今、放送中の徳川慶喜、原作と大きく異なっているところが一つある。
それは、斉昭と慶喜の性生活についてである。
原作の"最後の将軍"ではこの親子、ほとんど貪欲なセックスマニアと酷評されている。
一夜たりとも伽の女性を欠かせないというのが、この父子の共通の生活態度であったというのである。
事実、慶喜は静岡にひっこんでからも子だくさんで、子供だけで一族をなすほどであった。
対してドラマの中の斉昭・慶喜は両人とも女性に対して紳士であり、本妻を慈しむという性格に設定されている。
もちろん、このことは家族向けのドラマということで意図的に脚色されているのであろうが、歴史認識という観点からは事実誤認も甚だしいということになる。
日本人の性モラルは、この100年の間に大きく変更された。そして、このことが、子供の財産化と大きすぎる親の責任というものを生み出した。
母系的社会である明治以前の日本の村落の一般的な感覚では、もともと父親の権利というものはとても軽く、財産と家は女のものであった。また、子供の父親がだれであるかなどということは、あまりとりざたされる問題ではなかった。子供に対する責任はたいてい村落などの集団にあり、子供は組織の共有財産であった。
ほんの20年ほど前までは、近隣の人が自分の子、他人の子をわけ隔てなく叱っていたが、これはそのなごりであったといえる。
性に対する感覚と社会のしくみとは、大きな関係がある。
現在の日本の社会が混乱しているのは、歴史的には大きな性道徳の調整現象であると言える。
平安時代では一夫多妻で女性は後宮に詰め込まれた日陰の存在などと受け取る向きもあるが、実態としては財産を請け継ぎ管理している女性のところをジプシーのようにうろついているのが男というものであった。ことに、下層階級になればなるほど、この傾向が普通であり、江戸時代でも庶民の間ではミクダリ半は男が書いて出ていくものということであった。
大阪の商家でも婿取り婚が普通であった。
こうした実態とは別に上流社会の性のモラルは次第に変更されてきた。このことは、はるか上代の女性天皇の時代に中国に渡された国書では、天皇が女性であることを明らかにしていないということからもわかるように、父兄社会の盟主であった中国に対して、自らの生活感覚を劣等と考えていたことが原因となったと考えられる。
伝統の階層ごとの斬新的変化の別の例証として、チョン髷の伝統がわかりやすい。
公家は蓬髪であり、ちょんまげを結わない。これは、上代に輸入された唐風の習慣であり、日本本来の姿ではない。唐かぶれした公家たちの間では髷を結うことは蛮族の風とされていたのである。
ちょんまげが日本の歴史の正面に現れるのは戦国のころからであるが、それ以前も、日本の風俗は本来ちょん髷であったのではないかと考えられる。
なぜなら、剃りをいれて髪を結うという風俗はモンゴロイドの一大特徴で、古代からのものであるからだ。
われわれの中国人のイメージは辮髪だが、これは清朝(女真族)が漢民族に強要したものであり、漢民族は本来剃りをいれる習慣はなかった。
女真族の辮髪と日本のちょん髷は、証拠らしい証拠はないが、同祖であると考えられる。
どうして日本のちょん髷の歴史が明確でないかといえば、
残念ながら平安以前の歴史というものは、つまり文献から推察される歴史とは貴族と坊さんの歴史であり、ちょん髷とは無縁の人たちのものであったからである。
ともかくちょん髷も含めて、日本の風俗は上流階級から次第に”国際的に障りの無いものに”修正されてきているのである。
父系社会の構築は天皇家から始まり、やがて江戸時代に確立した武士政権によって意図的に作られた。
江戸幕府はお家騒動撲滅のために、嫡子相続の確立という明確な目的を持っていた。
武家政権の始まり、源頼朝の父親、義友は坂東から京の間の土地ごとに妻がありそれぞれ子をなしている。頼朝と義経は異母兄弟となる。また頼朝は当時の熱田宮司の娘の産であったため、兄弟のなかでは格が高かった。こうした相続候補の乱立が結局のところ、骨肉の争いを誘発した。
また、母親に貞節という概念は当時なく、通ってきた男が気にいれば、なんでもなく床をともにするというのがむしろ当たり前のことであったので、当然、父親が誰かということなどは、母親のみが知ることであった。
また、江戸時代までは、子供はやたらに死んだ。まず成人するということ自体が幸運であった。
このために、父系社会の権力者は子供をなすことを仕事の一つとかんがえていたのである。
当然、徳川をなのる人々にとって女性に伽をさせることは重要な仕事であった。
その最後の末裔として水戸家の斉昭も慶喜も生きたのである。当然彼らの感覚はわれわれのものとは全く異なるものだ。とてもホームドラマにして見ていられる生活態度ではない。