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争奪編 第一章 激動
第六十話「足下に絡みつく蛇(上)」
 ついに、ドミトリスが双頭の馬と面会する。
 港にほど近い宿屋で、マリエルはそのときを待っていた。

「まあ良かったわね。興味ないけど。無事に念願かなったら、わたしの望みのほうも叶えてくれるの忘れないでね……」

 マリエルは冷たくそう言い捨てて、部屋を横切る。

「もちろんじゃ! マリエル、おまえには本当に世話に……」
「うん。分かった。分かったから」

 ドミトリスが言い終わるのも聞かずに、反抗期の娘のように、ぱたんと背後の扉を閉めた。

(双頭の馬か……。馬に喩えられるからには精悍な男性なのかな。この国の貴族らしいけど、お高くとまってないといいな)

 マリエルは、ドアノブを背中の後ろで握ったまま、そのようなことを考える。
 それから、ベッドにえいっと飛び込んで足をばたばたさせた。
 青いドレスのスカートの裾から、刺繍入りのペチコートと、透き通るような白く長い脚を覗かせている。
 銀狼族の神巫(かんなぎ)として、めったに人前に姿を現わさない幼少期を過ごした少女は、一人のときは実にだらしない。
 何度ソフィアに、「わたしにまで気の緩みが(うつ)るからやめてくれ」そう注意されたことか分からない。マリエルとソフィアは、精神の根っこの部分で深く結びつき、互いに影響を与えあっていた。
 だが、一日の大半を神殿のなかで過ごすマリエルと、屋外で武人であろうとするソフィアでは、どうしても性格の違いというものは生じてくる。
 ソフィアのように生真面目では、おっかない神と対峙するのにとても神経がもたない。一方、マリエルのようにだらしがなければ、ソフィアは部下に示しがつかなかったのだ。

(楽しみだわー。男子一生の仕事が成就する瞬間をこの目で見られるのか。男子つっても、髭ムサいおっさんだけどね)

 銀髪の少女は、ベッドの下にある金属缶に指を伸ばす。一掴みしたバターピーナッツを、口許に運んだ。
 それを噛み砕きながら、ぽりぽりとお尻をかく。

「ふん、ふん、ふーん」

 ついに鼻歌まで歌い出した。
 ドミトリスと旅をしはじめてからマリエルのだらしなさは深刻なレベルに達しようとしていた。
 黒髭の商人は、際限なくマリエルを甘やかせてくれるし、理不尽に苛立ちをぶつけても大して怒りもしない。
 ドミトリスと旅を続けているうちに、この国の中流階層の商人の考え方にも次第に馴染んできた。毎日が目新しい。
 元々、草原の民は交易の民でもある。自らの才覚のみを頼みとする商人の生き方に共感する部分は大いにある。
 船こそ大の苦手であるが、めまぐるしく変化する情勢にも、生き馬の目を抜くように世渡りする商人の逞しさは決して嫌いではなかった。
 なかでもドミトリスの気質は遊牧民に近いものがある。
 朴訥で実直であるとともに利益に聡い。石橋を叩くように慎重でありながら、ときに驚くほど果断な行動に打って出る。
 ときに、この国の貴族とも商いをすることがあったが、貴族社会の偏執的で不健康なものの考え方には心底辟易とさせられたものだ。
 何度立場を傘に着て、弱い人間を虐待する貴族を見たことか。
 その意味で、ドミトリスは健康的な精神の持ち主であったし、フェアな人間でもあったのだ。
 つい、男の器量に甘えて辛辣な態度をとってしまうが、マリエルは決してドミトリスのことが嫌いではない。
 ふいに扉がコンコンと叩かれる音がして、ベッドから顔を上げた。

「マリエル……」
「にゃに?」

 ベッドにだらしなく転がっていたせいか、妙な返事をしてしまう?

