勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり

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あまちゃん133話、クドカンの震災表現は秀逸

一見、ソフトな震災シーン

大人気のあまちゃん。北三陸編、東京編が終わり、今週からはいよいよ震災編?へと突入(ナレーションが宮本信子→能年玲奈→小泉今日子と変更されている)。これまで賑やかかつ陽気に繰り広げられてきたあまちゃんが、きわめて 悲惨な記憶が残る震災編をどう扱うのか。最後の一ヶ月、再び宮藤官九郎=クドカンの脚本と演出が問われることとなった。Twitterでも「見なきゃなんないのかぁ〜?」みたいな「怖いもの見たさ」的なツイートがなされているけれど、いったいどうするんだろう?

しかし、番組は進行し9月2日には震災日のシーンが展開された。僕はこの映像と演出を見たとき、「やっぱりクドカンは、スゴイ!」と唸ってしまった。見た目には実に地味でソフトな展開。震災の悲惨さを直接表現する映像は畑野トンネル(架空)から出てきた大吉(杉本哲太)とユイ(橋本愛)が目撃した、線路の瓦礫の山程度しかない。ところが、15分間にわたり、見ようによってはきわめて残酷なシーンばかりが繰り返されていたといえないこともない。とりわけ、これは震災に直接遭遇した人間には傷口をこじ開けられるように記憶がビビッドに再現されたはずだ(横で一緒に見ていたカミさんは絶句していた。カミさんも岩手県人なので)。

「えっ?あのソフトな、一見、被災者に配慮したような、暴力性が一切と言っていいほどない演出のどこが残酷なのか」

そう、家が津波で流されるようなシーンはまったく出てこないのだから(そのシーンをテレビ越しにGMT5のメンバーが見ているシーンだけだ)。

今回は、ちょっと「写真文化の変容」を一回だけスキップして、緊急に、こちらにを考えてみたい。もちろん、この秀逸なクドカンの演出をメディア論的に分析することで。

ドラマはひたすら地味で、一見、どうでもいいようなバカバカしい映像が展開される。まずトンネル内で停止した北三陸鉄道の車両のシーン。ユイの「何?何?」という台詞。そして状況を把握しようとする大吉。とりあえず地震なので自分に職務を遂行させようとしている。鈴木のばっぱが持っているゆべしを他のお客に分けてみたり。 奈落のシーンも同様だ。「あ、地震だ」程度の反応。そのあとのアキは地震よりも明日のお披露目ライブの開催について心配している。そして、安部ちゃんの炊き出し。いつもならまめぶを出すところを震災だからと言って、なぜか豚汁に変更。また電話がかかりづらかったり、GMT5のメンバー小野寺薫子(優希美青)家族の安否確認の様子が映されたり。こういった一連の映像は視聴者にどんな震災イメージを与えているのだろう。

ホットとクール

この映像を分析するため、メディア論では有名な「ホットとクール」という概念を用いよう。メディア論の父・M.マクルーハンはメディアを「ホットなメディア」と「クールなメディア」に分類する。分類基準は「情報の細密度」。細密度が高いのがホットで、低いのがクール、情報に対する補填度が低いのがホットで高いのがクール。でも、これじゃあなんだかわからないので、もう少し簡単に説明してみたい。

二つのメディアの分類は情報の受け手の情報への構え方で決まる。情報に対して、こちらがなんら解釈を加えることなく、すんなりと、そしてベタに情報を受け取っているとき、その情報=メディアはホットなメディアとなる。ちなみに、こういった場合、一般的に情報は「解釈」と言うより「解読」と呼ばれる。たとえばホットなメディア=作品の典型としてあげられるのは時代劇「水戸黄門」だ。見ている側が、この時代劇に独自の解釈を加えることはほとんどない。校門様ご一行がどこかの宿場町にたどり着くと、悪い奴(悪代官等)が善人を苦しめている状況に遭遇。自らはちりめん問屋のご隠居という隠れ蓑を纏いながら、助さん格さん、風車の弥七を内偵させつつ状況を把握、さらにお銀の入浴シーンがあり、そしてチャンバラシーンの後、印籠が登場して一件落着となるのだけれど、もう本当にベタな図式しか展開しない。だから、見ている側は自分からこの作品に情報を補填するなんてことは、まずしない(だから、お年寄りに受けるのだけれど。サスペンス劇場なんかもまったく同様だ)。

