた。まさに、鈴木敏夫らしいマーケティング・オリエンテッドな映画作品で、しかも芸と策が手抜きなく徹底している。後で誰が何と言おうが、やりすぎだと批判されようが、金獅子賞を射止めれば結果オーライだし、賞を取れなかったら元も子もない。そんな、貪欲で隙のないジブリと宮崎駿のビジネスの野望と思惑が窺われる。国際映画祭の賞というのはこうやって獲るんだと、宮崎駿と鈴木敏夫が若手に範を示しているようにも見える。成功は綺麗事じゃないんだと、結果を出すためにはここまで要るんだと、日本人は世界にここまで戦略的に奉仕しなきゃ認めてもらえないんだと、そうカリスマ導師が説教を垂れているようだ。いずれにせよ、ベネチア映画祭の金獅子賞が、宮崎駿にとって並々ならぬ垂涎の目標である真相を直観し、その悲願と執念に圧倒された。
さて、問題は戦争との関わりの部分である。今回、宮崎駿が映画の公開に合わせてマスコミで演じたパフォーマンスは、率直なところ、私をひどく失望させ苛立たせるものだった。腹が立った。それは確かに「いつものこと」であり、大衆動員のためのプロモーションであり、眉を顰めつつ、ビジネス至上主義のリアリストたる宮崎駿に「許していいこと」ではある。しかし、NHKの大越健介にインタビューを撮らせたこと、半藤一利を利用したNHKの終戦番組のプロパガンダ(三宅民夫が企画)に協力したこと、この二つはどうにも許せないことだった。時局が時局だ。まぎれもなく、大越健介は戦争の扇動者であり、ファシズムのプロパガンダ・スピーカーであり、安倍政権の手先となって中国に対する敵愾心を煽り、国民を戦争準備へ駆りたてている張本人だ。辺見庸なら、この指摘を事実だと認めるだろう。これまで、宮崎駿はテレビで誰と対談してきたか。9/2のTBSの報道では、1996年と2006年の2回、NEWS23で筑紫哲也と対談する場面が紹介されていた。2回とも見た記憶がある。1996年のときは、屋外で司馬遼太郎の話をしていた。2006年のは、森の中の瀟洒なアトリエに招き、コーヒーを飲みながら教育論や文明批評の談義をしていた。筑紫哲也以外に宮崎駿がマスコミ論者と対談した絵を見ていないし、筑紫哲也以外にそんな相手はいないだろうと思っていた。まさか大越健介が、筑紫哲也が座った席に招かれ、ツーショットの絵が撮られるなど、想像もできない意外な事態の出現だ。
毎度毎度、スタジオ・ジブリの映画製作を密着取材し、週末の特集番組で大きく宣伝放送してくれるNHKは、ジブリにとって大事な得意先であり、事業上、何か要求があれば断れない、頭の上がらない関係なのだろう。しかし、ジブリの
小冊子
で憲法改定に反対を唱え、この時勢で平和憲法を守るように言った宮崎駿が、よりによって、何で大越健介のインタビューに睦まじく応じ、改憲をプロパガンダする大越健介に奉仕をしなくてはいけないのか。そのような姿を国民の前に見せるのか。大越健介の姑息な虚飾の示威に協力するのか。安倍晋三の報道官に追従する媚態を見せるのか。その行為は、反戦平和を願い、護憲の立場を守り、宮崎駿に
信頼
を寄せている市民に対する裏切りである。護憲派に打撃を与え、改憲派に宣伝材料を提供する政治的行為だ。護憲や反戦を言いながら、その真性敵の権力者である大越健介にスリ寄り、デレデレと蜜月関係を演出し、大越健介に「巨匠との対談実績」の「名誉」を進呈して嬉しがらせるのは、政治的思想的に一貫性のない矛盾した態度だと非難せざるを得ない。護憲派の市民が不信感を持つのは当然だろう。思想的不純である。思えば、脱構築主義は不純こそを善とし佳としてきた。思想的貞潔を嫌い、純白と誠実を求める精神を侮蔑し、貶価し、時代遅れだとレッテルを貼って卑しめ、潔癖から不純に転向するよう人を誘ってきた。思想的フリーセックスを奨励してきた。宮崎駿は、些か悪口を許してもらえれば、そうした思想的フリーセックスの大家であり、絶倫のエバンジェリストだったとも言える。
戦争前夜で市民が焦燥するこの時局に、いくら映画宣伝の動機でも、国民的巨匠である宮崎駿に、大越健介との癒着と媚態は見せて欲しくなかった。その行為は、小冊子での「反戦」や「護憲」を帳消しにするもので、その主張を字面だけで誠意と内実のないものに意味づけてしまう。護憲派を傷つける。そう思いつつ、苦々しい心境で8月15日の前後を過ごしてきた。私と似たような反応を示す事例が、ネットの中に二つほどある。恵村順一郎が言っていた「賛否両論」の証左であり、意を強くさせられるので紹介したい。一つは
湯本雅典
のもので、この「風立ちぬ」批判は正鵠を射ている。「その後の軍事大国化を客観的に支え『生き抜いた』堀越二郎は、まさに原発開発の技術者と同じ立ち位置にあったのではないのか」。3.11の視角からの批判であり、説得力のある論点だ。3.11の事故に対して謝罪をしない原発設計者と、戦争の過誤に向き合わないゼロ戦設計者の堀越二郎、この二者は同じであり、その責任を照射しない宮崎駿の態度は問題だと言っている。もう一つは
紙屋研究所
のもので、こちらの方はオッペンハイマーとの比較が提示され、相当に本格的な批判が展開されている。私もこの結論に同感だ。この中で、宮崎駿の次の言葉が引用されている。「戦争はだめだなんてことは初めから分かっていた。それでも日本人は戦争の道を選んだのだから、二郎に責任を背負わせても仕方ない。車は人をひくし、人を助けもする。そういうものが技術で、技術者は基本的にニュートラルなものだ」。これは重大な問題発言だろう。
この発言は、原爆や原発の開発を正当化するもので、まさに、現在、右翼側が再稼働正当化の理屈で言っている論法しのものではないか。そして、「それでも日本人は戦争の道を選んだ」という論理は、橋下徹の従軍慰安婦正当化のフレーズを想起させる。事実としてあったんだから、それは必要なものだったんでしょう、という愚劣な正当化の詭弁。既成事実を全面肯定する態度。この宮崎駿の欺瞞の態度が、戦争準備へと狂奔し、国民のマインドを戦争へ方向づけている安倍政権の大本営報道部と共鳴する。二重写しに被さる。大越健介とのWinWinコラボを媒介する。そのときは、護憲の信念と信条は後ろに下がっている。きっと、事実はそういうことなのだろう。
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by
thessalonike5
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2013-09-04 23:30
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Commented at 2013-09-04 19:48
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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パン屋のオヤジ
at 2013-09-04 20:25
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宮崎駿氏の父上は、零戦の製造に関わった工場を営んでいたと聞く。恐らく駿少年は、油まみれ汗まみれになって働いていたオヤジの姿を見ていたことだろう。
いくら零戦が侵略戦争の一翼を担っていたとしても、そのオヤジの「生きざま」を否定することはできないはずだ。
それぞれに、それぞれの矛盾を抱えて生きざるを得ない今日であるが故、「生きねば」というメッセージをこの映画に託したのだと思います。
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