「運命と宿命」 ・・ (6) 人の運命を創る要因とは何か
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          果たして人には、「運命」や「宿命」といったものがあるのでしょうか。
          あるとしたら、それはどのようのものなのでしょう。
          一定の考察を辿ったときに、どうやらそれは確かに存在すると考えられるのです。


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    『 我々の人生は、確定未来形である 』・・・ その六


  どうやら我々の「運命と宿命」は、我々が生まれる以前に、すでに決まっているらしいことが分かりました。しかも、五千年も前に書かれたという「アガスティアの葉」の存在は、実はこの世界そのものが確定未来形であり、我々の運命と宿命は、その中の一部に過ぎないということを物語っているわけです。
  つまり我々の運命と宿命は、この世界が創られた時にすでに決まっていたのであって、我々は、この世界の時間的な進行とともに、確定未来形の人生を歩んでいるということです。

  ところで我々の人生を決める「運命と宿命のプログラム」とは、一体、なんなのでしょうか。何がどのように関係して、そうしたプログラムが決定されるのでしょう。つまり、我々の運命のプログラムを決めるそもそもの要因となるものは、一体何なのだろうかということです。

  ごく当たり前に考えれば、そんなことが分かる筈がありません。そもそも「運命と宿命」にしてからが、あるとも無いとも決まっていないのです。そんなことを考えることは、愚の骨頂だと思っている人の方が多いくらいなのです。
  ですから、そんなことは、知るはずも分かるはずも無いと言って、さっさと諦めてしまえば、この問題追求はその時点で終わってしまいます。このシリーズも、ここまでです。
  しかし、それではちょっと残念な気がします。せっかくここまで探ってきたのですから、何かそれらしきものでもつかめないものかと、微かな期待が残ります。そうした悔いを残さないためにも、もう少し先まで進んでみることにします。もし何かが見つかれば、もっけの幸いといったところです。


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  さて、そのことを解く手掛りになりそうな事例がありますので、ここに紹介しておくことにします。

  次に紹介するのは、例のテレビ番組「アンビリバボー」(フジTV) <1999/2/4(木)> で放送されたものです。
  内容は「小説」に書かれたことが、後で、現実の出来事として発生したというものです。おそらく御覧になって、記憶されている方も多いことでしょう。
  以下、その概略を、簡単に紹介しておくことにします。

           ↓       ↓       ↓       ↓


  【 具体事例 その1 】

  イギリスの豪華客船、タイタニック号は、1912年4月14日、氷山に衝突して沈没した。
  これは14年前の、1898年に出版されたモーガン・ロバートソンの小説、『タイタン号の遭難』の内容と、ほぼ一致する。

  両者を比較しながら並べてみると、次のようになります。

   ○ 船の名前      タイタニック号      タイタン号
                 ( どちらも巨大なという意味 )
   ○ 全長        800フィート      882.5
   ○ 排水量       七万五千トン      六万六千トン
   ○ 乗 客       3000名        2207名
   ○ 処女航海      4月           4月
   ○ 衝突時の速度    25ノット        23ノット
   ○ 救命ボート     24隻          20隻
   ○ プロペラの数      3枚             3枚
   ○ どちらも救命ボートの不足から、多数の犠牲者を出した。


  ただし、テレビの再現映像では、事実関係の説明に一部、不足している部分がありました。以下、その内容を捕捉しておきます。

  〔 捕捉、その一 〕
  ○ どちらも4月に、サザンプトン港から処女航海に出発した。
  ○ 乗客は、裕福な人たちであった。
  ○ 船は、大西洋の北方航路で、氷山に衝突した。
  ○ 「絶対に沈没しない」と言われていたために、積み込まれた救命ボートの数が足りなかった。

  〔 捕捉、その二 〕
  1892年、W・T・ステッドという記者が、ロンドンの「レビュー・オブ・レビューズ」紙に、海難事故に対する予防措置が不十分であることを指摘する記事を載せた。その中に「短編小説」を載せた。
  その小説の内容は、「巨大な定期船が北大西洋で氷山に衝突し、救命ホート不足のために多くの犠牲者が出る」というものであった。


