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争奪編 第一章 激動
第六十一話「足下に絡みつく蛇(下)」
「ただ?」

 ドミトリスがそう問いかけた。

「小麦相場の上昇で、市民の不満の矛先がマルク家にも向かうのは、どうにもやり切れませんな。マルク家は中流階層に最も理解ある貴族家と自負しておりましたから」

 ウィリアムの言葉に、「ううむ」とドミトリスは唸った
 ドアの隙間から部屋を覗き見するマリエルも、さすがは伯爵家の令息だけあってしっかりしていると感じた。

「たしかに、マルク家は内覧会に中流階層を招待してくださっていましたな。わしは、残念ながらご招待にあずかれなかったのですが……」

 ドミトリスの言葉に、男は軽く背中を揺すった。苦笑しているのであろう。

「たしかに、そのころにはもう豪商ドミトリスの名はレムスの街中に知れ渡っていましたね。ですが、あなたはずっと人前に出ることを拒んでおられたから。もし招待していれば来ていただけましたか?」
「はい。もちろんですとも」
「え?」

 赤毛の男は意外そうな声を出した。

「ワシはずっと人捜しをしておりましてね。そのせいもあって上流階層の人脈がのどから手が出るほど欲しいと感じておりました」

 ドミトリスは、軽く背を丸め、テーブルの下から黒い箱を取り出す。

「……あぶなかった」
「え? なにか仰られました」

 黒い箱をテーブルの上に置きながら、黒髭の商人は眉を上げた。

「いえ、なんでもありません。こほん。とにかく中流階層がこれからの新しい時代を担うことは間違いありません。ですが、せめてマルク家には名誉を残しておきたいのです。わたしたちは、いずれ必ず歴史に裁かれる」

 赤毛の男の言葉は、黒髭の商人の心をくすぐったようである。

「……あなたは年は若いが実にしっかりした人だ……」

 ドミトリスは感嘆するようにそう言ったのだ。この男は意外にロマンチストなところもある。

「ようやく決心がつきました。ワシと契約を結んでいただけませんか? お互いの利害を調整しましょう」

 そう言って羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げる。
 そこにはびっしりと細かい文字で文章が刻まれていることをマリエルは知っている。

「ほう。契約ですか」
「ここにはワシが理想とする政治体制が書き込まれています。どこの政治学者が読ませても唸らせる自信はあります。そしてウィリアム様にはどのようにわたしを手助けしてほしいかが書き込まれています。占い師によると、この契約が成立すればわたしの理想は叶うそうです。じっくりと中身を読んで頂いてからのサインで結構ですよ」

 赤毛の男の背中は、やや落ちつかなさげに見えた。

「契約書にサインしていただけるなら、わたしはマルク家のパトロンとして無制限に資金を提供しましょう。そのことも明記してあります」

 次の瞬間、男はバネ仕掛けのように頭を跳ね上げた。
 ドミトリスだけでなく、マリエルもびっくりした。
 男は、テーブルの上のペンを奪うように引っ掴んだ。
 さらさらと契約書にサインをする肘の動きがマリエルにも見える。
 男がペンを置くと、ドミトリスは、ソファーからずり落ちるようにして溜息をついのだ。

「お……おお……。これで、これで、ワシの半生をかけた仕事は成ったのか……」

 ドミトリスはワナワナと組んだ指を震わせている。

「はい。これでわたしはドミトリスさんの同志です。もっとも仕事を為すのはこれからです。まず金がたくさん必要です」

 男は、はっきりとした口調でそう言ったのだ。

「はは。これは頼もしい。金のほうは、どうにかいたしましょう」

 ドミトリスは、苦笑して頭を搔いていた。
 マリエルも、ぎゅっと両手を握りこんでいた。
 どうせなら横についてあげて、一緒に仕事の成就を見守ってあげれば良かったと思った。

(それもこれも、ドミトリスが急にプロポーズなんてするからいけないのよ!)

 赤らむ頬に手をあてて、そう黒髭の商人に責任を押しつける。
 だが、同時に得体の知れない不安も感じていたのだ。

(でも、こんなに上手くいっていいのかしら……。なにか不安なんだわ。わたし、まだ双頭の馬のお顔も見せてもらってないし)

 馬のイメージは、ドミトリスのようにどこか素直で、賢く、そしてなぜか好色なイメージがあった。
 馬は身辺には、嬉々としてお世話をする女を、呆れるほど多数(かしず)かせている。それが予言をしたときに降りてきた印象である。

(あ……分かった)

 ドアの隙間から赤毛の少女の表情を見やる。ずっといまにも倒れそうなほど青い表情をしている。
 マリエルが不安な理由、それはマルク家の令息に仕える女の表情が幸せそうに見えないからだ。
 せっかく、ドミトリスが配慮して長椅子を用意してやったというのに、伯爵家の令息は女中を座らせようとはしない。
 それは、おぼろげに想像する双頭の馬のイメージに重ならない。
 嫌な予感が確信へと変わる。
 マリエルは、ドミトリスを呼ぼうかどうか悩んだ。
 だが、ドミトリスの座っている位置関係が悪かった。
 どうしても、あの赤毛の男の背中に向かって語りかける気がしない。

