「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理( その 4 ) ――――――――――――――――――――――――――――― 《 超常現象が発生するメカニズム 超常現象、心霊現象、奇蹟、等々の不可解な現象は、願望が実現され る過程で付属的、従属的に発生する。また神の領域(曼荼羅図の中心部 分)により近づいた人ほど、壮大な現象を発生させることが可能となる。そ して、そうした状況を意図的に創り出すことの出来る人が、超(霊)能力者 である。 》 *** -- *** ○ ○ *** -- *** さて、前回までの考察によって見えない世界、すなわち次元を超えたあちら側の世界には、願ったことが叶えられるという基本原理・法則が機能していることが分かりました。そのような一見、突拍子もないような原理・法則が機能していることによって、我々がいるこの現実の世界で、時として不可解な現象が引き起こされるのです。最先端の現代科学でも説明することが出来ない不思議な現象が発生するのです。 そして、釈迦やイエス・キリストや他の聖人たちの事例で分かったことは、より神の領域に近付いた人ほど、壮大な現象を発生させることが出来るということです。彼等が時として人智を超えた能力を発揮することが出来たのは、何もしていない一般の人たちよりも、より神の領域に近付いた人たちだったからです。厳しい鍛錬や修練を積み重ねることよって、悟りの世界、すなわち神の世界の入り口に到達することが出来たからです。曼荼羅図の片隅に、釈迦の象が描かれているのは、そのことを現わしています。 そして、こうした認識に立ったときに、それならば神の領域のさらに中心部に近い存在が引き起こすに現象は、どのようなものがあるかということになります。つまり我々が、“神”と呼んでいるものが引き起こす現象が、何か、具体的にあるのではないかということです そこで思い起こす必要があるのが、旧約聖書に登場した“ 目的神 ”というものの存在です。我々がいるこの世界は創造と破壊を司る神、すなわち天地の創造を司る神によって創られました。いわゆる「創造神」と呼ばれるものが存在すると考えられたわけです。 それと同様にして、一定の目的を実現するための様々な神々が、“力”として存在するのではないかということです。人の場合は霊的な存在に対して、“ 意識主体 ”という言葉を使いますが、同様にして、神的意識主体というものが存在するということです。そのような神の領域に存在する一定の目的をもった意識主体が、この現実の世界で“力”として働きかけたときに、果たして何が生じるかということです。 その“力”について、具体的な名称を列挙してみると、およそ次のようなものがあげられます。 『愛の女神』 『自由の女神』 『真理の女神』 『善の女神』 『美の女神』 『勝利の女神』 『幸運の女神』 など、など。 ( これ等はなぜか女神のイメージで捕らえられていますが、必ずしも男女に分ける必要性はないように思われます。) この他に、『 仁 』 『 義 』 『 礼 』 『 智 』 『 忠 』 『 信 』 『 孝 』 『 悌 』 など、など。 ***** ○ **** * ○ * **** ○ ***** ○ 創造神〔 光の世界の創造 〕 『旧約聖書』の冒頭部に記されているように、創造神はこの世界を創るに際して、段階的に様々な言葉を発しました。創造神が発したその言葉は、神の領域に存在する霊、すなわち神的意識主体の願望(願い)であったと考えることが出来ます。 つまり「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理・法則が存在するために、各段階に応じて創造神は、それぞれの言葉(願望)を発するだけでよかったのです。その願望が実現されたことにより、今我々がいるような現実の世界が創造されたのです。今のような宇宙環境、地球環境の世界が出来上がったのです。 創造神はまず、 『光りあれ』 という言葉(願望)を発しました。 その言葉(願望)は、「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理によって、ただちに現実のものとなりました。つまり『ビッグバン』という壮大な現象が発生して、現実の世界であるこの“ 光の世界 ”が創られたのです。 『こうして光りがあった。神は光りを見てよしとされた。』 というのは、まさしくその言葉(願望)通りの世界、すなわち光の速さで展開して行くこの三次元の世界が創造されたことを表わしています。 次に、創造神は、 「光と闇を分け」 「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」 「天の下の水は一つ所に集まれ」 といった幾つかの言葉(願望)を発しました。それ等の願望も、「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理・法則によって、ただちに実現されました。 さらに創造神は、次のような言葉(願望)を発しました。 「乾いたところが現れよ」 「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果実を、地に芽生えさせよ。」 「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」 「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」 「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 「地はそれぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」 これらの言葉(願望)も、すべて「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理・法則によって、ただちに実現されました。こうして現在のような環境の世界、すなわち全宇宙が創造され、また現在のような環境の地球が誕生したのです。 しかも150億年前に「光あれ」の言葉で始まったこの世界は、今現在も創造神が発する言葉(願望)の通りに進行し、展開を続けているのです。ただし、最後に「光よ消滅せよ」或いは「無に帰れ」または「再び闇に戻れ」の言葉(願望)によって、この世界は消滅へと向かうのです。我々がいるこの現実の世界は、その単純な繰り返しなのです。 ( ですから、その「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理・法則を創り出したものが、まさしく神そのものであるということになります。) また神の領域に存在する意識主体も人の霊と同様に、勝手に人格化して人間に憑依することがあるとすると、いわゆる『神の化身』と言われるものの存在が理解しやすくなります。たとえばイエス・キリストのように愛を司る神が人格化して、人間であるイエスと一体化したとすれば、イエス・キリストの様々な言動が愛に満ちていたことの正当な説明になります。 また聖者サイババが、創造神であるシバ神と一体化したとすれば、サイババという人が物質化現象を引き起こす能力を持っていることが不思議ではなくなります。創造神の能力を持ってすればビブーティと呼ばれる聖なる灰も、アムリタと呼ばれる液体を創造することも容易であり、まったく疑う必要がなくなるわけです。指輪やネックレスも同様です。つまり、通常では起こり得ない「無から有」が生じる現象が、納得出来てしまうということです。 ○ 美の女神〔 美の創造 〕 他の様々な神々も勝手に人格化して、人と一体化し、その能力を発揮することがあると考えられます。たとえば『美を司る神』が、人類の女性と結合することによって、美しい肉体を持った女性たちが創られると考えると、女性の肉体美の由来が理解しやすくなります。つまり、それは「美の女神」が、本来の目的(願望)に基づいて創り出す現象であるということになるからです。 『旧約聖書』の6 ・1 には、神の子らが、美しい人の娘たちを妻にする話が記されています。そこには、 『 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。』とあります。 ただし主によって、人の一生が、120年と決められます。その理由としては、 『 わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』となっています。 ここでいう人というのは神の分身としての人ですから、あちら側の世界に存在するものですが、同時に、我々人類を指します。その人類の娘たちが、美しくなったということです。具体的には、全身を蔽う体毛が減少したことを指します。つまり類人猿のような多毛人種から、皮膚の露出した今のような美しい肌の人類に変化したということです。 それには太古の地球環境に、何らかの変化が生じて、地球全体の気温が低下したことが考えられます。つまり保温のために衣類で、身体を蔽う必要性が生じて、結果的に体毛が少なくなったのです。 その美しい娘たちを神の子らが妻にしたというのは、若い女性の肉体美がさらに洗練されたことを現わします。つまり、発情期の類人猿が持つお尻の膨らみが胸の乳房に変化して、しなやかな曲線美の肢体が創られ、また皮下に多くの脂肪を蓄えることにより、丸みのある滑らかな皮膚を有する肉体が創られたのです。 これらは何れも、美の女神が創り出した現象です。つまり“人”と美の女神との一体化(結婚)が生じたことによって、この現実の世界で、美しい女性たちの肉体美が創り出されたのです。 ただしその年数が120年と限られたのは、人間が物質的に、滅びる存在であることを現わしています。つまり、女性の美しい肉体は、若い間のわずかな期間しか続かないということです。 それが120年となっているのは、他の先人たちの生存年数を基準にしているためであり、実際の年数ではありません。アダムは930年、セトは912年、エノシュは905年生きたことになっています。その年数に対しての120年です。 仮に現代人の平均寿命を90歳として換算すると、11年から12年といったところです。具体的には番茶も出花の十五〜十六歳から、二十七〜二十八歳までが、肉体的に最も美しく輝く時期であるということです。残念ながらその期間しか、美の女神は、女性の肉体に留まらないということです。 また美を創造する神は偏在であり、この世界のありとあらゆるものに対して、“力”として働きかけていると考えられます。従って、大自然の美は、人が美しいと感じるから美しいのではなく、美を創り出す“力”が働くことによって創り出されるから美しいということになります。 要するに、初めから厳然として“美”が存在するのです。また芸術家は、この神と精神的に結び着くことによって、様々な美術作品を生み出すことが出来るのです。 芸術作品として生み出された絵画、彫刻、音楽は見る人、聴く人に感動と安らぎを与えます。詩や短歌が作り出す世界も同様です。文字を通して創り出される世界でありながら、読んだ人々を感動させます。やはり言葉が作り出す美の世界があるからです。 ( それと同様にして、小説もまた、独自の美の世界を創り出します。ただし小説の場合は創作の過程で、どうしても作者自身の意思が入り込んでしまいます。そのために、完全に独立した作品世界を創り出すことが困難です。つまり創作の過程で、どうしても「我(私)」というものが作品の中に取り込まれてしまうために、完全に独立した小宇宙を形成することが出来ないのです。完成後も作者と繋がったままなのです。そのために自己完結することが出来ないのです。 その弊を取り除くために、夏目漱石が編み出したのが、「則天去私」の手法だったのです。 これは小説という文学作品を作者本人から切り離して、完全に独立した世界を創り出すための手法であり、同時に、一つの世界観でもあったのです。つまり、この現実の世界と同様に、書き始める以前に、最後の結末までが出来上がっているという創作技法です。 そのための思想であり、文学作品である小説を、完成した一つの芸術作品にするための技法なのです。 例の未完に終わった『明暗』は、そうした書き方がされた作品だったのです。それ故に、結末の予測が可能になるのです。) 美は、それ以外の様々なところに見ることが出来ます。スポーツでも、記録的な成果が出た時のフォームには、美しさが備わっています。力と技を生み出す男性の筋肉美も創られます。 華道や茶道、日本舞踊、ダンス、歌、声楽、こうしたありとあらゆるものが、美を作り出す神の関与によって聴いて、見て、感じて、心地よいものに仕上げられているわけです。 さて、従って、それ以外の様々な抽象的な概念、すなわち正義、真理、善、自由といったものも、それぞれの神々と結びつくことによって創り出されるということになります。すなわち、それぞれの神々が創り出す“力”によって実現される現象であるということです。 それが具体的にどのようなものを指すかは、いずれまた機会がありましたら申し述べることにします。 ―――― 次回に続きます。 ――― 2004. 10. 28. 店主記す |