桃の入ったカレーを食べた




 つぐみによれば、人体を構成する成分というのはそれほどたいしたものではなく、たとえば人間一人分を作るための材料くらいなら、子どもの小遣いでも買えてしまうものらしい。
 その話を聞いて、人間の命を金銭的価値で語るなど、と憤慨するひともいるだろう。自分の身体とはそんなに軽々しいものだったのか、とちょっとがっかりするひともいるだろう。まあそのなかにいったいどれほどの種類の意見や切り口が存在するのだか志貴にはさすがに想像もつかないし、人の頭の中についてなんてあまり考えたくないものだけれど、もっとも多そうな意見ならわりと簡単に想像がついた。つまり「へえそうなんだ、まあどうでもいいけど」、という意見である。
 世界中に溢れかえっている意見と事件と統計について、おそらくそれがもっとも健康的な反応だ。めんどうな価値判断をあっさり放棄した、とても平和的な考えかた。たぶんそれをみんなどこかでしっているから、手のひらにすっぽり収まるサイズの携帯電話から氾濫するものものたちに、それほどひどくは押しつぶされずにきている。お世辞にもうまくやっているとは言い難いけれど、なんとかやっている、ということくらいならぎりぎりできそう。身の回りに毎日あり続けるものごとたちは、ほとんどそういうふうにやり過ごされていく。
 そういうわけで、つぐみがまたぞろ漫画かなにかから感慨を受けたらしいその人体についての情報だって、それを耳にした六割くらいの人間にとってはきっとどうでもいいものなのだろう。が、志貴はその限りではなかった。といってもつぐみの話が非常に興味深くて聞き入っていたのかといえばそういうわけでもなく、単純に、志貴とつぐみが幼なじみで、友だちだったからだ。
 テレビの向こうのコメンテーターではないのだから、友だちどうしの会話に価値なんてものは必要ないだろう。なぜなら志貴からしてみればつぐみと並んで150円のぱさぱさしたポテトをつついているというだけで、その場自体にそれなりの価値があるのだから。友だちってそういうものだ、と思っているから、つぐみの話がちんぷんかんぷんでも、べつによかった。それっきり延々と自分など足を運んだこともない図書館の、どれほど奥の棚を探せば出て来るのか知れない錬金術についての深いレクチャーを受けることになっても、べつによかったのだ。
 それに、いよいよ話が日本語として聞こえなくなってきたあたりで、志貴がどう相槌をうったものか悩むより早く、あわてたように口をつぐんでくれる配慮だってそろそろ十年来の付き合いになるつぐみは、きちんと持ちあわせてくれているのだし。
「ご、ごめん、しいちゃん」
 本人が変に気にしてしまうほどあどけなさを残している、ふっくらと赤い頬にしんなりしたポテトをもそもそ詰め込みながら、すこし伸びている前髪の隙間から、ばつが悪そうにつぐみは志貴のほうを見やった。
「あの、ごめんね。わたし、またべらべらしゃべっちゃって。き、キモい、よね」
 安っぽいポテトにじゃまされているだけ、というにはすこしもごもごしすぎているような口調で、つぐみは何度も謝る。不必要なほどに、あるいは、人によっては気に障りそうなほどに。
 鋭い言葉を人にぶつけられるしたたかさも、その鋭さに耐えうる喉の頑丈さも不幸なことに持ち合わせていない、つまるところ優しい子である幼なじみのつぐみ。それでもキモい、と大儀そうに口にされたその言葉は、クラスの子かなにかに言われたのか、それをそのままなぞって口にしているだけなのか。まあそのあたりが想像しやすいなと思いつつ、志貴はひょいと肩をすくめた。
「いやいや、なんで謝んの。いいよ、もーちょい聞かせてよ。おもしろいよ、つぐみの話。あでも、カタカナんとこはもーちょいゆっくり言ってくれたら助かるかも……早口だとなんか、呪文みたいに聞こえんだよね」
「あ。それ、このあいだも言ってたね。だから世界史が嫌いだって」
「あーうん、まあそれはなんつうか、世界史が嫌いっていうよりは教師のキタジマの喋り方がムカつくって感じなんだけどさ」
「ふふっ、たしかに。北嶋先生、すごい早口だよね。隣のクラスなのに、聞いててびっくりするもん」
「でしょー。でもそんなキタジマの八倍速授業にも負けず、今回の試験もつぐみサマサマのおかげで赤点回避できました! っつーダベり会なんだからさ、細かいこた気にしなくていいのいいの」
 だからこれで話は終わり、謝るの終わり。志貴としてはそんな感じであざやかに決めるつもりだったのだが、あれほど懇切丁寧に教えてもらったにもかかわらず赤点回避のみしか達成できなかった、まあ正直に言えば褒められたものではない点数しか取れなかった罰だろうか。ずずっと手に取ったストロベリーシェイクのストローから実にまぬけな音が志貴の想像の数倍は大きく鳴って、つぐみが隣で吹きだしてしまった。
 相手が笑ったという点からすればそれはそれでいい着地のやりかたなのだろうけど、思い通りに事が運ばないのは、やっぱりすこし腹立たしい。笑いすぎ、とうそみたいにやわらかい頬をつついてやると、つぐみはごめんごめんと口では謝りながらも、よけいにくすくすと細っこい肩をふるわせていた。
「はー、お、お腹痛い……あ、でも、しいちゃん」
「ん、なに」
 彼女が、きっと笑ったあとだからだろう、うっすら濡れた瞳で志貴のほうをきちんと見つめたのは、そのあとのことだ。
「その。ありがと、ね、いっつもわたしの話、聞いてくれて」
 それを志貴の目をおどろくほど真っ直ぐ見つめながら言えるのがつぐみで、面白くないのにね、ごめんね、とまた謝ってしまうのも、またつぐみだった。そして彼女のそういうところを、いろんなひとが勝手に好ましく思ったり、はげしく嫌悪したりするのだろう。
 お互いの家から家まで走って三十五秒、ほとんど変わらない窓の外の景色を見て育ったとは思えないほど志貴とつぐみは性格を違えていて、たとえばつぐみが中学の初めごろから急激にのめりこみはじめた漫画やアニメといったものたちに志貴はほとんど興味がない。でもつぐみが目にするそういうものたちに興味がなくたって、つぐみ自体には興味がある。
 いつだってもっとも大事なのは、そこにくっついている主語だ。彼女のいう漫画がたいへん栄誉ある賞をいただいたことは残念ながら志貴としては心底どうでもいいけれど、幼なじみのつぐみがそれを面白いと思っているのなら、志貴はその話を聞きたいと思う。つぐみのいる五組の女の子たちがそういう彼女の趣味を目に見える密かさというやっかいなもので以て糾弾していても、それとはまったく関係ないところで、彼女の話をふんふんと聞くことができる。
 みんなが個人にたいしてよくそうする、好いたり嫌ったりというのとは、すこしちがう。それは、受け入れるとか、受け止めるとかいうのに、ちょっと似ている。価値がなくてもいい、中身がなくてもいい。それが「あなた」だったら、それだけでいい。
 なんていうとおおげさに聞こえるけれども、たぶんそこまですごいことじゃなくて。もっとすごく、ありふれたことで。シンプルな話、そうやってお互いをちょこっとずつゆるしあうことで、同じようでまったくべつの形をしているというめんどうくさい生き物である人間どうしは、なんとかつながっているのだろう。ともだちって、そういうふうにできている。
「……つぐみさー。前髪、分け目変えたよね? ちょっとかわいくなった」
「ほ、ほんと? て、し、しいちゃん! そう言うのに、なんでぐしゃぐしゃするのっ」
 つぐみには悪いと思ったが、今日はみょうにふかい気持ちになるな、という違和感を吹き飛ばすのもかねて、志貴は片手で、しまいには両手で頭をわしづかむようにして、つぐみの髪をたっぷりかき混ぜてやった。ふかく考えてしまったことを面と向かって口にするのも、優しく頭を撫でてやるというのも、十六歳になった志貴にとっては、さすがにすこし気恥ずかしいことだった。
 自分のそれとは異なり、色染めのいたみっぷりとは無縁そうなさらさらした手触りが、昨夜姉に塗ってもらったばかりのマニキュアの上をするするすべる。テストも明けたしということで赤みがかった色に染め直した髪はそこそこ気に入っているけれど、黒髪がぴったり似合うつぐみの顔立ちの穏やかな整い方は、単純に便利そうでうらやましい。
 その素材の良さからすればすこしもったいないほどに、肩口で切り揃えるだけという、言い方を選ばなければ地味な髪型を貫き通してきた彼女がそれを変えたのも、そういえば、テスト明けの解放感からなのだろうか。つぐみのやわらかい雰囲気にとてもよく似合っている、ちょっと浮いた毛先をぴんと弾きながら、ポテトの広げられたトレイを避けて、志貴は頬杖をついた。
 つぐみはさすがにすこしむくれていたけれど、志貴があいた手で整えてやっているのに気がついてからはおとなしくしていて、かわいいじゃん、ともう一度言ってやると、はにかんだように笑っていた。
「これ、どこ行ってやってもらったの? いつもんとこじゃないよね」
「あ、う、うん。ママにないしょで、ちょっといいとこ行ってみたんだ」
 早々に親の支配から脱却した(もしくは早々に見限られてほったらかされた)志貴からすれば信じがたいことだけれど、つぐみはいまだに身の回りのほとんどを母親によって管理されている。
 いや、あれはどちらかというと管理ではなく呪われているといったほうが正しいのかもしれない。娘が髪を茶色く染めようが赤く染めようがわれ関せずといったふうである自分の親と比べれば、つぐみの母親はいい母と呼ばれるべきなのだろうけれど、一般的にいっていい母であるかどうかということと、つぐみにとっていい母であるかどうかということはあまり関係がないと志貴は思う。
 つまり端的に言って、濃すぎる口紅の引かれた顔をにっこりゆがませ、つぐみの母親が自分の娘にすすめていたものは、たいていつぐみ自身にはお世辞にも似合っているとは言い難かった。この子はふんわりしているところとか穏やかなところとかが魅力なのに、とにかくあのつぐみと同じ遺伝子を持っているとは信じがたい、コガネムシみたいなびかびかした母親が選んでくるものは、どれもこれも彼女には派手すぎた。そして、レースのふんだんにあしらわれたワンピースやびかびかとまぶしいブローチを小学生時代にさんざんからかわれたつぐみは、日常の格好を制服という規則で決定してもらえるようになった結果、たいへん地味な選択しかしなくなったのだ。
 そうして他人からも自分の内側からも培われたコンプレックスの壁を、けれども志貴のしらないあいだに、つぐみは乗り越えてしまえたらしい。彼女はまるでなにかを取り繕おうとするようにジュースのカップを手に取ったが、それがとうにからっぽであったことに気がついたあとで、なんだか落ち着かなさそうに、きょときょと視線をさまよわせている。ちなみに手はずっと前髪を撫でつけている。いまさら変えた髪型が不安なんだろうか、まあ、つぐみだったらそれ、ちょっとリアルだけど。
 泣いたってどうしようもないことにそれでも涙を流せるのは、めんどうなことだけれどやさしさだ。そして志貴はつぐみのそういうところも、たとえば蜘蛛の巣に引っかかった蝶の死骸の下やなんかで、幼いころからしっていた。だから口を開いてやったのだ。
「イメチェンしてみたかったの? だとしたら安心しなよ、超大成功だから」
「そ、そう? そう、かな、うん」
 いめちぇん、イメチェン。したたかさや頑丈さだけでなく、着飾ることへの欲求も軒並みへし折られてきたつぐみが、感心しきったように何度も頷きながら、たどたどしく志貴の言葉をなぞる。
「イメチェン、って、いうか、あのね」
 ぶつぶつと途切れぎみに話すのは、つぐみが緊張しているときの昔からのくせだった。以前は面白そうなものだけを探している男子から、そして今は攻撃しやすそうなものだけを探している女子からよくそれをからかわれてきた、しゃべるのが上手ではないつぐみ。でも、そうだった、彼女は、ゆっくりして聞きやすいって思うけど、という、あたしがうっかりこぼしただけの言葉に、とても、とてもうれしそうにしていて。
「かわいく、なりたいなあって、思ったんだ、えっと、つまり」
「うん?」
 頬がほんのり赤かった。
 それはつぐみがいつも肌にうかべている、あどけなくてほんのりした赤と、とてもよく似ている。
 けれどもそれはとてもよく似ているからこそ、まったく違うものであるとはっきりわかる類のものだった。
「つきあいたい、って。その、はじめて、言われたから」
 つぐみの頬は赤かった。
 彼女に恋人ができたのはまだ昨日のことだそうだ。しいちゃんにいちばんに話そうと思ってたんだ、と、たとえば海辺で拾った綺麗な石を、ちいさな握りこぶしからそっとのぞかせたあのときのように、つぐみは大切そうにそう口にした。

