輿水脚本の「相棒」を観る【「ピルイーター」考-大河内、世界の端を慎重に歩く】
監察官とOLの心中事件が起きた。不倫の果ての覚悟の心中か、或いは無理心中=殺人か?スキャンダラスな事件を巡り捜査方針すら幹部同士の足の引っ張り合いに利用されるなか、主任監察官・大河内は一人特命係を訪れていた。
死んだ監察官・湊について大河内は“腹心の部下”だったと語り、心中事件そのものを疑っていると主張する。捜査を依頼された右京は心中が偽装されたものであることを読み解くが、当事者自身の手によって行われた偽装の“意味”に納得がいかない・・・?
美丈夫にして近寄りがたい佇まい、およそ笑みを浮かべることのない口元。シーズン2冒頭で初登場するなり特命係の勝手な動きを「頭痛の原因」と評した監察官・大河内が、その特命係を使ってまで部下の不名誉を濯ごうとするのは立場故のことなのか、それとも?
懐から薬瓶を取り出しては音を立てて錠剤をかみ砕く、影で呼ばれるその名も「ピルイーター」(シーズン2)。上層部の思惑に振り回される捜一と大河内ルートで捜査をはじめる特命、という(当時としては)いつもとちょっと異なる構図の中、パズル的な謎解きの最後にそれらを包括する背景が明らかになるという造りなのですが、面白さの要所はむしろ事件をめぐって描かれる特命係・捜一コンビ・大河内それぞれのキャラクタードラマ的な部分にあるといってよいのでしょう。
とりわけ、体制側の人間として登場した大河内の意外な一面に光が当てられることになる最後の局面はファンの間では有名なエピソードで、個人的にも、初見時・2度目・3度目と視聴を重ねる中で印象が変化していった不思議な作品であったりします。
といっても、本放送時に目にしていたはずの私はどうやら(心中偽装のからくりが一通り明かされた)開始後40分前後の時点で気が済んでしまったようで(!!)、驚愕の事実が明かされる最後の部分まできちんと「観た」と言えるのは実は「劇場版」をきっかけにシリーズ全体を再視聴した2度目以降のことであったりするのですが・・・
権力とスキャンダル・隠蔽のトリック・シニカルな会話劇、と輿水氏脚本回に特徴的な要素を一通りさらっている本作、2度目の視聴の時点ですら、大河内がベランダで一人涙を流す有名なシーンにも[それは何のための涙なのか?]と個人的には些か懐疑的だったのでした。
その一方で、三人もの命が失われた事件の全体像と、特命を使ってまで事件の真相をつきとめようとした大河内の真意の意外な関わりが明らかになる終盤、大河内の抱えるある“秘密”が事件のはじまりであったと右京が指摘をする部分には、果たしてここで大河内一人が責めを負うのは酷なような、という思いがぼんやりと頭をもたげたりもしたのでした。
もし仮に大河内が自らの力や立場を利用して[相手]に何かを強要したり、その事実を隠すことを求めていたのなら間違いなく厳しく糾弾されるべきなのですが、[相手]が命を落とした理由に心当たりがなかったからこそ心中が偽装であると確かめようと躍起になった[=自分が守られていたなどとは微塵も頭になかった]様子を見る限り、どうやらその仮定は当てはまらないように思えます。
つまり、[相手]の中で自分との関係が想像以上に大きな部分を占めていたことを、事件の真相を看破し、[相手]の死の意味を伝えた右京によってこのとき初めて知らされたのが、大河内その人であったような気がしてならないのですが・・・
では、[相手]の側は?といえば作中でその思いが明示的に描かれることはなく、一体、かのひとは、大河内という力持つ者との関係と安泰な日常のどちらを選ぶこともしなかったが故に袋小路に陥っていったのか、はたまたひたすら大河内の身を案じたが故に自らが世界の端から滑り落ちるしかなかったのか、どちらであったとしても大河内の言うように「結果に変わりはない」ということになります。
