警告
この作品は<R-18>です。
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簡素な丸椅子に座った黒髭の商人が、ベッドに腰をかける銀髪の少女を心配そうに見つめていた。
少女は、銀髪のポニーテールを背中に垂らし、遠い視線で船室の天井を見上げている。
目の焦点は天井に合っておらず、千里先でも見ているかのように琥珀色の目を細めていた。
同時に、船室の天井から部屋全体を俯瞰するかのように、自分自身を見下ろす意識が存在していた。
見上げているのは少女であり、見下ろしているのも少女自身であった。
頭のなかに二つの意識が存在するような違和感がある。
幼少のころから繰り返されてきた儀式であるが、何度やっても慣れる感じがしない。
少女は、自らの意識が、なにか途轍もなく大きなものに繋がろうとしているのを感じていた。
なにかが天から下りてくる感じに、ぞわっと背筋を粟だてる。
「ひっ……」
悲鳴をあげる間もなく、ぐしゃりっと少女の意識が押しつぶされた。
次の瞬間、琥珀色の瞳から、すうっと人としての生気のようなものが抜け落ちる。
少女の意識は、船の遥か上空へと引き上げられていた。
鷹が空を舞うように、大空を旋回していた。
圧倒的な高揚感が沸いてくる。
神懸かりになる人間は、古代にはたくさんいたそうであるが、次第に淘汰されたという。
神が視ているものを知ると、もう人の世界には戻ってこられなくなる。
人の一生など、天空から見下ろす神にとっては塵芥に過ぎないからだ。
だが少女は、そんな神の論理の非人間性を、決して受け入れようとはしなかった。
われらは悠久の草原を駆け抜ける銀狼族なり――。
太古より続く草原の民の末裔なり――。
地を這うものには、地を這うものとしての誇りがある。
潰されたはずの少女の意識が実体を形作りはじめる。
神と対峙して、なお砕けきらぬ不屈の精神性。それこそが銀狼族の神巫たる資格であった。
高い場所からだと良く見える。
ひとの流れが――、ときの流れが――。
見定めるのは、黒髭の商人の命運。
この矮小なる身では一欠片の運命しか持ち去ることができない。
いま神懸かりの巫女が、運命の流れを紡ぎ出す。
『時代の風を背に受けし者、双頭の馬の背に跨がるべし。
若駒は、汝の生涯の友となりて、大願は成就せん。
天を見上げ、足下の毒蛇に噛まれるなかれ』
ずんぐりとした隻眼の男――ドミトリスは、真剣な表情でマリエルの言葉を羊皮紙に書きとめていた。
マリエルは、ばたりとベッドに倒れ伏せ、脂汗を垂らしながら肩で息をしている。
「だ、大丈夫かね」
「……平気よ」
マリエルの強がりに、眼帯の男ドミトリスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「毒蛇? なんのことだね?」
さっそく眼帯の男ドミトリスは訝かしげな声を上げた。
「さあ、知らないわ」
銀髪の少女マリエルは、素っ気なく首を振る。
もっと自分のことを心配しろよと腹を立てたのである。
「双頭の馬というのは何の比喩表現かね。まさか、そんな生き物がこの世に存在するはずもないし。どこに行けば逢えるのか?」
「知らないわ」
マリエルは、さも興味なさそうに首を振る。
するとドミトリスは、耳を伏せた動物のように濃い髭を垂れ下がらせた。
「若駒ということは、わしよりもずっと若いのか。ええい。もうちょっとヒントか何かあれば良いものを……。何とかならんかね」
ドミトリスは、狭い船室のなかを檻の中の小熊のように落ちつかなさそうに歩き回った。
「何ともならないわね。わたしが自分で考えた言葉ではないもの」
銀髪の少女は、首を左右に振る。それにつられて頭の後ろに縛ったポニーテールが左右に揺れた。
予言の内容はマリエル自身にも分からない。
雷鳴のように天から降り注いだ直感を、そのまま言葉にしているだけなのだ。
ドミトリスは、こんなあやふやな予言の言葉の真意をあれこれ探って、ついにはこの国一番の豪商にまで上り詰めたのだ。
大した男であると、マリエルも思う。
一度、新時代を作ろうとする男が、自分のような神与の時代の遺物に頼ろうとするのは、滑稽でないかと訊ねたことがある。
すると、いつだって新時代は旧時代の揺り籠のなかから現われる。そう自信をもってドミトリスは答えたのだ。
(揺り籠ねえ。さっぱり、分からないけど……それよりも)
いまはレノスの港に停泊中で、船室がゆったりと波に揺れる。
「うっ……」
それにマリエルは僅かな吐き気の予兆のようなものを覚え、気持ちを苛だたせた。
(船だけは、どうにも嫌いだわ……ドミトリスは男のロマンだなんて言っているけど)
大分慣れてきたとはいえ、最初に船に乗ったときの舟酔いは本当に酷いものだった。
「つわりかね」と訊ねるドミトリスの頭を女の細腕で思い切り殴りつけた覚えがある。
狼狽して、ひっくり返るドミトリスの胸を、さらに足の裏で踏んづけて、「わたしは処女だ」と大声で宣言したのだ。
(恥ずかしい……。いっそ記憶から消し去ってしまいたい……ソフィアだってそこまでしないわね)
マリエルは顔を赤らめた。
「ねえ。わたしはもう十分役に立ったはずよ。そろそろわたしを故郷に帰してほしいものだわ……」
