昨夜、友人と話してたら、

「2006年の3月? だっけ?
JFK空港で5000万円、没収されたんわ…」

そうみたいやな

「でも、今年の1月に全額 返してもらったとか…」

良かったやないですかっ

にしても、藤圭子とゆう人は7回も離婚してるんですね

最初が歌手の前川清

後の6回は同じ人です!

ええ、宇多田パパ…照實氏ですね

で、その友人がゆうには

実は宇多田ヒカルの売り出しの時、親父の照實氏、糞の役にも立ってなかったとか?

もともと、親父さん 音楽関係の人と ちゃいますからね

藤圭子の ご主人 兼 藤圭子の いちマネージャーに過ぎんかったわけやから
プロデューサーとしては
まっ 素人さんです!

で、宇多田ヒカルの売り込みで、レコード会社回ってた時に、「…藤圭子の娘? そんな訳ねぇだろ?」って、相手されんかったことがあったとか?それを聞いた藤圭子、激怒! 使えん奴っちゃ…まったくぅ もうぅ、「離婚や 離婚っ」ちゅうて判を押させているとか、

そんな話を その友人が ゆうんですね

まっ、そのあと何度もよりを戻してるんですから
よろしいやんと僕なんかは思うんですけど…

東芝EMIから、ヒカル デビューしてますからね、

藤圭子が石坂まさを のところに行ってヒカルの相談に乗ってもらってたみたいですからね

だから、藤圭子がいなければ、今日の宇多田ヒカルは誕生してないん は確かやと思います

こう考えると、ヒカルも照實氏も、例え別れたとしても藤圭子を じゃけにあつかってはいけませんよね 、と

彼女の音楽は趣味や道楽やないんです。

生きざまですからっ

歌が好きっ! とか そんなレベルやないんですね

幼いときから、喰うために、一家の生活を支えていく為に、歌っていかんとならんのです

いつだって、
「命ぎりぎり」ですよ

で、ここらで藤圭子の誕生の秘話をしたいと思いますわ

作曲家・八州秀章が山田耕作のお弟子さんだ、とゆう話は以前 お話しましたけど、

藤圭子が上京して最初についたんが、八州秀章ですからねぇ

しゃあから、

山田耕作-八州秀章-藤圭子の系譜に連なるんですけど、

彼女、上京してから初めてお仕事を頂いたんが、歌やのうてファッション・モデルなんだそうです。

確か平凡パンチのグラビア・ページや ったとか 聞いてますけど… ?

そもそも、彼女は中3の時に北海道・岩見沢ホテル『喜楽園』の専属歌手になっているんですね…

芸名は、三条純子

1968年2月、札幌雪まつり
だか、岩見沢だかのステージで歌っているところ、音楽関係者に見い出され、
彼女の卒業を機に、姉、兄を含め、一家5人で上京。

「…純子 どうしたもんかね、お父さんは 倒れてあないで 働けんし」

家族会議で、一家の今後の身のふりかたを考えていたんです。

お母さんも、失明に近い状態で それに仕事もほとんどなくしていて

ニッチもサッチも いかんようになってたさかいな

いっそのこと、家族あげて東京に出てきたれっ てなもんですわな

夜逃げ同然、逃げるように故郷を後にしているんです

にしても、このころが一番 生活は苦しかったみたいです!

ごはん に醤油だけかけて食べることも しばしば あったようです。

どの途、北海道に居てもどうにもならんさかいね

いっそのこと、出てきたれ! まっ、賭けですなっ


昼は作曲家・八州秀章のもとでレッスン

夜は、錦糸町界隈で`流し'をする。

で、合間でモデルの仕事なんかしてたんやろね

スーパーのチラシのモデルなんかも やってたみたいです

118カット 全部込みで 3並び… つまり、ギャラ が \33,333- 普通、2日とか3日に分けて撮るんやけど、

1日で撮影 やっちゃってるとか もう肉体労働以外何ものでもないですよね

ちゃんとしたヘアーメイクもスタイリストもつかなかったいいますから、かなり きつかったと思います
時間もはんぱやなしに長いし、

「それ ほんまの話ですか?」はなし、作ったらはりませんかぁ??

いやいや…

「僕も 聞いた話です」

本当の話やったら 凄いなぁ って、思いましたけど(笑)

あっ あかん 話がそれそうです

で、とりあえず「島純子」の名前で、バリバリの演歌→「男の仁義」 ソノシート! 初の吹き込みですね、これを持ってレコード会社 回るんやけど、メジャー・デビューの道のりが いっこうに見えてこうへん。困った

そうこうしているうちに
東芝の契約作詞家・澤ノ井龍二(←彼こそ、石坂まさを)との知偶を得る。

…石坂まさを、驚きますね

この人、お母さん芸者さんで2号さんなんですわっ

で、藤圭子と出会った瞬間、あまりにも自分に似た境遇で 驚くんです

「…この娘に賭けてみよ」
こう決心するんですね

東芝に掛け合うんです。

「…あの娘をうちから東芝から出そう」って…

ただ、前に東芝には営業かけてたし

その時の担当が、彼女の歌唱力には認めるものの
売り出し方がみいだせないままでいましたから、

時代がフォークの流れに向っていましたから ね

デビューには、躊躇してんです

そうゆう経緯も あって東芝からは売り出せん…

仕方なしに、石坂まさを
会社を辞めて藤圭子一本で、決意するんです

そうなんです

石坂まさを とゆえば藤圭子の作詞家としてあまりにも有名ですけど もともとは様々な職業に就きながら、どうにか東芝に潜り込めた そういった感じの人やったわけですから

東芝に入って間ないし、作詞家としての実績はなかった ちゅうか…

実質的にはプロデューサーなんです。

そのころナベプロが芸能界を牛耳ってた時代です

歌もフォーク、が 全国同時的現象の如く…まるで、雨あとのたけのこ の如く いっせいに 生えてきた みたいな…

そんな動き が 兆しがありましたから ね

どこにも属してない って結構 きついですっ て 条件は厳しい ですよね

ただ、当時の石坂まさを は、今ふうにゆえば 小室哲哉ですなっ

で、内弟子とゆうかたちで石坂まさを ところの2階に住まわせるんです

藤圭子18歳、石坂まさを28歳の時です!

