大物 治療家整体師 お2人の死と向き合って
 
静岡沼津千本浜
大恩人の掲示板にある方がご投稿された。
その内容たるや!
許可を得てここにそのご投稿の内容を転載します。

大物 治療家整体師 お2人の死と向き合って

私は20年以上前、当時 師と仰いでいた先生(食関係・大森英櫻 師)から、施術家や健康関係の仕事をする人たちの夭折・急死に関しての考察をいやというほど教え込まれていました。きっちりとした大局を見るようにと。それまでの有名な施術家、ヨガの大先生(静岡県東部)、他、様々な悲劇を聞き学んでいました。それほどに、実はよくありがちな話なのです。(その後、周囲の者からも様々な例を聞きました。また私自身の個人的経験としては前職にて学校教員をしていた時の教え子のお父さんが整体師で50歳を前にして夭折という例を知っていました) 私は往時、若いなりに、師から、そういったことがあるということを聞き、貴重な教えとして胸に刻んでいたはずでした。。

その後、私は既述しました教職などを含む幾つかの職業を経て、一部では有名なある整体指導者のマネージャー職となりました。その先生は人からとても愛されるタイプですし、人並み以上に健康に気を使っていた方です。もちろん神業のような技術を使うことで有名な方で、心身のことに関しては見識がとてもある方です。しかし、ある日突然、急逝・夭折されてしまったのです。私は、その先生のマネージャーだったこともあり、その先生の勢いと見解を信じて、余計なことは言わないでおこうという姿勢で仕事をしていました。その先生と対立しない程度には言うことは言っている≠ツもりではあったのですが..。私自身は彼の弟子ではなく、お互いにパートナーなんだというくらいの認識がどこかではあったのです。その先生を喪い、子供を含むご家族や関係者をはじめ皆がショックを受けました。

私は「若いころ学んだ師に、さんざん教わりながら..。私がついていながらこんなことになってしまって」と葛藤し、自分を責めました。それまでも偶々、治療家の夭折を耳にすることはありましたが「気の毒なことに、心得が判っておらず、不注意だっただろう」とくらいに思っていたのですが、私自身に直接の関係者であり、最重要人物の急逝でしたので愕然としました。一方、当方の関係者たちは、私をただの事務方と考えていたし、彼らの師匠が亡くなっても、何が起きたか表層しか理解せず、反省をしようという思いはどこにもなく、突然の不幸が襲ったくらいの見識でした。また「この技術は稼げる」ということを宣伝しての生徒募集で人気があったこともあり、カリスマが亡くなっても、皆、幻想からなかなか覚めずにいました。稼げる手法であっても、天才とうたわれた者が、不意の夭折するとは何事か、その点を言う者がいなかったのが、私にはどこかでは、とてもショックでした。一人一人の欲得の幻想のなせるわざだと感じました。

一番甘やかされて育ててもらった高弟(?)の一人が、一番初めに袂を分かちました。残りの弟子たちも時間の問題で、カリスマの死後、財政が豊かではないことを知ると、各々に勝手なことをもっともらしく言い出し、後足で砂をかけるように離れてゆきました。私はもともと組織に残る必要はなかったのですが、遺された人々のためと、亡くなった先生への義理もあり、組織に残っていたのですが、誰も責任者をしないので私がすることとなっていたこともあり、苦しみました。

