「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理( その 3 )
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   《  超常現象が発生するメカニズム
       超常現象、心霊現象、奇蹟、等々の不可解な現象は、願望が実現され
      る過程で付属的、従属的に発生する。また神の領域(曼荼羅図の中心部
      分)により近づいた人ほど、壮大な現象を発生させることが可能となる。そ
      して、そうした状況を意図的に創り出すことの出来る人が、超(霊)能力者
      である。   》


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  ○ 知りたいと思ったことが実現する現象(知慧の獲得)

  人は勉強や学習によって新たな知識を獲得し、先人たちが積み重ねた体系を、学問として身に着けます。そのために学校へ通い、塾に行って勉学に励みます。また成長に伴って、単に物事を記憶するだけでなく、一定の法則性に従って予測する能力も身に着けます。
  ただし、先人たちの残した知恵に限りがある以上、そこから先へ進むことは、かなりの困難が伴います。まだ誰にも知られていない知識を得るには、天才的な閃きが必要です。普通の人たちには絶対に乗り越えられない高い障壁が立ち塞がっています。
  従って、通常の考え方に従えば、我々は先人たちが残した智識・知恵の積み重ねの範囲内でしか、物事を知ることが出来ないということです。ここに学習の限界点があります。つまり、これまで誰も持っていない知識は、絶対に獲得することができないということです。

  ところが、そうした常識的な考え方が、必ずしも正しいとは言えない事態が起きていることも、また事実なのです。それは多くの宗教の教義の根底に据えられている知慧の体系です。たとえば旧約聖書の創世記に記されているようなものです。そこには、この世界の始まりの出来事が記されています。人類が、この世界に登場する以前の出来事が記されているのです。
  つまりそれは、先人たちの知恵の集積とは無関係なところから導き出されたものであり、まさに天の啓示によって授けられたものです。これは学習の限界点を超えた智識です。従って、そこにも、この「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理が機能していると考えられるわけです。


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  伝統的な宗教の開祖となった人たちは、いずれも厳しい修行によって意識的、精神的により高い境地に到達することを目指しました。そのために断食行を始めとする数々の難行、苦行を積み重ねました。肉体を極限まで駆使して、霊性を高める修行を積んだのです。その結果、遂に到達した世界が「悟り」の世界です。これは現実を超越した世界であり、言い換えれば、より神に近い領域にある世界です。
  もし曼荼羅図というものが、神の世界の全体構造を表わしているとするならば、彼等は、その中心部分に到達することを目指して修行を行ったことになります。実際の到達地点は人それぞれであるとしても、方向は同じであると考えられます。従って、彼等こそは、より神に近づいた人たちであると言うことが出来るわけです。

  そして彼等は、何もしない世間一般の俗人たちとは違って、時として様々な奇蹟を起こしたことが知られています。つまり常人では起こし得ないような、特異な現象を発生させたのです。
  それはイエス・キリストが起こしたとされる数々の奇蹟に代表されますが、釈迦やその他の聖人たちも、同様の現象を発生させています。従って、それは彼等が、神の世界に近づく過程で付属的、従属的に獲得した能力によるものであると考えられるわけです。つまり彼等は、超能力(神通力)を持っていたのです。より端的に言うと、彼等は、いずれも第一級の超能力者たちだったのです。

  また彼等は、当時の科学的な知識では、絶対に知られるはずのないことを知っていました。それどころか現代科学でも、まだ完全には解明されていないことまでも知っていました。
  たとえば「仏教」の開祖となった釈迦には、どうやらこの世界の仕組み・成り立ちが分かっていたようです。十方法界の思想や縁起の理法といったものは、この世界が成り立つ原因、由来を説いたものと考えることが出来るからです。つまり二千年以上も前に釈迦は、この世界がどのような要因で成立し、どのような理由で存在するのか、その原理・法則を知っていたのです。
  もちろんこれは最先端の素粒子理論である「超ひも理論」や、「M理論」のような科学的考察によって導き出されたものではありません。万有引力はもとより、共時性・同時性といった現象さえ知られていなかった時代のことです。地球が丸いことも、またその地球が太陽の周りを回っていることさえ知られていなかった時代のことです。
  そのような科学も文明もまだ未開に近い時代に、何故か十次元世界の存在や、リアルタイムで万物(森羅万象)のつながりを創り出す原因(=万有引力)と、その“力”の相互作用が知られていたのです。

