「運命と宿命」 ・・ (5) 五千年前に知られていた現代人の運命
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          果たして人には、「運命」や「宿命」といったものがあるのでしょうか。
          あるとしたら、それはどのようのものなのでしょう。
          一定の考察を辿ったときに、どうやらそれは確かに存在すると考えられるのです。


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    『 我々の人生は、確定未来形である 』・・・ その五


  我々は誰もが、自分自身の意志に基づいて行動し、自分自身の考えに従ってすべてを判断しています。大事な人生の岐路においては、それこそ迷いに迷い、必死になって考えて、ようやくにして最善と思われる決定を下すのです。まさにギリギリの判断を下すわけです。
  それは紛れも無く、自分自身の意思で下した決断です。どこからも、誰からの影響も受けない自分自身の判断です。

  それにもかかわらず、先に紹介した「双子のジム兄弟」の事例や、「フランク・ジョセフさんとイグナティウス・ドネリー」の事例では、次元を超えたあちら側の世界に、我々の「運命と宿命」を決定するものが存在することを示しています。つまり我々の自由意志による選択とは無関係に、我々の人生の必然性が、すでに決定されているのです。
  要するに我々の必死の判断も、ギリギリの決断も、あらかじめ決められていた選択であったということです。自分の意思で下したはずの決断さえもが、すでに決まっていたということなのです。それ故に先の事例のような、絶対に起こるはずの無い数々の偶然の一致が生じるわけです。
  それは人のこころの働きを調節するものが、あちら側の世界に存在するからです。それによって我々の行動は、知らず知らずのうちにコントロールされているのです。従ってこの世界で生じる出来事は、決して偶然に生じるものではなく、運命と宿命の糸によって導かれた必然であると考えられるわけです。先に紹介した幾つかの事例は、そのことを物語っているのです。

  さて、このことを認識したときに、例の「アガスティアの葉」の存在が、極めて重要な位置を占めることになります。なぜならこれは、我々の「運命と宿命の書」とされるものだからです。


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  「アガスティアの葉」は、約五千年も前に書かれた予言書であるということです。聖者・アガスティアが、シヴァ神に祈りを捧げて、「人の運命」についての教えを受けたというものです。それが「椰子の葉」に書かれていることから、アガスティアの葉と呼ばれています。
  そしてその中には、その地を訪れる人たちの「人生の設計図(過去、現在、未来の出来事)」が、かなり正確に予言されているということです。


    参照資料 『アガスティアの葉』(青山圭秀著 三五館)

  この本の著者である青山圭秀氏の場合は、誰も知るはずの無い運命的な出来事が、かなり正確に予言されていたということです。
  本の中に紹介されている事例を、幾つか具体的に紹介しておくことにします。

  そのアガスティアの葉には、実際に、次のようなことが書かれていたということです。

  ○ まず両親の名前が、父が青山キンヤで、母が青山タカコであること。
  ○ 数日前に、司祭からもらった「ディーパック」というヒンドゥ名が、その記述の中に出てきたこと。
  ○ その予言書を読みに行く年齢、及び、その時期が一致していたこと。


  これらによって青山圭秀氏は、その予言書が、確かに自分のものであることを確信したと言います。
  また、後日行ったときには、さらに次のようなことを知ることが出来たということです。


  ○ 青山圭秀氏の結婚についての予言では、その予言書を読んだ翌年に、氏が結婚するであろうこと。
  ○ 子供は男の子と、女の子が授かること。

  しかも、これだけにとどまらずに、

  ○ 氏には、リウマチの持病があること。
  ○ 20**年の2月、木曜日の夕方に、この世を去ること。
  ○ その際に妻と、子供たちと、その伴侶たち、四人の孫たち、三人の弟子達が立ち会うこと。

         ( 以上、同書 第九章 生命の絶えざる流れ より )


  これ等のことが、その五千年も前に記されたアガスティアの葉に記されていたというのです。
  さらにこれ以外にも、この予言書を読みに行った時点で、青山圭秀氏が置かれている境遇や、その後、何歳の時に、どのようなことが生じるかなどが、かなり具体的に書かれていたというのです。

