創価学会は改革できるか
今回、あらたにコメントしてくださっている方をはじめ、みなさんの実体験の報告はとても貴重だと思います。これが創価学会を貶めようとする根も葉もない言いがかりであろうはずがありません。それくらいは現役創価学会活動家の方もおわかりいただけるのではないかと思います。ここで語られていることが、創価学会で言う正法を広めさせまいとする魔のはたらきなのか、創価学会員として何十年も活動されてきた方ではないと知ることができなかった創価学会の真実なのかを、よく考えて見極めていただきたいと思います。
創価学会のMCから抜け出るには、それ相当の精神の葛藤が襲ってきます。ときには精神を病んだり、家族と離ればなれになったりしなければならなくなります。そういう大変な思いを経て、ようやく創価の真実に気づくことができた方がたくさんいらっしゃることが、このブログをたちあげてわかりました。こうした現実を現役創価学会員の方は、単なる退転者の愚痴としか思えないのでしょうか。
現役創価学会員の方でも、現状の組織は変えないといけないと思っている人はいらっしゃるようです。しかしそれは、創価学会は本来はただしい宗教団体であったという前提で考えられています。ですから、内部改革をすることですばらしい団体になるのではないかというお考えのようです。しかし、私から言わせれば創価学会はもともとが宗教団体ではないですから、どこをどう変えようとも良くなることは絶対にないと思います。たとえば考えられる改善策をあげてみましょう。
・折伏や新聞啓蒙を強制しない
・信仰を強制しない
・罰論で会員の心をしばらない
・日蓮正宗を攻撃しない
・信仰の対象であるご本尊が、自ら攻撃している正宗のご本尊のコピー(複写)でもよい理由をはっきりさせる
・財務をはじめとして、経理は第三者を監査役に立てて、全会員に対して完璧に収支報告をする
・判断能力のない新生児や乳幼児を親の価値観で入会させない
・政治に関しては民主主義国家の国民として個人の意見を尊重し、投票の強制はしない
こうして改善策を挙げてみると、創価学会がどれだけ基本的人権を剥奪しているかがわかります。以上のようなことを改善したとしたら、もう創価が創価でなくなりますよね(笑)。社会的にも認められるような団体になったら、名誉会長がお金で名誉教授の称号や勲章を会員のお金をつかって買いあさる必要もないわけですから。創価学会の目的はお金です。もうこれははっきりしています。平和だ文化だって言っても、たんなる見え透いたボロ隠しです。先にも述べたように、創価の掲げる日蓮仏法と世界の芸術の整合性はまったくありません。チベット仏教を徹底的に弾圧・殺戮する中国共産党と友好関係を結び、日蓮仏法では外道とされるキリスト教やイスラム教の指導者と肩を並べたがる池田氏をどのように説明するのでしょう。もうめちゃくちゃです。理念もなにもあったものではありません。
とにかく創価学会の会員さんは、一日も早く自分が騙されていることに気づいてほしいと思います。このブログをたちあげた理由はこれに尽きます。大切な子どもや孫たちへの不幸の連鎖を断ち切ってほしいのです。そのためにも、多くのみなさんに創価からこうして抜け出すことができたという実体験をここにコメントしていただければと思います。
おかげさまで、このブログも一日1000ほどのアクセスがあります。ここに多くの人の真実が述べられることは、決して無駄ではないと信じています。これからも多くの方々に創価学会に対する実体験やご意見を述べていただくことで、ひとりでも創価学会の真実に気がついてくれる人がいてくれたらと思います。
よろしくお願いします。
前回からの流れの続きになりますが
現在の若いメンバーと、団塊メンバーとは、会合などでも会う機会がないのでしょうか?
団塊メンバーは、「信心は絶対!功徳よ福運よ!それは業よ!戦って戦って戦いきるの!池田先生のために!」世代でしょうし、
若手メンバーが、「功徳福運?そんなものの為にやってるんじゃないし、強欲はみっともないよ」という風だと、
それこそ、信心に対する姿勢が違うのだから、何らかの摩擦はあるんじゃないかと思うんですが。
まあ、ご都合主義よろしくなあなあでアレしてるんだろうなとは想像できますが、
なんと言うか、納得いかないんですよね。
もし、うちの親が「まぁ、波風立ててもアレだしね。若い人には若い考えがあるよね。」
という気持ちで黙ってやり過ごしているとしたら、私に対してのあの発狂は何だったのか。
信心をやるかやらないか。グレーが許されなかった過去の人間としては、
この両極端のダブルスタンダードは平然と許されるのかと、気味の悪さを感じます。
池田さんも言ってましたよね?
