「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理( その 1 ) ――――――――――――――――――――――――――――― 《 超常現象が発生するメカニズム 超常現象、心霊現象、奇蹟、等々の不可解な現象は、願望が実現され る過程で付属的、従属的に発生する。また神の領域(曼荼羅図の中心部 分)により近づいた人ほど、壮大な現象を発生させることが可能となる。そ して、そうした状況を意図的に創り出すことの出来る人が、超(霊)能力者 である。 》 前回も少しだけ触れましたが、この世界には実は、とんでもない原理・法則が働いていると考えられるのです。それはこれまでの学問体系や、科学常識に縛られた考え方では、まったく想像もつかないような原理・法則です。それが標記の「願ったこと(夢)が叶えられる」という基本原理です。簡略化して、願望実現の原理です。 これは本来、あちら側の世界に機能している原理・法則ですが、実は我々が居るこの世界にも、普遍的に働いている原理であり法則なのです。言い換えれば、十次元・十一次元・二十六次元の世界に均一に働いている“力”であるということです。 そうした基本的な原理・法則が機能しているために、この現実の世界で科学的に説明の出来ない様々な現象が起きるのです。時として、人智を超えた不可解な出来事が発生するのです。 これは多くの人たちが体験的に、あるいは直感的に感じていても、明確な理論が示されないために俗言とされて来た言わば迷信の一種です。しかし実は、それは確かな真理に基づくものであり、言い換えれば、この世界の秘められた実真相であるということです。 以前、「万物(森羅万象)は “リアルタイム” でつながっている」という考え方を紹介しましたが、これもそうしたものの一つです。つまりこの世界は、そうした一見とんでもないような原理・法則の組み合わせによって成り立っていると考えられるのです。 具体的な事例を何も紹介しないで、突然こうしたことを申し上げると精神状態が疑われそうですから、以下に、そのような考え方が成り立つ理由を申し述べておくことにします。 ****** ―― ○ ○ ―― ****** まず、あちら側の世界で生じる現象で、これまでに分かっていることを紹介しておきます。ここで云うあちら側の世界というのは、目に見えない世界、手で触れることの出来ない世界のことであり、言い換えれば超次元の世界のことです。 ○ 霊体(意識主体)の瞬間移動 幽体離脱(体外離脱)というのは、現実のこの世界の出来事ではありません。しかし実際に体験した人がいる以上は、そこに何がしかの真理が隠されていると考えるべきでしょう。かなりの量の報告事例は、解き明かされていない何らかの真相が隠されていることを物語っています。 そして、そうしたものの中に、肉体から離れた霊体(意識主体)が、行きたいと思ったところへ、瞬間的に移動したというものがあります。 立花隆氏の『臨死体験』という本の中には、体外離脱した”意識主体" が、行きたいと思った場所へ、瞬時に移動する現象が起きたことが紹介されています。 『 居間には、私の母と姪がいました。私の姉の五歳になる子供です。 ーー 略 ーー どうやら母が姉から子供を預かって面倒を見ている様子でした。姉はど こへいったのかしらと思ったとたん、またポンと場面が変わって、きらびやかなカ クテルバーで、姉が男の人と楽しそうにおしゃべりしているところが見えました。 そういう場面を見ていてもつまらないので、もう自分の家に帰りたいと思ったとた ん、またポンと場面が変わって、千キロ離れたラップランドの自宅に戻り、ベットの 上の自分の肉体の上のあたりをただよっていました。』 ( 『臨死体験』立花隆著(文芸春秋社) 第五章 医師キルデの報告 現実との奇妙な一致 より ) この事例は、我々がいる三次元世界の出来事ではありません。目に見えない世界の出来事ですから、架空のお話であると考える人も多いことでしょう。しかしこれが、何等かの真理に基づくものである可能性も否定できません。つまりこれも超次元の世界で生じる現象の一つであり、条件さえ整えば、誰もが体験する出来事であろうということです。 そして、そこではたしかに願ったこと(思ったこと)が、瞬時に叶えられるという現象が起きることが分かります。