 とりあえず順序良く、それは同じクラスの人間か、それとも同じ学校という枠なのか、そうでないなら中学時代の知り合いか何かかと志貴が思いつく順にひとつずつ聞いてみると、そのどれもに志貴は首を振った。なんでもその彼というのはいわゆるインターネット上の知り合いから関係を発展させた知り合いというやつで、なるほどたしかにつぐみが名前、つまりは彼の本名を口にした時も、あまり馴染んでいないふうだった。「ぜっとくんっていう呼びかたのほうがまだなんとなく慣れてるんだよね、これから変わっていくのかな」。
 彼が「ぜっと」、そしてつぐみが「フラスコ」という自分で自分に与えたらしい名前をつかいながら、初めて言葉を交わしたのはTwitter上でだそうだ。土曜日二十六時二十五分からやっているアニメの主人公をとびきりかわいく彼女自身で描いたものがアイコン画像である彼女のTwitterは、フォロワーがだいたい1200人くらいいる。ごくたまに、それこそ気分の乗っているときにだけ見せてもらえる彼女の絵を見てほんわかしてかわいいなと思うのは志貴も同じだったけれど、それにしたってその数は想像できる範疇をはるかに超えていた。当の「フラスコ」さんとしても、それはだいたい同じだそうだが。
 ちなみにプロフィールには「siki」という名前と、先月バカ騒ぎした友人連中と撮ったプリクラ画像が表示されている志貴のTwitterはフォローもフォロワーもきっかり32人で、全員の顔と本名が頭の中でも一致する。その狭い世界で、一時間に二つだか三つだか流れていくスギヤマの課題が今日もねちこくてめんどうだとか、小腹が空いたけれどプチダイエット中だから悩むだとか、ドラマに出ていたなんとかいう俳優がかっこいいだとかいう、その中だけで許されているどうでもいいできごとをぱらぱら見たり、見なかったり。
 でもそうしている間に、つぐみはまったく違うのものみたいに志貴と同じものを操って、気の遠くなるほど多くの人と知り合って、そしてこの間愛を告白されたのだ。
「それは、なんというか……こう、目まぐるしい話ですね」
 そんな一部始終を、いつものように使われた感じのあまりない台所で野菜を刻みながら志貴がしてやると、イズミさんは眼鏡の向こうの瞳を、ずいぶんと丸くしていた。
「あーうん、あたしの感想もそれに近いかな」
 つぐみがいわゆるオタクの女の子として順調に名を馳せつつあることも、どちらかといえば現実が窮屈な彼女にとっては、「扶川つぐみ」という名前よりも自分で名づけた「フラスコ」という名前のほうがしっくりくるように思えているのであろうということも、志貴はなんとなくしっていた。いつも話を聞いてくれてありがとう、というつぐみの言葉はすべて彼女の控えめさから出てきたものではない。どんなに自分とは縁遠いことでも、それがつぐみの話ならとばかりに志貴はいつもそれを聞いてきた。
 だから、幼なじみがもう自分とはまったくべつの時間を生きている時間が長いことや、そこで多くの人々が彼女のことを待っていることくらいなら、それなりに諒解してたとも思う。つぐみはいつのまにかあたしのちっともしらない世界にいってしまった。でもそんなのは、もうずっと前からわかりきっていたことだ。
「なんだろ。びっくりしたっていうか……うーん、びっくりしたってことに、びっくりしたっていうか」
 わかりきっていたことだったし、世界は世界なのだから、その中で彼女が恋愛対象を見つけることだって、さして特異なことではないはずなのに。
 彼女を糾弾するひとがいるのなら、また同じように彼女を受容できるひとだって、いるということには変わりがないはずなのに。
「あたしにもよくわかんないんだけどさ。っていうか、あたしがいちばんよくわかってないって感じ?」
 それなのに――なんだか、みょうに驚いている自分がいる。
 予期していたものをぶつけられた、というには、その痺れはあまりにはっきりと志貴の身体を打ったような気がするのだ。おかげできちんとした祝福の言葉を述べてやれたのも別れ際のことだったから、とにかくそれが数日のあいだずっと、不思議でならなかった。
 それを、玉ねぎをくし形に刻みながら、ぎこちなくそのまま口にした志貴の背に、イズミさんはああ、と心底感じ入ったような声を投げてくる。
「衝撃を受けている自分にむしろ衝撃を受けるって、ありますよね。なんとなくわかります」
「マジ? そういうもんなのかな」
「そういうもん、だと思いますよ。あるじゃないですか、ちょっと変な臭いがするけどきっといけるはずって口にしたものに見事にあたって、ちょっと変な臭いがするって思ったはずなのに、お腹が痛いことがすごくやるせない時とか」
「……イズミさーん、まぁた食べもんの期限切らしたな、もー」
 だいたい予想通りのやり取りに、決まりきった安堵を感じながら、志貴は軽く笑った。
 母親の妹、つまるところ叔母にあたるイズミさんは、ちっとも姉に似ず、志貴の話にとても真剣に耳を傾けてくれる。歳が離れすぎている――高校生にもなる娘がいる四十一の姉に対し、二十六歳の妹は若すぎだ――ところからも血の繋がらない姉妹であることは明白なのだけれど、どちらかといえばこういうところにこそ、その冷たい事実は透けて見えているようにも思える。自分の考えていることなんて母親にはほとんど話さなくなったけれど、高校生になった今でも、志貴はイズミさんにだけはこういう話ができた。
 ただ、たしかにすべてきっちり聞いてはくれているし、イズミさんはイズミさんなりにとても真剣に考えて返答してくれているとも思うのだが、どうも彼女が口にすることは、いつもちょっと的外れなのだ。関係があるようでないようででもちょっとあるようで、やっぱりちっともない。ただイズミさんとしては不本意なのだろうけれど、たとえそれがちっとも実にならない無関係なやりとりであっても、志貴はそれですこしほっとする。
 問題が解決するわけじゃなし、考えがまとまるわけでもなし。ただ疵を疵として膿ませることもしない、気ままにその上を撫でていく、ゆるやかな風のようなものだけ、常に変わらず与えてくれる。
 イズミさんのそういうところが、志貴にはなんとなく心地よい。なんでだろうな、とさして疑問というふうでもなく思い浮かべながら、志貴はさくりさくりと玉ねぎを刻む。土曜日、昼と夜の分の料理を作る代わりにイズミさんと話す時間は、志貴にとってそれなりに大切だ。
「でも、そうですか。そうですよね、志貴も扶川さんも、もう高校生ですもんね。そういうことも、増えてきますよね」
「だねえ。中学のときだってまあぱらぱらと聞かなくもなかったけどさ、今はむしろ、そうやって噂になるほどめずらしいことでもないっていうか。フツーになるって、こういう感じなのかな」
 勉強がちっともうまくいかないというところまで含めて、非常に健全な一般女子高生らしい生活を送っていると自負する志貴だって、そのめんどうみのよさを好ましいと言われ、男の子に愛を告白されたことはある。そのときは、ほかのひとにはあたしってそういうふうに見えるんだ、なんてぼんやりしているうちになにがなんだかわからないまま関係に発展するには至らなかったが、ともかくそれらの事物に対する認識がとても近しいものに変わったのはたしかだ。
 部活の話とか勉強の話とか週末の予定の話とかと同じように、それらは気がつけば、志貴たちのそばまで寄ってきていた。それに飲みこまれる子たちだって、もうめずらしくない。このあいだの夜を徹してのバカ騒ぎだって、ホノが彼氏と別れたっていうからと寄り集まって、フリー記念パーティーだなんてやけくそみたいにお菓子の袋を開けまくったのが主な内容だ。ホノの愚痴はもちろんだけれど、それなりにうまくやっているはずのハルやリコまで彼氏の愚痴を言いだして、最終的に男ってやつはさぁ、というのがそこでの合言葉と化した。
 そしてそのやけくそパーティーに、一年の時からのバカ騒ぎ仲間であったはずのツカサは姿を現さなかった。デートの約束があるから行けないんだけど、ホノにはさすがに言えないから言い訳しといて、と頼まれたのは志貴だ。(なるほどこういうところから、めんどうみがいいなんて思われるのかもしれない。)頼まれたとおり親と用事なんだって、とホノたちには言っておいたけれど、彼女たちはそれがうそであることにも、もうそれをうそであるとおおっぴらに見抜いてはいけないことにも、きっと気がついている。