亡くなった先代は、職人気質の技術をうまく切り売りすることによって、人気がありました。しかも肝心な技のポイントは隠しているわけです。一応は伝えているのだけれど、微妙な天然ボケもあり、、隠すのは上手でした。そして、そんな状況の中での急逝ということもあり、亡くなった当初は誰も完全な技術の復元が出来ませんでした。指導者クラスが長い時間をかけて各々の見解を出し合い、先代の技術の復元がある程度されました。しかし、それは先代の技術の真髄の復元とまではゆかず、やや上位のクラスで教えていたような範疇に過ぎませんでした。しかも商業主義的な教育観における教条主義が強調される結果にもなりました。たとえば○○という症状には、どんな技を何回程度かけるか、というようなあんばいです。症例ごとの注意点をレクチャーはしますが、生身の診立てと、それに準じた正確な応用を教えられるわけではないのです。(その程度は当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、この点を後にある程度改善したことは後述します) 先代は講座クラスで教える技と、日常の施術で自分自身が実務的に使う技では組立て方や技法そのものが少し違っていたのです。マネージャーである私は気になっていたのですが、それは基礎とその応用の上に、更に奥義があると善意に解釈すべきかもしれません。そこをもったいぶるのが先代の得意とした整体教育の商売のポイントですが、私自身は気持ちの良い姿勢だとは感じませんでした。師を越えてしまったのでは、商売として不都合だからということも秘匿理由のひとつでした。(余談ですが、その後、現在私は、奥義も受け取れる可能性と器のある者にはフルオープンで教えています)
先代が亡くなった時点で平均して一番技術的にも売上的にも上位の者を、教務のトップに置いて、皆に従わせたのが失敗ではありました。しかし、そうでもしないと全体の良好な関係を保てなかったのです。

今思えば、世の中の多くの整体師が、筋肉の名前でさえあまり知らないことがある。コッた肉の塊だと思っている。いや、たとえ筋肉の名前は知らなくてもいいので、構造的に、ある筋肉がどんな仕事をしているのか、最低でも50筋程度のことを暗記できているかというと、、極まれにしかいないような気がします。理論を教えるといっても、医療関係者などからすればそれは理論ではなく、大半が職人芸のコツの延長に過ぎず、理論になっていません。たとえば、患者の痛む筋肉が、人体において本来どういう仕事をしているか、職人的にでもいいから、個々の筋肉の正確な解剖学的な動作範囲を理解していないのであれば、まっとうなことをしているとは言えないと感じました(勿論、教育側という立場においての自重かつ過去の反省的な意味での発言です)。後に、私が指導するようになり、それを徹底改善したら、従来でも一応は評価の高かった技術伝達がさらに飛躍的に伸び、3週間の学習で、従来型では約2年かけても難しいであろうという診立てと実務力の境地を学習しえた例も出てきました。しかし、暗記が苦手ということで、私の方針は旧来の門下の大勢の者にはウケません。(一方で、自称「神の手と呼ばれた事がある」という救急病院の外科医に弟子入りを申し込まれたので、自分なりに自分の方針をヨシとしました) 努力も嫌いな低次元の者の要求に迎合し、それを認めていたのでは世の中の迷惑になると今は思っています。しかし、整体教育全般に、あまりにもそういった姿勢が欠落していたと反省しています。これは教育側の商業主義と、整体師めざす人々のニーズが低次元で合致したのだと感じるにいたりました。

一方で、私は先代の生前、(事務方とはいえ)側近でしたから、知らないうちに奥義を見る機会が多かったのだと理解しました。現在、部分的には技術においても先代を超えている面があると感じていますが、それはどうでも良いことです。ただ単に皆を守らんがためにということでしたが、先代の修行以上に苦しんだ面はあるのですから、気づいたら自分の技術が上がっていたのは驚くことではなかったわけです。

指導者を含め大勢のプロの整体師に教育を与える立場であったには違いありません。そこで感じるのは、各々なぜ整体ををしているかという動機です。いうまでもなく職業としてという方々が大半です。何よりも第一義的に経済であることは、もともとが「稼げる整体」として名をはしたところに学びに来たのだから、当然のことでしょう。先代の性格や経験もあって、この来るべき時代における精神性の重要性も説いていました。しかし、先代が亡くなると、、程度はさておき、そのような精神性の部分でのメッキがはがれてしまいました。一方、技術オタクの指導者たちが牽引していったこともあり、教授伝達が可能な技術的平均点はとても上がりました。

そのような中で、私は一人、他の方々とは違う葛藤をしていたのです。私にとって先代は師ではなく親友でした。皆の共通の思いとしては「なぜ、あんなによい人が急に亡くなるか」ということでした。そこでいろいろなことを私なりに学びました。