一方、クールなメディアはこれと正反対。送られてくる情報量が少なく、にもかかわらずこちらが情報を知りたいというニーズがあるため、受け手の方でどんどん情報を補っていこうとするようなメディア=作品だ。映画ならばその典型はS.キューブリックの『2001年宇宙の旅』だ。最初は類人猿がギャーギャー叫んでいたかと思うと、突然、宇宙船が現れ、石版が登場し、ひたすら光がきらめくシーンが10分近くにわたって続き、最後は胎児みたいなやつ(スターチャイルド)がR.シュトラウスの交響詩「ツァラトウストラはかく語りき」に合わせて登場して終わりという展開。とにかくわけがわからない。でも、なんかスゴそうだ。だから、見ている側としては「これは大きな意味があるに違いない」とイマジネーションを働かせ、それぞれが様々な解釈=想像=妄想を繰り広げていく。だから「情報の細密度」が低く、こちら側が「情報を補填する」となる。

あまちゃんの震災シーンはクール

あまちゃん133話での震災表現は徹底的にクールだ。言い換えれば僕らの震災に対するホットな感覚を徹底的に封印する。仮に一般のドラマが震災のシーンを再現したらどうなるかを想像してみて欲しい。おそらくテレビで流れた津波で家が流される映像(陸前高田、大船渡、釜石など)が使われるだろう。そして、地震が来たら登場人物が慌てふためいて「地震だ!」と叫び、「津波だ!」と叫ぶなんてシーンが展開される可能性が高い。ところがこれは、よくよく考えてみれば僕らがメディア越しに作り上げた震災のイメージの再現に他ならない。同様なものに、たとえば映画のアクションバトルシーンがある。相手を殴れば「バシッ!」という派手な音がして殴られた側が吹っ飛ぶ。しかし実際のバトルではこんなことはありえない「バシッ!」ではなく、「ゴン」と鈍い音がするだけだし、殴られた方は吹っ飛ばず、そのままゆっくり下にかがむみたいな具合にしかならない。言い換えれば、僕らはバトルシーンではメディア的に作られた架空のバトルという型=ホットなコードを共有し、それを消費していることになる(こういったホットな情報を満載させてバイオレンスシーンを演出するのに長けているのがQ.タランティーノだ)。で、さっきあげた架空の地震のシーンもこのメディア的な地震というホットなコードに基づいているものだ。そういったシーンが流されることで、ある意味、僕らは安心して震災のシーンを視聴することが出来る。無意識のうちに「お約束」を察知し、これが「娯楽である」と認知するのだ。

ところが、クドカンがあまちゃん133話でやったことは、このコードから逸脱する演出だった。演出がひたすら日常、つまり震災を経験した当事者たちが実際にどのように行動したのかに基づいてなされていたからだ。そして、その様々なバリエーションを登場人物を使って見せたのが133話だった。だから、とってもちぐはぐなシーンばかりが展開される。しかし、実際、震災を経験した僕らも、あのときは状況が把握できずちぐはぐな行動をとっていたはずだ。

僕らは日常の中に暮らしている。そして、その日常があたりまえのように進行している際には、その日常を意識することはない。ところがその日常=あたりまえが崩されたとき、われわれの中に日常が顕在化する。日常では理解できない状況が発生し、不安に陥る。ただし、ある意味「不安に陥っていることさえわからない」という不安定な状態。そんなとき、人間はその理解できない状況に対して日常的な行為を反復すること、つまり非日常に日常を覆い被せることによって対処しようとする。つまり情報密度が低すぎて状況把握が不可能なので、自らの日常的知識を活性化=顕在化させてこれを補填させ、環境と自分の関係化の複雑性を縮減し、安定化した状態に戻そうとする。133話で登場人物たちが演じたものはすべてこれだった。このときの「思い巡らせ」がクールなのである。

大吉の日常確保戦略

例えば大吉。大吉は震災の状況が読めず、自らが持っている日常のコードにこの非日常をあてはめようともがく。それが「落ち着け大吉。こういった時はお客さんを心配させてはダメだ」と、職務という日常への回帰を自らに働かせるのだ。ただし、やっていることはわけがわからない。鈴木のばっぱがゆべしを持っているので「食料もあります」と客にアナウンスしマヌケな職務遂行になってしまう。また、自らトンネルを出て行こうとするとき、やはりこの非日常を日常に戻すべく自らに働きかける。それが大吉をして「ゴーストバスターズ」を歌わせることになる。そう震災という非日常を必死に日常というコードに引き戻そうと情報補填=クールしているのだ。