中立は敵だと。仏敵だと。白か黒しかない。戦わない奴も敵だ。みたいなこと言ってましたよね。
私、兄にこの指導があった翌日にボロカス(主に人格攻撃)に言われたので憶えてるんですよ。
その頃の私は、他宗教や宗門を攻撃することは教義や信仰を狭めるだけと主張していたんです。無謀でしたが。
池田さんの言い分だと、大切な若い学会員のほとんどが、仏敵ということになってしまいますよ。
それとも、大切な池田先生の御指導忘れちゃったのかな?
逝った目で「ハイ!」ってお返事してたのにね。
それに、大切な池田先生の言うとおりにしか信心しませんからね。古参メンバーは。
世の中は矛盾だらけだけど、あの中にいればちょっとやそっとの矛盾じゃビクともしないかも。
いろんな人がいるからねーあははははーとお花畑で花でも摘んでればいいんですから。
内部改革をもしするんであれば、学会の裏も表も全部出し尽くした先だと思います。
改革するためには、学会の恥部も受け入れなければ、今まで同様おためごかしで終わってしまいます。
学会の爺婆たちのこれまでの人生を否定したくないとか甘いこと言っていては完遂できないでしょうね。
第一に改革する内部の人間が、学会に対して懐疑的でなければなりませんから、結局はやりきることはできないでしょう。
要するに、学会に懐疑的な人間が、学会の未来を本気で憂うことはない。ということです。
長文すみません。
あらためまして、このような場を提供してくださっているsignifieさんに感謝いたします。
今まで組織内で、学会はおかしい、もうやめてしまいたいと意気投合していた方のお子さんが、手術を受ける病気になられました。それをきっかけに、子育てのし直しを含め信心で頑張ると言うことになったようです。
その方はたぶんとても不安に駆られていらっしゃるんだと思うし、私もなんとかお子さん良くなってほしいと願っていますが、やはり大きな不幸が訪れてしまうと、罰が当たったと感じ組織にもどってしまうものなんだなと、思いました。
幹部の発言がまたマニュアルどおりで「今回の事は辛いけど、信心に付けるようになって良かったよね~」と、笑顔で。私は絶句でしたね。信心できるなら家族の不幸は蜜の味なのですか?これが学会でいう楽観主義ですか?と。その幹部も性格的には優しく温厚ですけれども、その発言は普通じゃないんだよということはやはりわからないようですし、言われた側も変だと思わず、今まで信心をおろそかにしていたことを反省してました。
そんなやり取りの後、帰り道私に向かって、その幹部がまた新聞新聞とせっついてくるので、私は堪忍袋の緒が切れて、ここに書いたことの八割くらいを怒涛のように話しました。無表情でうんうんうなずきながら聞いてましたが、やはり疑問への答えはなく。
それどころか私の話が途切れると「そっかあ、何でも言ってね。私は何を聞いてもあなたを偏見で見たりしないし、誰にも言わないからね。いつでも話してね。苦しいことは言ってね。それでさ、新聞だけど、集計はやってくれるでしょ?あなたが啓蒙しなくてもさ誰かするからね、安心して。あとさ、婦人部総会は大丈夫でしょ?それと●●長会は来れるよね?」と。
私の話を聞いてたのかよ!!!!
飽きれますね、皆さんのおっしゃる通りで。というか私もかつてそうだったんだなあと、反省しましたね。話が通じないってこういうことだなあと。私はバリ活だった時こんな素っ頓狂な話を友人や部員さんにしていたんだなあ。
みんなよく怒らずにこらえて聞いてくれてたなあ。
違う意味で感謝の思いです(苦笑)
まあ、その婦人部のオバチャン幹部に嫌な思いをさせたいわけでもないし、語るだけ無駄だったなあと。冷静に話せただけ良しとしようかな。
その日の夜協議会ありまして、またもや新聞。涙ながらに地区幹部や新聞長が「なんとか目標を達成したい、皆さんのお力をおかりしたい」とな。選挙ばりの訴えでした。私は顔を見ると辛いので、じっと下を向いたり子供の相手をしてました。「しらゆり長さんから一言ずつお願いします」と言われ他のしらゆり長がとっても前向きなコメントしてました。私はあっちを向いて応えず無視しました。
こういうあからさまな態度をしていても、笑顔で私に、「ご苦労様、いつもありがとう」などと帰り際に言うのです。この真綿で首を絞めるような、笑顔の殺傷能力すごいです。私に優しく接して入ればいつか私の機嫌が直る、くらいに思っているようです。
人の気持ちがわからないってこういうことですね。
私の苦しい心のうちをわかろうともせず、とにかく波風立たず、活動が滞らなければいいと。
昨夜初めて「脱会」の二文字が頭をかすめました。この組織の人と関わっても空しいと、心底感じています。
崖っぷちさん、みんな応援してますよ(^^)頑張ってくださいね。
みなさま、明後日の夜までネット環境のないところで仕事しますので、新しいコメントが承認できません。
すぐには承認できませんけど大丈夫ですので、どんどんコメントしてください。