で、スポンサーになってくれる人が現れるんです

日本音楽放送(有線)の工藤宏

で、彼を社長に据え、藤プロダクションを設立、石坂もその役員に就く

藤圭子の藤は、そう工藤の藤からとったんです。
名前の圭子も、工藤の妹が、`桂子'だったので、それに因んで付けた。

そして、いよいよ曲づくり…

その時、超売れっ子の作曲家・猪俣公章、作詞家には なかにし礼と 二枚看板を揃えるんです

あがってきたんが

「鍵」…どちらかっちゃあ
演歌ですっ ムード歌謡に近かったかもしれません

で、石坂まさを にはある種の 直感的なものが働くんです

何んかもの足りないちゅうか「…何かが違う?」、

そうだ「あの娘は、あいつは 野良猫」っ なんだ

彼には独特の嗅覚を持っているんですね

でも、すでに当時 超売れっこの先生がたにお願いしてしまっている、

簡単にボツには、できない

悩みます

そこで石坂まさを が かねてより尊敬してやまない 星野哲郎さんのところに相談に行くんですっ

「…澤ノ井くん 自分で納得いくもん 作ろうと思うからには、絵は自分で 描くしか ないわなっ」この星野の言葉で腹きまるんですわ。

よっしゃあ、

命、賭けたろ

まずは、レコード会社の選定です!

当時、RCAビクターとゆう出来たばかりのレコード会社が あったんです

ここは、主にクラシック系を扱うレーベルが多かったんですけど、歌謡曲で心境地を開きたいとゆう意向も あって石坂 側の意見と合致

とうとう

シングル「新宿の女」でデビューが決まる

藤圭子・石坂まさを 出会って わずか半年…

作詞:みずの稔 ←実は、この人 番組担当のパソナリティーなんです

とゆうもの、石坂まさを
が、みずの稔 のところに訪れたときに

彼の机に、メモ用紙に

♪ ばか だ なぁ ばか
だ なぁ だまされっ ちゃあっ てぇ

と書かれていたのを見つけるんですっ

「 ! 」 - これだぁ って、
閃くんですね

聞けば、藤圭子は`流し'の経験は、あるとゆう。

流し とゆえば…新宿の、お・ん・な、、、

♪ 夜が 冷たい、、「新宿の女」っ

で、みずの稔には詞の一部に使わせてもらうことに了承を得る。

あとは 一気にかきあげた

作曲も、石坂まさを 自身です!

曲もすぐに、あがった。

編曲は日本むかし話し の あの ♪ ほ゛うやぁ 良い子だっ 寝んねしなっ の編曲で知られる小谷充

彼は、ソフト・ロック系ポップスやムード・コーラスなどを得意とするアレンジャーだ 「…いけるかも、、」

で、B面は、当初『女のブル-ス』で行く予定だった。

作曲には、夜の酒場でピアノを弾いていた、当時は全く無名の森川登で、?

彼は藤圭子のボイス・トレイニングを担当していましたから

もともと石坂とも旧知の中だ

仕事もやりやすい

しかし、猪俣公章さんには曲を頼んでいながら お蔵入りにした負い目がある、もし 万が一の時の保険もかけておきたい←新宿の女が売れなかったなら、それみたか、となる

そればかりか、場合によっては この業界で生きてはいけなくなるかもしれない。

女のブルースの曲は、今後のことも考えて猪俣先生にお願いしよう

よし、女のブルースは2作目 だぁ!

そのときのB面は、森川に頼めば いいだろう、

よし、早速、新宿の女 のB面にとりかかろう

純子(藤圭子)は 覚えは良い

彼女なら、問題は ないっ

実際は、藤圭子は どんな歌詞であろうが むずかしい曲であろうが 1日もあれば覚えられる

だてに がきのころから、歌ってきたわけじゃない…

早速、B面に とりかかろう

…して、あがってきたのが、「命ぎりぎり」

石坂まさを の作詞・作曲だっ

そして、発売が決まった

1969年9月25日…

日にちは まだ3ヶ月もある

売り出し方をどうするか

とゆうか… まっ

結果的には、

「新宿の女」と「女のブルース」を 切り離して 考えたのは正解だった

んたって、その後に続いた「圭子の夢は夜ひらく」の発売で

シングル部門、「圭子の夢は夜ひらく」「女のブルース」1位2位 独占

なんと、娘の宇多田ヒカルでさえ、成し得なかった同一歌手による第40週連続1位2位 独占!

これは、2006年に浜崎あゆみ が実現させるまで

36年間

誰ひとり 達成できなかった記録である

この彗星の如く現れた藤圭子の登場で…これが、きっかけで森進一、前川清があとを追う かっこうとなり、五木ひろし、八代亜紀などをひきあげる結果となる

まさしく、上位ベスト5を演歌で占める演歌パワーをみせつけた…

GS時代 - フォーク・ブーム - 演歌の浮上 - ニューミュージックの到来 - J・ポップ

あるいみで 藤圭子の登場で演歌は新しい視点を持ち、日本歌謡は この大きなジェンジを認識したのは、確かだっ