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杉田悠の「『有頂天家族』をアニメで視る」 第1話「納涼祭の女神」
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劇作家の上田誠は文庫版『有頂天家族』の解説で、アニメ『四畳半神話大系』のシリーズ構成・脚本を担当した際の労苦を、このように綴っている。
原作を読み返しているうちに、なんだかどこもかしこも愛おしくなり、ついにはワンセンテンスすらも落とせなくなる、という恐るべき愛の迷路に踏み込んでしまった。
[…]あの「常軌を逸した早口ナレーション」は、そうした経緯で生まれたのだった。
――『有頂天家族』(幻冬舎文庫)420-421ページより
上田氏の言う通り『四畳半神話大系』の主人公の「私」は、早口でまくし立てるように喋る。特にモノローグ(独白)やナレーションになると猛烈な勢いで言葉を垂れ流す。
大仰で時代がかかった、しかし諧謔と機知に富んだ言葉の奔流。それこそが『四畳半神話大系』の原作者である森見登美彦の書く小説の持つ魅力であり、上田誠は原作の持つ言葉のパワーをアニメでも出来る限り再現しようとしたわけだ。
削ぎ落とされた「言葉」
そんな森見登美彦の小説がこの夏、再びアニメになることになった。おまけにキャラクターの原案はマンガ界随一のトリックスター久米田康治。期待しないわけがない。
というわけでアニメ『有頂天家族』である。
幕開けは舞台である京都と、人間・狸・天狗が混在する世界観を解説する、森見登美彦らしい擬古文調のナレーション。続くオープニングでも、実写映像を加工した風景や主人公の立ち絵が回転して切り替わる演出が成され、アニメ『四畳半神話大系』を薄っすらと彷彿とさせるかもしれない。
しかしそのような第一印象は、すぐに覆ることになる。
言葉が削ぎ落とされているのである。
『有頂天家族』の原作は主人公・下鴨矢三郎による一人称小説である。
先述したように、森見登美彦の小説の魅力は言葉の奔流にある。この『有頂天家族』の矢三郎も『四畳半神話大系』の「私」と同様にけっこうな饒舌かつ、思考が先走ったキャラクターだ。会話はもちろん、心の中でも軽口を叩き、毒づき、とぼけたことを言っている。
しかしアニメ『有頂天家族』の第1話にはその声ならぬ「言葉」が、冒頭とラストシーンのナレーションにしか存在していない。さらには原作では「思う」だけで口に出してはいなかった言葉のいくつかが、台詞として発声させていたりする。
モノローグがないのだ。
第1話でそのような特徴が最も顕著に現れていたのが、矢三郎と赤玉先生がタクシーに乗って帰宅するシーンだろう。
「それにしても、先生はあそこで何を」
「たまには祇園で酒を飲もうと思うてな」
「そうですか」
この会話の後に、数秒間訪れる沈黙。
このシーンは原作では矢三郎のモノローグによって彼の心情が、そして矢三郎の思考によって赤玉先生の心情が可視化されている。
ここで赤玉先生は矢三郎が自分の恋文を盗み読んでいることを承知している。なので祇園にいる理由を矢三郎が承知していることも、承知している。そしてそのような赤玉先生の承知を、矢三郎も承知している(ややこしいな)。
2人はそんな暗黙の了解のうえで、白々しい会話をしているわけだ。小説の読者はこの奇妙な師弟関係の機微を、矢三郎の言葉を通して知ることになる。
しかしアニメ版にはこのようなモノローグはない。もちろん矢三郎は何かを考えているには違いない。しかしその声は私たちには聞こえない。そこにはただ窓の外を眺める赤玉先生と、その姿をバックミラー越しに眺める矢三郎の視線がある。
言葉を「視る」
おそらくアニメ版のスタッフはこのモノローグのカットを、意識的に行っている。