先代は、プログラムの性質上もあって基礎的な技術でも「うまくやれば治せる」と言っていました。また私が関わる以前に教えた人たちの中には、脱サラのメンバーも多くいて「たとえば頚(くび)等の危険な部位を教えたのでは、何の失敗があるかわからないから」ということで、一部のことをたいして教えずにプログラムを修了し、その後、そのメンバーの中には首都圏の幹部になっていた方もいました。そういった方々は師に対する信頼が厚く「あの先生に教わったのだから、治せないのは自分の力不足」と感じていた人も大勢いました。また、そのように純粋な整体師達ですから、患者からの信頼もあり、治せないにもかかわらず、患者も来院し続けるということに繋がりました。しかし、教わっていないこともあり治せないのだから、患者はそのうちに来院しなくなるし、どこかでは恨み節も出てきます。私が関わる前のかつての弟子たち、しかも幹部クラスの一人が、先代の生前、泣いて「末席に置いてください。実は治せないんです」と挨拶に来たのが印象的でした。泣いているかつて(別組織)での弟子を「よっしゃ」とばかりに労う先代の姿は、誰の目にも美談、新たな伝説のひとコマのようにさえ、その当時は見えたのです。
職人気質として、また技術の切り売りを当然とするビジネスモデルですから、だれも何が問題かは判らなかった。社会人としては良い人ばかりですし、何ら問題があったわけではないと思います。

しかし、私は後から考えて恐ろしいことに気づきました。師弟の信頼関係があり「あの師匠の言うことだから」と反発せずにまじめについてくる整体師。またその弟子の先生も良い人だから、患者もついてくる。。末端では数万人の患者がいるわけです。痛みに苦しむ人、病に悩む人の思いの力というものは相当なものです。でも現場では治せていない。。指導方針もあって、それでも堂々としている。。その中から生じる、現場の先生(弟子)と、患者たちの念が最終的にはレンズのように、その構造を作った張本人(先代)の元に到達するのではないかと感じました。先代も当時の弟子たちも、社会人としては良い人ばかりで何ら問題があったわけではないという長所(?)までもが、怨念レンズの倍率を高めた面があるのだと思います。悪党は、なかなか傷つきません。
エネルギーの法則からして、目標が見えなくとも、確実に到達することがあると感じました。堰(せき)を切るように、ある時に、貯めていた負エネルギーを先代は受けてしまったのだと思いました。先代が亡くなったのは、本当に突然だったのです。

怨念レンズと書きましたが、痛みや病に対するつらさを何とかしてほしいという期待や、すがりたいような思いの念波エネルギーの変形・集約を含んでいるのだと思います。この期待は長所として見れば、技術がそれなりに高いことからも生じているわけですが、既述のもったいぶり体質≠ノよって増幅されます。師も弟子も、うまくもったいぶる≠アとを、お金をいただく相手に対して当然のこととしてしまっていたビジネスモデル、ビジネスマインドの成れの果てです。たとえば、患者をあまり治せない弟子であってももったいぶる≠アとが上手であれば、その心中はさておき、商売としてはうまくゆきます。そして元となる技術が高ければ、それを知っている患者の期待、弟子の期待は自然と高まるわけです。それを知ってあえてやっているのですから、心の想定次第では罪深いのではないかと感じました。期待はいつしか恨み節に変わることもあります。整体治療ビジネスにおける患者とのコミニュケーション方法を「伝達法」と名づけて指導していましたくらいですから、相手の期待を高めることはかなり意識的なノウハウでした。