  そのことについても簡単に紹介しておくと、青山氏は死の三年後に、南インドで生まれ変わるということです。ただし、来世では妻帯せずに、三十九才で心臓発作で死ぬ。その後は、再び生まれ変わることがないということです。つまり青山氏は、来世で“ 解脱 ”するということです。

          ( 以上、 第十一症 カルマを解消する儀式 より )


  さて、以上は、青山圭秀氏が現地で、実際に体験したこととして、この本の中に紹介されているものです。

  こうした事実関係に基づいて判断するならば、20世紀、さらには21世紀の現代に生きる青山圭秀氏の運命と宿命は、何と、五千年も前に、聖者アガスティアによって正確に知られていたことになります。

  これは通常の感覚では、およそ信じられない事態です。そんなことは絶対に、ある筈が無いと考えるのが普通です。しかしその絶対にあるはずの無いことが、起きていることもまた事実なのです。
  日本人である父や母の名前が、突然、そんな異境の地で、正確に呼ばれることは予想すら出来ないでしょう。誰にも、絶対に、知られているはずがないからです。しかし、それが呼ばれたのです。
  しかも、そのほかの予言の内容も、極めて正確であることから、どうしても信じないわけにはいかないのです。そうした信じがたいことが、実際に起きているということです。

  ここではまず、そうした事実が、現実に存在するということを認識する必要があるわけです。この事実認識こそが、新たな出発点となります。


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  ところで、そのアガスティアの予言は、各個々人について、十六の部屋(章)に分けて記述されており、その各部屋ごとに主要なテーマがあるということです。
  従って青山氏は、そのうちの一部しか読んでいないことになります。それらの全てを読めば、もっともっと詳しいことを知ることができるということです。
  ついでに、その各部屋について説明されている部分も、参考のためにここに紹介しておくことにします。


  第一の部屋  男性は右手、女性は左手の指紋を採取し、または縁者のホロスコープから予言書を検索する。本人の名前、両親の名前、仕事の状況、兄弟、姉妹、結婚等、十二の部屋に関するあらゆることを網羅する。

  第二の部屋  金銭、視覚、家族の教育、言葉。

  第三の部屋  兄弟・姉妹の数、兄弟・姉妹間の愛情、憎悪、聴覚、訴訟、家事。

  第四の部屋   母親、家、乗り物、土地、喜び。

  第五の部屋  子供の誕生と死、子供を授からない理由、子供を持てないカルマからの救済法の実践、子供の将来。

  第六の部屋  病気、借金、敵に関するカルマからの救済。

  第七の部屋  結婚の時期、相手の名前とラグナ(上昇宮)、妻又は夫との占星学上の関係、妻又は夫との将来の生活。

  第八の部屋  寿命、事故、危険、死年月日・時刻、臨終を迎える際の星回りと場所。

  第九の部屋  父親、富、寺院への訪問、幸運、聖者の教え、慈善行為。

  第十の部屋  職業、引っ越し、仕事の善悪。

  第十一の部屋 利益、二度目の結婚。

  第十二の部屋 出費、外遊、来世、解脱の達成。

  第十三の部屋 過去の罪、過去世の罪からの救済法。

  第十四の部屋 マントラ、ジャパム(神の名を唱えること)、敵や困難を避けるためのラクシャ(タリスマン:護符)の着用。

  第十五の部屋 慢性病のための治療法。

  第十六の部屋 進行中のディサプクティ(長・短周期)についての予言。

      ( 第十章 理性の願い・科学の夢 より)


  以上のようなことが、各個人について、詳細に記されているというのですから、まさに驚きです。五千年以上も前に、その人の人生で生じるあらゆることが、すべて予見されていたことになるからです。
  しかも“今生”での出来事だけでなく、過去世や、来世に関しても記されているというのですから、まともな感覚ではそれこそ ”信じられない ”ということになるに違いありません。

