「運命と宿命」 (1) 人の行動を操作するもの ―――――――――――――――――――――――――――――― 果たして人には、「運命」や「宿命」といったものがあるのでしょうか。 あるとしたら、それはどのようのものなのでしょう。 一定の考察を辿ったときに、どうやらそれは確かに存在すると考えられるのです。 −−−−−−−−−− −−−−−−−−−− −−−−−−− 『 我々の人生は、確定未来形である 』 ・・・ その一 人の運命と宿命というものを考える上で、かなり貴重な資料となるものが、『神の御業で救われた15人の聖歌隊の命』という過去に実際に起きた事件です。1950年にアメリカで起きた出来事です。 これはあまりにも有名な事件ですから、ご存知の方も多いと思いますが、一応、その事件の概略を紹介しておきます。 『神の御業で救われた15人の聖歌隊の命』 アメリカのある教会では、いつも7時20分から、合唱の練習が始められる予定になっていた。ところが、その日、15名の聖歌隊員は、時間になっても、一人も集合しなかった。 そして、7時25分に、その教会で大爆発が起こり、建物が倒壊してしまった。もし、隊員達が定時に集合していたら、大惨事になったのは間違いがなかった。 では15名の隊員達は、なぜ定時に集合しなかったのかであるが、実は、それぞれが全くバラバラの事情で、たまたま出掛けるのが遅くなっただけであった。 ある女性の場合は、車の調子が悪く、なかなかエンジンがかからなかったためであり、またある母娘の場合は、娘がうたた寝をしてしまったためであり、さらに別の二人の女性は、聞いていたラジオ番組があまりにも面白かったために、ついつい出遅れてしまったのだという。 これは、1950年3月27日号の 「ライフ紙」に、実際に起きた出来事として紹介されたものです。 ( 『世にも不思議な偶然の一致』(梁瀬光世監修 学習研究社)参照 ) このようなあまりにも不思議な出来事が、教会の聖歌隊の人たちに起きたために、まさしく「神の御業」であるということになったようです。確かにこれは、そのように言う以外に、説明のつけようがない出来事です。 しかし、この出来事は、次のように考えることが可能です。つまり、彼ら15人はこの時には、まだ死ぬべき「運命」には無かったと。 そして、彼らを死の危険にさらさないような、何等かの「機能」があちら側の世界で働いたためであると。 ですからその時に生じた現象というのは、「偶然の一致」という現象ではなく、それぞれの人達に、本来の「運命」をまっとうさせるために「機能」した何らかの ”力” であったということになります。それがたまたま15人も集まってしまったために、「神の奇跡」になってしまったのです。 このように考えると、敢えて「神」というものを持ち出さなくても、なんとか説明がつけられるように思うわけです。勿論、そのような「機能」を働かせたところに、「神」というものの存在を想定するのは、その人の自由です。 さて、ここでもう一度、この出来事の具体的な内容について、振り返ってみることにします。これはけっこう重要なことです。彼らがなぜ、ガス爆発に巻き込まれずに助かったのかを調べることは、今現在、我々が生きているこの世界が、どのような仕組みで創られているかということを知ることにつながるからです。 そこで、この出来事がわりに詳しく書かれている別の本から、必要な部分だけを抜粋して、下に紹介しておくことにします。 「 聖歌隊員たちの遅刻は、もちろん申し合わせたものなどではない。それぞれ些細で個人的な理由によるものであった。 たとえば、聖歌隊のリーダー役のマーサ・ポールさんと、その娘のマリリン・ポールさんは、いつもは7時15分ごろまでに協会に着いていた。しかしこの日だけは、なぜか親子そろってうたた寝をしてしまい、目が覚めたときは7時15分になっていたという。しかも、あわてて出かける段になって、マリリンさんの服が汚れているのに気づき、着がえていたので、いつもより20分以上、家を遅く出ることになったのである。 高校生のレダーナ・バンデクリフトさんは、練習の前に数学の宿題に取り組んでいたのだが、難しくて時間がかかり、ふと気がついたときには、練習に遅刻しそうになっていた。いつもまじめで遅刻などしたことのない彼女だったが、なぜかその日は、『宿題を終えてから行こう』という気になった。 近所に住む同級生のロイエナ・エステスさんと、妹のサディは、自分の家の車が故障したため、レナーダさんの家の車にいっしょに乗せて行ってもらうことになっていたので、レナーダさんの遅刻のしわ寄せで自分たちも遅刻した。 やはり高校生のルシール・ジョーンズさんは、ラジオ番組を聞いているうち、どうしても最後まで聞きたくなり、『今日だけなら遅刻しても‥‥‥‥ 』という気になった。いつもルーシーさんといっしょに教会に出掛ける友人のドロシー・ウッドさんは、やはり彼女につきあって遅刻することになった。 教会の裏手に住む速記タイピストのジョイス・ブラックさんは、何となく体がだるく、なかなか腰を上げる気になれなかった。やっと立ち上がって家を出ようとしたとき、すぐ近所にあった教会が爆発したのである。 旋盤工のハーバード・ケプトさんは、教会に提出するレポートを書いていて、思ったより時間がかかったため遅刻した。 ウォルター・クレンプル牧師は、自分の腕時計が遅れていることに気づかず、予定通りに家を出たつもりで遅刻した。 