たまに一般の自己啓発などで「お金はエネルギーだ」ということが言われていますが、もちろんそういう見方もあると思います。しかし、エネルギーであるのなら、どのような想念から生じたものかという部分にも注視するべきだと思います。 エネルギーは複合的な構成要素によってできています。(火や水という単純なものでさえその質によって心身が受ける影響が違います)。たとえば食物というエネルギーを取り入れることによって人間は身体を維持していますが、食物の質によって健康への影響があるということは、言うまでもなく懸命な方々の常識です。健康に及ぼす理論は多様でしょうが、食物というエネルギーが身体に影響するには違いない。不可視のエネルギーもまた心身の健康に影響がある。お金という紙切れそのものに乗っている様々な塵のようなエネルギーもあるのでしょうが、金銭の授受という行為によって、物体を媒介せずに流通するエネルギーもあります。
それを大口を開けて待ち、無作為に取り入れようとすることには注意が必要だということなのだと思います。特に相手が痛んだり病んだりしている場合、その上で、じらされたりもったいぶられたり≠オた場合、相当な圧縮圧力が出てくるものと感じます。不可視のエネルギーはチャンネルが開いたところに流れ込みますから、相手が病んだ強い葛藤がある場合は必死にもがいておられますから、継続的に何らかの想念を受けても仕方がないことだと感じます。しかも直接施術をしなくても、弟子が師匠を頼る気持ちによって、患者からの想念も合わせて師匠の元に届くのではないかと思います。エネルギー法則で考えればごく普通のことです。

私はある真言密教の高僧に「犬神使い(蠱毒・こどく)という呪術が本当にあるのだ」ということを聞いた時、はからずも前述の行為が、犬神使い・蠱毒と同様のエネルギープロセスを一部で無意識的に踏んでしまっているとさとりました。不可視のエネルギーといっても、これは鍼灸や一部の気功等で主に扱う、肉体の一番外側にあるといわれているエーテル体ではないでしょうから、エーテル体的な邪気払いでは限界があるのです。もっと上位の不可視の身体での出来事だからです。興味深いことに、夭折するような大失敗をしている施術家などに見られるひとつの傾向として、稼いだ財を、美食や、酒池肉林など、自らの身体に何らかの形で溜め込んだり、気を取り入れたりということを好むタイプに多いような気がします。これは実際にそのようなことを多くしているかどうかも影響するでしょうが、数量などではなく、強く嗜好・渇望する気持ちがある程度エネルギーに影響するのだと思います。一方、(ほめられたことではないにしても)、外車のコレクションをしているようなタイプは、まだマシのような気がします。が、宇宙法則で考えれば、推して知るべしではないでしょうか。心身の快楽感覚偏重の場合、潜在的にはそのために、エネルギーに対して無作為に大口を開いて取り入れようと待機しているわけですから、混乱した想念や邪気までをも心身に取りこんでしまうケースがより多いのではないかという仮説をもっています。各種の邪気払いをはじめ、様々なプロテクト法はあるのでしょうが、根本的に自分の肉の喜び≠フ原資として、患者からの意のこもった金銭を、無意識に自ら望んで(エネルギーとしても)取り込もうと渇望する訳ですから、防御をしようと思っても考え方としては限界があります。たとえ一定のエネルギー・プロテクトが出来たとしてもスキが多いはずです。エネルギーは多階層で多様だからです。もちろん美食などを続けることは、それそのものが有害ですからエネルギー現象を主軸に見るべきではないかもしれません。しかし、エネルギーにおいての害毒を考察しゆくと更にいろいろと判るのです。

丁度、つぎのように例えられるのではないでしょうか。昨今話題ですが、食物に放射能がまざってくる場合、人体はセシウムをカリウムと間違え、ストロンチウムをカルシュームと間違えて取り込んでしまうといいます。構造がかなり似ているから勘違いするのです。そうやって間違って正常なエネルギー(栄養素)だと思って取り込まれた放射能は、その後、身体の構成物質となり、ごく近距離(体内)から身体を蝕んでゆくのです。取り込むエネルギーを勘違いするということは物質的な有機界でもあることなのですから、エネルギーレベルではもっと顕著ではないかと思います。有機体であっても、ましてやエネルギーボディーであっても、生命として自らが欲して取り込んだものに、自らが傷つけられてしまうのです。(こういったこと諸々の害毒を解除するマスターキーは存在するのではないかと思っていますが)