「ここのところずっと蛇に噛まれるのではないかと気が気ではなかったのですよ」

 ドミトリスは、マリエルの心配をよそに、ポケットから青い宝石箱を取り出している。
 なにかレノス一の豪商が身に纏っていた覇気のようなものが、すうっと抜け落ちて、急に十も歳を取ったように、マリエルには見える。
 どこか老後の余生を楽しむ老人のような――。

「蛇……?」

 男は訝かしげな声を上げる。

「はい。双頭の馬に会う前に蛇に噛まれたなら、ワシの天命は尽きるだろうと予言されています。ご心配なく、もう始末しましたから。といっても、なんのことかお分かりにならないでしょうが。すべてをご説明します。さあ。マリエル! わたしの生涯の友人に紹介させてもらうからこっちに来ておくれ!」

 黒髭の商人は、青い宝石箱とマリエルのいる部屋の扉のほうに、交互に視線を送っている。
 そのとき、マリエルが手を動かすまえに、扉を開けられたのだ。

「そこにいらっしゃったのですね」

 ぬっと黒いものが目の前に立ち塞がって、マリエルは心臓が止まるかと思った。
 至近距離で、異様に肌の白い黒髪の女が立っているのだ。

「ソフィアにそっくりだな」

 女の肩のむこうから男の声が聞こえてきた。

「ほほうっ。もしやウィリアム様のもとにマリエルの姉は身を寄せていたのですか。おい! 良かったな。マリエル!」

 黒髭の商人が、弾むような声でそう語りかけてくるのが聞こえた。
 だが、いまのマリエルはそれどころではない。
 赤毛の男は立ち上がり、こちらを振り向いていた。
 顔の形は綺麗に整っている。優しげな笑みまで浮かべている。
 だが、その瞳は作り物のようにまるで人の温かみが感じられない。人の顔の形をしたお面を被っているかのようだ。

「誰なの! あなたは!」

 マリエルは悲鳴をあげるように叫んだのだ。
 はっと、ドミトリスが表情を変えた。

「ちっ。わたしの笑みに喜ばないとは。不届きな女だ」

 男がそう言うと、顔色の悪い赤毛の少女が、ぶるっと身を震わせていた。

「そうか、わたしは蛇だったんだな」

 男は、心底楽しそうに嗤っている。

「周辺に武装兵はおりません」

 黒髪の女は、マリエルを見つめたまま、背後の男にそう報告をした。

「そうか、確保していろ」
「はい」
「ちょ、ちょっとあなた!」

 目の前の女が、ぎゅっとマリエルを抱きしめてきた。
 見上げると、

「ひっ!」

その唇から二股に分かれた舌がちろりと見えた。

「信頼の証か、油断をしたのか知らんが、兵士を置かなかったのは致命的な失敗だったな」

 そう言って、赤毛の少女の黒いスカートをばっと捲り上げたのだ。
 赤毛の女の内股には添え木のように小型の銃が備え付けていた。銃身はやや短い。
 踵と膝と、足の付け根のあたりで紐で縛られている。
 銃口が、少女の白い布地に包まれた股間をぐりぐりと押し上げているのだ。
 少女がやや内股気味に歩いていたのは、そのせいだとマリエルは理解した。
 よく見ると、白い下着は経血の血が漏れ出したかのように、部分的に赤く染まっている。

「ひっ」

 マリエルは悲鳴をあげた。
 視線が向かったのは少女の膝の下のあたり。
 マリエルは、基本的な銃の扱いだけはドミトリスに教えてもらった。
 だから、その異常さが分かる。

(気が狂っている……!)

 いつでも撃てるように撃鉄が引き上げられているのだ。
 つまり、この少女は、いつでも撃てるような状態で、ここまで歩かされてきたことになる。

「は、はやく。外ひてくだはい」

 白い足を振るわせながら、赤毛の少女がそう懇願する。
 万が一、どこかで足をひっかけようものなら、なにかの衝撃で銃が暴発しようものなら、想像するだけで恐ろしい。

「な、なんじゃ……、こいつらは」

 状況の異常さに、ドミトリスは完全に飲まれている。
 念入りに下準備をしてから行動に移すタイプなだけあって、突発的な行動への対処はそれほど上手くない。
 男は、しゃがんで少女の綺麗な足と銃とを縛り付ける紐を外しているところだ。
 マリエルはなにかを言おうと口を開きかけた。
 だが、

「バーン!」

その瞬間、マリエルは視線を切り耳を塞ぐと同時に、

「きゃあああああ!」

と絹を切り裂く女の悲鳴が聞こえてきた。
 当の叫んだ赤毛の男は、ケラケラと嗤っている。
 赤毛の少女は無事だった。
 だが少女は、白い下着も露わに後ろにひっくり返っている。その股間から黄色い液体をびちゃびちゃと漏らしはじめていた。

