もしも、自分がお釈迦様やお大師様のような出家の聖人を
志すというのであれば、たとえその目的が、本人たちのような
名声を手に入れることであるとしたところで、俗物にはあたるまい。
それどころか、高祖劉邦や家康公の如き俗界の聖王賢君としての
名声の獲得を志すのだとしても、まだ俗物とするには足りない。
当人たちの経歴を見てみれば、五十や六十を過ぎる頃まで
苦労の繰り返し、いざ皇帝や将軍となってみても、蛮族匈奴や
豊臣の残党の処理に手を焼かされ続ける始末。ほとんど生きてる
間中ずっと、ろくに気の休まることもないままであり続けた
その姿たるや、まさに「俗界の聖賢」そのものであったわけで、
それはそれで決して、名声ばかりが目的であるような俗物には
あやかることもできないような生き様であるわけだから、仮に
それを目指したからといって、俗物呼ばわりされる筋合いもない。
世の中に有害無益な悪影響ばかりを及ぼす大悪人としてであっても
いいから、とにかく天下に名を轟かして人々をアッと言わせて
やりたいなどと渇望しているような、無軌道な自己顕示欲の持ち主
こそはまさに俗物であるに違いなく、それは、超俗の聖賢たらん
とする者は愚か、俗世の聖王賢臣たらんとする者すらもがよしと
する所ではない、まさに鼻つまみものの醜態であるといえるのだ。