先代が亡くなってから、整体の基本として筋肉等の解剖学の充実という(いわば)常識を取り入れたばかりでなく、いわゆる「気」や不可視のエネルギーに対して、確信を持てる範囲での取り組みをしてゆきました。先代の生前は、私の得意とする各種の筋反射関係は封印していましたがそれも解禁、、というよりも検査主軸の一端としています。そういった中で、アグニホートラとも出会いました。不思議なご縁です。先代は冗談半分に自らを「マジカル整体師」と言って、ささやかにメールの末尾フッターにしていましたが、、何かいただける言葉ではなかった。亡き後に「あ、ミラクルの方がよかったなぁ」と思いつき、今では自分が「ミラクル」を自称しています(アヤシイ、滑稽などと、いろいろ身内からの野次はありますが。笑)。これは先代の茶目っ気とご本人そのものに対する私の愛着心も表れている私なりの表現なのです。(^_^
先代の技は長年の経験で身に着けた職人芸としての感覚や技術でしたが、私は理詰めの部分も多いです。勿論、ここでご紹介のように偶然に起こった私の人生での経験あってのことではあります。先代が長年かかったことを、私は別のアプローチ理詰めで多くを実現しました。先代より人気がないので少数ですが(笑)、先代を超えたと評価する直弟子もいます。そんなことはどうでも良いことです。私は、自分は何をやってきたのか、何が起こったのかということを葛藤しながら、真摯に追及してきただけなのです。まだまだ未熟だとは思いますが、このレポートはそんな私の真摯な物事の見立てと、体験談なのです。

先代が亡くなりしばらくして世の中では、福島の事故などがありました。先代は「次の時代」に備えて、精神論としても、いろいろな発言をしていました。「困難な時代が来たら百姓でもしよう」と山間部にささやかな別荘まで持っていました。そこまで予測していたのですが、予測していたことに近い状況、そんな時代が訪れた時、皮肉にも彼はこの世にはいなかったのです。

私はかつて若い時にものを教わった師から「必要な人間は、いつの時代も生き残る。冷酷なようだが、これが宇宙法則」と聞いていました。私の親友でもあった先代のことを思うと、良い人であっただけに、かつての我師の教えを受け止めたくないような事情ではありますが、認めざるを得ないのかもしれません。先代が生きていたら、その方針(商業主義の整体)から、もっと迷った人を増やしてしまったかもしれません。天からは、力があったからこそ、この世に置いておくとかえってよくない≠ニ、あの世への帰還を促されてしまったのではないかと感じました。

先代は社会的には立派な人ですし、昭和育ちの旧来のルールからすれば、世渡り上手、商売上手でした。しかし、今、我々が迎えている時代は、これまでの時代観の総合的な見直しではないかと感じるのです。福島の事故などは象徴的です。あの事故は世の中のトップリーダー達の責任が大きいですが、そういったことがまかり通る気風が戦後の社会全体にあったということです。私達一人一人が、考え方や生き方の見直しをはかる時期に来ているのではないかと感じます。また福島事故の影響は、数年後、隠し切れない状態になって人々に影響が見られるのではないかと懸念しています。

また、痛みに苦しむ人、病に悩む人の根源的な理由は、いくら名医や名人整体師であっても、他人には介入できない面があります(カルマ他の学びという意味です)。しかしそれでも一方で、場合によっては、何かものすごい気付きを本人に与えられるのです。だからこそ、高い技術を授かった整体師の責任は重いものだと感じます。その意味では、法や習慣などのシステムで守られている医師以上に、魂への責任が重たいと感じます。その意味では、人の魂を預かるという意味で、教師などの責任も重いと思います。念やエネルギーは多階層・多次元的ですので、心がけの設定しだいでは、ある程度、負のエネルギーを受けることは、さけようがないことだと感じます。いずれにしても患者を「客」と思っている整体師は、相応(!)に患者の未消化の病んだ気を、様々に未消化にコレクションしてしまうと思います。あくまでも、慰安・いやしのサービス業とうたっているのならそれで良いのですが、治療的な意味合いをうたう場合は、また患者の期待からくるものも違うのではないかと感じます。

