大韓航空機撃墜事件
1983年9月1日未明、ニューヨーク発アンカレジ経由ソウル行き大韓航空007便が、予定の航路を大きく逸脱。当時のソ連領空を侵犯し、ソ連軍機のミサイルにより、サハリン・モネロン島沖で撃墜された。乗客乗員269人全員が死亡。うち日本人は28人。国際民間航空機関は93年、(1)大韓機乗務員の自動操縦装置の操作ミス(2)旧ソ連軍機が民間機を確認する努力をしなかった-ことなどが原因とする最終報告を発表した。
(2013年8月24日掲載)
鎮魂「命の限り」 大韓機撃墜 9月30年 長男夫婦が犠牲 宮崎の岡井さん 会えなかった「孫」思い
●「私のページは閉ざされていない」
旧ソ連軍機による大韓航空機撃墜事件から間もなく30年。息子夫婦を失った事件の真相を究明し、風化させないために事件への思いを題材とした陶器作りに励む宮崎県国富町の陶芸家、岡井仁子(ひとこ)さん(77)は「30年で終わりではない。やらなければならないことはたくさんある」と話す。昨年秋、息子夫婦に赤ちゃんが誕生予定だったことが分かった。不明な部分が多い事件だが、年月を経て明らかになる事実があることに気づかされ、今後も活動を続ける大切さをかみしめている。
ミュージシャンを志して留学し、米国ボストンのバークリー音楽大学を卒業した長男真さん=当時(22)=は、妻の葉子さん=同(25)=と帰国途中の1983年9月1日、事件に巻き込まれた。真さんが在学中に組んでいたバンドの仲間からは当時、福岡にあった岡井さん宅に何度も涙ながらの電話があったり、遺品が送られたりした。
新事実が分かったのは、ハワイに住む当時のバンド仲間が、事件の特集番組を見て、会員制交流サイト「フェイスブック」に思い出を書き込んだのがきっかけ。事件の数日前に真さんの部屋に集まった際、葉子さんのおめでたが報告されたことが書かれていたという。「帰国して驚かそうと思っていたんでしょうね。孫の命まで奪われて…」と岡井さんは悔しがる。だが、事件に向き合い続ければ、まだ明らかになることもあるのだと勇気づけられたともいう。
事件当時、岡井さんは陶芸を始めて間もないころだった。事件を境に、創作には家族としての思いを込めるようになった。暗緑色の球の上部に開いた裂け目が犠牲者の無念の叫びを表す「海ざくろ」や、生還を意味する「環」など多くの作品を生んできた。さらに、鎮魂と平和を祈って縄文時代の手法で土器を焼く「野焼き」を国内はもとより、サハリンでも行ってきた。
そんな文化交流が実り、サハリンでは今夏、真さんの曲を演奏するコンサートも予定されていた。だが、3月に岡井さんが脳内出血で倒れ、実現できなかった。「1年延びたけど、来年はできる」。そう思って右半身が不自由になった岡井さんは、懸命にリハビリに取り組んでいる。
捜索状況など事件の詳細は不明のまま。岡井さんが自らに課した務めは続く。「まだ何も進んでいない。私のページは閉ざされていない」。岡井さんは「文化を通じてロシアの人々と交流を続け、力の限り取り組めば、きっと分かることがある」と力を込めた。