連合赤軍リンチ事件




【事件概要】

 「あさま山荘事件」の後、連合赤軍が12人もの同志を殺害する「総括」を行なっていたことが判明した。 ←SIDE−A 「あさま山荘事件」


森恒夫
永田洋子
坂口弘
植垣康博



【「馬鹿な・・・・」】

 森と永田が逮捕された時、妙義山中のアジトに切り裂かれた衣類が見つかった。衣類には大量の糞尿がこびりついていた。この時、群馬県警・中山和夫警備二課長は誰かが殺されているものと見た。これは人が死ぬ時には大量の糞尿が排泄されるが、遺体から着衣を剥ぎ取る時にそういう風に切って脱がせるからだった。

 森や永田は頑として何も話さなかったが、3月に入ると、奥沢修一やあさま山荘に立てこもったMが同志殺しを自供し始めた。

 3月7日、群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1mほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生 27歳)のものである。遺体は手足が縛られており、死因は凍死だった。衣類はナイフで切り裂かれており、このことを先に逮捕されていた森恒夫と永田洋子らに示すと、異様な反応を示した。
 さらに追及した結果、自供から「総括」と呼ばれるリンチの実態が浮かんできた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、12人が死刑、または総括で死亡していたのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた警察庁長官・後藤田正晴は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。

 また亡くなっていた山本順一の妻・保子が10日に名古屋・中村署に出頭、その長女・Rちゃん(当時3ヶ月)は千葉・市川署に保護され、Rちゃんを連れ出していた中村愛子も出頭した。他にも岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。

 そして凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。


◆山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日

▽1971年12月31日  尾崎充男   (22歳・革命左派)
▽1972年1月1日    進藤隆三郎  (21歳・赤軍派)
▽1972年1月1日   小嶋和子   (22歳・革命左派)
▽1972年1月4日   加藤能敬   (22歳・革命左派) 
▽1972年1月7日   遠山美枝子  (25歳・赤軍派)
▽1972年1月9日   行方正時    (25歳・赤軍派)
▽1972年1月17日  寺岡恒一   (24歳・革命左派)
▽1972年1月19日  山崎順     (21歳・赤軍派)  
▽1972年1月30日  山本順一   (28歳・革命左派)
▽1972年1月30日  大槻節子   (23歳・革命左派)
▽1972年2月4日   金子みちよ   (24歳・革命左派) 
▽1972年2月12日  山田孝     (27歳・赤軍派)


 1973年1月1日、森恒夫が東京拘置所内で自殺。
「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」
 という自己批判書をしたためていた。同じ拘置所の永田は「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだという。


【兵士たちの軌跡】

◆森恒夫(当時27歳)
 1944年12月、大阪市大淀区生まれ。父親は市交通局の現業監督をしていた。勉強が好きな子どもで、それまでは秀才だったが名門・府立北野高校進学後の成績は平凡なものだった。当初は大阪外語大を志望していたが、大阪市立大学に変えている。高校では剣道部に所属し、主将も務めた。1963年、大阪市立大学文学部に進学。高校時代には学生運動には何の興味も示さなかったが、アルバイトを探すために生協の事務所に通ううちに田宮高麿と出会った。当時、大阪市大は日共分派の民学同が中心だったが、自治会執行部改選で、田宮率いる社学同が勝利した。この頃から、すっかり田宮の腰巾着となった。1965年11月、日韓条約批准阻止のデモを指揮して逮捕された。その後、社学同の活動家となり、田宮らと共同生活をするようになる。田宮の影武者のように振舞っていた森だが、その優柔不断な性格から「頭は良いが疑り深い小物。指導者になれる男ではない」と評されるなど、幹部からの信頼は得られなかった。一度、敵前逃亡したこともあり、組織を離れて三里塚で基地作りをしていたが、塩見孝也議長の意向により復帰、下積みからやり直した。田宮高麿が北朝鮮に飛び立った「よど号事件」や、塩見、高原浩之といった幹部が次々と検挙されると、山田孝とともに政治局員にのし上っていった。出身大学やその言動から「二流の指導者」と評されがちだった森は、京大の山田や早稲田の山崎順など、自分より上に立とうとする者につらくあたり、最終的に排除した。1971年春の一斉蜂起を目指して武装路線をとり、反論するものは次々と切り捨てた。普段から仲間に完全黙秘を強要していた森だが、逮捕後しばらく頑張った後は、すんなりと自供を始めた。だが事件の全貌を語りきることなく1973年1月1日、東京拘置所内で首吊り自殺。