 あたしたちきっと、だんだんそういうふうになっていくんだ。気の合う連中とぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるのも、長い付き合いの子とマックのポテトをつつくのも、お互い楽しんでいることはたしかだ。でもそういうのとは別種の繋がりかたを、あたしたちはもうだんだんと知ってしまっている。ともだち、じゃなくて、コイビト、っていう名前のそれを、みんなそれぞれのやりかたで、ゆっくりと結び始めている。
 その結び目が今までのものたちとまったく違うかたちをしていることにも、きちんと気づきながら。
「つぐみもさぁ、そのうちあたしの勉強見てくれるのとか、やめちゃうのかなー。あー、それだと卒業がピンチになるかも、イズミさん、そんときはよろしく」
 刻み終わった玉ねぎを水にさらし、次はにんじんを手に取りつつ、想像できやすいところから想像してみる。それから志貴は、自分でもそうとわかるくらい大げさにため息をついてみせた。そういう滑稽さがみょうな衝撃を拭い去ってくれることを、どこかで期待していた。
 定位置であるふかふかと大きな赤い椅子に、志貴が高校一年という早さで追い抜かしてしまった小柄な身体を埋めていたイズミさんは、そう言って振り向くと至極慌てたようすをみせる。
「わ、私ですか? ううん、そうですねえ……古文の、教科書に出ていた漢詩なら、今でも現代語訳ごと暗誦できますけど」
「超ピンポイントなうえにびみょーに役立たないねえ、それ」
 もちろん志貴だって、イズミさんに立派な家庭教師を期待して言ったわけではない。志貴の知るイズミさんは、学校の勉強とはとても遠いところにある。実際聞いたことがあるわけではないからわからないけど、たぶん成績はあたしとどっこいくらいだったんじゃないかな。そういうところがうちの母さんの気に障るんだろうなと、なんとなく思い当たる。血がつながっていないというのを抜きにしても、志貴の母親とイズミさんは姉妹にしては不仲だ。口げんかが絶えないというのではなく、関係が冷えている。
 まあ、あのヒトは、お勉強のできない人間が嫌いだから。二つ上の、そっちは自分と違って出来のいい(それこそ自分たちも血縁なんてないんじゃないかと思える)姉と進学先を嬉々として話し合っていた横顔をうっかり思い出して、志貴はいったん包丁を置き、頭を振る。あまり蓋を開けたくない記憶だった。だからといってどうというわけでも、もうないのだし。それに、母親とイズミさんの不仲と末っ子の自分の放置され具合は、イズミさんのところに通い詰めるというのにあたり、非常に好都合な合致でもあるのだから。
 だってそうやってほったらかされているおかげで、こうして毎週のようにイズミさんのところへ行き、好き勝手に料理をするということが許されているのだ。どこに出かけていくのかと尋ねたそうに厳しい目でこちらを見る母は、けれどもけっしてそれを尋ねてしまえることがない。あのヒトはもう、用があっても、用が無くても、あたしに話しかけられないのだ。さしてなんの問題もない。問題だらけだから、問題なし。
「ところで、ですね」
 自分の中で決着がついたので、止まっていた手を再度動かさんと志貴が包丁を握ったところで、意を決したようにイズミさんが話しかけてきた。調子からして、言い出すタイミングをずっと計っていたふしがある。
 ううん、これは。嫌な予感がする、しかもだいたいどんぴしゃで当たりそうな、もっともたちのわるいやつ。それに背中をぞわぞわさせつつ、志貴はなるべく丁重に、次なる一言に身構えた。
「志貴。それは、にんじんですよね」
「そーだねえ。オレンジ色で細長くて円錐形の野菜は、まあ、にんじんだねえ」
「それから、さっき刻んでいたのはたまねぎですね」
「おかげで目がまだちょいしょぼしょぼすんだわ、アレ料理続けてたら泣かないで済むってウソじゃね?」
「そして、その隣に置いてあるのは、じゃがいもですよね」
「このデカいのの皺がさ、うちの数学教師のタヤマに激似」
「つまり、志貴」
 だめだごまかせそうにない。うへえ、と思いながら、志貴は緩慢な動作で振り向く。「うわ、っ」そして、思わず大声を上げそうになったのを、すんでのところでこらえた。さっきまですっぽり定位置の椅子に収まっていたイズミさんは、気がつけばすぐそばまでやってきていた。ちょっとレトロなデザインの眼鏡のむこうで、小学生にも無理そうなくらい純粋な煌めきで、目をきらきら光らせながら。普段自分から台所になんて近づきもしないくせに。
「あなたが作っているのは、カレーなんですか!」
 そらきたやっぱり。じゃがいもとにんじんと玉ねぎときたら、あんたはそれしか思いつかないのか、イズミさん。頭ひとつ下から見上げられているのに追い詰められたような気分で、志貴は庖丁を置き、両手を挙げた。
「残念、ハズレ。はい、そっちの袋の中身見てみ」
「え……あっ、肉団子」
「です。つーわけで、今日はポトフね」
 志貴の言葉に、一度は頭一つ分の差が頭二つ分になりそうなくらいがっくりと肩を落としたイズミさんだったが、彼女はまだあきらめない。
「いいえ、いいえ志貴! ウインナーの入っているカレーがあるのなら、肉団子の入っているカレーがあったっていいはずです!」
「ソレとソレが同列で語れるっつーのがまずおかしくね!? つーかばれてるから、目線ちらっちらこっちの棚にいってんのバレバレだから! はぁい、あたし桃缶、そんなに見つめられちゃうと照れちゃうゾ! ってかあ!?」
「ううっ……志貴、なんか変なノリになってます……」
 そりゃあんたを止めるためですよ。とは言えないが、どうやら痛いところを突けたらしい。良かった、このままの勢いで押し切られたら、危うく今からでもカレールーを鍋にぶちこむはめになるところだ。とにかく、「こう」なったときのイズミさんの押しは恐ろしい。
 漢詩の暗誦もきっとそうなのだろうが、とにかくこのイズミさんというひとは、ひとつ気になったことがあると、それをとことんまで、しかも自分独自のやりかたで突き詰めなければ気が済まないという、姪っ子のよしみで三十枚くらいオブラートに包んで言えば熱心な探究者のような性質を、なぜだか持ち合わせているのだった。
 あれこれ考える力はたくさん持っているんだから、頭がいい人間ではあるんだろうけど。その頭のよさって、たいてい一歩間違えただけで、学校のお勉強からはかけ離れたところにいっちゃうんだ。志貴がイズミさんの成績の悪さについて予想がついたのは、つまりそういうわけである。
 そんなイズミさんが目下のところ探究したがっているのはおいしいカレーの作り方で、そしてどういうわけかその研究方針は、カレーに桃缶を入れてみるとどうなるか、というところからスタートを切っていた。なんじゃそりゃ、と叫びたいが、もう数週間も前に叫んでしまったので、再度やるのはいい加減めんどうな志貴である。あたしイズミさんのそういうところ、おもしろいとは思ってるけどさ。それはさ。さすがにさ。
「でもね、きっとおいしくなると思うんですよ! そう、ハンバーグの上にのったパイナップルみたいな効果で!」
「だからイズミさんはものの繋ぎ方がおかしいんだっつの! あとついでに言うとパイナップルは肉やわらかくする効果もあって入れてんだし、それにしたってあたしは肉と果物をいっしょくたに食べようって神経はわわかんねえよ!」
「わからないじゃないですか、もしかしたら桃缶にだって秘めたるパワーがあるのかも! それこそ志貴だっておいしく食べられるような!」
「イズミさんのその無尽蔵な前向きパワー、どっから沸いて出てくるわけ!? エネルギー問題もそれで解決する勢いだわマジで! つーかこの話はしーまーせーんー、いくら気になるからってカレーに桃缶はいーれーまーせーんー!」
 ほらあっち行った行った、と台所から追いやられたイズミさんは、九つも年上とは思えない素直なむくれかたを隠さぬ足取りで、どっかりともとのソファに戻っていった。それこそ生まれたときは同じ家の中で暮らしていて、二つ上の姉よりも姉らしい位置にいたはずのイズミさんは、にもかかわらずこういうところに、みょうな対等を感じさせる。