  また聖者・アガスティアは五千年以上も前に、二十一世紀に生きる我々現代人の運命と宿命を知っていました。先に紹介した幾つかの事例からも、確かに我々は遠い過去からの宿命によって今のこの世界に導かれて誕生し、また持って生まれた運命によって、今現在を生かされていると考えざるを得ないのです。つまり我々は、この世界に生まれて来る以前から、すでに確定未来型の人生のプログラムを持っていたと考えられるのです。
  しかし、そうした運命にしても宿命にしても、今の我々には、半信半疑の状態でしか受け止めることができません。どうやらそうしたものがあることは間違いないように思えるものの、しかし現実のものとしては、それを受け入れることが出来ないのです。
  それは我々が、運命や宿命といったものを決定するものが果たして何なのか、その基本的な部分を知らないからです。そうしたものを生み出すあちら側の世界に存在するはずの原理・法則を理解していないからです。
  おそらくアガスティアには、その基本的な部分が解っていたのです。我々がこの世界に生まれて来る必然性と、生まれて来る原因・理由に、どのような原理・法則が働いているかを知っていたのです。そして、その原理・法則に則って、後世の人たちの宿命と運命とを記した予言書を残したのです。それが「アガスティアの葉」と呼ばれるものであり、二十一世紀の我々現代人にも通用する運命と宿命の書なのです。

  さらに『旧約聖書』の原著作者たちは、我々がいるこの世界が創られた時の状況を知っていました。現代科学がようやく解き明かした「ビック・バン」に始まる宇宙の起源を、数千年も前の人たちが知っていたのです。
  創造神が発した「光あれ」の言葉によって、一体何が起きたのか。当時の科学的な常識では絶対に知られるはずの無いことが、何故か彼等に知られていたのです。さらにどのようにして今のような環境の地球が出来上がったのか、そのことも彼等は知っていたのです。
  ごく最近、ようやくその存在が確認された“真空の力(エネルギー)”が機能して、瞬間的に宇宙の膨張が起きたことが、すでに彼等には知られていたのです。またどのようにして各惑星が誕生し、いかにして衛星(月)の分離が行われたか、さらには植物の発生から原始生物の誕生、そして最終的に直立歩行の我々人類が誕生するまでの一連の経過が、数千年も前の人たちに知られていたのです。

  そして、これ等を究極の過去の出来事としたときに、釈迦やイエスキリストは、究極の未来の出来事を知っていました。今のこの世界が終わる時に、全宇宙的な規模で天体の大異変が生じることを知っていたのです。世界の終わりの時に発生する壮大な現象が、今まさに眼前で起きているかのように語られたのです。


  これ等はいずれも当時の人たちの知識では、絶対に知られるはずの無いものです。先人たちの知恵の積み重ねが存在しないからです。おそらく当時の一般の人たちには、想像することさえ出来なかったに違いありません。
  その絶対的に知られるはずの無いことが、何故か知られていたわけです。しかも、今日の最先端の科学でも、未だに完全には解き明かされていないことまでもが、すでに知られていたのです。このことを、どのように考えたらよいのかということです。

  もちろんこれも一部の科学者のように、単なる偶然の産物、極めて小さな確率で生じた偶然の符号として片付けてしまえば、これ以上の進展は何もありません。
  どこまで行っても、たまたま発生した偶然の一致に過ぎないということになるからです。古代の人たちの空想と妄想の産物が、たまたま現代科学が導き出した結果と符合したに過ぎないということになります。その結果、確率論としての天文学的な数字が並べられるだけで終わってしまいます。

  しかしこれも、これまでと同様に「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理が機能した結果であると考えると、状況が一変します。世界観が百八十度変わります。つまり彼等は、「知りたい」という願望が実現された結果として、それ等の知識を獲得したのであるということになるからです。
  つまり釈迦は常々、この世界の成り立ち、仕組みを知りたいと思っていたのです。聖者・アガスティアは、人がこの世界に生まれて来る原理・法則を知りたいと思っていたのです。旧約聖書の原著作者たちは、この世界がどのようにして創られたか、原始宇宙の誕生からの歴史を知りたいと思ったのです。釈迦もイエスキリストも、この世界の終わりの時の様子を知りたいと思ったのです。

  そして、それ等の願いが叶えられたことによって、彼等は、それらの知識を得ることが出来たのです。つまり、幾つもの段階を積み上げていく科学的な考察によらずに、それ等の智識を神(天)から授かったのです。天恵の知慧として獲得したわけです。