その人が、ふと思った(考えた)とたんに、目的の場所へ瞬時に移動したのです。これはテレポーテーション(瞬間移動)という超常現象と同じです。ただしこの場合は肉体を伴っていませんから、超常現象ではなくて心霊現象ということになります。 ○ 夢は、願望の充足(実現)である。 これは精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトが導き出した結論です。人は現実の世界で満たされない「願望」を、夢の中で「実現」しているというのです。この考え方は、多くの実際の夢を分析した結果として導き出したものです。詳しい内容は『夢判断』、又は『精神分析入門』の中に記されています。 ただし夢の中では、「圧縮」や「移動」や「象徴化」などの作用が働くことによって、その願望が明確には表わされないということです。つまり、それはダイレクトに実現されるのではなくて、極めて分かり難く変形された状態で実現されるというのです。そこで解釈のための技術が必要になるわけです。その技術を用いたときに、初めて『夢は、願望の充足である。』という結論に到達するのです。 この結論には、大いに注目する必要があります。三次元世界の物理法則に拘束されない夢の世界では、「願ったことが叶えられる」という現象が、確かに起きていることになるからです。 「夢の世界」は、各個々人の脳の内部で生じる現象です。ただしそれは物理的実態が伴う世界ではありません。つまり、三次元の物質世界の出来事ではないわけです。言い換えれば、異次元の出来事です。脳という装置は、次元の壁を超える機能を有するからです。 その夢の世界では、われわれは自由に動き回ることができます。この世界の物理法則に拘束されないからです。従ってそこでは、やりたいことが何でも出来ます。ただし夢の中では、この世界とは別の法則が働いています。つまり象徴化や、圧縮、等々といった奇妙な作用が働いているために、内容が分かり難くなってしまうのです。 このことから圧縮や、移動や、象徴化といったものは、夢の世界に普遍的に働いている不特定の”力”であると考えることが出来ます。つまりそれは、夢の内容を変形させる“力”として、確かに存在しているということです。 そして、その変形作業が一定の方向性を持ち、しかもすべての人に当てはまるということは、「夢の世界」というものが、万人に共通する世界として確かに存在するということです。そのため古今東西のすべての人に、同じ分析技術が共通して使用できるのです。明治期の日本人である夏目漱石の夢に対しても、この技法が通用するのはそのためです。(これに関しては、夏目漱石の『夢十夜』を分析する をご参照ください。) 同様のことは、臨死体験についても言えます。古今東西の何人もの人たちが、お花畑や、三途の川の景色を見ているということは、万人に共通する世界として、そうしたものが確かに存在するからです。 そして人が臨死の状況に陥ったときには、体外離脱した霊体(意識主体)が、その世界に入り込むように調節する“力”が働くのです。それによって夢の場合と同じく、この三次元世界では起こりえない体験をするわけです。従ってここにも、一定の方向性を持った“力”が作用していることになります。 ○ ○ ○ ** ○○ ** ○ ○ ○ 上に紹介した事例は、いずれも我々がいるこの三次元の物質世界ではないところで生じる現象です。実際に見ることも、触ることも出来ない世界の出来事です。しかし、そこでは確かに「願ったことが叶えられる」という現象が起きていることが分かります。願ったこと、思ったこと、考えたことが確かに実現されるのです。 ところで上の事例に関して、思考の発想を逆転させてみると、意外な結論を導き出すことが出来ます。もしかすると、これが世界観を変える切っ掛けになるかも知りません。しかも、むしろその方が、正しい考え方かもしれないと思うことでしょう。そうしたかなり説得力のある考え方に到達します。 それは心霊現象だから、それらのことが可能になる、夢の中だから、それらのことが可能になるという当たり前の考え方ではなくて、逆に「願ったことが叶えられる」という基本原理が存在するからこそ、臨死体験の世界が出現するのであり、また夢を見るという現象が生じるのであるというものです。つまり、主体になるのは「願望を実現する」という基本原理の存在です。