 それでもしばらくは背中に桃缶と書いてくるような視線の嵐に耐え抜かなければならなかった志貴だけれど、とりあえず今回のカレーはイズミさんの魔手から守りきることができた。週に一度の元気の良さでいただきますと言い合って、木製のみょうに持ちづらいスプーンですくったカレーを口にする。ちなみにスプーンは、イズミさんがかつてアフリカの民芸品にいたく興味を示していたときに取り寄せまでして買ってきたものだ。なにか儀式に使われていたとおぼしき装飾が目に入るのだけれど、本当のところどうなのかはわからない。そんなに想像がしたいわけでもない。
 ごつごつと唇にひっかかる形をしたスプーンでどうにか運ばれたカレーは、なんの変哲もなくておいしかった。
「っていうかさ。イズミさん、いくら家事がアレだからって、カレーぐらい作れるでしょ。切って炒めて煮るだけだし」
「切って炒めて煮るだけだと、私のはカレー味のスープの枠を出ないのです。可能性というものを感じないんですよ。トンビが鷹にはなれても、カエルが鷹になることはできないんです。私のカレーはカエルなんです」
「あたしのカレーはトンビってか」
「はい。いえ、今日はもう鷹といってもいいかもしれません!」
 そう言って文字通りかそれ以上に目を輝かせたイズミさんは、志貴のそれとはまた全然違う形のスプーンを器用に繰り、じゃがいもを十字に四つ切にしていた。マナー自体はとても綺麗に見えるのだけれど、彼女の食べたかたにはところどころにこういう奇行が目立つ。
 しかし今更そんなところに注目するでもない志貴は、大げさにため息をついてイズミさんをねめつけてみせた。
「イーズミさーん、ふつうの食事マジで一週間しなかったっしょ。だからおいしく感じるんだよ、それ。ほんとさぁ、いくら旦那さんの目がないからっててきとーなもんばっか食べてたら舌バカんなるよ、マジで」
「亘くんを私の監視係みたいにいうのはやめてくれませんか……」
 丁重に刻んだじゃがいもをもそもそ口にしつつ不満げにこぼすけれど、志貴にとってはそれがまぎれもない事実なのだからしかたない。
 実際、毎週土曜に遊びに行く、のなかに料理を作りに来る、という項目が加算されたのは、まぎれもなく亘さんが転勤してここを出て行ってからのことだ。監視係、とまではいかなくとも、亘さんが一緒に暮らしていたころのイズミさんは、まだもうすこししっかりしていたと思う。あのイズミさんがちゃんと「お嫁さん」になってるよ、ってあたし、けっこう感心してたのに。微妙に失礼かもしれないが、真実だ。
 亘さんというのは大学を出てすぐ結婚したのだというイズミさんの旦那さんで、学生時代はラグビー部主将でならしたらしい。広い肩幅と冗談みたいにグラマーな胸板をしながら、くりっと丸い目をしている彼を初めて見たとき、くまのプーさんがすぐ連想されたことを志貴はよく覚えている。小柄なイズミさんと並べるといっそうプーさんとピグレットみたいで、志貴がそれを言うと耳がびいんとなるくらい大きな声でたのしそうに笑っていた。イズミさんはその隣で、ぴぐれっと、と耳慣れないふうに口にしながら、まばたきばかり繰り返していた。
 大学の四年間街を出て、そして二年間向こうで就職していたイズミさんが旦那さんを連れて帰ってきた、そのはじめの土曜日。あたしたちはたしか、そういうやりとりを交わしたんだ。なぜだか志貴は、それをとてもよく覚えている。それがふつうの記憶とすこし違うのは、たとえばそのとき空が曇っていて雨の匂いがすこししていたことだとか、サンダルを履いたイズミさんの白い足の小指辺りでカタバミの花が咲いていたことだとかまで覚えていることで、なんとなくだけれど、ただできごとを覚えている、というのとはべつのもののような気がしていた。
「亘さん、次はいつ帰ってくんの?」
「まだ、しばらくは忙しいみたいですね。秋には帰って来られるようにしたい、と言っていましたが」
 カレー、カレー、カレー、水、カレー、カレー、水、の順を必ず守っているなかの二回目の水でのんびりと答えたイズミさんは、彼女の定位置でもあり、そして彼女の仕事場でも一応ある赤いソファの置かれた机の上に目をやっていた。あそこの右から三番目の引き出しに、亘さんから送られてきた手紙がしまわれている。そう、亘さんとイズミさんは、大切なことはすべて手紙でやりとりしているのだ。
 若者と呼ばれてもまあよさそうな年齢や大学が都会のほうだったところからすれば理解しがたく、けれどそれが「イズミさん」のことだったらなんとなく納得できる話なのだが、イズミさんは携帯電話を持っていない。ガラケーともスマートフォンとも無縁で、ついでにいうとパソコンを立ち上げてと言われたらパソコンを持ち上げて椅子から立つくらいにはインターネットと無縁だ。それでよく大学を卒業できたものだと思わずこぼしたら、そうなんだよ、と亘さんが苦笑して、ちょっと理由がわかった。
 もちろんメールと違って手紙は手間も時間も格段にかかるし、たぶん亘さんは筆不精だ。(たしかに、亘さんがあのクマみたいな身体を椅子に収めて便箋にちんまりとした文字を書き連ねているのは、ちょっと想像しづらい。)だからやりとりはだいたい月に一度だそうで、それでよくうまくいっているものだと厭味のように母親はぼやいていた。でも、それでうまくいかないのだったら、イズミさんとそもそもはじめからうまくいかないんじゃないかと志貴には思えている。
「つかさ。イズミさんから亘さんとこに会いに行ったりはしないわけ? 忙しいってんなら、こっちは全然じゃん」
「でも私は私で仕事がありますからね、一応」
 しれっと言ってのけるイズミさんは、お皿の上にそっとスプーンを置いて、残った水をゆっくり口に含むように飲む。その目線がちらっと放られたのは机、というかもっと正しく言えばカウンターであるその仕事場の向こう側だった。
 コンロと電子レンジとオーブンの台所があって、食卓があって、というひとめで居住空間とわかるそこは、そのカウンターによって区切られている。そして横長に伸びた机のその向こう側には、すこしくすんだガラスケースや、壁に立てかけられた数々の額縁が並んでいる。
「そりゃま、そーだけど。でもべつに一日二日、いや一週間でも休みとったって、べつに影響ないんじゃないの?」
「そんな! 今だって月にひとりかふたりくらいは、本気で行き場を失くしたらしいカップルあたりが立ち寄ることもあるんですよ」
「いま月にって言ったよね。あたし週単位で話したのにイズミさん素で月単位使ったよね」
「ちなみにそのうちの一組は別れ話をしに来ていました。たしか二週間前ですね。そういえば志貴と同じ学校の制服でしたよ」
「ってそれ時期的にどんぴしゃホノじゃねーか! なにやってんだあいつは!」
 イズミさんの仕事は、一言でいえば学芸員、らしい。その資格を取りに大学に行ったのだとか、これがけっこう使い勝手が悪い上に取るのは難しいらしいだとか、そのへんのことは志貴にはよくわからないが、とにかく博物館とか美術館とかのめんどうをみたり案内したりするひとなんでしょ、といったらイズミさんはにこにこ頷いてくれた。その彼女がめんどうをみているのがこの、もとは灯台だったのだという建物のなかに作られた、ちいさな博物館だった。
 どうやらだいぶ昔は貿易の要となる港町として栄えていたらしいこの街は、その思い出をすべてこの岬の灯台に詰め込むことにしたらしい。もう役目を果たすことのない灯台には、かつて入港していたらしい船や当時の様子の模型、白黒の写真や記事の切り抜きなんかが、明らかにやる気の無さそうな説明と共に申し訳程度に展示されている。その、聞くからに誰も見に来やしなさそうな博物館の管理を二年前から任されているのが、大学を卒業し以前の仕事を辞めてまでやってきた、このイズミさんだった。
「そんなこと言って、志貴はけっこうここのこと、気に入っているでしょう?」
「まあ、ねえ。よくそんなこと覚えてんね、イズミさん」
「大人は子どもの言ったことを案外忘れてはいないものですよ」
 なんてイズミさんはすましたふうに言うが、たしか志貴がイズミさんに手を引かれながら初めてこの博物館に来たのはそれこそ六つだか七つだかといったころのことで、ならばイズミさんは当時中学生のはずだ。どこが大人なのだろう。
 でも遊びに行こう、といって遊びに行く場所なんてたいがい行きつくしてしまったあたしたちが身を寄せるのに、この博物館はとてもぴったりだったのだ、それは本当。
「昔は、朝から晩までここに入り浸っていたじゃないですか」
「いっくらあのころの管理人が目もしょぼついてそうなすんごいばーちゃんだったからってさ、よく怒られなかったよねえ、あたしたち」
 なにをするでもなくいていい場所というのはおそらくとても貴重で、たいていの人にとっては自分の家がそれにあたるのだろう。けれど、姉と不仲であったイズミさんと、母親と不仲であった志貴にはそれがなかった。
 高校生活に友だちづきあいにと忙しい今でこそ朝早くから夜遅くまで家を出ていられて、日曜は暇な友だち連中と、そして土曜はイズミさんの家にと上手に逃げられるけれど、前はそうじゃなかった。特に小学生のころは、重たいランドセルを抱えたまま、だらだらと長い遠回りまでして家に帰るのを遅らせたものだ。居場所のあるなしだとか、相手に自分が受け入れられているかどうかというどこか残酷さをはらむ事柄の確信は、たぶん幼い感覚であるときのほうが得やすい。あのヒトはもうあたしに関心がないんだろうなということをあのときのあたしはもうわかっていて、イズミさんもきっと同じだった。
 そしてイズミさんの言う通り、志貴はここが好きだ。こんなミニ博物館誰も見に来やしないけれど、その誰も見ない写真だとか模型だとかいったちいさなものたちが、このばかでかい灯台が未だ街に在り続けるだけの理由を、これ以上なくきちんと作り出している。そういうところがとても好きだ。
 だから、あのよぼよぼだった管理人のおばあさんがついに亡くなり、ここを管理するひとが居なくなってしまったという話を聞いた一昨年は、高校生になってイズミさんもいなくなって、足を運ぶことがもうなくなっていても、それなりにさびしいと感じてもいたのだが。
 それでもたまに、どうしてなのだろう、と思う。
「ああ、そういえば、志貴。このあいだノートを見つけたんですよ」
「ノート?」
「はい。私と志貴が、最初にした研究のノートです」
「あ、あれか。割れないしゃぼん玉の研究!」
「です。よく覚えていましたね、志貴」
「そりゃね、子どもは大人の思ってるよりいろんなこと覚えてるもんだから」
「あら。一本取られましたか、私?」
 志貴が気に入っていようがいまいがここに仕事があるのかといったらそんなことはやっぱりなくて、イズミさんの仕事風景は日がな一日あの赤いソファに身体を埋めているという、きっとそれだけだ。掃除くらいは毎日するのだろうけれど、彼女が拭うのはひとのつけた汚れじゃなくて勝手に積もった埃ばかりだろう。
 だったらべつに、転勤した亘さんについていったっておかしくないというか、イズミさんがあまりにもふつうにしているから忘れそうになるけれど、そうしていない今のほうがたぶん異常だ。
 そうはいってもこのご時世共働きじゃないとやっていけませんから、せっかくみつけた仕事は手放せませんなんてイズミさんは言うけれど、そこに心配はないんだと亘さんは言っていた。この不況のさなか、就職活動でほぼ大成功といっていい結果をもぎ取ったイズミさんは、たった二年でもしっかり会社に功績を残していたらしい。「なのに突然やめるなんていうもんだからさ、頼むからあいつを止めてくれって俺のところにまで依頼が来たんだよ」亘さんはそう言って、やっぱりプーさんみたいなやさしい微笑みを口もとにはうかべていたけれど、目がどこか真剣だったことに志貴はちゃんと気づいていた。
 それなのに――どうして、イズミさんはここにいるのだろう。
「ついつい読みふけってしまってですね。そしたら我慢できなくなって、買ってきちゃったんです、グリセリン」
「あー……つまり?」
「つまり、なんだと思いますか?」
 いたずらっぽく笑ってみせるイズミさんは、とても隠しごとがうまくない。ポトフを作っていようが野菜炒めを作っていようが桃缶に目がいくのと同じだ。やれやれ、と息をついた志貴は、皿を片付けてからしかたなくイズミさんのほうを振り返る。
「……オーケイ、いいじゃないの。十六歳のシャボン玉って、なんか曲タイとかにありそうだし」
「よしっ! じゃあ行きましょう、すぐ行きましょう、志貴!」
「っていや待て待て待て待て待て、え? あれ? この海とかちょー見える無駄に眺めのいい窓ほったらかして、いったいどこに走り出そうとしているのかなぁイズミさんは」
「なに言っているんですか、志貴。普通の人たちは立ち入り禁止であるこの灯台の鍵を、私たちは持っているんですよ?」
「登んの!? 飯食った直後に!? あのクソ長ぇ階段を!?」
 はいっと元気よく頷いた彼女はあっというまに外へと出て行ってしまって、どちらかといえば引っ掴んででも止めるために志貴はそのあとを追ったのに、イズミさんがなるたけ大きく、でもやっぱりちっこく見える広げた両手の向こうに広がっていたのは、あまりにもいい天気だった。
 船の影も見えない紺碧の海と雲一つない空と、まるで子どもが夢中になってクレヨンを握ったような色が、そこには広々とぬりたくられていた。夏のむせかえる熱気を存分に孕んだ風からはすこし塩っからい匂いがして、古い石造りの壁だけはそのまま残されている灯台をぐるりと旋回するように、かもめが二羽飛んでいる。
「あー……っ、もう! ちょっと待てったら、イズミさん!」
 ああ今日はほんとうにいいお天気で、いいお天気って、つまるところはサイテーだ。結局なにも言えなくなってしまった志貴は、灯台の外側をらせん上に囲む階段を、一段飛ばしで駆け上がった。