  〔 捕捉、その三 〕
  遭難事故から23年後の1935年4月14日。不定期貨物船、タイタニアン号で起きた出来事。
  * ウィリアム・リーブズという若い乗組員が、深夜の当直に当たっていた。
  * タイタニック号の遭難現場に差し掛かったときに、突然、不安を感じたウィリアム・リーブズは、大声を挙げて、船を止めさせた。
  * 調べてみると、船の数メートル先に、巨大な氷山がそびえ立っていた。
    (異説 → 衝突したが、スピードが落ちていたので損傷が少なく、全員が無事であった。)

      ( 以上『報道できなかった偶然の一致』竹書房 監修 秋山真人 参照 )


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  【 具体事例 その2 】

  1838年に出版された、エドガー・アランポーの小説、『アーサー・ゴードン・ピム』は、次のような内容の小説であった。

  ○ 四人の男たちが、海で遭難した。
  ○ 数週間漂流を続け、水と食料は、すでに底をついていた。
  ○ こうした極限状況の中で、四人はくじを引くことにした。それは、悪魔のくじ引きであった。
  ○ それは具体的には、誰か一人が、他の三人の食料になるというものであった。


  その46年後。
  1884年10月28日、イギリスで、四人の男たちが、海で遭難するという事件が起きた。

  ○ 水と食料は、すでに底をついていた。
  ○ 一人が、くじ引きを提案した。
  ○ それは小説の内容と同じく、悪魔のくじ引きであった

  小説からの一節。
   『 私が木切れを差し出すと、ピーターズがすぐに引いた。彼は逃れた。私が助かるとは決まらなかった。私は、勇気を奮って、オーガスタの方へくじを出した。彼はすぐ引いた。彼も逃れた。
    今や私は、死ぬか生きるか、運はまさに五分五分であった。私はぶるぶる震えながら、残った木切れを、彼の方へ差し出した。彼がそれを引く決心が付くまでに、たっぷり五分は掛かった。二本のくじの一本が、私の手から引き抜かれた。マッチは決まった。』

  現実には、
   * 最初の男は、難を逃れた。
   * 二番目の男も逃れた。
   * 地獄への切符は、三人目の男と、最初にそれを言い出した男のものになった。
   * 結局、小説の内容と同様に、くじ引きを言い出した男が当たった。

  また小説では、、、
    『 ぐさりと背中を突き刺し、犠牲者の血をむさぼり食った』となっている。


  この事件に関する補足説明。
  ○ 小説の中では、犠牲になった男は遭難した船の乗務員であった。
  ○ 現実に犠牲となった男も、その遭難した船の乗務員であった。
  ○ 小説の中では、リチャード・パーカーという名前の人物が、仲間の食料にされたことになっている。 
  ○ 現実に犠牲となった男も、リチャード・パーカーという名であった。
  ○ 裁判の時の証言では、彼らはいずれも、その小説の内容を知らなかった。


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  【 具体事例 その3 】

  1974年に起きた、パトリシア・ハースト事件。

  ○ 新聞王ハーストの孫娘が、テロリストの一団にさらわれた。
  ○ 彼女は、さらわれた後で、洗脳されていた。
  ○ 数ヶ月後、パトリシア・ハーストは、その一味に加わって、一緒に強盗を働いた。

  これは1972年のジェームズ・ラシクの小説『黒の誘拐者』のストーリーと同じ内容であった。
  そしてその主人公は、同じ名前のパトリシア・ハーストであった。


           ↑       ↑       ↑       ↑


  以上は、いずれも「小説」として書かれたものが、後に、実際の出来事として発生したというものです。つまり小説のストーリーとほぼ同じような出来事が、現実に発生したわけです。従って、その人たちにとっての運命と宿命のプログラムは、以前に書かれた小説の内容であったということになります。