思考の逆転というのは、このことです。ものの見方を反対にするわけです。 この考え方を取り入れると、これまで解けなかった様々な謎を、すっきりと解決することが出来ます。 たとえば、次のような考え方が可能です。 ○ 人はなぜ夢を見るのか。 ⇒ 現実の世界では叶えられなかった願望を実現するためである。そのために存在する世界が、「夢を見る」という世界である。これは万人が共通して保有する世界であり、強い願望が生じたときに引き寄せられる世界である。その世界の中では、すべての願望が実現される。ただし、そこにも様々な“力”が働いているために、意味が分かりにくくなる。そのために夢を解き明かすための技法が必要となる。 ○ 臨死体験とは何か。 ⇒ 人が苦痛から逃れたいと思った時に生じる現象である。霊体(意識主体)が肉体から離脱することによって、人は苦痛から逃れることが出来る。そのために、結果的に幽体離脱(体外離脱)という現象が発生する。 その離脱した霊体(意識主体)が、一時的に入り込む世界が三途の川や、お花畑が広がるいわゆる“ 死後の世界 ”である。これも万人が共通して保有する世界であり、霊体(意識主体)が体外離脱する際に引き寄せられる世界である。多くの人が同じ景色を見るのは、そうしたものを見るように調節する何らかの“力”が働くためである。 「夢の世界」にしても「臨死体験の世界」にしても、古今東西の多くの人が同じような体験をするのは、その世界が確かに存在するからです。つまり、すべての人がその世界を、共通して保有しているのです。そして、一定の条件を満たしたときに人は、その世界を引き寄せて中に入り込むことが出来るのです。結果として、その世界の中で起きる現象を体験するわけです。 夢の場合は、願望を実現させたいという意識が働いたときであり、臨死体験の場合は、瀕死の状態の患者が、大きな苦痛から逃れたいと思ったときです。すなわちそうした願いを実現させる際に引き寄せられる世界が、夢の世界であり、また臨死体験の世界であるということです。いずれも願望を実現させる過程で、付属的、従属的に出現する世界なのです。 以上のように、主体となるのはあくまでも「願望の実現」であり、その願望が実現される過程で、そうした超常的な世界が出現するという考え方が成り立ちます。そして、この考え方を発展させた時に、超常現象に関して、次に紹介するような定義付けが可能となります。冒頭に示したものと同じ内容です。 ○ 超常現象が発生するメカニズム *** 超常現象、心霊現象、奇蹟、等々の不可解な現象は、願望が実現される過程で付属的、従属的に発生する。また神の領域(曼荼羅図の中心部分)により近づいた人ほど、壮大な現象を発生させることが可能となる。そして、そうした状況を意図的に創り出すことの出来る人が、超(霊)能力者である。 *** ○ ○ ○ **** ○ ○ ○ 上のような考え方に従うと、様々な不可解な現象が発生する原因を、まったく無理なく理解することが出来ます。なぜそうしたことが起こるのか、その原因はいったい何なのかといった基本的な部分が解決されるからです。つまり不可解な現象の存在を、否定する必要がなくなるわけです。それどころか実際には、もっともっと様々な現象が起きているのではないかと、考えが広がることになります。 ○ 超能力 現代科学では「超能力」というものの存在は、完全に否定されています。テレビに出演する大学教授や科学者は一様に、そんなことは起こり得ない、手品だ、ペテンだ、インチキだ、まやかしだと言って、ひたすら否定します。彼らは未熟な現代科学が、万能であると盲信しているのです。ですから科学者を立ち合わせて実験をしても、何も解明されることはありません。彼らの目的はただ単に否定することであり、真理の探求は行なわないからです。もともと超常現象を解明するための手段を、何も持ち合わせていないのです。つまり超次元的現象を、三次元の物理法則しか知らない人たちが否定しているわけです。 超能力というと、誰もが思い出すのはユリ・ゲラーのスプーン曲げですが、これだけが超能力ではありません。スプーン曲げは、そうしたもののごく一部にすぎません。ものの本で調べてみると、実に多種多様な現象が生じていることが分かります。しかも、そうした超常現象の存在は、昔からよく知られていたことなのです。 