「ん? どうかした? 具合でも悪いのかね。マリエル?」

 ドミトリスが気遣わしげにドアの向こうからそう問いかける。

「な、なんでもない!」

 銀狼族の神巫は途端に居住まいを正し、

「なにかしら? わたし部屋で休んでいるところなのだけど」

多少とってつけたきらいはあったものの、今度こそ意図したとおりの不機嫌な声色を作ることができた。

「そ、そうか。す、すまん……」

 マリエルは、ドミトリスに決して許可があるまで私室に入るなと厳命してある。
 そう厳命である。断固としてそうあるよう要求したのだ。
 ドミトリスはというと、まるで娘に頭の上がらない父親のように、黙ってマリエルの言うことを聞いてくれた。

「マリエル。どうかいまからワシが言うことを笑わんでくれ」

 レノス一の豪商の声は微かに震えていた。数千人の観衆に朗々と語りかけた男が声を震わせているのである。

「もうじきワシの長年の夢が叶う。あとは双頭の馬の背に揺られていればよい。マリエル。今晩の面会が無事に成功したその(あかつき)には――」

 中年男性の緊張がマリエルにも伝わる。銀髪の少女は、どくどくと胸の鼓動が高まり、ごくりと唾を飲み込んだ。

「ワシと夫婦(めおと)になってくれ」

 少女は、叫び声を上げないよう、必死で口を押さえつけた。

「ワシはおまえを好いておる。年甲斐もない望みであることは分かっておる。最初は娘のように思っていたが、だがワシに遠慮なく感情をぶつけてくるおまえが愛しうなって自分でもどうしようもなくなった」

 銀狼族の少女は、あわわと顔を真っ赤にしている。
 それなのに、ぴんと姿勢さえ正せば、

「ドミトリス。もしわたしが処女を失えば、おまえは一介の商人に成り下がるのよ? そのことを分かっているのかしら」

唇だけは冷徹な言葉を紡ぎ出すことができるのである。ある意味において重度の職業病であった。

「ワシは元々一介の商人じゃよ。ワシのような商人がここまで来られたのもマリエル――おまえがいてくれたからだ。新しい時代を作る第一歩が踏み出せたならワシは満足じゃ。後は、若駒(わかごま)に任せよう。わしなりに神託から運命を探っているうちに気がついた。神の情理は人には厳しすぎる。ワシにはもう予言は必要ない。そしてマリエル、おまえにももう必要ない。ワシと一緒に生きてくれ。おまえさえ望むなら銀狼族の村を再興することに残りの生涯を捧げてもいい」

 部屋に備えつけの鏡に視線を送ると、耳の先まで真っ赤に染め、ぞくぞくと指を震わせている少女がいた。
 しかも、あわあわと酸欠の金魚のように、口をあっぷあっぷさせていた。
 さすがは百戦錬磨の商人だ。交渉相手が何を求めているか的確に見抜いてくる。

「か、考えておいてあげるわ。か、会談がうまく行くと良いわね!」

 辛うじてマリエルはそう答えたのだ。

「ありがとう」

 そう言って、扉のむこうから商人の気配が立ち去った。

(きゃー! きゃー! きゃー!)

 マリエルは、ごろごろとシーツの上を転がる。目をぎゅっと瞑って、ぽかぽかと枕を叩く。

「どうしよう。どうしよう。ソフィア……。そうだソフィア。もしわたしがドミトリスのことを好きになったら、ソフィアもドミトリスのことを好きになってしまうのだけど……」