  これは前に紹介した、「フランク・ジョセフさんとイグナティウス・ドネリー」の事例と共通するものを含んでいます。
  フランク・ジョセフさんの場合は、実際に百年前に生存したイグナティウス・ドネリーの人生のプログラムを共有していたわけですが、上に紹介した事例との間にいかなる共通項があるかが分かれば、大きな手がかりを得ることが出来ます。つまり我々の「運命と宿命」というものは、果たして、何に由来するのかという疑問を解く鍵になるに違いないということです。

  そのための手がかりとなるものを、具体的に示すと、次のようなことになります。

  まず、モーガン・ロバートソンの小説『タイタン号の遭難』の場合には、その後に建造された船に、

  ○ タイタニック(タイタン)号という船が造られる。
  ○ 船の全長   800フィート(882.5)
  ○ 排水量  七万五千トン (六万六千トン)
  ○ 乗 客   3000名  (2207名)
  ○ 処女航海    4月 
  ○ 救命ボート   24隻   (20隻)
  ○ プロペラの数  3枚
  ○ 4月にサザンプトン港から、処女航海に出発する。
  ○ 乗客は、裕福な人々である。
  ○ 船は、大西洋の北方航路で、巨大な氷山に衝突して沈没する。
  ○ 衝突時の速度は、25ノット(23ノット)
  ○ 「絶対に沈没しない」と言われていたために、救命ボートの不足から、多数の犠牲者を出す。

  という内容の出来事が、実際に発生したわけです。


  また、エドガー・アランポーの小説『アーサー・ゴードン・ピム』の場合には、その後に発生した遭難事故で、

  ○ 四人の男たちが、海で遭難する。
  ○ 数週間、漂流を続け、水と食料が底をつく。
  ○ 極限状況の中で、四人は、くじを引くことになる。
  ○ それは、誰か一人が、他の三人の食料になるというものである。
  ○ 最初の男は、難を逃れる。
  ○ 二番目の男も逃れる。
  ○ 地獄行きの切符は、三人目の男と、最初にそれを言い出した男のものになる。
  ○ 結局、くじ引きを言い出した男が、そのくじに当たる。
  ○ 犠牲となる男は、遭難した船の乗務員である。
  ○ そして、犠牲となるその男の名前は、リチャード・パーカーである。

  という内容の出来事が、実際に発生したわけです。


  さて、ジェームズ・ラシクの小説『黒の誘拐者』については省略しますが、これらに共通しているものは、果たして、何かというとです。言い換えれば「小説」と、「現実の出来事」との共通項は、一体、何であろうかということです。


  結論から先に申し述べるならば、それは「“意味”の連続体」とでも言うべきものです。もう少し丁寧に言うと、「意味のあるストーリー(意味の集合体)」です。
  これこそが「小説」の内容を構成するものであり、また、我々の「運命と宿命」とを形創る要因となるものです。すなわち、「小説」と人の「運命と宿命」とに共通するものであるということです。

  少々分かりにくいので、少し説明を加えておくなら、次のようなことになりまです。
  よく「小説」というのは、人生の一断面を鋭く切り取ったものであるという言い方がされます。つまり人の生涯の一側面こそが、小説の基本となるものです。それが小説の素材であり、作家にとっては、貴重な資料となるわけです。
  また人の一生は、よく長編小説にたとえられます。それはまさにこの世に生まれてから、死ぬまでの起承転結のある長編小説です。しかも「膨大なストーリー性」を持った小説にほかなりません。
  要するに「小説」が、起承転結を持つ一つのストーリーとして構成されるのに対して、我々の「人生」もまた、起承転結を持つ膨大なストーリー(意味の集合体)であると考えることが出来るわけです。

  このように、両者の共通項として浮かび上がって来るものが、「意味のあるストーリー(意味の集合体)」なのです。要するに、小説も人の一生も「意味のあるストーリー(意味の集合体)」すなわち、「“意味”の連続体」で形創られているということです。      


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  上に紹介した事例は、いずれも小説として書かれたものが、後に、現実の出来事として発生したというものです。それは小説の中身が、「フランク・ジョセフさんとイグナティウス・ドネリー」の事例と共通するものを含んでいるからです。それが「意味のあるストーリー(意味の集合体)」であり、端的に言い表せば「“意味”の連続体」です。
  そして、この共通項により、小説に書かれた「意味のあるストーリー(意味の集合体)」が、時として、人の「運命と宿命」にもなり得るということです。上に紹介した幾つかの事例は、そのことを物語っているわけです。