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  さて、ここに至った時に誰もが抱く疑問は、本当に、そのようなことが起こり得るのかということです。たしかにそうしたことが起きたからこそ獲得できた知慧であるとしても、現実にはなかなか受け入れ難い側面があることも確かです。たいていの人たちが神(天)から授かった知慧などは、経験したことがないからです。従って、このことを裏付けるような具体的な事例が、何か無いかということになります。
  そこで調べてみると、実は「臨死体験」を経験した人たちに、このことを裏付けるような出来事が発生しているのです。それは滅多に起きないこととは言え、確かに起きているのです。その事例によって、この考え方の正当性が裏付けられます。否、たとえ完全な裏付けとはならないまでも、かなり高い蓋然性が付与されるということです。


  立花隆氏の『臨死体験』(文芸春秋社)の中に、ある人の貴重な体験談が記されています。その人は、大学教授という社会的にも信用される職業に就いている人物であり、決して怪しい証言ではないことをお断りしておきます。

  第十六章 水晶玉物語に、ワシントン大学医学部教授のキンバリー・クラーク・シャープという女性の体験談が紹介されています。
  それは彼女が、まだハイスクールに通っていた頃に起きた出来事でした。彼女は突然、気分が悪くなると同時に、呼吸困難に陥りました。救命処置の手違いなどもあり、消防団の人からは、死亡が宣告されました。
  その時に、次のような体験をしました。


  『 その間にわたしは臨死体験をしていたわけです。< ーー 途 中、省 略 ーー > それから急に、今度はわたしは、深い霧の中にいました。まるでB級映画の“あの世”みたいでした。霧のほかには何も見えませんでした。時間の感覚がなく、まるで永遠の中にいるみたいでした。< ーー 途 中、省 略 ーー >
  つづいてわたしの下のほうから、強烈な光が噴出してきました。すさまじい光のエネルギーがわたしを包みました。光は愛に満ちて、わたしに焦点が合わされていました。光は信じ難いほど明るく輝いていました。< ーー 途 中、省 略 ーー >
  この光が神なのだわとわたしは思いました。わたしは神のみもとに戻ってきて、家に帰ってきたような懐かしさでいっぱいになったのです。それと同時に、わたしは完全な知識を得ました。わたしが知りたいと思っていたことを全て知りました。それまで難しくてとてもわからないと思っていたことまで、何もかも知りつくしました。わかってみると、全てはシンプルなのだということが分かりました。それからわたしは、おまえはまだ若いから戻らなければならないといわれました。ーー 以下、略 ーー 』

           ( 『臨死体験』立花隆著(文芸春秋社) 第十六章 水晶玉物語 より )


  この女性は、その臨死体験中に、
  『 わたしは完全な知識を得ました。わたしが知りたいと思っていたことを全て知りました。それまで難しくてとてもわからないと思っていたことまで、何もかも知りつくしました。わかってみると、全てはシンプルなのだということが分かりました。』
  という経験をしました。
  つまり、知りたいと思っていたことを全て知るという現象が起きたのです。

  ただし、この時に彼女が獲得した知識は生還後、すべて失われてしまいました。この時に体験した記憶が、なぜかすべて失われていたということでした。その記憶は、六年後に、ある切っ掛けで思い出します。そして、失われていた記憶を手繰っていったときに、上記のような出来事を思い出したのです。


  また、この『臨死体験』の中には、さらに次のような事例も紹介されています。
  ノーザン・ケンタッキー大学の芸術学部の主任教授をしている画家で、ハワード・ストームという人の体験談です。やはり臨死体験をした時に起きた出来事です。
  次のようなものでした。ここでは、必要な部分だけを紹介させていただきます。


  『 そのころ私は、完全な物質主義者で、無神論者でした。神とか、魂とか、そういうものは一切信じていませんでした。真理はすべて科学によって与えられると信じていました。非科学的なものは、一切認めませんでした。 ーー 途 中、省 略 ーー 。
  体験は八五年の六月一日の土曜日、フランスのパリで起こりました。十二指腸に穴があいて、消化液がもれ出し、私の体を内部から消化しはじめたのです。ーー 途 中、省 略 ーー 。

 「神に祈れ」という声
  どれくらい気を失っていたのかよくわかりませんが、ふと目をさますと、私は自分のベッドのわきに立っており、ベッドの上には私が寝ていました。とても信じられないことでした。ーー 途 中、省 略 ーー 。