 めでたく彼氏のできたつぐみとの付き合いは、変わったといえば変わったし、これといってどうということもなかったといえば、それもまた正しいように思える。
 つぐみの週末の予定があまり空かなくなっただとか、自然と彼の名前が話に出てくるようになっただとかいったところはたしかに変化と呼んでもよいのだろう。でも、付き合う付き合わないの話がよっぽどのことでなければ大げさな噂として囁かれなくなっていた十六歳の志貴にとって、それらのことはほとんど予想できていたことだった。まあたぶんそういうふうになるんだろうなって思っていたことが、まったくそのとおりのかたちで、目の前にやってきた。つまりはそういうことだ。
 一週間して、二週間して、フリー万歳状態から早々に目を覚ましてしまったホノは新しい恋を探していて、イズミさんはあいかわらずおいしいカレーの研究をしようと台所に立つ志貴の背中に忍び寄ってばかりいて、つぐみは「ぜっとくん」とキスをした。「ちょっと早いと思ったんだけど、でもそんなに家が近いわけじゃないし学校が同じでもないからからたくさんは会えないし、それになんていうか、なんだろう、えと、ごめん、わかんないんだけど」。べつに言い訳をしろと言ったわけでもないのにそんなことを真っ赤になってわたわたと並べ立てるつぐみは、なんだかかわいらしくておもしろかった。そのころには、「ぜっとくん」はだんだんと、「隆正くん」になりつつあった。
 いいじゃん、なんかいいじゃん、ラブラブじゃん、なんてつぐみの肩をつっついてやるように、いわばノリノリで志貴は二人の話をよく聞いてあげていたのだが、つぐみのほうはたまにはっとしたように謝った。しいちゃんはこんな話聞いてもおもしろくないよね、ごめんね、というつぐみお決まりのあれだ。そしてお決まりだなとわかってしまう程度にはつぐみのそういうところに慣れているから、志貴はそんなつぐみの頬を引っ張ったり、二人で撮ったという写真の入った携帯を取り上げてからかったりしてやりながら、そんなこと言ってないでしょ、と笑ってやる。
 ――笑って、やれていたんだ。
「あ。ええと……すみません。サカガミシキさん、ですか?」
「は?」
 振り向いた瞬間、志貴はひどく奇妙な感覚に陥った。こんな田舎だとそのような出来事は起こり得るはずもないのだけれど、そう、テレビで見ていた芸能人が目の前に現れたら、きっとこんな気分になるのだろう。見た目とほかのだれかの言葉によってしか語られるのしか見たことない人間が、突如現実の人物として立ち現われたとき。
 街でいちばん大きな駅の北口改札掲示板前、出かけるときはだいたいお決まりになっていたつぐみとの待ち合わせ場所で、志貴はその感覚に、いっときぼうっと立ちつくしていた。
「突然ごめんなさい、あの、俺……あ、そう、ぜっとです。って、言ったほうがわかりやすいのかな」
 それを戸惑いととったのか、彼は照れくさそうに頭に手をやりながら、すこし早口で言った。短くつんつんと跳ねているうすい茶髪はどこかひよこのたてがみみたいで、かっこいいというよりはかわいらしいのほうに印象が近い。ただ背だけはひょろりと高くて、女子の中でも長身に入る志貴のことを、彼はすっかり見下ろしていた。ちょっとダメージの入った黒いジーンズに白いTシャツを着た、同い年くらいにみえる彼は、二回目のぜっとです、の後に、飯尾隆正です、とあわてたように付け加える。
 さすがにそこまで言われれば、というかそこまで言われなくても、志貴には彼が誰だかもう見当がついていた。なにせ、顔と名前と雰囲気だけは、それこそ画面の中の俳優みたいによくしっている人物だ。
「ああ、あんたがタカマサくん? つぐみの彼氏の」
 志貴が言うと、彼は目に見えてわかるほど表情を明るくさせてから頷き、それからほっとしたように笑った。気持ちがすごく顔に出やすくてね、なんだかそういうところがかわいいんだ、と呟くようにつぐみが言っていたのを、そのあと自分で口にした癖にあわてきっていたようすまで含めて、ふと思い出す。なるほどまったくそのとおりで、あれこれひとについて考え込みやすいつぐみが付き合うには、ぴったりな性質なのかもしれない。
 それはいいし、彼の正体についても明らかになったのはいい。でもどうしてその彼が、つぐみによればだいたいこのあたりから乗り換え含め十二駅分離れているのだという彼が、今日のいま、こんなところにいるのだろう。
「で、ええと。そう、坂上さんに用があってきたんだ、俺」
「あたしに?」
「うん。や、用っていうか頼みっていうか……まあ、とにかく」
 志貴が抱いたわりと当然の疑問は、やっぱり彼にとっても当然だったようで、取り繕うように咳払いをした隆正は、たぶんそれに応えようとしていた。ただ彼が肩にかけていた鞄の中身をなにやらがさがさやりだしたのはどうしてなのか志貴には図りかねて、彼のほっそりしているともがっしりしているともいえる奇妙な、要は志貴やつぐみとは違う男性の肉付きをした腕をなんとなく見つめていた。
「っと、あったあった……げ、ちょっとくしゃくしゃになってる! ご、ごめん、大事に運ばなきゃって思って底のほうに入れたんだけど、皺つけてちゃ意味ないよな……」
「……それは?」
 そうして隆正が鞄から取り出したのは、淡いピンク色の袋だった。口は緑色のリボンと金色のシールで綴じられていて、たしかに言ったとおりちょっとしわのついている表面には、銀色の文字が踊っている。ひどく焦ったように皺を撫でつけてのばしている彼の、すこしごつごつと骨の浮かぶ手のあいだから断片的に読み取れた文字が、志貴の頭の中でようやく繋がる。<Happy birthday!!>
 なんとなく不器用に、でもとても丁重に手渡されたそれを受け取りながら、志貴は、まばたきばかり繰り返している。
「坂上さんさ、誕生日だったんでしょ、一昨日」
 十六歳だった志貴は、たしかに一昨日、十七歳になっていた。
 夕方や夜になってもぱらぱらと届く祝いのメールはひっきりなしに携帯を震わせていたけれど、夜といっても前日と当日の分かれ目の夜、つまるところ零時ぴったり、いちばんにそれを送ってきてくれたのは毎年のとおりつぐみだった。そういうともすれば危ういくらいのきまじめさを変わらず持ち続けてくれているつぐみは、だいぶ長いメールの中に三回ごめんなさいを、そして六回ありがとうを書いていた。
『しいちゃん、こんなわたしだけど、ほんとにいつもありがとう。しいちゃんがいつも一緒にいてくれたから、わたしもすこしだけ自分に自信をもてたりするときがあって、そのおかげで、好きなひとだってちゃんとできました。ほんとに、しいちゃんのおかげだよ』
 読んでいると身体のあちこちがむずがゆくなってしまいそうなつぐみからのメールはそのあともあとひと段落ぶんくらいは続いて、その主な内容は誕生日プレゼントについてだった。隆正にも選ぶのを手伝ってもらって、ちょっと特別なものを買ったのだという彼女は、学校で渡すのは恥ずかしいし、あと最近なかなか遊べていなかったから、と今日の約束を提案してきたのだ。もちろん志貴はそれを快諾して、だからこそ日曜日の十三時二十八分に、いつもの場所にたどり着いていた。
 隆正が姿を現したのは、連絡も無しに遅刻なんてするはずのないあの子が、いったいどうしたのだろうと志貴が携帯の時計を見た、十三時三十七分のことで。
「あいつ、あ、つぐみね、喜ぶかなぁとかすげー楽しみにしてたくせに、今日風邪引いちゃったみたいで。でもこれだけはどうしても早く渡したがってたし、だから、代わりに俺が来たんだ」
 彼の言葉をぼんやりと聞きながら志貴は袋の中身を覗きこんで、そこでどうしてつぐみがそれを早く渡したがっていたのかを理解した。中身は二つ、前に出かけたとき一緒に見てかわいいってさわいだいい匂いのするクマのぬいぐるみと、それからすこし形のふぞろいなストロベリージャムのクッキー。
 志貴がいい加減ぼうっとしすぎているのを疲れさせてしまったととったらしい隆正は、すぐ近くにあった駅中のスタバに入ろうと言いだして、そのたった数十歩の道中で、なんだかつぐみみたいに何度も謝った。「ごめん、俺、あんまり気が利かなくって。つぐみんちから急いで来たんだけど、それでも暑い中待たせちゃってたんだよな。ほんとごめん」
 急いで来た、の言葉の通り、たしかによく見るとさっぱり切り揃えられたこめかみあたりの髪を汗で張りつかせていた隆正は、謝罪七割おめでとう三割くらいの気持ちをこめて、飲み物というよりはデザートに近いフラペチーノを奢ってくれた。それを彼が持ってきてくれるまで、志貴は言われた通り席を取って待っていた。
 どちらかといえばすぐそばにあるホームに電車がやってくる音のほうがうるさい店内には、日曜昼下がりらしく学生とみえる人々がめいめい腰を下ろしていて、小声のおしゃべりに興じたり、薄すぎるノートパソコンを睨んでいたり、文庫本を広げたりしている。あのひとたちに隆正と自分はどういうふうに映るのだろうとふと考える。あたしがタカマサの彼女に見えるってことも、あるんだろうか。
「はい、坂上さん」
 たぶんそんなことは、ないんだろう。ありがと、と軽く言いながら、志貴は隆正の手からつめたいプラカップを受け取った。ストロベリーチーズケーキをイメージしてつくられたのだというそれは、突然渇きを思い出したような志貴ののどを、じんわりと甘酸っぱく滑っていく。袋の中のつぐみのクッキーも、ひょっとするとこんな味なんだろうか。
「……つぐみ、ああ見えて料理とかってあんま得意じゃなくてさ。なんつーの、あたしよか全然丁寧だしちゃんとしてんだけど、慌てすぎるんだよね。油跳ねとか、もうすっごい悲鳴上げちゃうの」
「ああ、うん、しってる」
 自分の方はメニューの中でも三番目くらいに安いキャラメルマキアートを頼んでいた隆正は、緑のストローに氷をがらごろぶつけて、おかしそうに肩をすくめた。
 とても、善い、と思える笑顔だった。
「だからつぐみは料理の上手な坂上さんのこと尊敬してて、自分もうまく作れるようになったら必ず食べさせてあげるからって、昔約束したんだろ?」
「そ。なんだ、つぐみ、覚えてたんだ」
 覚えて、もう、話してたんだ。
 隆正は、つぐみの手料理を口にしたことがあるのだろうか。ふとそんなことが気にかかったけれど、志貴はそれを口にしなかった。