  しかも多くの小説が、人の人生の一断面を描くだけなのに対して、人の一生こそは、途中で途切れることのない「意味のあるストーリー(意味の集合体)」の連続体であるといえるわけです。その連続が途切れた時には、人の死が待っています。それまでは連続して、一本につながっています。「“意味”の連続体」というのは、このことを指します。


  ところで上の事例の場合に、彼等がそうした「運命と宿命」を辿るべく、作家たちに、そのような小説を書くことが運命づけられていたと考えることも可能です。つまり今回のこの世界では、そうした事件の起きることがプログラムされていなかったために、必要性に応じて付け加えられたということです。
  ただしその場合にも、作家たちのそもそもの発想が、例のアガスティアと同様に、すでにあちら側の世界に存在している「運命と宿命」を、感知したためであったという考え方が成り立ちます。つまり作家の創造力も、やはりあちら側の世界と結びついて生み出されるということです。従って、やはり人の「運命と宿命」のプログラムの方が、先行して存在していることになります。

  いずれにしても、我々が「運命と宿命」と呼んでいるものは、実は、一連の「意味のあるストーリー(意味の集合体)」で構成されているということです。それがすなわち、「“意味”の連続体」です。


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  さて、上のような認識を基にして、実際に我々の「運命と宿命」というものを考えると、かなり理解しやすくなります。
  そのことを確認するために、前に紹介した事例を使って検討してみることにします。

  例の「双子のジム兄弟」の場合は、次のような「運命と宿命」のプログラムを持っていました。つまり、「意味のあるストーリー(意味の集合体)」を持って生まれたということです。


  ○ 双子で生まれる。            ○ すぐに養子に出される。
  ○ 「ジム」と名づけられる。         ○ 爪をかむくせをもつ。
  ○ 不眠症気味である。           ○ 18歳で偏頭痛になる。
  ○ 心臓に病気をもつ。           ○ 定められた一定の体重。
  ○ 「リンダ」という名前の女性と、最初の結婚をする。
  ○ 息子の名前を「ジエームズ・アラン」と名づける。
  ○ 最初の妻とは離婚する。
  ○ 次に、「ベティ」という名前の女性と再婚する。
  ○ 犬を飼い、「トイ」と名づける。      ○ 最初の職業は、保安官補。
  ○ 次に、ガソリンスタンドに勤める。     ○ そのあと、マクドナルドに勤める。
  ○ 趣味は、日曜大工。             ○ 自宅に半地下の仕事場を持つ。
  ○ 夏の休暇はフロリダの海岸で過ごす。 ○ 愛煙家になる。
  ○ ある特定の銘柄のタバコを好む。
  ○ 心臓発作で死の恐怖を味わう。


  以上が、双子のジム兄弟が持っていた「意味のあるストーリー(意味の集合体)」の全体像です。しかもこの二人の場合は、それを共有していたのです。それにより、あまりにも不思議な偶然の一致現象が生じたわけです。


  またフランク・ジョセフさんの場合は、次のような運命のプログラムを持っていました。つまり、「意味のあるストーリー(意味の集合体)」を持って生まれたということです。


  ○ 1888年(1788年)11月3日が誕生日である。
  ○ イグナチウスと名づけられる。(ジョセフさんも最初、イグナティウスと名付けられる予定であった。)
  ○ 友人から誕生日に、名前入りの黄金の万年筆を贈られる。
  ○ 子供のころ、近所の森に、宝物(古代ルーム文字が刻まれたペンダント)を埋める。
  ○ 24・5歳の時に、フィラデルフィア、108ウォールナッツストリートに住む。
  ○ 『アトランティスの崩壊』(『アトランティス・太古の先進国家』)という題名の本を書く。
  ○ 1988年(1888年)5月に、アイルランドへの旅に出る。
  ○ 旅の目的は、アイルランド人の祖先である古代ケルト人の文化の調査。なかでも、ウイッカーマンという人型の像の調査を最大の目的とする。