◆永田洋子(当時27歳)
 1945年東京・本郷区(現・文京区)生まれ。私立調布学園中等部から高等部へ。気性が激しく、女の子にしてはお洒落などには無頓着だった。その後、共立薬科大学に進むが、ここで学生運動にこりはじめ、医療問題などについて友人に積極的に議論を吹っかけるようになった。1964年1月、「社学同ML派(マルクス・レーニン主義派)」の集会に参加。以後の人生が変わった。3年時にはバセドー氏病の症状が出始める。治療で完治したかに見えたが、「男性に好かれないのはそのためだ」と思いこむようになった。卒業後は大学病院の薬局で働くが、上司や同僚に好印象を持たれず職場を転々とする。そのうちに労組運動にも顔を出すようになった。「病院の薬の購入方法に不正がある!」という根拠なき告発を行なったことをきっかけとして病院を辞めた後は、薬剤師の仕事には見きりをつけ、革命家の顔を見せ始めた。永田は大学時代に知り合った東大生の影響で結成されたばかりの革命左派神奈川県委員会の実践組織である「京浜安保共闘」にもぐりこむようになり、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」の1人に数えられるようになった。ここでは中村愛子らもオルグした。闘いのなかで今度は川島豪から指導者に指名された坂口弘に好意を持ち、2人で行動することが多くなった。彼の気をひくために積極的な活動を行なうようになったと言われる。坂口と結婚(のちに離婚)。19
69年12月にリーダー・川島豪が逮捕されると、永田は目上だった石井功子や川島陽子を地方に追いやり、自らが組織を仕切るようになった。京浜安保は赤軍派と合同し、山岳アジトへ。同志殺害には森とともに積極的に関わる。森とは会って間もないが、すぐに坂口から乗り換えている。1972年2月、森と一緒にいたところを逮捕される。リンチ事件発覚後、永田の持病バセドー氏病を事件と結びつける報道があったりして、患者・読者らから抗議が相次いだ。その後は坂口、塩見らと対立、決別。死刑が確定していたが、2011年2月に病没。


◆坂口弘(当時25歳)
 1946年千葉県君津郡天神山村海良(現・富津市)生まれ。元々、浅草の履物卸売り業を営む家だったが、疎開でこの村にやって来た。子ども時代の坂口は日本共産党に興味を持ち出すが、両親はともにこの党に良い印象を持ってはいなかった。学校の成績は良く、兄弟たちの中では一番できた。中学1年の時に父親を病気で亡くす。60年安保闘争の時は中学2年生だった。テレビでジグザグデモを見て興奮したという。やがて木更津高校入学。この頃、授業中に教師に指名されて文章を読む時、つっかえてうまく読めず、自信を失う。1965年、東京水産大学入学。入学時の納付金のなかに1万円「後援会費」が含まれていたのだが、後援会自体が幽霊団体であるため、この会費は不正であるとした後援会費闘争が起こっていたが、これは後に革命左派指導者となる当時4年の川島豪が指導していた。以後、坂口は同じ水泳部でもある川島を慕う。川島が卒業した後も接触を重ね、ここで永田との接点ができた。1967年7月、長兄が「我が家からでも大学生を出せた」と涙ながらに喜んでくれた大学をあっさり中退、大田区の印刷会社に就職した。1人で労働運動を始めたのである。1969年9月、愛知外相訪ソ訪米阻止闘争に参加、坂口は一般人を巻き込んでしまう可能性を指摘したが、川島から一喝された。結局、この運河を渡っての空港突入事件で坂口らは逮捕されたのだが、新左翼の若者からは賞賛する者もいた。永田と同棲をはじめたのは府中刑務所を出所した直後のことである。革命左派では心臓病の発作に苦しみながら、銃砲強奪事件に関わった。ここでは永田の補佐的な役割だった。「あさま山荘事件」では大将格。統一公判中、川島と対立。日本赤軍クアラルンプール事件で、犯人側から出国を求められたが、「私は出て行かない」「君達は間違っている」と拒否、事件の総括にこだわった。その後死刑が確定している。


