文禄、慶長と二度にわたる秀吉の朝鮮侵攻の後、日朝関係は最悪の状態となった。その後政権をとった徳川家康は対馬藩を通じてその修復に努め、慶長十二年(一六〇七)ついに第一回の通信使の来日が実現した。
最初の三回は戦後処理と、捕虜の交換を目的にした使節だったが、その後将軍の代替わり毎に、慶賀の使節を派遣するという使節招聘の形が決まり、江戸時代を通じて十二回の派遣があった。
朝鮮を出発した使節は対馬に寄りその後瀬戸内を船で航行し、大阪に上陸、淀川を川船に乗り換えて京都へ、その後陸路で東海道を江戸へと下ったのである。
一行は正使、副使、従事官の他に当時一級の学者、医師、芸術家、楽隊、曲芸師等を加えた四、五百人に及ぶ大使節団で、沿道はたくさんの見物客で賑わった。
愛知県と長野県との境付近に十四世紀の中頃に移り住んだ熊谷次郎直実の子孫の家伝である『熊谷家伝記』にも、通信使を迎える為に代官所より猪を捕獲して吉田の宿まで送るように命令があったことが記録されている。当時日本では四足の動物の肉を食べる事は嫌われていたが、朝鮮の人々にとっての御馳走は、豚、牛等の肉類であった。しかも四百人を超える一行の分を確保しなければならない。そこで山奥の村々に数を割り当て届けさせたのである。
さて、猪を吉田の代官所に届けた熊谷郷の名主達は通信使の一行を見ようとしたが、既に近在近郷から大勢の人がつめかけ、道筋にあたる家々では桟敷を構え、それを二分で貸して見物させるほどで、また道々には与力や同心衆が警備に立ち、納めた猪がどう食われたのか知る由もなかったとの事である。
吉田の宿での通信使の宿泊所は関屋町の悟真寺と決められていたが、残念なことに火災と戦災で通信使に関する記録は一切残っていない。その同じ町内に鎮座しているのが吉田神社で祭礼の時には笹踊りが奉納されている。
豊川流域には幾つかの神社で笹踊りが今でも奉納されているが、その不思議な、日本離れした衣装におやっと思った方も多いと思う。
有名な「うなこうじ祭」も笹踊りにつき従う「囃し方」が途中で地面に寝転がってしまう奇祭である。
更に上流の新城市にも朝鮮風の衣装をつけた笹踊りが三つの神社で行われており、橋向地区では、新城菅沼の殿様から拝領されたと言われる衣装も保存されている。
さてここからは少し想像力がいる。笹踊りは御神体が御輿に乗り町内を巡る時、その先触れとして太鼓を鳴らしていたが、何時かの時点で何処かの神社が(おそらく吉田神社)が朝鮮通信使の一行の中にいた楽隊や曲芸師等の所作や衣装をパクリ(真似て)それが豊川領域に広がっれいったのではないだろうか。
朝鮮語で三人踊りの事をセサラムノリと言い、それが笹踊りの語源ではないかとの説もあり、それぞれの神社毎に、所作や踊り、衣裳の違いがあっても、三人が大太鼓(一人)と小太鼓(二人)をお腹につけて踊る基本のところは同じである。
朝鮮通信使の足跡は、岡山県牛窓町の「唐
子踊り」三重県鈴鹿市の「唐人踊り」が有名ですが、豊川流域に残る笹踊りと通信使の関係については、その考証が進んでいないのが現状です。今から十数年前に初めて新城市で笹踊りを見た時、これは朝鮮通信使と何らかのかかわりがあると感じた興奮は今も残っている。
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