そう口にすると、髭面の中年男性は困ったような渋面を浮かべる。
「ううむ……」
ちらっとマリエルのほうに視線を寄越してくる。
「だいたい帰せと言ったって、もう村は跡形もないではないか」
そうすると、マリエルは、ぎりっと銀色の眉を顰め、
「うるさい!」
「おわっ!」
身近にあったペーパーナイフを商人のほうに投げつけた。
「うるさい! うるさい! わたしは故郷に帰りたいの! ソフィアに会いたいの!」
帽子、手傘、文鎮、羊皮紙、手近なものをぽんぽん投げつける。
神託を授かった後は、無性に自身の半身に逢いたくなるのだ。
神と対峙して、疲弊した心をソフィアに癒やしてもらいたいからだ。
銀狼族の神巫と神子が精神的に深く結びついてる理由、それは、そうでもないと神巫の心が保たないためである。
「よ、よさんか、マリエル! よさんか……」
ドミトリスはおろおろと近寄ってくる。
「ワシはこの国の未来のために行動しているんじゃよ。もう少しだけ辛抱してくれんかね」
ドミトリスは、ひらひらと羊皮紙が舞い落ちるなか、女の両肩を掴んだ。
「この国の未来なんてわたしが知るもんですか。わたしは草原の民ですもの」
「そ、そう言わんと……」
黒いカイゼル髭の男は、情けない口ぶりでそう懇願する。
小麦相場を縦横無尽に操ったやり手の商人の面影はそこにはなかった。
少し溜飲が下がったのか、マリエルの気持ちが少し落ち着いてきた。
「ふん。だいたい、まだソフィアは見つからないのかしら。街で一番優秀な商人なんて噂されているわりに、その情報網も大したことないのね」
顔は人形のように綺麗なのに、マリエルは容赦のない毒舌を吐く。
商人は、さらにしょぼくれた顔をする。いかつい番犬が尻尾を丸めているかのようである。
ソフィアの行方について、ドミトリスは、どこぞの貴族の屋敷に匿われているのではないかと予想していた。
この国の上流階層は、上流階層どうしの交流しか望んでいない。中流階層のドミトリスが貴族家の屋敷の内情に立ち入るのは、現実問題、極めて難しい。
いくら財力があろうとも、表舞台にも登場していない一介の商人では、おのずと調査するにも限界が出てくるのだ。
「ううむ。探してはいるんだが、君の予言でなんとか行方が分からないものかね?」
「無理よ。天は気まぐれですもの。ええ! まったく役に立たないったらありゃしない!」
銀狼族の神巫は、ついに自身の祀る神にまで怒りの矛先を向けた。
少女にとっては、故郷の村を守るのにまるで役に立たなかった神なのである。
神託を授かる立場にありながら、この信心のなさはどうだろうと、自分でも思う。
誰よりも神の存在を身近に感じながら、神を全く信用していないのだ。酷い神巫もあったものである。
妹に会えない理由は薄々、分かっている。
ソフィアを見つけることとドミトリスの目的を果たすことの間に、予言の整合性が取れないからである。
草原でただ遊牧生活を送っていればよい時代は簡単であった。
向かう先で旱魃が起きるか、嵐になるか、戦になるか、せいぜいその程度のことが分かれば済む話であった。
人の数はどんどん増え、時代はどこまでも複雑になる。情報はますます過密になっていく。
神秘のベールをことごとく剥ぎ取られ、時代の風に煽られている。
草原が時代の流れから取り残されているのに、草原の神が疲弊しないはずがない。
(預言の力を授かるのも私の代までだろうな……)
マリエルは、なんとなくそう予感していた。
そう思うと、失われた故郷が――己の半身が一層、恋しくなる。
「……それでも村に帰りたいの! ソフィアに逢いたいのよ! わたしの半身なのよ。ああ……。ソフィア、ソフィア……!」
大袈裟にそう泣いているが、半分は嘘泣きで、ドミトリスに対する当てつけも含まれていた。
船は嫌いなのに、航海に駆り出されて鬱憤が溜まっているのであった。
故郷にいたとき、マリエルはソフィアであり、ソフィアはマリエルであった。
遠く離れ離れになり、異国の地でいろんな目新しいものに触れているうちに、マリエルは自身の性格が少しずつ変化してきたことを感じている。
「うう……。頼むから泣かんでくれ。女の涙は苦手なんじゃ。なんでもするわい」
案の定、ドミトリスはおろおろと狼狽しはじめた。
「もう船に乗りたくない……」
「わかった。予定を早めて陸にあがろう。この船も処分してしまわないといけないのか。ああ、なんと勿体ない」
ドミトリスは大袈裟に溜息をつく。
港に入るごとに船を処分するのは足がつくのを防ぐためで、陸に上がるごとに船を代えるよう指示されているからである。
陸の倉庫に置いてある小麦を除く全ての財宝を積んだ船である。
予言の言葉で安全が保証されていなければ、とてもこんなおっかないことはできないと言っていた。
マリエルは、ドミトリスがこの船をいたく気に入っていたことを思い出した。
「ま、まあ、そんなに慌てて売らなくても大丈夫じゃないかしら? ……知らないけど」
自分のわがままで船を売ってしまうのが忍びなく、銀狼族の神巫はついそう言ってしまったのだ。
「そうじゃろ、そうじゃろ。こんな良い船を二束三文で叩き売るのも馬鹿馬鹿しいからな」
稀代の商人は、そう胸を撫で下ろしたのだ。
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