  でも最近、私は、おそらくこれは、信じるに足ものであろうと思っているのですよ。σ(^.^;。。


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  さて、「アガスティアの葉」という予言書は、五千年以上も前に書かれた我々の「運命と宿命」の書です。しかもそこには我々の“今生”の出来事だけでなく、過去世や、来世に関しても記されているというのですから、まともな感覚ではとうてい理解できないに違いありません。

  五千年前と言ったらキリストや、釈迦が生まれる以前の遥かな大昔のことです。人口も今の何百分の一、何千分の一というごくごくわずかしかいなかった時代です。人類がこれほど繁栄し、大都会では狭い空間に多くの人々が、互いにひしめき合いながら暮らしている情況などは、おそらく当時の人は想像することさえ出来なかったに違いありません。
  ですからそんな時代の人たちに、二十一世紀の現代人の意識構造や、精神状態・心理状態などは分かるはずが無いのです。つまり現代人の思考パターンや、行動様式など絶対に知られるはずが無かったということです。従って遥かな未来の現代人の運命も、絶対に知られる筈がないと考えるのがごくごく一般的な考え方です。

  しかしながら、そうした常識的な考え方に捕らわれていては、青山氏が実際に体験した出来事を説明することが出来ません。またその後も、様々なテレビ番組の企画で現地を尋ねた人たちがいるのですが、彼等も実際に、そこで自分たちの葉っぱを見つけているのです。そして、絶対に知られるはずの無いことが、その葉っぱに書かれていたのです。この事実に対する説明がつけられません。

  そこで想像力を最大限に駆使し、さらに妄想にまで発展させた時に、たとえ五千年も前の人にでも、そうしたことが分かったとしても不思議ではない状況を想定することが可能です。
  それは、この世界そのものが実は、「確定未来形の世界」であるというものです。要するにこの世界は、すでに確定している一定のプログラムに従って順次進行して行く世界であるということです。

  もし、この世界そのものが「確定未来形の世界」であり、その中に組み込まれている我々の人生のプログラムもまた確定しているのであれば、たとえ我々現代人の過去、現在、未来を五千年も前に予言した人がいたとしても、何ら不思議ではなくなります。我々の人生のプログラムは、この世界全体のプログラムの中に組み込まれているのであって、決して独立して存在するわけではないからです。
  そして、『聖書』の創世記が一つの歴史書として読めたように、我々の運命のプログラムもまた、聖者・アガスティアの特殊な能力によって知られていたと考えるなら、このこともそれなりに了解することが出来ます。つまりあちら側の世界を覗くことが出来る人であるならば、そこに設定されている我々の人生のプログラムを読み取ることも可能であるということです。

  さて、それでは、この世界全体のプログラムはいつ創られたのかということになりますが、実は百五十億年前のビックバンより以前に創られたと考えられるのです。これは先に述べたような『旧約聖書』の「創世記」の部分の解釈と、仏教経典の中の或る経典の解釈とを結びつけたときに導き出されるものです。
  その内容を簡単に紹介しておくと、この世界は、何度も創造と破壊(膨張と収縮)を繰り返している世界であり、その一回ごとのプログラムが、この世界が創造される前にすでに確定しているということです。『旧約聖書』の冒頭部に突出して記されている「初めに、神は天地を創造された」という一文は、まさしくそうした意味を持っているということです。
     ( これに関しては、後で、章を改めて触れることにします。)

  ですから、今回のこの世界での我々の人生のプログラムは、百五十億年前のビッグ・バンよりも以前に、この世界全体のプログラムと一緒に創られたのであり、聖者・アガスティアはそのうち、人の一生に関する部分のプログラムを読んだに過ぎないということです。
  従って輪廻転生というものがあるとすれば、この世界でその人が何回、輪廻転生するかも、その時点ですでに決まっていたことになります。そうした個々人の輪廻転生をも含む全てのプログラムが、実はこの世界の始まりの時に、すでに確定していたのです。これが「確定未来形の世界」という言葉の本来の意味です。