 自身の半身である双子の姉の顔を思い出す。合わせ鏡のように同じ顔をした姉はとても責任感が強い。

「ドミトリスって髭むさくて、すんぐりむっくりしてて、片目で人相が悪くて、歳をとった中年のおじさんで加齢臭がするし、ときどき口は臭いし、足はいつでも臭いけど……」

 マリエルの口からドミトリスの悪口がすらすらと吐き出されてくる。

「だけど、べつにいいよね! とても優しい人だし、きっとソフィアも気に入るわ!」

 マリエルは、責任感の強いソフィアが聞けば泣きたくなるようなことを平気で言ったのだ。
 妹というのは、かくも勝手な生き物なのである。

          ☆

 この宿が大通りに面しているせいか、ときおり外から歓声が聞こえてくる。
 街全体が、ドミトリスの革命話の熱気に包まれているかのようであった。
 マリエルは、じっと息を潜めて、扉の隙間からドミトリスのほうを窺っていた。
 いま、ドミトリスに顔を合わせたくはない。
 黒髭の男の顔を思い浮かべるだけで、顔は真っ赤になるし、何を口走るか分かったものではなかった。
 長椅子に座るドミトリスの背中も、いつもとは違って、どこか落ち着かなさげに見えた。
 男はふと、上着のポケットから小さな箱を取り出し、それを手の平の上に乗せた。青いフェルト地の宝石箱である。
 中身を確認することなく、それをすぐにポケットにしまい込んだ。
 そして唐突に、「あっ」と天井を見ながら短く声をあげた。

「まあいいか。どうせ生涯の友になるのだしな。疑うのは良くない」

 そう呟いたのであった。
 そのとき、外に繋がる扉がノックされた。
 マリエルもびくっと身体を震わせる。

「さあさあ! どうぞ! どうぞ!」

 ドミトリスは長椅子から立ち上がり、入り口のほうへと向かう。ここからでは様子を窺えない。
 がちゃりと音がした。

「はじめまして。マルク家のウィリアムと申します」

 そう挨拶する男の声が聞こえてきた。想像していたよりも、ずっと涼しげな声であった。
 男が室内へと案内され、男はマリエルのいる部屋の扉近くに立った。

(あれ、こっち側に案内するの?)

 扉の隙間から、男の後ろ頭が見えた。

(……赤毛だ)

 マリエルはそこに微かな違和感を抱く。
 なんとなく、双頭の馬には黒髪のイメージがあった。

(ん……。赤く染めているのか)

 目を凝らすと、男の根元の地毛が黒く変わっているのが見えた。
 貴族は大仰な(かつら)を被ることもあると聞くし、なにか髪を染めるのが上流社会で流行しているのかもしれない。マリエルはそう自分を納得させたのだ。。

「ようこそおいで頂けました。ウィリアム様。どうぞおかけください」

 ドミトリスが、両手を左右に広げて、男を歓待している。
 赤毛の男は、促されるままマリエルのいる居室にほど近い長椅子のほうに腰を下ろした。

(あ、顔が見えそう……ハンサムだといいけど)

 マリエルはそんなことを思った。なんとなく、双頭の馬には良い男でいてほしかったのだ。
 だが、その直前に、男の横に立つ女中がマリエルの視線を遮った。二人連れてきている。一人は赤毛に、もう一人は黒髪の女中。
 それは予言のイメージとも重なっている。
 双頭の馬の傍らに立つ女中は、赤毛と黒髪の女である。
 今回の予言はイメージが明確であった。調子が良ければ、たまにそういうこともある。
 二人は奇妙な黒づくめの女中服を着ていた。
 スカートもブラウスも黒。胸もとを飾るスカーフも黒。頭をすっぽり覆うメイド帽も黒。どこか黒いベールで身を包んだ砂漠の女を思わせる出で立ちである。
 ドミトリスは、対面の一人掛けの椅子に座った。
 こちらから顔がよく見える。マリエルは顔を赤らめた。

「ワシはどうも上流階層の流行には詳しくないのですが、代わった女中服ですな」

 気になっていたことを代わりに訊いてくれて、マリエルはすっきりした。

「ご存じのとおり貴族家においては、黒色は忠実さを、白色には貞淑さを表現する色です。女中ごときに貞淑さなど(はな)から期待しないから、せめて奴隷のように主人に絶対服従しろというのが、マルク家の考えかたです」
「はあ、そうですか……」

 毒気を当たられたかのようにドミトリスが気のない返事をしていた。
 マリエルも眉を顰める。
 だが、それよりもマリエルの視線を遮る女性の顔色の悪さが気になった。
 赤毛の少女が、酷く青い顔をして緊張した面持ちで、身体を小刻みに震わせているのだ。