道元禅師(1200〜1253年)は、曹洞宗の開祖として知られている人物です。その道元禅師が著した書物『正法眼蔵』の中には、禅の修業の過程で、様々な超能力が開発されることが記されています。その当時は、この能力のことを「神通力」と呼んでいました。 『正法眼蔵』「第三十五 神通」の項は、次のような一文で始まります。 『 かくのごとくなる神通は、仏家の茶飯なり、諸仏いまだけげんせざるなり。これに 六神通あり。一神通あり。無神通あり。最上通あり。朝打三千なり、暮打八百なる を為体とせり。ーー 以下、略 ーー 』 こうして、様々な神通力のあることが紹介されています。ただし漢文ですから、これ以上読んでも、あまり意味が分かりません。そもそも字が読めません。禅語を含んでいますから、難解の極みです。興味のある方は、ぜひご自分でお読みになってください。 ところで、ここに紹介されている「六神通」の中には、「天耳、天眼、宿命、神足、他心、漏尽」といったものが含まれます。解説書を参考に、これ等を現代語に訳すと次のようになります。 天耳 = 地獄耳。遠方の声を聞く。神の啓示を聞く。 天眼 = 千里眼(透視)。未来予知。 宿命 = 人の前世、現世、来世のことが分かる。 神足 = 瞬間移動。テレポート。 他心 = 読心術。テレパシー。 漏尽 = 悟り。 このように翻訳したときに、ようやく中身を理解することが出来ます。いずれも馴染み深い名称です。 そして、上の文中に『仏家の茶飯なり』とあるように、道元禅師の時代には、超能力の存在がよく知られていたのです。仏法修行により不思議なことが、日常茶飯事に発生していたからです。 ところが現代では、一部の科学者が一方的に否定するのに対して、仏教関係者は誰も異議を唱えません。おそらく仏教界にも学問重視の知識偏重主義がはびこって、修行の遣り方が変わってしまったために、そうした現象を実際に体験する人が少なくなってしまったためかもしれません。お寺の坊主が、世過ぎのための職業になってしまったことの弊害とも言えるでしょう。もちろん中には、真剣に修行に取り組んでいる人たちもいるはずですから、そもそもこうした俗事に関わることは禁止されているのかも知れません。 ものの本によると仏教の修行に於いて、超能力を獲得することを目的とすることは、固く戒められているということです。禅の修業に於いても、他の宗派の修行に於いても、最終的に「悟り」の境地に至ることを目的とします。そこに至ったときに初めて、知慧というものが獲得できるというこです。 従って、そうした境地に到達したいという願望が叶えられる過程で、様々な特異な現象が発生することになります。つまり、「悟りの世界」へ到達したいという願望を達成する過程で従属的、付属的に発生するものが神通力、すなわち超能力であるということです。 昔から広く知られている役の行者(役小角 えんのおづぬ)(637〜701年)は、たいへんな神通力を発揮したことが伝えられています。この世界の代表的な人物と言えます。かなり古い時代の人ですから、事実関係がどの程度正確に伝えられているかは不明ですが、まさに驚天動地の現象を発生させたということです。 ある伝記によれば、まとわり付く役人を追い払うために、周囲の巨岩を空中に浮き上がらせて、すさまじい音を立てて互いにぶつけ合ったということです。しかもそれを多くの人たちが見ている前で、一時間近くも行ったというのです。これは役小角が、伊豆の大島に流されていたときの出来事であるということです。(『禅の本』学研 参照) ところで、ここで一つ注目されるのは、禅というものが「呼吸法」の一種であるということです。座禅の瞑想により悟りの境地に入ることと、呼吸法を実践することと、その過程で超能力が出現することは、相互に関連性があると考えるべきでしょう。たとえ願望が実現される過程で不思議な能力が開発されるとしても、それは誰にでも起こり得る現象ではないからです。何もしない世間一般の常人には、絶対に起こり得ないからです。 同じく呼吸法を取り入れたものに、気功、ヨーガ、太極拳などがありますが、やはりこれ等を修得する過程でも、様々な不思議なことが起こるということです。この共通点には重大な意味がありそうです。 ○ ○ ○ **** ○ ○ ○ ○ 失くした物が戻って来た奇蹟。 