  愛と善と知識
  星のような存在に近づいたところで、私と私を支えている何者かは止まりました。するとその星のような存在が集まってきて、私たちを取り囲むようにしました。 ーー 途 中、省 略 ーー 。
  人生回帰が終わったところで、彼らは「なにか質問はないか」と聞きました。私は「沢山ある。数え切れないほどある」といいました。すると「何でも教えてやるから、何でもきいてみろ」というので、私は考えつく限りの質問をしました。彼らはどんな質問にも答えてくれました。何でも知っていました。まるで幼稚園の生徒と先生くらいの知識の差がありました。このやりとりはものすごく長くつづきました。何時間つづいたかわかりません。この間に得た知識は、私の大学時代、大学院時代、それにその後の七年間に得た全知識よりはるかに大きなものでした。 ーー 以下、略 ーー  』

             ( 『臨死体験』立花隆著(文芸春秋社) 第十章 色を聴く より )


  この男性の場合も、臨死体験中に、
  『 私は考えつく限りの質問をしました。彼らはどんな質問にも答えてくれました。 ーー 略 ーー この間に得た知識は、私の大学時代、大学院時代、それにその後の七年間に得た全知識よりはるかに大きなものでした。』
  という体験をしたのです。

  つまり、ここでも、かねてより知りたいと思っていたことを、すべて知るという現象が起きたわけです。ただしこの場合は、星のような存在から、それ等を教えられたということです。第三者が関わったようになっていますが、実際に起きた内容は上に紹介した事例と同じです。
  そしてこの場合も、どうや具体的な記憶は何も残されなかったようです。強い印象として、その時の出来事だけが残ったのです。ただしその後、かつては難しすぎて手にとることもなかった哲学書などが、スラスラと頭に入るようになったということです。


  以上の事例は、様々な智識を神(天)から授かるといった現象が、実際に起こり得ることを示しています。ただし、そこには各宗教の教祖となった人たちが悟りの境地に入って獲得した知慧とは、決定的な違いがあるようです。
  つまり、悟りの境地に入った人が獲得した知識・知恵は、この現実の世界に持ち帰ることが出来るものの、臨死体験によって獲得した知識は一時的なもので、それは見えない壁に遮られて、こちら側の世界へ戻る際に失われてしまうのです。いったんは智識として獲得しても、実際には自分のものになっていないのです。
  もし、すべての知識を持ち帰ることが出来たら、新たな宗教指導者が続々と誕生するに違いありません。しかし、簡単にそうはならないようなシステムが存在するのです。やはりあちら側の世界にある知慧を持ち帰るには、厳しい修行・鍛錬が必要であるということです。


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  我々はこれまで、先人たちが積み重ねて来た知識・知恵の体系を勉強・学習することにより、それを学問として身に着けて来ました。
  ところが上に紹介した事例は、智識や知慧はもともとあちら側の世界に存在しており、知りたいと思った時には、それを知ることができる構造になっていることを示しています。つまり我々が努力して身に着ける知識や知恵はこちら側の世界にあるのではなく、すべてあちら側の世界に存在しているということです。
  すると我々が努力して学ぶこととの関係は、一体どのようなことになるのかという疑問が生じます。我々は確かに自分の頭で考え、少ない脳細胞を駆使して、様々な智識や情報を取り入れています。そうして獲得した知識・情報と、あちら側にもともと存在する知識は、一体どのような関係になるのだろうかということです。

  そして、ここで思い起こす必要があるのは、我々の記憶が脳の中に何らかの化学物質の堆積物として存在するのではなくて、すべてあちら側の見えない世界に存在するということです。これは前に、『 人の「記憶」はどこにあるのか 』で紹介したものです。
  つまり我々の脳は、次元の壁を超えてその領域とつながっているのであり、思考もまた次元を超えて行われているということです。要するに脳の中にあるニューロンや、シナプスは、次元の壁を超える働きを持っているわけです。

  そうした前提を踏まえるならば、我々が学習によって智識を獲得するということは、あちら側の世界にある膨大な智識・知慧の集合体の中から、その一部を複製・転写して、自分の領域に取り込む作業であるということになります。そうして取り込んだ智識だけが、自分の記憶として呼び戻すことが出来るのです。

  しかし実は、その智識の集合体の本体部分に直接アクセスすることが出来れば、そこにある智識も、知慧も同様に、自分のものとして呼び出すことが出来るということです。つまり、そうして得られた知識が、各宗教の教義の根底に据えられている知慧の体系であるということです。

  すると、それは各宗教の教義でありながらも、実は、この世界の真理を説いたものであるということが出来ます。言い換えれば、それは現代科学がまだ解き明かしていない究極の真理であるということです。
  以前、各宗教の教義の根底には、未来の科学が含まれていると申し述べたのは、このことを指します。そこには最先端の現代科学でも、まだ完全には解明されていない内容が含まれているということです。


            ――――  次回に続きます。  ―――



                             2004.  6.  13.        店主記す




 



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