 共通項はそれしかなかったのだから、二人ともがカップの中身を空けるまでの話題といえばつぐみのことで、しかしそれはなかなかに盛り上がった。盛り上がることのできる程度には、志貴と隆正のつぐみに関する印象や知識は一致していたのだ。
 つぐみの控えめ過ぎるところや考えすぎるところを挙げ連ねては、そうなんだよね、困ったもんだ、と二人して大仰なため息をついてから吹きだして、をたくさん繰り返した。そのうちの何度か、志貴はにやっと笑いながらでもそういうところがかわいいって思うでしょ、と隆正のカップを弾いて意地悪く言ってみせて、緊張もだいぶゆるんできたらしい隆正は勘弁してよ坂上さん、と両手を挙げて情けない声を上げていた。
「そういえばつぐみの風邪って、ひどいの?」
「いや。熱は昼あたりでももうだいぶましになってたし、明日は元気に学校、来ると思うよ」
「そっか。でも心細いもんだし、ちゃんとLINEなり飛ばしてやんなよね!」
「わ、わかってるって。坂上さんには敵わないな、なんか……つぐみの言ってた通りだ」
 スタバを出て、数十分前と比べればだいぶくだけたやり取りを交わしたのち、電車の時間が迫ってきた隆正を改札の前から見送った。改札をくぐったあとでもきちんと一度振り返って会釈をしていった隆正が、四番線ホームへの階段を駆け上がっていく。
 その姿がまるっきり見えなくなるまで、そして四番線にやってきた急行電車が走り出す轟音に頬を叩かれるまで、志貴はその場に立っていて。
「っと、」
「あ……すみません」
 口では謝りながら不快感を露わに浮かべた男性は、早足で改札をくぐっていった。三番線だか一番線だかわからないが、どこかにやってくる電車に乗りたいんだろう。そうやってまばたきをしてみれば、どうして今までここに立っていられたのかふしぎなくらいたくさんの人々が、志貴を避けるように早足で改札へと向かって行っていた。
 そうだあたし、ここにいたらじゃまだ。ぽつりとつぶやくようにやっとのことでそれを理解した志貴は踵を返して、ひとつだけ中身の増えた鞄の肩ひもを握り直した。行かないと。行かないと? いや、行く場所は、もうなくって。
 北口掲示板の下で、どうやら待ち合せらしい中学生くらいの女の子たちが、手を合わせてきゃあっと声を上げている。行く場所は、もうない。志貴は南口側にふいっと目を遣る。もう帰らないと、かえらないと、
 ――帰る場所なんて、もともと、あったっけ、あたし。
「……なに、ゆって、」
 油でも挿し忘れたみたいにぎしりと固まった関節をむりやりひん曲げて、志貴は駅の南口をくぐっていった。昼下がりまでの陽射しをたっぷり呑みこんだアスファルトがむっとするような熱気を吐き出すさなか、飛びこむように外へと出てゆく。暑かった。お腹にたまったフラペチーノですらもいっぺんに煮え立ってしまいそうな暑さが、脳天からつま先までを一気に駆け抜ける。暑い。暑い。うそみたいに大粒で流れ落ちてきた汗が目に入って、視界が一気に滲む。
 それでもがむしゃらに歩き出したのは、このままここにいたってどうしようもないからだ。景色をどんどん後ろへと追いやるように歩調を速めたのは、たった一度でも立ち止まってしまったら、たぶんもうからだが固まって動けなくなってしまうとわかっていたからだ。
 では走り出したのは、走り出してしまったのは、どうして、だったのだろう、もうわからない。
「はあ、」
 肩に引っ提げた鞄に入っている携帯とか化粧道具とか手鏡とかハンカチとかキャンディとかが、ごちゃごちゃと全部いっしょくたになって跳ね回っていた。つぐみが大事にあずけてくれた、そして隆正が必死に運んできてくれたプレゼントが、きっと中でたくさんつぶされたりぶつかったりしていることだろう。
 そういえばあちーからって道の途中で買ったちっさいボトルのジュースもいれてたっけ、あのキャップがもし開いちゃってたら、中身はびしょ濡れになっちゃうかな。びしょ濡れになったクッキーって、どんな味がするのかな。そんなことを考えて、考えるそばから振り落とすみたいに身体をがくがく揺らして、志貴は走っている。
「っ、は、」
 この暑い中、いやこの暑い中だからこそ元気よくプール道具を抱えて、志貴とは逆方向、駅に向かって走って行くところの小学生たちが軒並み足を止めて、こっちを見ているのが一瞬だけ目に映った。よそみのつもりでもなかったけれど、身体のバランスというものはそんな簡単なことでも崩れてしまうものなのか、ミュールがアスファルトをへんなふうに蹴って、視界が唐突にがくんと歪む。
 転ばなかったのはきっと僥倖だったけれど、小学生たちはみんな足を止めてまでこっちのほうを見ていた。目がまんまるになっているのが、とてもよくわかった。
「はぁ、っ……!」
 なんだ、隆正ってさ、いいやつじゃん、って。
 ネットで知り合ったなんていうからさ、正直ちょっと心配してたんだよ。最近そういう、なんだっけ、SNSだっけ、そーゆーの出会い系みたいに使ってるやつらも多いっていうからさ。そんでつぐみ、あんたはどうもそういうのに引っかかりそうな危なっかしいとこが、昔からあるからさ。あんたがその相手のこと悪く言うわけはないから、あんたの話はまあ平和に聞こえるけど、もしかしてやなこととかこれから起きないかなあって、正直、ちょっと心配だったんだけどさ。
 でも会って話してわかったよ、ぜっとくんだっけ、まあもうあたしも隆正でいいよね、隆正、すげーいいやつじゃん。服装とか髪型とか顔とかははっきり言ってブナンっていうか、ふつーって感じだけど、それでもあんたのクラスのアオヤギとかシノハラあたりよりかはずっとましみたいだしさ。あ、しらない? そいつら一年のときあんたのこと好きだったんだよつぐみ、まああんたは、しらないと思うけど。きっとずっと、しらないんだろうけど。
 まあとにかくね、性格っていうのかな、雰囲気っていうのかな、そういうのがいいね、隆正。それにあんたのことも、ちゃんと考えてくれているみたいだしさ。つぐみ、あんたがあいつのこと好きになったのも、そんで今ちゃんと付き合えているのも、そう、わかる気がするよ。
「わかる、よ」
 わかって、しまった、から。
 獰猛な動物かなにかみたいに、ひゅうひゅう音を立てて、のどから空気が吐き出される。胸を内側から殴りつけるように強く脈打つ心臓を握りしめるように、服をぎゅうっと引っ張る。
 ――よかったじゃん、つぐみ。
 あの子があいつのことを好きになる理由も、あいつがあの子のことを本当に好きらしいという事実も、すべて、何の問題もなく、わかることができる。彼にはつぐみの代わりに十三時三十分の待ち合せに現れる権利があったし、志貴のしらなかったつぐみの体調不良について朝からしってお見舞いに行く権利があったし、つぐみのことをたくさん、たくさん、とても善い笑顔で語る権利があった。そこにはなんの不正もない。
 うつくしくてありふれている、穏やかな幸福だけが、そこにはきちんとあって。
 それは祝福されるべきで、
 それは祝福されるべきで、
「つぐみ、」
 おめでとうと、言えなかったから、志貴は次の十字路を左に曲がった。
 右に曲がれば家だった。
 左に曲がれば、岬の灯台だった。
 思えば何度目に通るのだかわからない、岬へと続く白っぽい道を、どのくらいの速度なのかすらも判然としないなか、志貴はひた走ってゆく。もう二度と光ることのない灯台は晩夏の陽射しに濃い影を短く落とし、両脇に広がる草むらからは、すこししめっぽくて生き生きとした青い匂いがした。
 かえろう。もう、帰ろう。なにを考えているのか、それともなにも考えたくなかったのか、じんじんとへんな痺れかたをしている頭に、それだけが鈍く響いている。もう、かえりたい、かえろうよ。
 いらいらするほどゆっくり開く自動ドアをくぐって、ふらりと、カウンターのほうを見る。
「……っ、あ、れ?」
 そこにはだれもいなかった。
 いつもそこにいるイズミさんは、でも、そこにいなかった。
 ぼうっと持ち上げた腕で、志貴はゆっくりと、額と、それからこめかみを拭う。自分のものでも辟易するくらい汗でべたべたになっていて、でもそのおかげか、ここの実にゆるい冷房でもきちんとひんやり涼しく感じられた。
 がたぴしいいながらもなんとか駆動している旧型の冷房がしんどそうにスイングして、やっとのことで運ばれてきた風が、イズミさんの机兼カウンターの上をそっと撫でる。そのとき、かさり、と、乾いた音がして。
「ああ、なんだ」
 カウンターの上で、封を破かれ、広げっぱなしになっていた便箋がほんのすこし動いたのを見て、志貴はぽつっとこぼした。
 なんだ、そうか。LINEどころかメールのひとつも満足にできないイズミさんに、こうして手紙という手段までとって連絡してくるひとなんて、たぶんひとりしかいない。そうでなくたって、宛名の字の癖にはちゃんと見覚えがある。なんだ、イズミさん、亘さんから手紙、きてたんだ。
 そしてよくよく見ればそのそばには真新しい便箋を破いた残りと、切手を詰めた袋が出しっぱなしになっていた。これだからいつまで経っても片付けられない女なんだよと言ってやりたくもなるが、おかげでなにをしていたかはもうぜんぶわかった。
「……こないだは仕事あるから行けない、なんて言ってたくせに」
 そのくせこうやって手紙がきたら、こんなところほっぽりだして、返事を出しにいっちゃうなんて。
 でも、ああ、でも。
「でも、そういうもの、なんだよなぁ」
 いい加減限界を大声でうったえていた膝がついに折れて、志貴はその場にずるずると座り込んだ。ラグのざらざらした肌触りが、汗ばんでやわらかくなったむき出しの足をつつきまわす。軋みを上げながら回る冷房と、遠く遠くを飛んでいる鳥の声と。ここはこんなにも、静かだったのか。そう思うくらいには、静かでないことを期待していたのか。
 志貴はどうしてだかこんなときに、ずっとずっと昔、親戚の集まりがあったときのことを思い出していた。姉みたいに大人の話をきちんと聞き流してじっと座っていられるほど良い子じゃなかったあたしは、早々に外へと追い出されて。だだっ広さだけが病的な庭で、まるでそれが当たり前みたいに中に入れてもらえていないイズミさんと、遊んでいたのだ。
 そのときのイズミさんの研究テーマだった、二人でなんの道具もなしで出来るゲームをいくつか試したあと、あたしがいったん家の中に戻ったのは喉が渇いたからだ。そして足音を潜めていたのは、見つかって無駄に母親あたりにとがめられるのが嫌だったからだった。でもきっとそのおかげで、或いはそのせいで、あたしはだれか、とりあえず母親ではないひとたちが話しているのを聞くことができたのだ。
 覚えているのは、襖の奥でうごめく影と。
「やっぱりねえ、ああいう子は……」
「血っていうのは、あるものだからねえ……」
「そうそう、この間も……」
 暑すぎる日差しと、どこか遠くで、イズミさんがあたしを呼んでいる、か細い声。
 あのヒトと血の繋がらないイズミさんは、あのヒトという連れ子を抱えてひとり苦労する祖母と出会った男性とのあいだに、生まれた子どもであること。その男性は祖母が身ごもったとみるやいなや、逃げるように姿をくらましたこと。ただでさえ高齢出産で大変だった祖母は、そのショックもあったのか、イズミさんを生んでほぼすぐに亡くなってしまったこと。その後は、結婚もして姉も生んでいたあのヒトが、イズミさんのめんどうをみてやったこと。
 ほんとうなのかは幼い志貴にはたしかめようがなかったし、なによりその二人はどちらかというと志貴の母がとても立派な人だ偉い偉いという話をしたがっていたようだったから、大げさな嘘が混ざっていた可能性だって大いにある。でも志貴は、とにかくそれを今までずっと覚えていた。
 それがどうしてだったかを、今になって理解する。
「……ひでーなぁ、あたし」
 それは笑ってしまうほど、笑うしかないほど悪辣な考えて、志貴は汗でぶよぶよしているような腕をむりやり持ち上げて、座ったまま立てた膝をぱちんと叩いた。あっはっは、と笑ってみた。
 イズミさんが、ひとりぼっちなひとなんじゃないかって思っていただなんて、ほんと、ひどい、あたし。
 イズミさんは。イズミさん、だけは、あたしといっしょ、なんじゃないかって――ほんと、ひどい。
「ほんと、ひどいわ」
 そして、そういう悪い期待は、正しく打ち砕かれるに限る。
 かえりたい、あたしとおんなじひとがいるところに帰りたいだなんて、ひどい期待を抱えて帰ってきた志貴を待っていたのは、さっき見てきたのと同じ種類の、とても正しい幸福だ。
 みんなにはちゃんとそれがある。きっといまごろそういうの不器用そうな隆正がいっしょけんめ考えたLINEを読んで、ベッドの中でほんのり笑っているであろうつぐみにも。亘さんから手紙を貰ったら、すぐに返事を書いて、なりふり構わず走り出しちゃうイズミさんにも。みんなに。
「は、……、」
 みんなにはちゃんと、そういう「いちばん」が、いるんだ。
 それは正しい。
 それは正しい。
「………っ」