そしてどうやら、こうした【二つの解釈の存在】はこの物語全体についても言えるようで、外側から見ただけで解ることなど何もない---実は心中ではなかった事件像や、大河内の明かしたもう一つの秘密=薬瓶に詰められた“頭痛薬”の意外な正体に象徴される、嘘が真、真が嘘のうつせみをシニカルに眺める(ある意味至って輿水氏脚本回らしい)視線こそが本作のテーマだったのかもしれない、と解釈することもできます。
とはいえそれだけではない側面もある気がする・・・更に時が過ぎ、「鑑識・米沢守の事件簿」公開に伴うキャンペーン的再放送で3度目の視聴に至ったとき《この時点でシーズン7中の作品=3人の青年のある季節の終わりを描いて不思議な存在感を放った「希望の終盤」(櫻井氏脚本、長谷部監督)や、大河内の職業的な信念が掘り下げられはじめる「最後の砦」(脚本同、近藤監督)の視聴を経ており、今回の考察にはこの2作品が大きく影響している》、本作「ピルイーター」が長谷部監督の相棒初参加作品であったことを改めて思い出した・・・という言い方もおかしいのですが、ここに至って、死せる恋人の頬に触れ、目を閉じるしかなかった大河内にとってのごく短いラストシーンに胃が痛くなるという自分でも意外な(?)感情を体験したのでした。
“私を愛していたのではなかったか?”信じる気持ちと同時に一抹の疑いを抱いたが故に、自分の秘密が明らかになる危険を踏んでまで右京に捜査を依頼した大河内。何を取捨選択することもできず、結局は何も残さずこの世を去ってしまった恋人。
(本作では幹部同士の遺恨試合として描写されているような)居場所を広げるためなら足元を乱暴に踏み荒らしても平気でいられる者がいる一方で、大河内や彼の恋人のように、複雑に組まれた細い足場の下が実は奈落であることを知る感受性を持ち合わせてしまったが為に慎重が上にも慎重に、決して足を踏み外さぬよう世界を渡っていかなければならない[不安]を意識せざるを得ない者もいる---果たして、自らの存在が拠って立つ足場【恐らくそれは「普通」とか「帰属社会(組織)」「常識」といった観念でとらえられる】を巡る不安、生きづらさというようなものが、ここで語られたもう一つの物語ではなかったか、という印象をごく個人的な解釈ながら抱いていたりもします。
勿論、細い足場を歩いているのは大河内のみではなく、現場をムダに振り回す上層部のゴタゴタについに堪忍袋の緒を切らし、刑事部長相手に啖呵を切ってしまう伊丹もまた我に返って愕然と不安に立ちすくむ人なのですが、そんな伊丹のかわりに部長に頭を下げ、伊丹に向かってはおくびにも出さず「たまにはいいさ」と気楽に笑うことのできる三浦がいる。或いは、ちょっぴり近づきがたい監察官の秘密をよほど共有したかったのか、“頭痛薬”の正体を早速、自分の帰りを待つ伴侶(この時点で元であったり前段階であったりするわけですが)に打ち明けている二人がいたりもする。
肩で風きるでもない三浦の背中のような、“頭痛薬”の正体を「可愛らしい」と表現したたまきの言葉のような、言ってしまえば他愛のない何かこそが、暗く恐ろしい奈落を足元に感じながらも細い足場を渡っていかなければならない生の中でのよすがに他ならないのかもしれない、と漠然と思いを馳せたりもします。
その後の大河内はといえば、相変わらず“頭痛薬”は必携しながら、シーズン8では新キャラクター・神戸尊との兄弟のような関係性が示唆されるなど興味深い動向が続くことになります。
物語上の【組織観】と連動する存在とも言え、生みの親である輿水氏脚本中ではシーズンを重ねるにつれその扱いが些か形骸的になった感もある一方で、戸田山氏脚本中では右京の有能さを活用したいと考えるクールな野心家としての顔が、また育ての親ともいえる櫻井氏脚本中では組織本来のあり方を求めようとする純粋さと同時にある種のしたたかさをもった人物としてその表情が仔細に描き込まれており、特命係に対する独特のスタンスで物語に陰影を与える人物として、一層の活躍を今後も期待したくなります。
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