「……随分と顔色が悪い。座ったらどうですか?」

 ドミトリスが長椅子に座ることを勧めたが、後ろに控える赤毛の少女は口をもごもごと動かしたあと、ぶんぶんと大きく首を左右に振ったのだ。

「たしかバーバラさんでしたね。いままでお会いできずに申し訳ない」

 豪商はぺこりと頭を下げた。ドミトリスは知っていたらしい。
 そのバーバラは、はっと瞳を見開いていた。その瞳の端には、なぜか涙まで浮かんでいる。

「そうですか。そうですか。無事、マルク家をパトロンに得ることに成功したのですね。おめでとう」

 すると、赤毛の少女の表情が引き攣った。
 だが、ドミトリスはそれに気がついていないようであった。
 マリエルの嘘泣きに騙されるくらい女の表情を読むのが下手である。そのあたりに、あの歳になっても独身でいる理由があるのかもしれない。

「わたしのところには百発百中の占い師がいましてね。商売でここまで成功できたのは、実は占い師の助言によるところが大きいのです」
「ほう。それは興味深い」

 急に食いついたかのように、赤毛の男の背中が少し前のめりになった。

「マルク家でパトロンを得られないまま面会すると、バーバラさんが不幸になると占い師が言い出してましてね」

 言われて思いだした。マリエルも以前そのようなことを予言した覚えがある。
 口にした当の本人ですら意味の分からない言葉の羅列だ。覚えていろというほうが難しい。
 扉の隙間から覗く赤毛の少女の横顔は、彫像のように固まり、土気色をしているようにすら思えた。
 用を足す必要があるのかと心配になるくらい、やや内股気味になって脂汗を搔いているのだ。
 ドミトリスも心配そうに見つめている。

「申し訳ありません。すこし席を外させていただきます」

 だが、そう言ったのは、汗一つかいていない黒髪の女のほうだった。

「え?」

 ドミトリスは少し唖然とした声をあげた。女は止める間もなく部屋から退出していく。

「バーバラは、お腹を出して寝てしまいましてね。わたしのほうは風邪を引かなかったのですが」

 そんな男の言葉に、

「そ、そうですか……こほん」

ドミトリスは情事の匂いを感じ取ったようで、それ以上の立ち入ることを控えるかのように咳払いをした。

「本題に入りましょう」

 黒髭の商人はそう言って真剣な表情をする。

「ウィリアム様。今日のわたしの演説、どのように思われましたか?」

 すると、伯爵家の令息は首を左右に振った。

「いえ。申し訳ありませんが、バーバラの看病をしていて出席できなかったのですよ」

 あの場に、双頭の馬が現われないことはあらかじめ予言されていた。ドミトリスが問いかけたのは念のためであろう。

「それはお優しい」

 黒髭の商人は、少しほっとしたように微笑んだ。

「ですが、張り出された壁新聞により、あなたの演説の概要は把握しております」
「は、はい……」

 ドミトリスが緊張の面持ちで赤毛の男を見据える。

「ひとことで言って素晴らしかった。わたしも市民の虐げられるいまの政治体制には――王都の政争には辟易としていたところでした」
「な、なんと! あなたはわたしを支持してくださるのですね?」

 ドミトリスは感激した面持ちで、大きく瞳を見開いていた。
 その瞳は年に似合わず少年のように澄んでいる。
 マリエルは、男の澄んだ瞳を好ましく思っていたが、同時にあまりの純真さに心配にもなった。

「あなたの言葉を借りるわけではありませんが、時代は移りつつあります」

 赤毛の男はそう言って、少し背を丸めた。足下の赤い絨毯を見ているのだろう。

「貴族から市民の時代へと――。我々は滅び行く貴族かもしれませんが、せめて名誉ある振る舞いをさせていただきましょう。貴族院でしたか。あなたはマルク家にも活躍の場を残してくださるようですし」
「おお。おお……」

 黒髭の商人は、身を乗り出して話に耳を傾けている。
 だが、そこで冷静さを取り戻したのか、椅子に腰を掛け直した。

「ただ――」

 俯いたまま、赤毛の男はそこで言葉を切った。


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