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杉田悠の「『有頂天家族』をアニメで視る」 第5話「金曜倶楽部」
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谷崎と下鴨
戦後しばらくして、谷崎潤一郎は京都の下鴨泉川町に居を構えた。
『有頂天家族』の下鴨家の狸たちが棲む、糺の森のすぐ横である。
幾度となく転居を繰り返す引越し魔として有名な谷崎だが、下鴨には7年ほど滞在していてかなりのお気入りだったようだ。後年この下鴨の邸宅を舞台にした「夢の浮橋」という小説も執筆している。
谷崎は『有頂天家族』で描かれている風景を日常として眺め、その足で歩いた作家だ。藪から飛び出し、道を横切る狸とも何度か遭遇していたかもしれない。森見登美彦が谷崎潤一郎の名前をたんなる「ノリ」で金曜倶楽部の面々の会話の中に紛れ込ませたわけではないことが覗える。
谷崎は食通としても有名で、金曜倶楽部の存在とネーミングも、おそらく谷崎の小説『美食倶楽部』からインスパイアされたものではないかと思われる。第4話冒頭のナレーションで「大正時代から続く秘密結社」とあるが、『美食倶楽部』の新聞連載が開始されたのがまさしく大正8年。ちなみに北大路魯山人が結成した実在する「美食倶楽部」も、この小説から名前を借用している。
とはいえ谷崎が狸を食べていた……谷崎が金曜倶楽部(のような秘密結社)の会員で、忘年会に狸を食す行事を会則にしたというのは毘沙門さんが言うようにやはり嘘くさく、おそらく森見登美彦の創作だろう。
『幼少時代』に所収されている「南茅場町の二度目の家」という随筆に、幼い谷崎が母や祖母に脅かされて、狸が化けて出るのを恐れる逸話がある。確か夜中に便所に行った後、手を洗うために庭先に出ると(洗面所がない時代である)、暗闇が怖いとか狸鼓を聴いたとかなんとか。『有頂天家族』の布袋さん(淀川教授)のように狸にそれほど良い印象を持っているわけではなかったようだ。
海星がきこえる
というわけで声だけの海星がやけに可愛く、金曜倶楽部のすき焼きがうまそうで、弁天が満月を見上げて切ない第5話。
谷崎云々から一転して浅薄な個人的感想を書き殴りますが、海星役の佐倉綾音さんは実にいいですね。弁天役の能登麻美子さんも素晴らしいけど海星はさらにいいですね。第2話のレビューでアニメでは海星の魅力がさらに際立つはずとか書いたけど予想以上にいいですね。
ご尊顔がわからないのにやけに萌えるキャラクターというと『デュラララ!!』のセルティを思い出すが、セルティがないのは頭だけで漆黒のライダースーツで豊満かつスレンダーなボディラインをこれでもかと見せつけてはいたので、身体すら見せない海星はさらに上位概念的存在であると言える。
ちなみに弁天が「妹想いの兄さんたちねえ」と言ったときに、海星が潜む西洋箪笥の上に置かれていた香炉台らしきものが落ちる描写……による心象の示唆は、原作にはない。弁天が達磨姿の矢三郎を抱えて骨董屋の二階部屋を後にするカットでも西洋箪笥を意味深にクロースアップしていたし、アニメのスタッフの海星への愛を感じさせる。
その他細々と補足しておくと、矢三郎が大阪に潜伏しているあいだ世話になっていたカメラ屋というのは第3話と第4話に出てきた赤玉先生の天狗友達・岩尾山金光坊の店。
矢三郎が「赤玉先生に届けてくれ」と言って海星に託した天狗煙草は原作の記述によると「一本を吸い尽くすのにたっぷり半月はかかるほど延々と燃え続ける高級煙草」であり、つまり長い間吸っている口が塞がる。「(赤玉)先生を黙らせる」とは比喩ではなく、そのまんまの意味というわけである。
