「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理( その 2 ) ――――――――――――――――――――――――――――― 《 超常現象が発生するメカニズム 超常現象、心霊現象、奇蹟、等々の不可解な現象は、願望が実現され る過程で付属的、従属的に発生する。また神の領域(曼荼羅図の中心部 分)により近づいた人ほど、壮大な現象を発生させることが可能となる。そ して、そうした状況を意図的に創り出すことの出来る人が、超(霊)能力者 である。 》 ○ 思考・記憶の世界に働く“力” 《 一時的な記憶の欠落、「度忘れ」が発生する原因 》 精神世界の出来事である思考や、記憶は直接手で触れたり、目で見たりすることが出来ません。従って、あちら側の世界で起きている出来事ということになります。つまり、三次元の物理法則に支配されない世界の出来事であるということです。ただしそこで起きていることは、多くの人たちが実際に体験していることですから、否定することの出来ない事実として受け止めることが出来ます。 以前にも申し述べましたように、思考や記憶の世界では「万物(森羅万象)は“リアルタイム”でつながっている」という基本原理が機能しています。( この基本原理はもちろん我々がいるこの現実世界でも、同様に機能しています。共時性・同時性といった現象が発生するのはそのためです。) そして、この原理・法則が、我々の心の世界(=精神世界)で機能していることにより、我々は、忘れていたことを思い出すことが出来るのです。精神分析の技法である自由連想法は、そうした原理・法則が存在することにより成り立ちます。要するに、我々の心というものを形作る精神世界では、あらゆるものが相互に関連付けられており、巨大なネットワークになってつながっているのです。それ故に無意識界に隠蔽された記憶を、意識界に残されている断片から、芋づる式に手繰り寄せることによって表層部に引っ張り出すことが出来るのです。つまり忘れていたことを、思い出すことが出来るわけです。 同様にして、これは多くの人たちが普段は気付かずに、うっかり見過ごしていることですが、思考や記憶の世界には一定の方向性を持った“力”が働いています。それは「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理に基づく“力”です。 具体的には、「今は、そのことを思い出したくない」 「しばらくの間、そのことに触れたくない」という感情に由来する願望(想い)です。そうした願望(想い)を実現する“力”が、我々の心(=精神世界)の中で働いているのです。つまり、そうした“力”が我々の精神世界で普遍的に働いていることによって、我々は日々の生活を平穏に過ごすことが出来るのです。もしこの機能が働かなかったら、我々の思考は大混乱に陥るからです。 思い出したくない嫌なことを次々に思い出せば、考えることが嫌になります。分かり易い喩え方をすると、四六時中フラッシュバックと同じ現象に悩まされることになるからです。かつて体験した苦痛や、悲しみまでがそのまま蘇えるのです。そんな状態では、生きていることさえ嫌になるでしょう。従って、これは人が生きて行く上で必要、且つ不可欠な機能なのです。ただしその機能に異常が発生したときには、かなり厄介な精神症状が引き起こされることになります。それは精神医学の領域に入る障害です。 次に紹介する事例は多くの人たちが、実際に体験している出来事です。日常生活に於ける一時的な「度忘れ」は、誰もが、ほぼ一様に経験することだからです。 人と話をしていて、目的の言葉が喉元まで出かかっているのに、なぜかそれが思い出せなくてイライラするといったことは、たくさんの人たちが経験しています。従って、これは条件さえ整えば、すべての人に起こり得るごくごく身近な出来事であると言えるわけです。 * フロイトは、『生活心理の錯誤・第二章 外国語の単語を度忘れする場合』の中で、自分自身の体験談として、次のような出来事を紹介しています。 ある時、旧知の若い男と再会したフロイトは、行きづりのよもやま話の中で、その男が叙事詩の中の不定代名詞『 aliquis 』という言葉を度忘れしたことから、その分析を開始することになります。 そして、その若い男が、ある女性から非常に嫌な知らせが来ることを、怖れていることを知ります。もしかするとその女性が、妊娠しているかもしれないのです。 フロイトは、その男性が度忘れした不定代名詞『 aliquis 』という言葉に関連して、『Reliquien・聖遺物』 ⇒ 『Liquidation・液化』 ⇒ 『Flu:ssigkeit・液体』 = 『幼くして犠牲にされた(堕胎を連想させる)聖・ジーモン』 という一連の連想が働いていることを証明します。(ここに行き着くまでの詳細は、かなり入り組んでいますので省きます。