安部とGMT5メンバーの日常回復をめぐっての駆け引き

奈落のシーンも興味深い。狂言回しは安部(片桐はいり)だ。彼女の炊き出しは、本来ならまめぶのはず。ところが、この日に限っては豚汁だ。これは、要するに「震災ならば豚汁」というホットな図式にあてはめ非日常を日常にひきずりこもうとする無意識だ(この時「震災ならば豚汁」はメディア的に媒介された「日常として描かれた非日常」と位置づけられる)。ところが、GMT5のリーダー・入間しおり(松岡茉優)が「なぜ豚汁なの。安部ちゃんならまめぶなのに」と突っ込みが入り、これに喜屋武エレン(蔵下穂波)がたたみかける。GMT5のメンバーにとって安部ちゃんとまめぶはセット=日常であり、安部が気を利かして、つまり「非日常の中の日常」として提示した豚汁よりも「日常の中の非日常」が日常化しているまめぶの方がかえって日常なのだ。だからGMT5のメンバーは豚汁が出されたことにかえって不安を覚えた。いいかえれば非日常の状況において日常に引き戻す作業=ホットに戻そうとクールになる作業が安部とGMT5のメンバーでは逆のベクトルを向いていたのである。結局は互いが違った解釈を持っていることを笑って、メタ的なレベルでの日常を取り戻すことになるのだけれど、そもそもこういった混乱が生じていること事態が、登場人物全員が日常を失い、クールになって非日常を日常に引き戻そうとしていることを表している。

視聴者の震災経験を再現

そして、こういった一連の非日常を日常に戻そうとクールになっている登場人物の描写は、一瞬コケティッシュに見えて、その実、視聴者に生々しい記憶を再現させる。つまり、あのとき、あなたの精神状態はどうだったのか?という「問いかけ」だ。ひたすら自らを日常に引き戻そうとしてはいなかっただろうか?そして、そういった精神の混乱をまざまざと再現する演出がこの133話だ。つまり僕らはこの映像の中からメディア的に使い古されたホットな震災を見るのではなく、描かれた「日常の中の非日常」を見ることによって、かえって自分があの時どうしていたのか、どういう精神状態になったのかについて想いをめぐらさせられることになる。そう、今度は視聴者の方がクールになって情報を補填し始める。小野寺家族のネットでの安否確認、電話は繋がらずメールが繋がったという状況は、そういったあの時の精神状態に視聴者を引き戻す小ネタだ。ようするに、この演出は、「作品」とこれを見ている「視聴者」が共同作業であの日、あの時のことを再現するような(しかも視聴者それぞれがそれぞれの経験に基づいて)仕組みになっているのだ。

それを象徴するシーンが冒頭の北三陸観光課のジオラマが崩壊しているシーンに他ならない。ジオラマの上に落ちてきているのは窓ガラスの破片。言うまでもなくこれは津波のメタファー。直接の映像ではなく、ジオラマとガラスで表現された津波。これこそ133話が僕らに突きつける311の「震災経験についてのメタファー」なのだ。

何気ない芝居の中から、悲惨な記憶を視聴者それぞれの経験に基づいて再現させるクドカンの演出。きわめて生々しく、残酷で、恐ろしい!そして、すばらしい!

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いい記事です。

2013/9/3(火) 午後 9:30 太郎

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本筋と外れたコメントですみません。
「クドカンの演出」を連発されていますが、『あまちゃん』においてクドカンが担当しているのは「脚本」であって、「演出」している人は別にいるのでは。
記事が、広ひ意味での演出を指して書かれていることは理解しますが、例えば普通に考えて、ジオラマによる表現などは、脚本家ではなく演出家の手によるものではないでしょうか。ゴーストバスターズにしても、脚本に既に書かれていたのか、現場の判断による演出なのかは判断しにくいところです。
なんでもかんでもクドカンの手柄にしてしまうのも演出家が気の毒なように感じました。 削除

2013/9/3(火) 午後 10:09 [ rainygreen ]

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