◆坂東国男(当時25歳)
 滋賀県大津市生まれ。旅館の一人息子である。地元の進学校である膳所高校を卒業後、一浪して京大農学部に入学。まもなく新左翼シンパとして政治運動に顔を出すようになった。1969年4月に赤軍派に加わる。その後の「大菩薩峠事件」や「よど号事件」で主要リーダーを失ったため、坂東の地位も上昇した。射撃の名手とされ、「坂東隊」のリーダーとして郵便局や銀行を襲い現金を奪うなどした。また銃器、弾薬の保管についても任されていた。「あさま山荘事件」を起こした1人。先述した通り、逮捕の直前に父親が自殺している。逮捕から40日間は完黙していたが、取調官に父親の位牌を見せられ、「12人に対して間違ったことをしてしまった。父に対しても本当に申し訳ないことをした」と涙した。しかし、その後クアラルンプール事件でアラブへと飛び立ち、革命戦士として活動し続けていると思われる。


◆吉野雅邦(当時23歳)
 1948年3月生まれ。父親は東大卒の三菱地所の重役で、言わばブルジョアの育ちである。しかし吉野はそんな父親のような生き方はしたくないと考えるようになった。性格は温厚で、不得意科目のない優等生、手がかからない子だった。名門・日比谷高校から東大を目指すが、結局一浪して横浜国立大学入学。混声合唱団で金子みちよと出会う。悩みが多い性格だったのか、愛や思考のことで自宅で自殺未遂を図ったこともあった。1967年10月8日、「10・8第1次羽田闘争」に中核派シンパとして参加。機動隊に殴られ、13針を縫う大怪我。三里塚闘争で逮捕され、千葉少年鑑別所に入所。その後、金子と生活をともにし、大学を辞めた。「真岡銃砲店襲撃事件」「印旛沼事件」に関わる。「あさま山荘事件」に立てこもった1人。気弱で温厚そうに見えるが、京浜安保共闘の頃から重大事件には常に関与している。無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。


◆植垣康博(当時24歳)
 1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者の1人である。地質学に興味を持ち弘前大学理学部物理学科に入学。この地方の大学は、もともと東京の新左翼運動や全共闘運動とはまったく無縁だった。大学で反日共系の活動家・青砥と出会う。また日共の下部組織・民青に加盟したが、1969年4月に脱退している。これは民青が全共闘を「暴力学生」「暴力集団」などと罵倒していたことの反発だった。1970年10月21日、「国際反戦デー」のため上京、新宿で逮捕されている。植垣は弘前大全共闘を結成してバリケード封鎖を敢行した。とは言え、行動から離れる学生が多く、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た。赤軍派の主要メンバーでもある梅内は武装闘争の必要性を主張し、植垣はそれに押される形で赤軍派に参加を決めた。1971年1月、組織づくりのため横浜・寿町でオルグ開始。この時オルグされた者には殺害された早大生・山崎順がいた。1972年2月、軽井沢駅で逮捕される。日本赤軍のハイジャック事件(ダッカ事件)で、「日本に残って、連赤問題を考えなければいけない」と拒否。98年、刑務所を出所した。現在は地元・静岡でスナックを営んでいる。


◆加藤倫教(当時19歳)
 愛知県刈谷市出身。兄・能敬と同じく愛知の名門・東海高校に入学。成績は中の中で、口数も少なく特に目立たない生徒だったという。担任教師には「俺は大学には行かない。工員になって実践と論理を一致させるんだ。労働の中にこそ何かがあるんだ」と話していた。2年生の頃に兄の影響で京浜安保共闘に入った。卒業直後、コーズマイト(粉状の爆発物)所持で逮捕される。釈放後は組織の指示で本栖湖のアジトへ。山岳ベースでの生活では、大槻節子に憧れていたという。兄が殺された時、弟Mと逃げだそうとしたが、相互の監視下のもと、兄弟といえども気軽に話せる状況ではなかった。逃亡の最中、「あさま山荘」に立てこもる。逮捕後、留置された小諸署で数ヶ月ぶりに風呂に入れられ、父親と同年代の取調官に最も早い自供を始める。1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。現在は実家の農業を継ぎ、また野生動物保護、自然環境保護の団体でも理事を務めている。


◆加藤M(当時16歳)
 倫教の弟、すなわち「加藤三兄弟」の三男。県立東山工業高校に入学したが、その年の8月に父親と激しい喧嘩をして家を飛び出した。高校在学中には「社会主義研究同好会」を組織して、街頭デモを行なったりしていた。逮捕後、「遅れていた同士12人を始末しました」とあっさり自供。


◆青砥幹夫(当時22歳)
 弘前大生。同じ大学の植垣とは友人だった。爆弾作りに長けていた福島県立医科大生に指南を受け、植垣とともに手榴弾製造を教わる。その医科大生は森の妬みから追放されたが、青砥は森に可愛がられていたという。森の秘書役をつとめ、他のメンバーの発言を告げ口するなどしていた。逮捕後は遺体を埋めた場所を案内した。