そしてその方針は森見登美彦の創造した物語と世界観の強度、視聴者のリテラシー、そしてアニメの持つ表現力という、三重の信頼によって成り立っていると思う。
『有頂天家族』は『四畳半神話大系』に比べて言葉が少ない。
しかしこのアニメは、森見登美彦の言葉を「視せる」ことができるという確信に満ち溢れている。
そこには色彩豊かな京都の風景が、乱雑さと生活観のある町並みが、そこに生きる人たちの息遣いがある。豊穣な言葉の奔流が、確かに映像へと変換されている。
その方針は脚本からも見て取れる。矢三郎の兄弟である、下鴨家の長男の矢一郎と四男の矢四郎のキャラクター性は、言葉を並べることによってではなく、その特徴を端的に捉えたシーンをそれぞれ冒頭に挿入することで(あの2つのシーンはどちらも原作にはない)、巧みに説明してみせている。
そしてそんな風に世界を綴るうえでの、ラストピースが久米田康治だ。
森見登美彦の書く文章は、一見すると絢爛かつ生真面目なようで、しかしどこかとぼけた、胡散臭い空気が瀰漫しているものである。
対して久米田康治の描く絵は、ギャグを目的としたものでありながら、シンプルな線の端々から狂気が伝わってくるものだ。
生真面目さにアホを宿らせる森見登美彦の言葉を、笑いに狂気を潜ませる久米田康司で描くという倒錯。現代で人と狸と天狗が共存する不可思議な世界を描くのに、これ以上相応しいものはない。
中でも注目は異様な存在感を放つモブ(群集)である。緊迫した場面でも、森見登美彦の独特な言葉遣いとあの久米田モブが周囲にいるだけで、なんとも言えない奇妙な雰囲気が醸成されている。げに恐ろしきかな……。
視ることが「面白い」
そしてアニメ『有頂天家族』での、『四畳半神話大系』とは間逆とも思えるアプローチは、原作の物語の本質を忠実に反映させた結果であるとも思うのだ。
『四畳半神話大系』の画面は薄暗い。それは大学デビューに失敗し、灰色の学生生活に鬱屈している「私」の心情を象徴しているようでもある。そしてその灰色の世界に向かって愚痴愚痴と垂れ流される言葉。『四畳半神話大系』は紛れもない「私」の物語だ。
しかし『有頂天家族』は舞台や文体に類似はありつつも、物語の趣が『四畳半神話大系』とはやや異なる。
矢三郎は、冒頭のナレーションでこう述べている。
平安遷都この方続く、人間と狸と天狗の三つ巴。
それがこの街の大きな車輪をぐるぐる廻している。
廻る車輪を眺めているのが、どんなことより面白い。
私はいわゆる狸であるが、ただの一介の狸であることを潔しとせず、天狗に遠く憧れて、人間をまねるのも大好きだ。
したがって我が日常は目まぐるしく、退屈しているひまがない。
矢三郎は自分の生きる京都という土地を、そこに住む者たちを慈しむ。だからこそ彼の目に映る京都の街並みは賑やかで、そこに生きる人たちの息遣いも聞こえてくる。『四畳半神話大系』の「私」はロケット花火を川向こうのカップルたちに向けて飛ばすが、矢三郎が飛ばすのは赤玉先生の恥ずかしい恋文である。
このアニメの主人公は矢三郎であり、そして彼には「面白く生きる」という哲学がある。しかし矢三郎はそんな哲学に先置いて、まずは「廻る車輪(人間と狸と天狗の三つ巴)を眺めているのが、どんなことより面白い」と、世界を観測者として「視る」ことの愉悦を語る。それが「面白く生きる」うえで不可欠なものなのだ。
『有頂天家族』は矢三郎の物語であると同時に、京都の街とそこに住む人間と、狸と、天狗たちの物語である。それらを語ることが矢三郎を語ることでもあり、そしてこの第1話はそんな世界の面白さを、アニメという形で雄弁に語っているのである。
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