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被災現場で、ストーブことヒロシがヘルメットをかぶっているのがまず目を引いた。大吉や吉田副駅長のようにいつも制服姿の人間がヘルメットをしてもさほど違和感はないが、きゃしゃな優男のヒロシには、ヘルメットがまるで似合わない。そのいちばん似合わなそうな彼がヘルメットをしていることで、事のただならなさが伝わってくる。
そこから車両を人力で動かし、かろうじて無事だった区間をいち早く整備し、なんと6日間で運行を再開する今日のエピソードは、本当は『潮騒のメモリー』以上に心動かされる場面として、もっと時間をかけて描かれてもよいはずだ。夏ばっぱの無事な姿が映るところも、ウニ丼を運ぶ姿がとらえられるところも、それまでの経緯だけで一週間分のエピソードになるはずだ。あのときかつ枝さん夫婦はどうしたのか。ネコはどうしたのか。家は無事だったのか。
ところが、これらのことは全く語られない。海女クラブのメンバーの姿もまるで確認されない。
そのあからさまな不在が空恐ろしいほどだ。
彼らがどうやら無事だったらしいことは夏からのメールでわかる。しかし、無事だったことで、アキは彼らから遠ざかる。「ふるさと」の無事ではなく「被災地」の無事から遠ざかる。ボランティアでにぎわうはずのゴールデン・ウィークも、なんだか帰りそびれていく。その一方で、太巻さんがボランティアでベーグルを配りにさっさと東北に出かけて、これといった手応えもなく帰ってくる。北鉄の6日間に対する、東京のどうしようもない停滞感。ソファに座ってなかなか立ち上がれない女優の体の重たさ。あらゆる台詞や掛け声が紙に描いた絵物語のように体をすいと通り抜けてしまうだるさ。安否だけを知り、そして会えないことが澱のように溜まっていく。
アキは北三陸の今を知らない。知らないまま澱がたまっていく。そして見る者にもまた、何も知らされない。知らされないまま物語の時が進んでいく。おそらくアキが動かない限り、知らされないのだろう。これほど体にくる停滞感を見る者に感じさせる物語を、見たことがない。
この物語があの日からのことをどう描くのだろう、ということは気になっていた。
しかし物語は、あの日からのことを見せるかわりに、アキに(わたしに)それがいかに見えていないかを見せつつある。
アキが北三陸の人びとの名を一人一人唱えると、みな変わらぬ笑顔をたたえている。それもまた、アキが帰らないからこそ浮かび上がる「回想」という虚像にすぎない。アキは、ヒロシを忘れている。そのヒロシがヘルメットをかぶっていたことをアキは知らない。ユイがトンネルからどんな風に帰還し、どんな風に過ごしているかも知らない。
アキはいつのまにか、夏ばっぱと声ではなく、文字でやりとりするようになっている。あるいは震災の電話がつながりにくい時期にそんなやり方に落ちついたのだろうか。無意識のうちに選び取られたであろうこのメールという形式もまた、アキの不調を伝えている。アキは、夏の声を聞かないことで夏をなつかしく思い出している。あたかも帰らないことで相手を思い出すように。「今年の夏は、潜らないよね?」アキのメールは、潜るか潜らないかではなく、自分が行けないことがさほど罪にはならないかどうかを、問うかのようだ。アキは夏も帰りそびれてしまうのか。アキの危惧を先回りする夏ばっぱの返事の文字には、声の抑揚が欠けている。それは、にこやかに気取った冗談にも、ぞっとするほどの他人行儀にも見える。「お構いなぐ」。