  また、この後に予想される出来事として、
  ○ フランク・ジョセフさんは、ミネソタ州、ナイニンジャーで、その生涯を終える。
  ○ 心臓発作による呼吸困難で、もがき苦しみながら死ぬ。
  ○ 命日は、(2001年)1901年1月1日である。


  以上が、フランク・ジョセフさんが持っていた「意味のあるストーリー(意味の集合体)」の全体像です。そしてこれは百年前に実在した、イグナティウス・ドネリーの「意味のあるストーリー(意味の集合体)」でもあったわけです。
  つまり二人は、百年という歳月を隔てて、それを共有したのです。それによって、あまりにも不思議な偶然の一致現象が生じたわけです。



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  さて、ところで、以上のような「意味のあるストーリー(意味の集合体)」が現実に、この世界で発生するためには、もう一つ重要なものが不可欠となります。それがあって初めて、こうした現象が起きるとも言えるのです。
  その現象を表現するのに、なかなか適当な言葉が見つからないのですが、言うなれば「“意味・内容”の実現現象」とでも言うべきものです。この現象が起きることによって、我々の運命は「確定未来形」になると言うことが出来るのです。

  これもかなり分かり難い内容なので、実際の事例を用いて、具体的に説明することにします。おおよそ次のようなことです。

  上に紹介した「双子のジム兄弟」の事例で、彼等の運命のプログラムの中に、

   ○ 「リンダ」という名前の女性と、最初の結婚をする。
   ○ 息子の名前を「ジエームズ・アラン」と名づける。
   ○ 最初の妻とは離婚する。
   ○ 次に、「ベティ」という名前の女性と再婚する。

  というものがありました。
  ここで注目すべきは、二人のジムがまったく別々の場所で、それぞれが別々の生活をしながら、これらの“意味・内容 ”を同時に実現させたという点です。

  そもそも一組の男女が結婚するには、お互いに相手が必要であり、しかもその相手には、両親をはじめとする家族がいます。その家族の強い反対があれば、二人の結婚は、実現しなかったかもしれません。
  つまり、これは「ジム」の運命でありながら、実は結婚相手の「リンダ」の運命でもあったのです。要するに相手の「リンダ」もまた、「ジム」という男性と結婚するという「運命と宿命」を持っていたということです。しかも双方の両親をはじめとする家族の人たちの意識・感情が、二人の結婚へと向けて調整されたのです。
  ですからリンダの両親にしてみれば、自分たちの娘を「ジム」という男性に嫁がせるという「運命と宿命」を持っていたことになります。それ故に、ジムとリンダは目出度く結婚にまで至ったわけです。

  従って、一つの“意味・内容”が実現されるためには、本人の意思や思考・感情に対する働き掛けだけでなく、その“意味・内容”に関係する全ての人たちに対する働きかけが行われて、初めて現実のものとなるということです。要するにこの世界のあらゆるものが、その“意味・内容”の実現に向けて調整されるということです。
  しかもこの事例の場合には、まったく別々の場所にいる二人のジムに対して、同様の「運命と宿命」を持った二人の「リンダ」が用意されたわけです。つまり「二組のジムとリンダ」の結婚が成立するように、その周囲の人たちに対する働きかけが行なわれたことになるのです。

  そして、それと同様のことが、次の「ベティ」という女性と結婚する時にも生じたのです。つまり、この「ベティ」もまた、「ジム」という男性と結婚するという「運命と宿命」を持っていたからこそ、双方の両親をはじめとする家族の人たちの意識・感情が、二人の結婚へと向けて調整されたのです。
  ですからベティの両親にしてみれば、自分たちの娘を、「ジム」というバツイチの男性に嫁がせるという「運命と宿命」を持っていたことになります。しかもまったく別々の所にいる「二組のベティの家族」が、そのことに同意し、賛成するように、それぞれの人の意思や、思考・感情に対する働きかけが行なわれたのです。それによって、この“意味・内容”が実現されたわけです。