機械工のハービー・アールさんは、妻が留守のため、幼い息子たちを教会へいっしょに連れて行こうとしていたのだが、ぐずる子供たちの支度に手間取り遅くなった。 このほかの4人も含め、結局全員が、幸運にも爆発が起こったあとで教会に到着することになったのである。 < ーー 途 中、一 部分 省 略 ーー > ーーー しかも、時間にルーズな人が多い集団ならともかく、彼らは教会の聖歌隊に入っているくらいで、まじめで几帳面な人ばかりだった。リーダーのマーサ・ポールさんが時間にやかましい人だったこともあって、聖歌隊員たちは、練習のある日はいつも、7時20分に全員が教会に集まっていた。 聖歌隊が結成されて以来2年間、遅刻をする人はひとりもいなかったのに、この日だけは、時間にうるさいマーサ・ポールさんをはじめ、全員が聖歌隊に入って初めての遅刻をしたというのである。ーーー 」 ( 『報道できなかった偶然の一致』 秋山真人監修 竹書房文庫 5章 あやかりたいこんな偶然 爆発から15人の命を救ったのは、1億分の1の確率でした遅刻だった! より ) 以上のように、隊員が遅刻した理由は、それぞれまったくバラバラでした。それを項目別に整理してみると、次のようになります。 ○ なぜか親子そろってうたた寝をしてしまった。(2名) ○ なぜかその日は『宿題を終えてから行こう』という気になった。(1名) ○ 自分の家の車が故障し、いっしょに乗せて行ってもらうことになっていたレナーダさんの遅刻のしわ寄せで、自分も遅刻した。(2名) ○ ラジオ番組をどうしても最後まで聞きたくなり、『今日だけなら遅刻しても ‥‥‥ 』という気になった。(2名) ○ 体がだるくて、なかなか腰を上げる気になれなかった。(1名) ○ 提出が迫ったレポートを書いていて、思ったよりも時間がかかったために遅刻した。(1名) ○ 自分の腕時計が遅れていることに気がつかずに、定刻通りに家を出たつもりでいて遅刻した。(1名) ○ ぐずる子供たちの支度に手間取り遅くなった。(1名) ○ その他、不明 (4名) さて、原因が分かっているこの11名に共通するものは、一体、何かということです。それはおよそ、次のようにまとめることが出来ます。 * いましばし惰眠をむさぼりたいという欲求。 * 今やっている宿題のほうを、優先させたいという欲求。 * 不注意により、自分の家の車を故障させてしまった。 * このままラジオを聞いていたいという欲求。 * 体調の不良で、今はまだ動きたくないという欲求。 * 自分の能力以上のものを書きあげたいという欲求。 * 不注意で、自分の時計の遅れに気づかなかった。 * 一緒につれていく子供たちがぐずった。 不注意というのは、本来であれば気付くことが他の欲望や欲求に支配されているために、注意力が散漫になっている状態と考えることが出来ます。また子供たちがぐずったのは、欲求が十分に満たされていない状況にあったからであると考えられます。 ですから、この11名の人たちは、それぞれ全員が「欲求」と、「欲望」とに支配されていたことになります。あるいはその巻き添えをくった事になります。 つまりその時、そうした「欲求」と「欲望」にコントロールされたことによって、彼ら11名は幸いにして、大事故に巻き込まれるのを免れることが出来たのです。 もし彼らがもともと予定されていたとおりに、自分自身の当初の意志のまま行動していたら、15人の隊員は全員がその事故に巻き込まれていたはずなのです。しかし実際には、そうなりませんでした。彼ら全員に、通常では起こりえないことが起きたからです。たしかにそれは偶然に生じた些細なことの積み重ねのように見えるものの、全体的に見れば、信じがたいような不可解な出来事になったのです。 そして、それはあちらがわの世界にある、何等かの「機能」が働いたからであると考えられるわけです。それこそは人の「運命」を調節する機能であり、こころの動きを通じて人の行動にまで働きかけることの出来る機能です。 そうしたものが働いたことによって、この時、彼ら十五人の命は救われたのです。そして、そのために実際に使用されたものが、誰の心の中にもある「欲求」と「欲望」であったということです。 以上によって、我々は、あちらがわの世界に存在する「機能」の一つを探り当てたことになります。そうしたものが確かに存在すると考えざるを得ないわけです。 ところで、この「欲求・欲望」という言葉は、仏教用語の「煩悩」という言葉に置き換えると、理解しやすいように思います。 仏教では、人には「百八つの煩悩」があると言います。今まではそうしたものが在るからといって、べつに気に掛けることもなかったのですが、どうやらそれはただあるのではなくて、それによって人の「運命」がコントロールされているということのようです。実際に人の行動が、それによって操作されているのです。「煩悩」というものに対する認識を新たにする必要がありそうです。 ですから我々には一見、「自由意志」というものが存在しており、人はその自由意志に従って、自分自身の判断で行動しているようにみえながらも、実のところは、定められた「確定未来形の人生」を歩くように、きっちりと調整されていると考えることが出来るわけです。上に紹介した15人の聖歌隊員に起きた出来事は、そのことを示唆しているのです。 さて、それでは、そのようにして調整された結果、どのようなことが生じるかという具体的な事例がありますので、次回に紹介しましょう。 2001. 3. 27. 店主記す |