 ただしい、ただしい、

 さびしい。


 いつのまにかそのまま眠っていたらしいと気がついたのは、意識を取り戻してからのことだった。
 昼間の眠りは、夜のそれよりもなんだか病的に手触りがいい。ふわふわしたものに、抱えた膝から固まりきった背中まで包まれているような気分だった。しかしその薄い膜は、退屈してしまいそうなくらいのんびりとしか動かない自動ドアの、低い低い稼動音によってぱちんと破かれる。ひとの足音なんてそうそうしっかり聴くことはないのに、ほかでもなくそれが振動として伝わる床に座っていたせいで、ひとがそこにきたということを、そのときの志貴は全身で感じていた。
 足音だけでも世界はみえる。そのひとははっとしたようにしばらくその場で立ち止まっていた。近づいてきた足音は、姿を現したときのそれとはくらべものにならないくらいやさしかった。肌の上がほんのわずかにひんやりとしたのは、きっともうそのひとが目の前にいて、影を落としてくれたからだ。両腕はすっかり日焼けしてしまっただろうかと、ふとそんなことが気にかかる。
 それから、ためらいがちにぱさり、と触れた布の正体に気がついて、志貴は思わず吹き出した。
「あ、」
「いやいや、ベストって。ふつうこういうとき掛けるんだったら、上着とかじゃね?」
「……上着だと、暑いかなと思いまして」
 それだと掛けてくれる意味自体がないんじゃないの、と笑ったら、そのひとは、イズミさんは、そうかもしれませんねと言って、笑っているのとよく似ている、でもなにかすこし違うふうに、そっと口もとをゆがめた。「それにしても、どうしてこんなところで?」あまり答えを期待していないような言い方で尋ねながら、イズミさんはふっと手を伸ばしてきた。白いブラウスの袖を肘のあたりまで捲り上げていたイズミさんの手首は、とてもほっそりとしている。それがとてもゆっくりと伸びてきて、志貴の頬を、撫でる。
 志貴の肌もイズミさんの肌もだいたい同じくらいの熱っぽさをたたえていたから、それらはべつべつのものだったなんて信じられないくらいあっというまに吸いついて。こんなふうに人に触れられるのは、いったいどれくらいぶりだろう。もう覚えてもいないのに、もう思い出せやしないのに、ふれあいはいつだってとても温かく胸を包むということばかりが変わらなくて、だから、やりきれなくなる。
「あたし、さ」
 目の前で跪くように視線を合わせてくれていたイズミさんの、やっぱりちょっとデザインの古くさい眼鏡の奥の瞳が、ぶわりとゆれたような気がした。
 でもそれがただの錯覚であることを、志貴はよくわかっている。
「……し、き?」
「っ、あたしさ。自分のこと、みんなが言うみたく面倒見のいい奴だって思ったことも、それほどすっげーいい奴だって思ったことも、そんなにないけどさ」
 ゆれてしまったのは、ふるえてしまったのは。
 ほかのひとの匂いがする、でもほんとはなんの役にも立たないベストを握りしめるようにして、泣いて、しまったのは。
「だからって、こんなにヤな奴だったんだって実感するのも、それはそれで、けっこう、きついね」
 あたしのほう、だ。
 イズミさんはなんにも言わずに、或いはなんにも言えずにいて、ただ頬に触れていた指先は、きちんと涙を拭ってくれた。そう、ちゃんとそういうふうには、してくれるんだ。
 きっとみんな、それは同じだ。
「わかってるんだよ。あたしって、それほどひとりぼっちってわけでもないんだって、ちゃんと、わかってんだ」
 みんなみんないい奴で、目の前で泣いていたらそりゃあ涙も拭ってくれるし、もしも風邪引いたやべーちょう気持ち悪いなんてメールしたら、つぐみだって志貴の家までくらいならきっと来てくれる。幼なじみにカレシができちまってマジくっそ寂しいわだれか構ってよぅなんてtwitterででも呟けば、二時間後くらいにはリプライのひとつも飛んでくるだろう。たとえ恋人ができようが結婚しようが子どもができようが、それらはずっと変わらず、まるでとてもうつくしいもののようにそこにあり続けるのだろう。
 だから、声高に孤独を叫ぶほどには、あたしってたぶんそんな、ひとりぼっちでもなんでもなくって。
 そんなふうに絶望してしまえるほどには、みんなあたしのこと、大切に思っていないってわけでも、きっとなくって。みんなあたしのこと、必要としてないってわけでも、きっとなくって。
 ――でも、
「あたしとみんな、友だちは友だちで、それは、変わんなくってさ。でも、……でも、友だち以上とか、いちばん大事なひととかっていうのが、みんな必ずべつにいるんだってこと、それがだんだんあたりまえになるんだってこと、あたし、わかってんだよ」
 きっとつぐみが苦しかったり悲しかったりしたとき、いちばんに頭をかすめるのは、隆正の顔で。きっとイズミさんがさびしかったりつらかったりしたとき、いちばんに思い出すのは亘さんの手の温度で。
 あたしがたまに、もしくはいっつもどこかで、どうしようもなく、追い求めてしまうほどには。
 みんなの心に、あたしはいない。
「たとえばさ。たとえば、あたしが一人でクソつまんない雑誌めくって、ちっとも代わり映えしねぇ質問コーナーに目滑らせて、ばっかじゃねーのとっととヤっちまえばってぼやいているあいだにさ。どっかしらないところの、なんかばかでかい天蓋つきのふかふかベッドで彼も彼女も抱き合って、手ぇ繋いでセックスして、頭ん中真っ白んなって、あーもう目の前のこいつのこと以外考えらんねえとか、一生でいちばん幸せかもしんねえとかさ、とにかくみんな、そういうことに、なってくんだ」
 どうでもいいってわけじゃ、きっとない。なんにもできないってわけじゃ、きっとない。でもやっぱりあるどこか一点では、心のもっともそばにあるその一点では、どうでもよくって、なんにも、できない。いらない。
 それはつぐみに彼氏ができたことのように、母親ができのいい姉を愛していることのように、イズミさんに旦那さんがいることのように、とてもとても、あたりまえのことだ。あたりまえで、あたりまえにさびしかろうが、それが人間同士の繋がりである以上、受け入れて祝福すべきことだ。
 だけど、だけど、だけどね、つぐみ。
「だから、とにかくさ。わかってるよ、わかって、るんだよ」
 つぐみ。
 あたしは、あんたの口から他人に向かって、あたしの誕生日の話なんか、してほしく、なかったよ。
 あたしは、あんたが熱でて苦しかったんだっていうその朝の話を、すこしでいいから、教えてほしかったよ。
「あたしはこの子のいちばんなんかじゃなかったんだって、あたしがどんなに考えてたって、あたしのことなんてちっともいらない、どうでもよくなる瞬間がこの子にもあるんだなって、そういうのにいちいち胸がぶっつぶれることのほうが間違ってるって、わかってんだよ」
 いちいち挙げ連ねて論じるほど重たくない、それこそ毎日どこにでも落ちているさびしさに、みんながどうやって転ばずにできているのか、泥だらけになって地面に突っ伏しているひとりだけが、いつまで経ってもわからない。そしてきっと、わからないということのほうが、わかってもらえないに決まっているのだ。
「……ほんと。」
「え、」
 たいていの、場合は。
 ほんとうにそのとおり。イズミさんは、なんだかとてもおかしいことがあったみたいに、くすくすと、くすくすと、華奢な肩をふるわせる。
「ほんと、いちばんのひとって、ずるいですよね」
 いちばんのひとどうしなんて、もっとずるいわ。
 思いっきりくすぐられてでもいるみたいに笑うイズミさんの手は、そういえばもう涙を拭うというかたちをしていなかった。ではどんなかたちだったのかといわれたら、志貴にはよくわからない。ただ、触れていた。イズミさんの、たぶん自分のよりも一回りくらいはちいさい手が、生ぬるい雫や熱っぽい温度やひんやりした空気をまぜあわせて、ぺた、ぺたり、と頬に触れている。
「でもずるいずるいっていつまでも嫉妬していたら、みんなにできることができないと腹立たしくてたまらなくて、どんどん自分がみじめになっていくだけじゃないですか。だからどこかでちゃんと、折り合いをつけなくちゃいけないと思ったんです。私もみんなみたいにちゃんと大人になって、ちゃんと、そうしてもよいだれかをいちばんに愛せるようになりたいって。ほかにいちばんがいる子にいつまでもこだわっていないで、私がいちばんに必要でない子にいつまでも期待していないで、適切な愛情を知らなければと思ったんです。でもね、やっぱりうまくいきませんでした」
 そういえばあれは、あの机の上に広げっぱなしになっている便箋に書かれていたのは、はたしてどんな内容だったのだろう。亘さんはあの大きな体を椅子に縮こまらせて、イズミさんに、いったいなにを書いたんだろう。
 思ってもみなかったことがふと気にかかって、でも志貴がそれについて思考をめぐらせるよりもずっと早く、止まらない笑みをくすくすとこぼすイズミさんは言葉を続けてしまう。
「それでうまくやれる人もきっといるのだと思います。十全に愛し合って結婚しているひとばかりではないのだろうし、合うかどうかは付き合ってみないとわからないなんてことを豪語できるひとだっています。だから、そうできるひとだって、ちゃんといるの。さみしさに折り合いをつける方法を、きちんと独力で実行できる人たち。――私にはそれができなかったというだけ。私が、劣っていたというだけで」
 でもやっぱりだめだったんですと言って、イズミさんはついに志貴の頬から手を放した。こみ上げる笑いを抑えきれなかったのだ。彼女はもう両手で口もとを覆うようにしなければそのくすくすとあふれだすものを抑えきれなくて、抑えきれなくて、眼鏡を押し上げるようにあてられた指先が、くしゃっと丸まっている。そうして、うっすらと桃色にひかっていたまあるい爪の上を、ぽろんと叩いたのは、雫だった。
 でもだめでしたと、ひたすら繰り返してイズミさんが言う。「どうやっても、だめでした。離れてみてもだめでした、忘れたふりをしてもだめでした、なんにもなかったように毎日過ごそうとしても、やっぱり、だめでした」。笑って、わらって、笑いながらぽたぽた泣いているイズミさんが。同じことばかり繰り返し、だけどきっとそれをいちばん聞き飽きているのは、ほかでもないイズミさん自身だ。
「だめでした。どんなにがんばってみても、毎週土曜日のご飯がたのしみでたまらなくて、どうでもいいというのなら、ほかすべての食事が、私にとってはどうでもよかったの」
「……イズミさん」
「ねえ、志貴。」
 ぽたぽたと濡れたイズミさんの手が、もういちど、志貴の頬に触れる。
 ひたりとくっつく彼女の温度は、海のそれとよく似ている。
「志貴。たとえばね、あなたがいままで出会ってきた数千人規模のひとびとが、それか、あなたに今いるたくさんのやさしい友人たちが、あなたのことを、いちばんに想っていなくても」
 それで、あなたが、あなたのことを、どうしようもなくひとりぼっちなのだと、思ってしまっているのだとしても。
 世界じゅうの、ほかにいるどんな人間が、あなたのことをどうでもいいと思う数秒間があったのだとしても。
「ひとり。とにかくここに、たったひとり。あなたに出会えたことが一生でいちばん幸せだった、あなたの助けになれないことが一生でいちばん悲しかった、あなたのことだけを考えている一瞬が数えきれないほどあった、そういう人間だって、ここにちゃんと、いるんですよ」
 おぼえていてとも、わかっていて、とも、イズミさんは言わなかった。
 ただ笑って、それからもうふた粒だけ泣いて、ちいさく鼻を啜っていた。
「もちろんそんなこと、あなたにとっては、どうでもいいことなのでしょうけど」
 なんの救いにもならないけれど、なんの優しさにもならないけれど。でもどうかおぼえていて、ほんのすこしでいいから、わかっていて。
 あなたがあなたのひとりぼっちにうもれて泣いているその夜に、あなたがここにいないこと、ただそれだけがかなしくて泣いているひとも、どこかに、必ず、いるのです。
 どこかに、必ず。