興味のある方は、ご自分で原本を当たってください。) つまり、そのような思考のつながりがあることによって、『 aliquis 』という言葉が、結果的に意識の中から消されて、一時的な言葉の「度忘れ」という現象が引き起こされたというのです。 そして、結論として、 『 追いのけられた心理内容から来る内面的な抵抗のために思考内容が妨害される場合がある。』 という定義を導き出したのです。つまり、思い出したくないことがあるために、それに関連する言葉までが思い出せなくなる場合があるということです。一見、単純に見える「度忘れ」にも、その背景にはこうした原因が隠されているのです。 ( 『生活心理の錯誤』フロイド 浜川祥枝訳 日本教文社 より ) * また、『第一章 固有名詞を度忘れする場合』の中では、次のような出来事を紹介しています。 ある時、フロイトは「最後の審判」という壁画を描いた『シニョレルリ・Signorelli』という作者の名前が、どうしても思い出せなかったということです。そしてそのかわりに、どういうわけかしつこく思い出してしまうのが、『ボッテチェルリ・Botticelli』 と 『ボルトラッフィオ・Boltraffio』という、同じく画家の名前であったということです。 ( この二つの名前が登場してくる過程は、かなり煩雑ですから、ここでの説明は省きます。興味のある方は、ご自身で原本を当たってください。) そして、このようなまったく関係のないものが、なぜ、しつこく思い出されて来るのかということを探ってみると、その原因となったものは、少し前に『トラフォイ・Trafoi』というところに滞在していたときに受け取った、あるショッキングな知らせであったことに気付きます。 その知らせというのは、彼を手こずらせていたある患者が、性的な障害を苦にして、自殺したというものでした。 つまり、この悲しむべき知らせを意識的に払い除けて、忘れようとしたために、それに関連するものが、「度忘れ」という現象となって現れたのです。 そして、その代用品として、そのことに関連する二つの固有名詞が、本来の目的物とはややずれてはいるけれども、まったく無関係ではないものとして選別されて登場して来たというわけです。 ( 同 上 ) 上に紹介した二つの事例は、フロイト自身が実際に体験したものです。そして、その解釈も自分自身でつけています。ですからこの一連の考察の過程は、正当なものであると考えてよいでしょう。つまり思考・記憶の世界には、一定の無意識的な“力”が機能しているということです。この場合の無意識的な“力”というのは、本人の意思とは無関係に働く“力”という意味です。その結果発生する現象が、一時的な記憶の欠落、即ち「度忘れ」であるということです。 ところで、このことを合理的に理解するには本来、二つの大前提が必要となります。それが先に紹介した「万物(森羅万象)は “リアルタイム” でつながっている」という基本原理と、今回の「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理です。この二つの原理・法則を前提としたときに、なぜそうしたことが生じるのかが合理的に理解できるのです。具体的には、こういうことです。 最初の事例では、若い男は自分が関係した女性が、妊娠している可能性を怖れていました。その結果によっては最悪の場合、「堕胎」という選択肢さえあり得るからです。それはかなり不愉快な事態であり、気の滅入る出来事です。そこでしばらくの間、そのことを忘れていたいと思いました。つまり当分の間、そのことを思い出したくないと考えたわけです。これもやはり「願望(想い)」の一種です。 それによって、“ 堕胎 ”という言葉と相似・類似し、連想によって強く結び着いている不定代名詞、『 aliquis 』という言葉の「度忘れ」が発生したのです。つまり、本人さえ気付かない無意識的な“力”が機能したことによって、思考のネットワークで関連付けられている様ざまな言葉が、意識界から消去されたのです。『 aliquis 』という言葉は、その中の一つだったのです。 二つ目の事例では、フロイトは「性的な障害を苦にして自殺した人物」のことを、当分の間、忘れていたいと思いました。少なくとも今は、その人物のことを思い出したくないと考えたわけです。 それによって記憶の中から、その人物に関係する言葉がすべて消去されました。実際にその旅行中は、その人物のことを思い出すことが無かったと、フロイト自身が述懐しています。ただし、その人物のことを思い出さないようにするためには、その人物に関連する情報もすべて消去する必要性があります。それによって一見、直接的にはなんの関係も無いようにみえるものまでもが、記憶の中から消し去られたのです。 その代わりに、本来の目的物とはややずれてはいるけれども、まったく無関係ではないものとして、そのことに関連する二つの固有名詞が浮上して来たのです。