  こう考えると、聖者・アガスティアが書き記したその葉っぱに、我々の“今生”の出来事だけでなく、過去世や来世のことまでが記されているからといっても、なにも驚くには当たらないということになります。
  聖者・アガスティアと同等の能力さえあれば、現代人の我々でも、同じことを知ることが可能なはずだからです。要するに、百五十億年前に出来上がっていた運命と宿命のプログラムであるならば、それを五千年前に読んだ人がいたとしても、何ら不思議ではないということです。五百万年前のアダムとイブが読んだとしても、不思議ではないということです。


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  ところで、そのアガスティアの葉がある館は、小さな村になっているそうです。また葉っぱの綴りも何ヶ所かに分散していて、一つの館で見つからなくても、別の館で見つかることがあるそうです。
  そして、そのアガスティアの葉がある館には、旅行会社の観光ツアーが組まれていて、日本からも毎回、かなりの人たちが訪れているそうです。

  ただしそのすべての人に対して、青山氏の時と同じような丁寧な対応が為されるとは限らないでしょうから、時には、それなりの対応で済まされてしまう人もいることでしょう。
  ましてや最初から疑ってかかるような人には、現地の人も気分的に、親切な対応はしにくいでしょうから、その人たちの葉っぱが見つからなかったとしても、むしろ当たり前と言えるでしょう。ですからそのことを持ってして、このことに疑義を差し挟む人がいるとしたら、むしろ問題はその人の方にあると言えるわけです。

  しばらく前のテレビ番組で、ある女性タレントが「あった。あった」と大喜びしていました。その時に同行したある著名な科学者は、質問された内容の一つに回答しなかったために、結局、無視されてしまいました。
  例の超常現象を一切合切否定する人でしたから、相手もすぐ見限ったようです。途中で説明を打ち切ってしまいました。テレビ局で事前に、必要な項目の準備をしなかったのか、或いは、その人がとぼけたのかは不明です。もし必要な要件がそろえば、その人の葉っぱも見つかったことでしょう。むしろそれを恐れたのかもしれませんが、せっかく多額の経費を使って現地まで行ったのに、これではなんのための調査かわかりません。

  以前、そうした団体の世話をしている人から聞いた話では、団体のツアーで行く人たちも、ほとんどの人が、自分の葉っぱが見つかるということです。これもまた驚異的な出来事です。裏で何か細工をしているのではないかと疑う人が出るのも、無理からぬところです。

  もっともこの件を科学的に調べようとしても、調べようが無いのも事実です。現地の人たちにしてみれば、決められた手順に従って、決められたルートでその葉っぱの綴りを探して持って来るだけでしょうから、その人に聞いたからといって、何かが分かるということもないでしょう。
  ただし指紋と、生年月日と天球図だけで、その人の葉っぱが含まれている綴りに行き着くというその過程にこそ、我々の「運命と宿命」を創り出す何らかの法則・原理が隠されているような気がします。
  その作業は、カーテンで仕切られた後ろの部屋で行われているために、その手順を知ることが出来ないのが残念です。どうやらこれは極秘事項になっているようです。おそらく職業的なノウハウでしょうから、公開されることも期待できないでしょう。


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  さて、以上のように、二十一世紀の現代に生きる我々の運命と宿命が、五千年も前に、聖者・アガスティアによって知られていたことが分かりました。それはこの世界が「確定未来形」であるからこそ可能であったのです。要するに我々の人生のプログラムは、この世界全体のプログラムの一部であるということです。

  ところで、我々の人生のプログラムがすでに決められているとしても、それでは何がどのように関係して、そうした「運命と宿命のプログラム」が決定されるのであろうかという疑問が生じます。
  つまり、我々の運命と宿命を決めるそもそもの要因となるものは、いったい何んなのかということです。
  そのことを解く鍵になりそうな事例がありますので、次に紹介することにします。




                           2001. 5. 8.        店主記す





 



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