実は、この春にある有名な大物整体師の突然の訃報が届きました。当方の先代の師匠です。私は忘れていたのですが、私の直弟子の一人が「先生の予想していた通りになってしまった。先生のおっしゃっていた心がけの法則はズボシでしたが、この仕事に就く多くの方々のためにも、これは何とかせねば。。」と悲痛の連絡をしてきました。とても純真な弟子の一人です。私としては、亡くなられたその先生に、いつかご挨拶に伺いたいと思っていた矢先の訃報ですし、そんなこと予測していたかと閉口したのですが。。時代は変わったのだと感じました。昭和が終わって久しいだけでなく、平成の時代も行き着くところまできている気がします。

宮本武蔵の話は興味深かったです。剣術や施術などの作業(?)を行うにおいての無心状態。これは素晴らしいものと思います。しかし、その上位に、自分自身の仕事(人生)における設定があろうかと思います。そのあたりでも運命が決まります(武蔵の生涯は孤高の人となりました)。そこまでの深い自己の設定において、無心の貢献であるのか。。自分も含めて、一人一人の人生の課題は何なのか、幾重にも自重、自己観察、研鑽する必要があると感じます。高い技術を預かり、他者の人生や生命、魂に影響を与えるということは、大きな責任があることではないかと感じます。

もちろん、豊かさも、商売も結構なことです。また市井に生きる我々にとって大切なものです。だからといって自らの豊かさや商売が、仕事の根本理由となっていたのでは、まずいと感じます。正しいことをしていれば、また高い技術を預かっているのならば、貢献することによって、苦しいことはあってもいつか自らも救えるのだと思います。その上での豊かさはとてもすばらしいと思います。自らを救うのが第一義の方々は、人様を導くと人様の迷惑になります。今の世の中を見れば判ります。

箸にも棒にもかからない凡夫の私が、偉そうなことを述べましたが、これまでの痛みをもって、また供養の気持ちを持ってのことでした。しかし、この心のうずきが、どこかで凡百の世間話の中で多くの方々のもとにもとどき、集合意識となって昇華し、次代の喜びの活力元になればと願っています。

駄文をお読みいただいた方、ありがとうございます。
このところ、思わぬ面から少し供養が進んだ気がしました。法事は何回か済んでいるのですが。。商売と人助けのバランス、、それを魂から理解するのには各々の道があるでしょう。またトリッキーな問題ではないかと感じています。
また、私がどの組織で起こったことを書いているのかという詮索は、立場もありますので、ご遠慮いただけると幸いに感じます。(^_^;;

ここに述べさせて頂いた亡くなられたお二人の大物整体師は偉業を残されたには違いありません。そのお仕事に、私はずっと変わらぬ大きな敬意を持っております。お二人合わせたら、少なくとも(!)3流派、門下のプロは全国で500人を超えると思います。当方先代は大よそ半数以上に直接的・間接的な師として影響を与え、その師である既述の先生は間接的にはその人数全てに影響を与えたわけです。そういった一方で「神の手」の称号も、「俺は凄いんだ」という自負も、真理の前ではむなしいことです。一人の人間としての健康管理もさることながら、他人様から「先生」と呼ばれる際、相手が本気であればあるほど、想念の集約レンズ効果への注意を忘れてはならないと思います。

こういった背景より、以前の書き込みで
『私のような凡夫には難しい場合もありますが、高い技術を得たのならば、出来るだけ古今東西のまともな僧侶のような気持ちで過すことが理想かと感じています。』と結ばせて頂いたのです。これはお高く気取っている訳ではなく、悲痛な経験からの声です。患者からの期待に応える為でも、自分自身の為でもあるからです。心がけ次第でどんな人生もバラ色に出来ると信じています。つまり何かを得ようとするよりも、祈るような気持ちが肝心だと思います。それが多くのネガティブなものを良いものに変容させるマスターキーだと思います。(それを有効に実施する為には、きちんとした知識が必要だと思いますが、詳細はまたの機会に)

いただきましたbowsさまのコメントは、もっともなことだと感じますし、やさしさを感じます。私は、つまるところ自分のしでかしたこと、また責任から、もだえているので、つい苦渋に満ちたコメントとなりました。

(人生、明るいほうを見ないといけませんね♪そのつもりです)


なお、下記のサイトの方が立派なサイトなのでそちらからもご覧になって下さい。
ミラクルoK氏の部屋