つまり『トラフォイ・Trafoi』という地名を隠蔽するために、この言葉に一部分が類似する『ボルトラッフィオ・Boltraffio』及び『ボッテチェルリ・Botticelli』という言葉が、意識の表層部に呼び出されたのです。 これは心という装置の奥深くに仕掛けられた、巧妙なトラップです。思い出そうとする正の願望と、今は思い出したくないという負の願望が拮抗することによって、両者を同時に満足させるための偽装です。意識界からの正の願望を無視することは出来ないものの、かといってそれを満足させれば、精神世界の平静さが損なわれます。場合によっては、精神的な障害さえ発生します。もしフラッシュバックが起きれば、苦痛が伴います。そこで周辺にある言葉を表に出して、目的となる言葉をブロックして隠しているわけです。 要するに隠しておきたい言葉を、表面に出さないようにするための巧妙な防御機能なのです。しかもこれは本人の意識や、思考とは別のところで行なわれている巧妙な駆け引きです。言い換えれば、これも「心=精神」の世界に働いている目的を持った“力”の一つです。 以上のように、思考や記憶の世界では「万物(森羅万象)は “リアルタイム” でつながっている」という基本原理と、「願ったこと(夢)が叶えられる」という二つの基本原理が、同時に機能していることが分かります。そして状況に応じて、対象となる言葉や出来事を隠蔽するために、それらに関連する言葉が意識の表層から消去されてしまうのです。結果的に、一時的な記憶の欠落、即ち「度忘れ」という現象が発生するわけです。 これとは逆に、目的となる出来事を思い出そうとするときには、それに関連するものが意識の表層部に浮かびあがって来ます。そこから芋蔓式に手繰り寄せることによって、本来の目的のものを想起することが出来るわけです。自由連想法が成立する由縁です。 ところで、これと同様の考え方で、さまざまな精神疾患の原因を説明することが可能となります。つまりこの機能に、何らかの異常が発生したときに現われる症状が、さまざまな精神障害であるということです。 心因性健忘(解離性健忘)、心因性遁走(解離性遁走)、神経症、心身症、ヒステリーといったものは、いまだに治療することが困難な精神障害です。そもそも医学的には、原因さえ分かっていないのです。 しかしこれ等も、度忘れ、一時的健忘と同様のメカニズムで引き起こされている可能性があるわけです。つまり発生する原因の強さ、大きさ、規模、範囲に多少の違いがあるだけで、原理的には同じであろうと考えられるからです。要するに、意識的に思い出すことが出来ない記憶が、それ等の原因を創っているということです。ただし、その根本的な原因が創られる時期が、物心がつく以前の乳幼児期であることが多いために、自由連想法では、それ等の精神障害を完治させることが出来ないのです。三歳児以前の記憶にまで遡ることは、通常の方法では不可能だからです。ここに精神分析療法の限界があるわけです。 ―――― 次回に続きます。 ――― 2004. 2. 24. 店主記す |
― 追記 ― 『 おしめり 』 が言えないお天気キャスター 先日、あるテレビ局で、アナウンサーの失敗集を集めた番組が放送されました。 その中に、あるお天気キャスターの失敗談がありました。若い男性のキャスターでしたが、『ほどよいおしめりになるでしょう』と言うべきところを、『ほどよいおひたしになるでしょう』と言い間違えました。 いっしょにいた女性アナウンサーから、『おしめりです』と、訂正されて言い直したのですが、また『おしたし』と言ってしまいました。 それを二度や三度でなく、五〜六回も繰り返しました。たった一度だけ、女性アナウンサーが『おしめり』と言ったあとに続いて、おうむ返しに『おしめり』と言うことができました。しかし自分の意志では、最後まで『ほどよいおひたし』としか言えませんでした。パニック状態になったその人はうろたえて、とうとう画面からはみだしてしまいました。 会場は、それこそ爆笑に包まれていました。 これはフロイトが体験した事例と、まったく同じことが起きたためです。つまり上に紹介した二つ目の事例です。 『おしたし』という言葉は、『本来の目的物とはややずれてはいるけれども、まったく無関係ではないものとして登場して』来たのです。それがかなりしつこく起きたための珍事だったのです。 ですからそのキャスターには、『おしめり』に関連することで、今は思い出したくないことが、何かあったのです。それを意識的に忘れようとしたために、「度忘れ」という現象が起きたのです。 しかし仕事柄、『おしめり』という言葉は必要です。つまり正の願望と負の願望を、同時に満足させるために登場したのが『おしたし』という言葉だったのです。記憶の底に隠しておきたい言葉を、表面に出て来ないようにするための防御機能が働いた結果生じた出来事です。どうやら本人にとっては、あまり笑えないようなことが隠されているような気がします。 2004. 7. 4. 店主記す |