「ひっく。ひっく。ひっく……」

 完全に腰が抜けてしまい、もう小便を自分で止めることもできず、ぐすぐすと泣いている。

「くっくっく。ふふ。小娘の小汚い小便で火薬が湿らなくてよかった……。おい。わたしの奴隷になれて良かったな。こんな情けない女は女王蜂とかいうのには相応しくないぞ」

 そう言い捨てて、赤毛の男はくるりとドミトリスのほうを振り向いた。

「はじめまして。ギュンガスと申します。本名はわたし自身にも分かりかねますがね」
「で、では、昨日わしが殺した男は……?」

 ドミトリスは蒼白な顔をしていた。

「ふふ。彼ですか。あなたの理想がいかに尊いが熱弁を振るっていたようですが」

 赤毛の男はいたぶるようにそう言ったのだ。

「わ、わしはなんということを!」

 苦悩を表わすかのように、ドミトリスは自身の頭を抱えて、膝をつく。

「わ、わしは。わしは自分の支持者を……」

 それは、この街で巨人のように思われている豪商の姿ではない。
 マリエルの瞳には、いつにもまして弱々しく見えた。

「おまえは罪もない自分の支持者を殺したんだ」

 ギュンガスと名乗った男は、背を屈めて、上から毒の言葉を注ぎ込んだ。

「ドミトリス! 蛇の言葉に耳を貸すんじゃないの! さっさと逃げなさい!」

 マリエルがレイシーに羽交い締めにされながらそう叫んだ。
 予言の言葉は、誰にでも使いこなせるものではない。そして神は、存在しない未来を予言しえない。銀狼族の村が滅びたように。
 自分が捕まっても、ドミトリスさえなら再起を図れる。
 弱々しいドミトリスの姿に不安を感じつつも、マリエルはそう見通しを立てていた。

「ちっ。せっかく人が楽しんでいるところを……情緒のない」

 そのままドミトリスの後頭部を銃口で軽く小突いた。

「理想を掲げ、大空を見上げながら、足下の小石で転ぶ男か。滑稽だな。自分の支持者すら見抜けずに殺してしまうような男に時代を拓く資格などない」

 引き金に手をかける。

「お願い! やめてぇええええ!」

 マリエルは女の腕のなかで藻搔きながらそう叫ぶ。
 男は心底楽しそうな哄笑を浮かべた。
 そのまま引き金を引き絞ったのだ。
 激しい音とともに、ドミトリスは全身を震わせた――。
 マリエルが絨毯の上に膝をつくのを、黒髪の女は止めようとはしなかった。

「……あ、あ、あ。…………ドミトリス……」

 男は商人の頭を蹴りつけた。
 すると、ドミトリスは仰向けにばたりと両手を広げ、白目を剥いていた。
 ころころと青い宝石箱がマリエルのほうに転がり、青いスカートの膝に当たった。
 流れはじめた血が、じわりじわりと絨毯に染みを作りはじめている。
 時代の寵児にしては、あまりにあっけない幕切れであった。
 目の前で起こった出来事が信じられないかのように、白い顎を震わせている。
 マリエルは、震える手で小膝にぶつかった小箱を手に取った。
 開けると、中からは、婚約指輪が出てきた。
 指輪には大粒の琥珀があしらわれている。
 ドミトリスの配慮であろう。琥珀には精神を沈める働きがあることが知られている。

「なんだ。おまえ、こいつと男と女の仲だったのか?」
「この人は……! この人は……! わたしにとって……」

 指輪には文字が掘られていた。
 人生を共に歩む――。
 その言葉の先が続けられなかった。

「まあ処女であればなんでもいい。わたしはおまえを、この男から助けてやったんだぞ。……まあ、そんなこともどうでもいいか。さあマリエル!」

 男は興奮に震える手で、嗚咽する女の白い顎を掴む。

「は、離して……!」
「さあ。どうすればわたしが世界の王になれるかを教えておくれ」

 男は煮え立つように熱い吐息でそう問いかけてきた。

「だれが! だれが、あんたになんか……」

 ぼろぼろと涙を零しながら、マリエルは抵抗する。
 だが、そのとき落雷にでも打たれたように、見えない何かがマリエルの脊髄に突き刺さった。

(だ、だめ……)

 マリエルの身体からすっと力が抜ける。

『女に絡みし蛇よ。時代に抗う裏切りの蛇よ。
 双頭の馬は、時代の車輪の引き手にして、汝が天敵なり。
 女を奪い、裏切りの毒牙を若駒に突き立てさせよ。
 蛇の胴体が時代の車輪に引き裂かれるまえに』

 かつて神は、人間以上に人間臭く、理不尽で不条理な存在であったという。
 神がいかに放埒(ほうらつ)であったかは、数々の伝承がそれを指し示している。
 だが、その偉大な神もいまや見る影もないほど老衰し、白痴の老人のように、部族の民以外にも恩恵を施すのであった。


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