  また「フランク・ジョセフさんとイグナティウス・ドネリー」の場合も、これと同様のことが言えるわけです。

  上に紹介したフランク・ジョセフさんの運命のプログラムの中に、次のようなものがあります。
  ○ 友人から誕生日に、名前入りの黄金の万年筆を贈られる。

  この出来事一つをとっても、実は裏では大変なことが起きていたのです。

  まずフランク・ジョセフさんの周囲に、事前に、何人かの親しい友人たちが用意されます。その友人たちに、誕生祝には彼に、万年筆を贈ろうという発想を抱かせます。しかもその万年筆の材質は、黄金で、それに彼の名前を彫り込もうという意図、着想を抱かせる必要があるわけです。
  つまり、フランク・ジョセフさんの周囲にいる友人たちに、事前にこれだけの働きかけが行われていたのです。そうした意思や思考・感情の調整が行われて、初めて百年前のイグナティウス・ドネリーに起きた出来事と同じことが、フランク・ジョセフさんに対して繰り返されたわけです。要するにそれによって、運命のプログラムの繰り返し現象が発生したということです。


  こう考えると、裏では、実にたいへんなことが起きていることが分かります。しかもこうしたことが、現実に起こっているということです。この点を認識することが重要なのです。
  要するに、一つの“意味・内容”が実現されるためには、その“意味・内容”に関係するすべての人たちの“こころ”が、巧妙にコントロールされ、調整されることによって、初めて実現されると考えられるのです。
  そしてこのようなことが、誰も気がつかないところで、現実に行われているということです。上に紹介した事例は、そのことを物語っているわけです。


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  ところで、実は以上のようなことは、この世界が創造された時に起きた出来事と同じ現象であると考えられるのです。
  『旧約聖書』の「創世記」によれば、各段階で発せられた様々な神の言葉が、この世界で現実の出来事として発生し、それによって最終的に、今のような世界が形成されたと考えられたわけです。
  つまり、それと同じことが起きているということです。具体的には、次のようなことになります。

  まず、『旧約聖書』には、次のように記されていました。分かりやすいものをここに抜き出してみます。

  ○ 神は言われた。
     「光あれ」
    こうして光があった。
  ○ 神は言われた。
     「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現われよ」
    そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。


  要するに、これと同じことが、我々の「運命と宿命」を実現させる上でも発生しているということです。
  これも実際の例で示すと、次のようなことになります。“意味・内容”の実現という点に焦点を当てて読むと、より分かりやすくなります。

  ○ 神は言われた。
     「ジムは、リンダという名前の女性と、最初の結婚をせよ。」
   そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。
  ○ 神は言われた。
     「ジムは、 息子の名前をジエームズ・アランと名づけよ。」
    そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。
  ○ 神は言われた。
     「ジムは、 最初の妻とは離婚せよ。」
    そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。
  ○ 神は言われた。
     「ジムは、次に、ベティという名前の女性と再婚せよ。」
    そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。

  フランク・ジョセフさんの場合も同様です。
  ○ 神は言われた。
     「友人から、誕生日に、名前入りの黄金の万年筆を贈られよ。」
    そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。


  要するに、それ等の“意味・内容”を実現するために、何らかの“力”が働いているということです。或いは、何らかの原理、法則が機能しているということです。それ故に、通常では絶対に起こりえないような出来事が、現実に発生するのです。
  そして、その“力”を言葉で表わすとしたら、「“意味・内容”の実現現象」とでも言うしかないわけです。他に言葉が無いからです。要は「一定の方向性を持った“力”」が働いているということです。


  もちろんこの「“意味・内容”の実現現象」は、ここで取り上げた事例だけでなく、この世界の全ての人たちの「人生のプログラム」に対しても機能していると考えられるわけです。つまり、そうした“力”が働いていることによって、我々は「確定未来形」の人生を歩んでいると言えるのです。
  ですから、天地の創造の時の“力”と同じ“力”によって、我々の運命のプログラムもまた、時間の経過に従って逐次実現されていると考えられるのです。
  それによって、各個々人に於いても、

