バチカン在勤時代

 人助けを惜しまず、晩年は日韓の友好親善に身を捧げた―それが外交官・金山政英氏の生き方だった。そんな人生を歩んだ金山氏が昨年11月、肺炎のためこの世を去った。享年88歳だった。
 金山氏は1934年3月に東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。フランスの日本大使館勤務などを経て、1941年2月、イタリアの日本大使館に着任。1952年7月に外務省本省に戻るまで、11年間バチカンに在勤した。この間、ローマ法王を通じて終戦工作に努めたり、イタリアを訪問する日本の財界人があれば、手厚く遇するなど、人と平和のために尽くした。戦中、戦後を通じて、イタリアを訪ねた数千人が金山氏の世話になったといわれる。

フィリピン在勤時代

 1952年9月、対日感情の険悪だったフィリピンに、マニラ在外事務所参事官として赴任した。マニラに程近いモンテンルパ刑務所には終戦から7年たった当時も、日本人捕虜100人以上が収容されていた。金山氏は毎週、刑務所を訪れては捕虜を慰め、いさかいがあればそれをなだめた。
 ある時、歌手の渡辺はま子さんが刑務所を慰問することになった。だが、フィリピン政府は当初、入国許可を出さなかった。渡航許可申請書に「渡航目的「戦犯」慰問」と明記してあったからだ。しかし、金山氏らの努力によって渡辺さんの入国が許可され、慰問が実現した。渡辺はま子さんはその時の様子を、自叙伝『あゝ忘られぬ胡弓の音』(戦誌刊行会)の中でこう書いている。
 「私は習い覚えた比島の歌、ビトウィンマサキット(輝く星)を歌った。比島人の女の看守が入ってきて私といっしょに歌った。皆も大喜びだった。最後に『モンテン』の歌の大合唱になったが、刑死された戦友を思い、声にならなかった。(中略)故国の安泰を祈り、いつの日か無事に帰れる事を祈りつつ皆泣いていた」
 日本人が捕虜を慰めただけでなく、金山氏は彼らを釈放するためにも力を尽くした。奇しくもバチカン在勤時代の知己・バニョッチ師が法王大使として同国に駐在中だった。金山氏は同大使の協力を得てキリノ大統領(当時)に捕虜の釈放を嘆願、金山氏の努力が実り、捕虜は全員釈放された。
 金山氏にとって法王大使の助けを得られたのは幸運だった。なぜなら、カトリックの国フィリピンにおいては、ローマ法王大使の影響力はきわめて大きいからである。

韓国在勤時代

 1968年6月、金山氏は駐韓日本大使に就任した。韓国に赴任して最初にぶつかった難題が、3・1独立記念式典に出席するかどうかだった。記念式辞ではいつも、日帝時代の悪政が糾弾されていた。出席すれば災難に遭ったり、罵倒されるかもしれなかった。だが、金山氏は駐韓大使として初めて出席した。金山氏はその時の心境を随筆「玄界灘のかけ橋」(「親和」誌1972年4月号)の中でこう書いている。
 「過去、日本官憲が犯したことは不幸にして悪いことであるに違いない。けれどもそれは過ぎ去ったことである。過去の過ちを悔い、これを越えて新しい善隣関係を打ちたてていかなければならない日本大使が、いつまでも韓国民の感情を刺激するのをおそれて3・1節記念式に出席しないならば、韓国政府や国民は、これをどのように受けとるだろうか」
 金山氏はこのように考えて、独立記念式典に出席した。しかし、意外にも韓国の人たちは金山氏の出席を歓迎したのである。それだけでなく、記念式辞では日帝時代の悪政に言及されることもなかった。金山氏は前掲の随筆の中で「国を奪われた時期に、国の内外で祖国独立のために命を捧げた愛国独立の志士の意志をたたえることは、あまりにも当然のことである。私は自分がその時、韓国のこの意義深い記念式に出席したのは、ほんとうによかった」と書いている。金山氏は日韓関係史上に新しい地歩を築いたといえるだろう。

韓国の芸術文化を日本に紹介

 次に遭遇した問題は、1970年3月に勃発したよど号ハイジャック事件をどう解決するかであった。羽田空港を飛び立った福岡行きの日航機よど号が、赤軍派9人にハイジャックされた。犯人は「北朝鮮に行け」と脅迫したが、石田機長は「北朝鮮に行くには燃料不足」として、いったん福岡空港に着陸、給油後、老人、女子供23人を降ろして離陸した。犯人にソウルと平壌を誤認させる作戦を敢行して、韓国・ソウルの金浦空港に非常着陸した。犯人たちはそこが金浦空港であることに気がつかないようだった。いかに事態を収拾すべきか、韓国政府の首脳たちは苦慮していた。その時、朴大統領(当時)が断を下した。
 「ここは平壌ではなく、大韓民国の首都ソウルであるという事実を知らせて犯人を説得し、乗客を降ろすことに同意すれば、飛行機はどこに行ってもよい」「もし最後まで犯人達が説得に応じず、乗客の生命に危険があれば、日本政府が責任をもって乗客とともに飛行機をどこにでも飛ばすようにしろ」。
 この朴大統領の指示を受けて、金山氏は人質の解放に全力で臨んだ。説得は2日間続いた。鬼気迫る金山氏の言葉に動かされたのか、犯人は説得に応じ、山村新治郎運輸政務次官を交代の人質として乗客は全員解放された。ソウルを離陸したよど号は、犯人を北朝鮮に降ろし、羽田空港に帰った。

日韓文化交流協会会長時代

 1972年3月に外交官を退官した後は、日韓の友好親善に努めた。1982年12月には日韓文化交流協会中央会会長に就任。日韓の友好親善を推進するには、まず多くの日本人が韓国を正しく理解することが重要だとして、定期的に文化交流訪韓団を派遣、その回数はこれまで160回に及び、延べ参加人数は2万人を超えた。
 優れた韓国の芸術文化を日本に紹介するため、韓国の代表的な少女民族舞踊団リトルエンジェルスや、「踊る東洋の真珠」とソウル新聞(1996年12月21日付)に絶賛されたユニバーサルバレエ団を日本に招聘、全国各地で毎年公演活動を行い、数万の人々に感動を与えた。
 第二次大戦中、日本軍によってサハリンに連行されたまま帰還できない韓国人男性の妻たちのために、無料で入れる老人ホーム・大昌養老院の建設に協力した。その建設費の大半は、金山氏自らが経団連や大手企業を訪問して集めたもので、総額は約1億1千万円に達した。
 1993年5月、金山氏は落成式後の談話の中で、老人ホーム完成の喜びをこう語った。
 「ただ良い目的だからといって盲信しただけでは出来ないのであり、善意の人たちの協力が必要であると思います。今後の老人ホームの設立には、そういう意味において、理想的な成果が得られたと考えます」。
 金山氏は善意に満ちた人だった。人のため、国のために生きた人だった。金山氏の遺徳は末永く人々に記憶され、その名は歴史に残るであろう。

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 金山政英氏の軌跡と業績をまとめた小冊子「日韓友好親善の架け橋」が刊行されています。希望者にはお頒けします。問い合わせは日韓文化交流協会、TEL 03-3331-4784もしくは問い合わせフォームにてご連絡ください。
 (日韓文化交流協会事務局長 浜中敏幸)

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