8月22日(木)28時03分
第1841回
藤圭子さんが亡くなったと、
聞いて、
終日、気持ちが沈んでいた。
私は、
現役時代から、
知り合いだったが、
引退して、
アメリカに渡ったあたりからは、
「友達」と言ってもいい仲で、
本名の「純ちゃん」と、
呼んで親しくしていた。
彼女は、
とても賢い女性だった。
よく本も読んでいたし、
的確な感想が言える人だった。
観察眼も鋭く、
彼女の語る「人物評」には、
深いものがあった。
渡米の目的は語学留学で、
はじめは、
カリフォルニアに行き、
学校に通っていた。
現地で友人も出来、
それなりに楽しい日々を、
過ごしてはいたのだが、
いろいろあって、
「いつまでこうしていても、
仕方がないのではないか」と、思いはじめ、
ある日友人たちと、
ソルトレイクシティに行った時、
「空港に行って、
最初に来た飛行機に乗って、
どこかに行ってみようと思ったの」と、
友人たちと別れて、
単身ニューヨークに行ったと、
聞いた時も驚いたが、
「ニューヨークの空港に着いたら、
もう夜になっていたんだけど、
たまたま通りかかった、
トラックの運転手さんに頼んで、
マンハッタンまで、
連れて行って貰ったのよ」と、聞いて、
その大胆さに、
二度ビックリする私に、
「黒人のいい運転手さんだったわよ。
人は信じればそう簡単に、
悪いことなんてしないものよ」と、
ニコニコ笑いながら言ったのに、
三度ビックリした。
結局、
カリフォルニアの生活に、
ピリオドを打って、
ニューヨークに住むことになるのだが、
最初は女友達とルームシェアをしながら、
語学の勉強をしていた。
やがて、
「素敵な人と出会ったの」と、
お父さんの仕事の関係で、
NYで育った、
宇多田照實さんを紹介され、
その後2人が、
結婚することになった時は、
私が立会人になって、
港区役所に届け出をしたのだった。
それから間もなく、
「子どもが出来たみたいなの」と、
訪日した時には、
3人で私の友人が紹介してくれた、
病院へ行って妊娠を確認し、
英文で診断書を書いてもらって、
NYに戻り、
生まれたのが、
ヒカルちゃんだった。
「初めてヒカルちゃんを見たのは、
超音波の写真の中で、
光っていた、
ヒカルちゃんだったわね」と、
2人で笑い合ったのも、
いい思い出になっている。
臨月の時には、
NYの家を訪ね、
大きなお腹で手料理を作ってくれたり、
1983年に私が雑誌の編集長になった時には、
創刊号でNY特集をしたのだが、
取材にも協力してくれて、
照實さんが乳母車を引いて、
親子3人でセントラルパークを、
散歩している写真を、
雑誌に掲載させて貰ったのだが、
この時は、
いかにも幸福そうに、
「宇多田純子」としての人生を、
堪能していた。
その後、
ヒカルちゃんが小学校低学年の時、
3人は帰国することになり、
ヒカルちゃんの学校の相談に乗ったり、
3人で音楽活動を開始した話を、
聞いたりはしていたのだが、
ヒカルちゃんが大ブレークした頃には、
傍をウロウロすることに躊躇いがあり、
いつしか少しずつ、
疎遠になっていったのである。
2年ほど前だったろうか、
照實さんと会って、
いろんな話をしたのだが、
この時夫婦は既に、
何回目かの離婚をしていたのだが、
「何といってもヒカルの母親だからね。
純子が望むことには出来るだけ応えて、
サポート出来ることは、
したいと思っているんだよね」と、
保護者のような、
あたたかな表情で、
元妻を語る照實さんにも驚いた。
純ちゃんとは、
ヒカルちゃんがデビューするまでは、
前述のように、
何度か会ってもいたし、
その後も彼女から、
連絡をしてきたこともあったのだが、
いつしか何となく、
会わなくなってしまった。
今考えれば、
何故頑なまでに会わなかったのか、
不思議な気もするのだが、
娘のヒカルちゃんが、
あれだけ大ブレークをしたことで、
「物欲しげナ人間に思われたくない」という、
見栄が働いたのかもしれない。
......今は、
私に見せてくれた、
屈託のない笑顔を思いながら、
冥福を祈るだけだ。
藤圭子さんとの繋がりは強かったんですね。
ショックですね。
誰でも色々な物を背負って生きている。
でも、その荷物を どこかでちょっと軽く
していたら・・と、残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
どんなことがあったのかわかりませんが…
自ら命を絶つことは…
絶対にだめです!
私の同志たちは
若くして生きたくても
自分の意志に反して
この世に悔いを残して死んでいきました
まだ62歳…
やりきれない思いです
藤圭子さんの歌
キチンと聴いたことがなかったなと思い
ダウンロードして、ずっと聴いています。
10代にして、とてつもない存在感ですね。
浪曲歌手と三味線奏者のご両親について
こどもの頃から門付をされたそうですから
既にいろいろなことを
経験されていたのでしょう。
ぼくは昔、鬱病になった時
宇多田ヒカルさんの
「FirstLove」というアルバムを
繰り返し聴いていました。
自分より遥かに年下の16歳の女の子の唄声に
ずい分助けられました。
「time will tell」の
Time will tell 時間がたてばわかる
Cry だからそんなあせらなくたっていい
Time will tell 時間がたてばわかる
Cry 明日へのずるい近道はないよ
きっと きっと きっと
という歌詞を御守りにしていました。
宇多田ヒカルさんは日本デビュー前に
アメリカでご両親とU3というユニットを組み
音楽活動をされていたそうですから
この歌詞にはご両親の人生観も
反映されているのではないでしょうか。
安易に人生から逃げたわけではない。
むしろ正面からぶつかり過ぎた
ということもあり得ますよね。
あるいは「人生」を見過ぎた、とか。
残間サンのブログによると
かなり豪胆な方でもあるし。
アーティストの心には
普通の生活者には計り知れない
闇と光の激しい攻防があるのかも
しれません。
何があっても
何があっても
後悔しない
take me with you
行けるとこまで
行けるとこまで
ずっとBonnie&Clydeみたいに
(「B&C」)
ご冥福をお祈りいたします。