なんとも苦しい事件です。
「発達障害」というショッキングな言葉
被告は1歳半検診で長男が発達障害だと指摘されたことや幼稚園への入園を断られたことを機に一人で悩みを深めていった。
長男は広汎性発達障害と診断されたが、軽度の知的障害の疑いはあったものの障害の程度は軽く、保育園での生活も多少の問題行動はあったものの保育園側は深刻には考えていなかった。
この話はあまり他人事ではなくて、何を隠そう、うちの甥は幼少期に「発達障害の疑いがある」と指摘されまして、そのことについて姉が多いに悩んでしまった、という経験があったりします。今から6〜7年前、「発達障害」という言葉がまだ「新語」だった時代です。
実際には発達障害とは診断されなかったのですが、「障害」というショッキングな言葉に、うちの姉はもちろん、家族総出で困惑していました。もちろんぼくも例外ではなく「なに、障害があるのか…」と絶句した記憶があります。
冒頭で引用した事件の当事者の方々も、同種のショック、苦悩を経験したのかもしれません。勝手ながら、何だか他人事ではない気分を感じてしまうニュースです。
しかしながら、程度の差こそあれ、「発達障害」というのは、そこまでショックを受けるような話ではありません。それこそスティーブ・ジョブズはアスペルガー症候群だった、アメリカでは子どもがアスペルガー症候群だと「この子は天才だ!」と喜ぶ、なんて話もあるくらいですから。「発達障害」という言葉に対する印象は、関連する方々の積極的な啓発もあり、大分やわらいできたようにも思います。
関連する書籍としては、「天才と発達障害」という名著もあります。アントニオ・ガウディとルイス・キャロル、ダーウィンといった歴史上の天才が抱えていたと思われる、認知上の「偏り」について分析した作品です。ダーウィンはいわゆる識字障害(ディスレクシア)を抱えており、mother(母)を「moether」と発音してしまうことがあった、ルイス・キャロルは人の顔を覚えられない「相貌失認」だったなどのエピソードが印象的です。
発達障害の、特にアスペルガー症候群と言われる人の中には、この認知の偏る人、つまりは感覚が鋭いか反対に鈍麻している人は多くいますが、実は一般の人にも大なり小なり、認知の偏りが見られます。そして案外その認知の偏りを生かし、職業にも、さらには才能にもしています。
「天才と発達障害」の著者・岡氏が語るように、発達障害というのは「認知の偏り」という側面で理解ができ、この「偏り」自体は、健常者と呼ばれる人たちにも無関係の話ではありません。かくいうぼく自身も、軽い相貌失認(人の顔を認知・記憶できない)の症状があるので、もしかしたら出るところに出ると、「発達障害」と診断されるのかもしれません。
余談ですが、ぼくに関しては、ときおりそういう批評も頂いていたりします。例としては不適切でしょうけれど、「ちょっとした発達障害」という表現は、ある意味的を射ていると思います。そういうグラデーション的なものとして、理解すべきなのでしょう。
ズレてる人が普通に振る舞おうとしても結局は変なので、「わざと変なことをやる」という自己防衛をするのはよくある。素のイケダハヤトはちょっとした発達障害という程度で、正常の範疇に入ると思われる。
何が言いたいかと言いますともしかしたら、これをお読みのみなさんも「発達障害」かもしれないのです。その境目は、けっこう微妙である、ということです。関連本では「発達障害に気づかない大人たち」という作品も出ていますね。
発達障害は何も特別な話ではありません。ぼくらも、何らかの偏りを抱えています。しかしながら、やっぱり「発達障害」という言葉は強すぎる響きを持っているのも、相変わらず間違いありません。
では、言葉遊びのようですが、たとえば、何かこのショッキングな言葉を、別の言葉で表現するという動きはないものでしょうか。
「発達マイノリティ」という言葉
この点に関しては、精神科医の山登敬之さんが「発達障害から発達マイノリティへ」という提言をしています。以下、ビッグイシューのイベントで開催された講演から、内容を抜粋してご紹介します。
発達障害は『障害』でいいのか?『非定型発達』『発達凸凹』など色々な言葉があったが、『発達マイノリティ』がいいのではないかと考えた。
発達マイノリティは発達におきてマイノリティな人々。社会的に不便をこうむる、不自由を感じることがあるため、思いやりや社会的サービスといった配慮が必要。
基本は教育と福祉の問題で、医療は後方支援に回るべきだと考えている。障害という言葉にしてしまうと、医療に閉じてしまいかねないのではないか。こういう言葉にすると、世界が広がるのではないかと考えている。
発達マイノリティという言葉は、まだ認知されていない。自閉症という言葉は普及し、理解も進んでいる。発達マイノリティという表現は、病気という範疇に閉じ込めない効果があると考え、提案しています。
山登さんが語られている文脈としては「障害=医療で解決」から「マイノリティ=福祉&医療で解決」へ、という提言が色濃いようですが、この言葉の変化は、同時にショッキングさも軽減することになりうるでしょう。
冒頭の事件についても、言葉のショッキングさがなければ、もしかしたら本人も、社会も、過ちを起こすことなく受け入れられたのかもしれない、と淡い想像を止めることができません。
ぼくら市民が成熟し、「発達障害」について適切な理解と、その対策を用意できているのなら、言葉を変える必要はありません。しかし、現実にはこうして問題が起きているわけで、多方面からの対策が求められます。そのひとつとして、「言葉を変える」という選択肢は、個人的に十分ありうる方向だと考えます。
みなさんはご自分、ないしご自分のお子さんが「発達障害」だと診断されたら、どんな気分に陥りますか。または「発達マイノリティ」と診断されたら、いかがでしょうか。その上で、この社会には何が足りないと考えますか。ぜひコメントやツイッターでご意見をください。