食べちゃいたいほど好きなのだもの。
金曜倶楽部での狸鍋に関する会話の中で谷崎潤一郎の名前が出てきた理由(の推察)は冒頭で一通り挙げたとおりだが、もう一つ、人間・狸・天狗という三種族の三つ巴を描いている『有頂天家族』にとって重要な主題と関係する要素がある。
矢三郎に「食べちゃいたいほど好きなのだもの」と口癖のように言う弁天。
狸のことをかわゆい、かわゆいと言いながらも喜んで食べることを宣言し、そしてそれを「愛ですよ愛」と説く布袋さん(淀川教授)。
『有頂天家族』にはこれらの言葉に象徴されるような、捕食者の被食者への愛情がしばしば語られる。私達は狸ではなく人間なのでなんとなく教授先生の言葉に納得してしまいそうになるが、しかし端的に言えばこの思想は広義のサディズム(加虐趣味)である。
そして谷崎はまさしくその逆の、食われる側の立場……マゾヒズム(被虐趣味)における倒錯と葛藤を執拗に描いている作家だ。処女作の『刺青』から晩年の『瘋癲老人日記』(鱧が出てくる)まで、とにかくマゾ男とサド女の関係を描いた小説が多い。
父を狸鍋にして食べてしまった弁天を嫌いになれず、彼女に振り回されることに満更でもなさそうな矢三郎も、そんなマゾの気質がある。第1話では赤硝子のマスターの「(弁天と付き合っていて)お前よく命が続いとるな」という言葉に対して「これが生き甲斐でござる」と返答し、第4話では弁天が自分を鍋にして食べる姿を思い浮かべながら、「それ(食べちゃいたいほど好きなこと)が本当ならば本望だ」とすら考える矢三郎。
通俗的にマゾといえば単に性的嗜好や性格としてイメージされがちだが、たとえば谷崎の『春琴抄』などは主人公の女性への被虐的、隷属的な欲望がアガペー(無償の愛)的な歓喜へと昇華されている。これはマゾの語源になっている本家サッヘル=マゾッホの『聖母』などもそうで、彼らはときにマゾヒズムを歪んだ精神的病理とは異なった、社会的規範を超越した自然的、本能的な愛情の形として描き出す。矢三郎が「(鍋になるのも)本望だ」と考えるのも弁天への純粋な愛情半分、恋心半分ゆえだ。
ところが矢三郎はこれと全く同時に、「(鍋になるのも)甚だ不本意だ」と矛盾した心理を表明する。結局実際に行動として反映されたのはこちらの方で、かくして矢三郎は京都から大阪へと逃亡する。
そしてそんな矢三郎を捕獲して、「藝がつまらなければ狸鍋にする」と脅すサディスティックな弁天も、赤割りを飲みながら月を見上げて、哀しい、哀しいと呟く。
「何をそんなに切ながっているんです?」
「私に食べられるあなたが可哀相なの」
「喰わなければよいのではないですか?」
「でも、いつかきっと、私はあなたを食べてしまうわ」
(中略)
「でも好きなものを食べたら……そうしたら、好きなものがなくなってしまうんだもの!」
「当たり前じゃないですか。わがままだなあ!」
喰われるのが本望だったり不本意だったり、食べたかったり食べたくなかったり、なんだか矢三郎も弁天も矛盾だらけだが(まあ心あるものとして至極真っ当なジレンマですがね)、一方で「(狸を)好きだということと、喰うということは、“矛盾”しない!」と嬉々として断言してのける布袋さん(淀川教授)がいる。
そう、「捕食者(人間)-被食者(狸)」の立場の違いだけではなく、同じ捕食側でありながら弁天と布袋の間に横溢する非対称性――これこそが『有頂天家族』を読み解くうえでの重要な鍵になっているのだ。
というわけで夜のビルの屋上散歩がまだまだ終わらない第6話、「紅葉狩り」に続く。
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