いろいろな不思議な体験談を集めた本の中には、この基本原理の存在を前提にすると、無理なく理解できるものがたくさんあります。たとえば次のようなものです。いずれも実際に起きた出来事です。 * ある農婦がジャガイモ畑で失くした結婚指輪が、四十年後に、その畑で収穫したジャガイモの中から出てきたというお話。 それは失くした時に、何日も必死で探し回ったものの、とうとう見つからなかった指輪でした。それが何と、夕食の準備のために、台所で調理していたジャガイモの中から出てきたというのです。(西ドイツ) * ある漁師が漁に出掛けた際に、海中に落としたメガネが、仲間の漁師の網に掛かって戻って来たというお話。 いつものようにロブスターの漁に出掛けたその漁師は、その日に限って、まったく獲れませんでした。あきらめて家へ帰ろうとした時に、ふと足をすべらした。その拍子に、長年愛用していたメガネを海中に落としてしまった。漁師は非常に悔しがったが、どうすることも出来なかった。 そのメガネが数日後に、仲間の漁師の網に掛かり、持ち主であるその漁師の許へ戻ってきたということです。(アメリカ メイン州) * ある女性が古くなった時計の代わりに、同じデザインの新しい時計が欲しいと思っていたら、敬老の日に祖母に贈られたたくさんのプレゼントのおすそ分けで、その時計を貰い受けたというお話。 これには後日談があって、数日後にその時計がなくなったことに気付き、よくよく考えてみると、いとこの家に遊びに行った時になくしたような気がする。電話で確認すると、やはりいとこの車の中に落ちていたという。 しかもちょうどそのいとこが、自分の家の近くへ来る用事があるからと、届けてくれたということです。(日本 愛知県) ( 以上、『世にも不思議な偶然の一致』(学研)参照 ) これらはいずれも、本来であれば絶対に起こり得ないような奇蹟に近い出来事です。西ドイツの広大なジャガイモ畑で失くした指輪が、どうして台所で調理しているジャガイモの中から出て来たのでしょう。広い海の底に落ちたメガネが、どうして仲間の漁師の網に引っ掛ったのでしょう。気に入っていた古い時計と同じデザインの時計が、どうして祖母から貰えたのでしょう。しかも、どこかに置き忘れて失くしても、いとこに連れられて再び、自ら戻って来たのです。 これらの出来事を、ただの偶然であると片付けてしまえば、それ以上の発展は何もありません。ものすごく小さな確率の出来事が、たまたま起きたに過ぎないということになります。確率論としての天文学的な数字が並べられるだけで終わっていまいます。しかしながら、ここにもやはりそうしたことが起きるような、何らかの“力”が働いた結果であると考えると、見方がまったく違ってきます。世界観が一変します。 つまり、失くした大事なものがもう一度、自分のところに戻って来て欲しいという願望を実現するために、周囲のあらゆるものがその方向で調節されたということです。その結果として、奇蹟に近い出来事が発生したわけです。つまり、その願望を現するために、自然界のみならず、周囲の人たちのこころの動きさえも調節されたのです。従って、奇蹟の出来事を起こしたのは、あちら側の世界で機能している不特定の“力”であるということです。その“力”が総動員されて、結果的に、その切なる願いが叶えられたのです。 ○ 15人の聖歌隊員に起きた奇蹟 以前に紹介した、15人の聖歌隊員に起きた奇蹟も、この原理の適用により判り易く理解することが出来ます。その日に限ってなぜか、全員がそろって遅刻したために、誰もガス爆発事故に巻き込まれずに済んだという出来事です。 それは小さな町の小さな教会でしたから、15人の聖歌隊員は、掛け替えのない人たちだったはずです。つまり全員がそろって、はじめて一つの聖歌隊として成り立つほどの小さな集団だったのです。 この出来事が起きたのは、聖歌隊が結成されて、二年目のことでした。それまで隊員たちの中に、遅刻をする者は誰もいませんでした。みんなが熱心に練習を続けていたのです。もし一人でも欠員がでれば、練習に支障を来たします。結果的に、その地区で開催されるコンクールに出場することも困難になったでしょう。 ですからその段階では、全員が、次のコンクールにぜひ出場したいという強い願望を持っていたと考えてよいでしょう。団結心も強かったに違いありません。 その願望を実現するために、隊員たちにまさに奇蹟のような出来事が起きたのです。