  ○ 神は言われた。
     「 ****** せよ。」
     そのようになった。神はこれを見て、良しとされた。

  という現象が発生しているということです。

  そして、そうしたことが起きていることにより、我々の人生は、「確定未来形」であるということが言えるわけです。その人が持っている「運命のプログラム」を、確実に実現させる“力”が働いているからです。


     *****    −−−  ○  ○  −−−    *****


  さて、ここまで来ると、我々の世界観は一変してしまいます。まず、人生観というものがまったく変わってしまいます。
  なぜなら我々は、自分自身が持っているそうした“意味・内容”を実現するために、この世界に生きていることになるからです。それこそが「運命」であり、「宿命」であるということです。

  これは見方を変えれば、そうした“意味・内容”を、この現実の世界で実現するために、我々は生かされているということです。しかも宗教的にそのようなことが言えるのではなくて、現実にそうであるということです。
  現実にそうだと言うのは、決して抽象的で、あやふやなものではないということです。一部の宗教家が言うような、『人は神(仏)によって生かされている』といった漠然としたものではないということです。極めて現実的で、即物的・即時的なものであるということです。

  そうすると、この世界での本来の主体は、我々人や、動物や、物ではなく、あくまでも“意味・内容”の実現ということになります。そうした“意味・内容”をこの世界で実現するために、それに関係するすべての人が生かされているということです。またすべての動物や、すべての物が存在しているということです。

  従って、さらに角度を変えて考えてみると、この世界そのものが、巨大な“意味・内容”の集合体であるとも言えるわけです。
  つまり『旧約聖書』の冒頭の一文、『 初めに、神は天地を創造された。』というのは、そのプログラムが「連続する“意味・内容”の集合体で構成されているということです。
  そして、時間の経過に従って、順次その“意味・内容”を実現することにより、この世界が創られて行くということです。ですから今現在という時間は、その連続するストーリーの一経過点であるということになります。


         ***     -------     *** 


  本来であれば、物事の“意味”というのは、われわれ人間が定義づけていると考えるのが一般的です。それはこの世界を理解するための、人類の英知によるものと考えられます。
  しかしながら実は、そのもともとの意味は、あちら側の世界にすでに存在していることになります。しかもそこでは、愛や、真、善、美、といった抽象的なものまでもが、完全に理解されているのです。

  そして、それらの“意味・内容”を実現させるものとして、一定の方向性を持った“力”が存在するわけです。ですから、その“意味・内容”が“力”とが結びついた時に、それはこの現実の世界で現実され、実際の出来事として発生することになります。
  それが古来より人々が認識してきた「神」という存在です。要するに、一定の方向性を持った“力”のことです。
  こう考えると「愛の女神」「美の女神」「真理の女神」と言われるものが、現実のものとして認識されます。また、「八百万(やおよろず)の神々」というものが、極めて現実的なものとなります。


  従って『旧約聖書』の「創世記」を解釈した時に、創造神というものを持ち出しましたが、これも現実のものとして認識出来ます。「創造と破壊を司る神」があって、この世界が創造されたのです。そして、最終的には、この神の力によって、破壊・消滅へと向かうことになるわけです。
  また仏教では、「閻魔大王」というものが存在することになっています。これは「善悪を見極めるもの」として現実的なものとなります。しかも、キリスト教で言うところの、「最後の審判」と同じ現象と考えることが可能です。ですからこれらは、決して宗教的な意味合いで存在するのではなく、それぞれの“意味内容”を、この世界で実現するものとして存在しているということです。決して架空の存在ではなく、極めて現実的なものであると言えるわけです。

  ですから、もう一度、様々な宗教の中に示されている世界観を、「これは極めて現実的なものである」という認識のもとに、再検討する必要がありそうです。それによって、まったく新たな世界観が導き出されるかもしれません。


  いずれにしても、この世界を創っている「神」というのは、超々巨大な“ こころ ”そのものであると言えそうです。そして、我々は、神の分身の分身のそのまた分身として、その中にいるということです。或いは、否応無く、居させられているということです。
  こう考えると、納得の出来ることが多いのも事実です。


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                            2001. 5. 16.        店主記す




  



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