 次の日、月曜日、志貴は学校を休んだ。
 夜のうちに済ませておいたつぐみとのやり取りで、もう熱は下がったから学校にはちゃんと行く、とつぐみが言ったのに対して、そっか、あたしは休むよ、と返した。つぐみはいたく驚いたようで最終的には自分が風邪をうつしたかもしれないと謝ってまできて、まさかそんな、自分にうつるくらいだったらとっくに隆正がダウンしてしまうはずだと志貴にしてはめずらしく非常に筋道立った反論を試みたのだけれど、つぐみによればデジタルのやり取りを交わしているだけで風邪がうつるというのはよくあることだと突飛な反論をくらった。彼女たちはそれをtwitter風邪と呼んでいるそうだ。そういうものらしい。わからないが。
 学校を休んだとはいっても、ふだん学校に行くよりかはずっと早い時間に志貴は目を覚ましていた。計算しつくされた遅刻ギリギリの時刻と比べれば、一時間と少しくらいは早かったと思う。
 制服に着替えることもなく食堂まで降りてゆくと、ちょうど朝ごはんを作り終えたところだったらしい母親はフライパンを持ったままちらっとこっちを見て、でもなにも言わなかった。いつもどおりだ。
「なに。あんた、学校さぼんの?」
 どうも昔からパンにジャムを塗りすぎるきらいのある姉は、そのべたべたなトーストをかじりながらこっちを見上げて尋ねてきて、志貴が頷くと、さしてどうということもなさそうにふうんとだけ言った。べたべたなトーストをどこにもジャムをつけず大変器用に平らげる姉だが、たった三口程度のあいだすらその話題はもたなかったというのがすこし笑える。
 最後のひと欠片を牛乳で流し込んだ姉は、皿に残っていたもう一枚のトーストにジャムを塗りつつ、そういえば、と言た。
「マニキュアだけどさ」
「ん? ああ、これ?」
「そ。新しいの友だちに分けてもらったから。ヒマだったら、今度塗ったげる」
 大学生活にサークル活動に合コンにと、あまりヒマではないような気のする優秀な姉は、ブルーベリージャムで真っ青になったトーストを皿に置いて、とっとと鞄を持って家を出て行ってしまった。そのときになってやっと志貴は、姉がジャムを塗りたくったこのトーストはどうやら自分のぶんらしいと気がつく。焼いたときの温度がまだ残っているというのも、そしてこんなにも甘ったるいというのも、すこし久々だった。
 それでも昨夜食べたつぐみのストロベリージャムクッキーよりかはましだろう。砂糖以外の味がしないクッキーだなんて、それはそれで作るのが難しそうでもあるので、ある意味あの子には才能があると思う。
 朝食を食べ終えたあと何気なく携帯を開くと着信がきていて、表示されていたのは亘さんの名前だった。一度目に折り返して掛けたときは出なくて、もう一度亘さんのほうから掛けてきたのは、志貴がまだ朝靄の残る外に出ていった、ちょうどそのときのことだ。
 どこから電話を掛けていたのかはわからないが、マイクからはごうっというなにか巨大なものが飛び去っていくか通り過ぎていくような音がして、このひとは遠くへ行くんだろうな、と、なんとなくそれだけ思う。久しぶりだとか元気にしていたかだとか、まるで父親か心配性の兄みたいなことを亘さんは初めにいくつか言って、そういうところだけがいつまでも変わらない。そういうところ、ばかりが。
『俺なりに頑張ったつもりだったんだけどな。ダメだったよ』
 残念と安堵を半々くらいで混ぜたような声で、亘さんはすこし笑った。プーさんみたいなくりくりした目もとが、糸みたいに細くゆるんでいるのがやけにありありと浮かんで、意味もなく鼻の奥がつんとする。たぶんもう会うことはなさそうで、そういう種類のさよならの交わされかたは、いつもやけに静かで快い。
『まあ、そういうわけだ。志貴ちゃん、伊澄のこと、あとは頼むよ』
「うっわ、ちょー勝手。亘さん、ないわぁ」
『そうなんだよ。参ったことにちょー勝手なんだよ、俺も伊澄も』
 でも、最後に覚えているのがあかるい笑い声だったなら、それはすこしだけましなことだろうか。亘さんのあのがっしり固かったお腹は、笑って、ゆれているだろうか。
『勝手で、やっぱりずっと俺は、伊澄のことが勝手に心配なんだ。だから、勝手ながら志貴ちゃんに、あとを頼んじまうんだよ』
 もう切ると言って先に黙ったのは亘さんのほうだったのに、黙ったきり亘さんはいつまで経っても通話終了のボタンを押さずにいた。おかげで志貴はとてもおかしな沈黙をえんえん二十秒は続けたあとで切るからね、とわざわざ確認して、しかも自分からボタンを押さなければならなかったのでひどい話だ。大人はたぶん、こういうところがずるい。
 岬へと続く道の変わらぬ景色は、なんとなくミルク色の膜がかぶさっているようだった。こんな早朝にここを歩くのはそういえば初めてかもしれなくて、道の脇に生えた背の高い草に触れると、朝露に指先がすこし濡れてひんやりする。まだそこまで温度を上げていない風のなかに秋の気配を探そうと思えばできそうだったけれど、そこまではしないまま、わずかな曇り空の下、灯台までの道をたどってゆく。
「……うん?」
 ただ目的地までとてもきちんと繋がっていたはずの線は、やけに唐突にぷっつりと途絶えさせられてしまった。
「あ、」
「……イズミさん?」
 しかも、その途絶えさせた原因というのがまた先ほどまでの志貴の目的にほかならなかったというのだから、実にややこしい話だ。さらにさらに、そんなふうにしてぽかんと口を開けた彼女が手にしていたのは、まあ三泊四日くらいなら余裕でできそうなサイズのキャリーケースだったというのだから、話はさらにややこしくなりそうな気配しかしない。こんな朝っぱらから、なんともひどい予感ばかりが団子になってやってきたものだと、志貴は一周回ってすこし笑えてしまう。
 ぎしっと身体を固めていたイズミさんは、レンズの向こうの視線の動きばかりがやけに俊敏で。そのくせ、どうやらうっかり手放してしまったらしいキャリーケースの取っ手がぐらりと倒れゆくのを、見守っていることしかできないというひどいとろくささで。
「ああ、あ、あー……」
「ってうわ、え、ちょ、なにこれ?」
 さながら夜逃げのように慌てて荷物を詰めたと見えるので、まさかこんなところでイズミさんの下着がお披露目されるなんてオチが待っていなければいいな、くらいは考えた。そのくらいの悪い予想なら、一応しておいたつもりだった。
 けれども、がちゃんだかごしゃんだかもあまりはっきりしない、つまるところお世辞にも必要なもののみをきちんと選んで詰めたとは思えないような音を立てて蓋の開いたそのキャリーケースからは、志貴の備えておいた予想をはるばると飛び越えたものたちが顔をのぞかせたのだ。
「ええ、と」
 バスタオル、着替え、せっけんのセットと、このあたりまでは良かった。でも逆に言えばそのあたりまでしか良くなくて、あとはもう全部問題だった。
「いやちょっと。いやちょっと。大事なことだからもう一回言うけど、いやいやいや、ちょっとちょっとちょっと」
「もう一回というか、あの、なんか増えてます……もう三回分はありました……」
「え? いやだって、え? この無数のゴム風船はなにに使うの?」
「そ、それはちょうど色を集めていたところだったんです。せっかく珍しい色ばかり集めたんだし……それに、旅先で新しい色が見つかったら加えておきたかったし」
「旅先とか超ツッコみたいワード出てきたけどここはぐっと我慢するとしてだよ、じゃあ次ね。この、こっち側の底をほぼ占めているCDはいったいどういう」
「コラージュCDというか……べつべつのCDを割って繋ぎ合わせるというのが、現代音楽の一種としてありましてですね、これが意外とすばらしい出会いをするときもあって」
「これも蒐集中かい! しかもそれなのにCDプレーヤー入れてないっていうね」
「……あっ!」
「しまった、今から入れてこよう! みたいな顔やめよう!? 踵返すのやめよう!?」
 状況はとてもちぐはぐなのにうっかりいつもどおりなやりとりをしてしまい、しかもうっかり、イズミさんの肩を掴んでしまった。そして、きっとそれはとてもありふれた奇跡だ、あ、と思ってしまったのは、イズミさんとあたし、同じときだった。たぶん、そうに違いない。
 そのとき手の中にあったイズミさんの肩はなんだかとてもちっちゃくて、手放してしまうのも握りつぶしてしまうのも、すごく簡単にできてしまうような気がした。ひとに触れる切実さをそういうふうに鋭く感じたのは、初めてだったと思う。
「イズミさん、さあ。やめときなよ」
「え……」
「やめときなよ。一人旅とかってもう、絶対向いてないよ、イズミさん」
 そのくらいだったらあたしにも、ちゃんとわかってんだよ。
 ここまできて何を言えばいいかはわかっていなかったけれど、ぼそっとそれだけ呟くと、イズミさんは、しばらく黙っていた。ターコイズブルーだとかどどめ色だとかオレンジのマーブルだとか、たしかに変わった色ばかりがある風船をひとつずつひろい集め、朝日を反射してきらきらとまばゆく光るCDをとんとんと揃えて鞄の中に詰め込む。「……そう、」
 それから、すこしだけ恥ずかしそうに笑ったイズミさんは、ずり落ちていた眼鏡を押し上げた。ちょっと古くさいデザインのそれは、でも、彼女にとてもよく似合っている。
「そう、ですね」
「うん。だからさ」
 息を吸って、吐いて。深呼吸というほど大げさでもないそれを、けれどもすこしだけ噛みしめるように繰り返して、志貴はちょっと肩をすくめた。
「かえろ、イズミさん」
 もう、かえろうよ。
 イズミさんははっとしたように顔を上げる。ああやっと目が合ったって、そんなことに、すごくすごくほっとする。
「帰ってさ。いっしょにごはん、つくろ」
 それから、ちょっとどこにでもはない色ばかりを集めたのだというその風船を一つのこらず全部膨らませ、天井いっぱいに敷き詰めて、ちぐはぐの音が流れるつぎはぎのCDで、ちょっと踊ってみませんか。

 だいたいそんなふうにして、キャリーケースを置いたイズミさん共々買い物に行き、無駄に豪華なスパイスまで買い揃えたのち四時間もかけて作ったカレーはその時点では至上最高の出来で、でもその中に最後の最後、志貴とイズミさんは二人で一つずつ、手に持った桃缶の中身をすべてあけた。
「おおっ、ふ」
「こ、れは……!」
 そうやってあたしたち、ふたり並んで、桃の入ったカレーを食べた。
 もちろん、あたりまえのように、くそまずかった。




〜あとがき〜

長いっていうのはもうそろそろ言い飽きたし聞き飽きたでしょうとも思うので別の事言えよと思うんですけどでもやっぱり長いですね。ヒィ。
ともあれそんな感じで、灯台に住むへんなひとと女子高生のお話でした。
桃の入ったカレーっていえば、どうでもいいんですけどわたしは酢豚にパイナップルが苦手です。スイカに塩もちょっとだめ。
果物はとっても好きなんですが果物は果物オンリーで食べたくなります。
でも桃缶はすごく好きです。今でも実家からよく送られてきます。夏にはきんきんに冷やした桃缶が食べたくなりますね。

おそろしい衝撃とともに降りかかってくる不幸とか悲劇とかだってもちろんのことやっかいですが、
日常どこにでも転がっている、たぶんどうでもいいひとにとってはどうでもいいようなことのやっかいさもなかなかだなあとよく思います。
そこにつまずいてしまう人に救いを与えるなんてことは、たぶんどんなにがんばってもできないんでしょうけど。
ただ救いはなくとも、絶望しきってしまわないようにはできないかなぁと願いながら、なんだかやたらと時間をかけてこのお話を書きました。

そんなこんなで。

高島津諦さん、お誕生日おめでとうございます。
リボンもつけずにごめんなさいとか、そんな感じで。

柊でした。(2013/8/31)

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