つまりその日に限って、全員が遅刻したのです。実際には、あちら側の世界から、遅刻するような様々な働きかけが本人や、周囲の人たちに対してなされたわけです。その結果、これまでに誰一人として遅刻した者がいなかったのに、この日に限って全員が遅刻するという異常な事態が発生したのです。詳しいことは『「運命と宿命」(1)人の行動を操作するもの』で申し述べた通りです。 ですから本来であれば、彼等のうちの何人かは、そのガス爆発事故に巻き込まれて死ぬ運命にあったのかも知れません。あるいは全員が、そこで死ぬ運命だったのかも知れません。ところがその目的(願望)の実現が優先されたために、奇蹟のような出来事が生じたのです。つまり、そのために、もともと持っていた各聖歌隊員の運命が変えられた可能性があるということです。 それは常日頃、全員が努力と精進を重ねていたことに、その原因があったと考えられます。ですから目的(夢・願望)に向かって、熱心に努力を続けたことに起因する奇蹟であったとも言えるでしょう。 ○ 病気を克服した人に生じる奇蹟 時として、大病を抱えながらも、何か目的を持って努力する人に、奇跡的な出来事が生じることがあります。 以下は、例のテレビ番組「アンビリバボー」で紹介された事例です。ビデオに撮ってありませんので、ややおぼつかない記憶ながら、思い出しながら書いておくことにします。多少の記憶違いがあるかも知れませんが、ご容赦ください。 * アメリカのある少年に起きた出来事。 その少年は進行性筋ジストロフィーで、もはや余命いくばくも無いと宣告されていました。その少年に、何かやりたいこと(夢)があるかと聞いたところ、二つか三つほど挙げたということです。一つは自分の詩を本にして、出版したいというものでした。もう一つは、前大統領のカーターさんに会いたいというものでした。 書き溜めてあった少年の詩は、なかなか良い詩であったことから、すぐに出版社が見つかり、まもなく本になって出版されました。しかも、そのことがきっかけで、カーター元大統領とも会う機会が設けられました。 その後、判明したことは、少年の病気の進行が、停止していたことでした。つまり、ここにも、願い(夢)を実現する過程で、通常では起こりえない奇蹟的出来事が発生したことになります。 * 日本人のある男性に起きた出来事。 その人は、ガン患者でした。すでにガンが全身に転移しており、医者からはあと半年しか持たないと宣告されたそうです。その男性には登山の趣味があって、若いころからあちこちの山に登っていました。その人は死ぬ前に、一度ヒマラヤに登りたいと思い、医者が止めるのを振りきって、強引に病院を退院しました。そして、特訓を開始しました。かなり苦しい登山でしたが、奥さんと一緒に、ついに念願のヒマラヤ登頂をやり遂げました。 下山してから病院で調べてみると、何と、ガンの進行が停止していたということでした。体験者と一緒にテレビに出演した医者も、本当にびっくりしたと証言していました。 ( 高い山に登るには、呼吸法の修得が不可欠です。これは登山技術の一つです。だらだらと歩いたのでは、体力の消耗が激しく、頂上まで登りきることは出来ません。気力と体力とスタミナを温存するには、呼吸法による助けが必要です。つまり登山というスポーツは、呼吸法の一種なのです。従って、これは禅が呼吸法の一種であることと、大きな関連性があるように思われます。) * 沖縄の少女に起きた出来事。 その少女は、再生不良性貧血という難病に罹かっていました。これは現代医学では治すことが出来ない病気です。その少女は、ぜひ一度、チャゲ・アンド・アスカのコンサートを観たいと思っていました。しかし沖縄では、そのコンサートは開かれません。 少女は夢を叶えるために、東京まで行くことにしました。それには、様々な困難を乗り越えなければなりませんでした。少女はストレッチャーに乗せられたまま移動しなければなれません。周囲の人たちの協力もあって、少女は飛行機に乗って、ようやくのことで東京まで行くことができました。そして、念願のチャゲ・アンド・アスカのコンサートを観ることが出来ました。 後に判明したことは、医学的には治らないはずの少女の病気が、治っていたことでした。 ―――― 次回に続きます。 ――― 2003. 12. 22. 店主記す |