◆奥沢修一(当時22歳)
 慶大生。杉崎とともに逮捕される。メンバーは運転免許証を持っている人間が少なく、彼が主に運転手役をやらされていた。そのため人や物資の運搬などは彼の仕事で、遺体を埋めた場所などもよく覚えていた。すんなり自供を始めた1人。


◆杉崎ミサ子(当時24歳)
 横浜国立大生の1人。革命左派では寺岡と夫婦仲にあった。2月16日、妙義湖畔にて奥沢とライトバンに立てこもった後に逮捕される。


◆山本保子
 中京安保共闘。殺害された山本順一の妻。2月初めに脱走し、3月に自首した。娘を奪われ、すでに殺害されたものと思っていたが、無事保護されたと知って泣き出した。


◆寺林真喜江(当時23歳)
 高卒後、女工となり組合運動に関わったのち、中京安保共闘幹部に。2月19日、軽井沢駅で逮捕。猟銃弾とピース爆弾を所持していた。懲役9年の判決を受ける。後に移監された和歌山刑務所では 150cmと小柄だが、がに股で歩くなど、男のような仕草で周囲を驚かせ、所長から「女らしくしなさい」と注意されることもあった。所内では事件のことについて聞かれてもニヤニヤして受け流していた寺林だったが、ある時「殺らなければ、殺られていた・・・」とポツリと言ったという。


◆中村愛子
 千葉県市川市の寿司屋の娘として生まれる.日大付属の高等看護学院在学時に5歳年上の永田に目をつけられ、伊藤和子、早岐やす子とともに京浜安保共闘に編入された。坂口に命じられ、山本夫妻の長女・Rちゃんを連れて榛名に向かったが、汚い身なりでタクシーの運転手に自殺志願者に思われ、高崎署に送られた。そこへ友人が迎えに来て、帰された。


◆伊藤和子(当時22歳)
 秋田県雄勝町の中学校長の娘。「日本看護学院の3人娘」の1人。名古屋へ岩田とカンパに行った時、「俺、もう逃げるよ」という岩田の言葉を、自分を試すものだと思い込み、「私は絶対逃げない」と言って山に戻っていった。2月19日に軽井沢駅で逮捕された。


◆前沢虎義(当時24歳)
 元々は東京・大田区の自動車部品メーカーに務める真面目な工員だった。だが工場に転がりこんできた坂口の影響を受け、他の工員らとともに京浜安保共闘の下部組織を結成した。2月7日に群馬県渋川市のバス停から逃亡した。3月11日に親類に付き添われて練馬署に出頭。


◆岩田平治
 向山茂徳とは高校時代の同級生で、一緒の予備校に通った。その後、東京水産大学に入学。1月12日に山を降りて、カンパのため伊藤和子とともに名古屋へ派遣された時、そのまま逃亡した。山岳ベース事件で最初の逃亡者だった。

―― 死亡したメンバー ――

◆尾崎充男
 1950年生まれ。岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大学入学。その頃、同大学では川島や坂口が京浜安保共闘を結成しており、彼も参加。その年の10月に学内闘争で逮捕されている。アキレス腱を切断して入院中だったため真岡猟銃店襲撃に加われなかったが、このことを気に病み、以前より積極的に活動するようになった。1971年9月、丹沢ベースに入山。「加藤を殴れ」と命じられた時、余計なことを口走ったことで、総括を求められる。警官役の坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永田に問題視され、縛られ暴行を受けた。最初の犠牲者。死ぬ間際に舌を噛み切った。(享年22)。


◆進藤隆三郎
 1950年生まれ。福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり、安田講堂事件で逮捕される。さらに地元の新潟大学のデモに加わり逮捕される。それ以後は赤軍派に加わる。ハンサムな男で、女性をオルグする役割を持った。またアジトとなるアパートを借りるのも、印象の良い彼の仕事だった。坂東部隊に所属し、M作戦にも参加。横浜のドヤ街で同棲していた元芸者の女がいたが、その女が逮捕され、メンバーのことをぺらぺら喋ってしまった。そうしたことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と見られた。1月1日に暴行を受け死亡(享年22)。


◆小嶋和子
 1949年生まれ。愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。1970年8月から日精工業に勤務。同僚で、短大の先輩でもある寺林真喜江にオルグされ、当時高校生だった妹と革命左派の川島陽子が建設した「中京安保共闘」(京浜〜の地方組織)に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。印旛沼の同志殺しにも関与。1971年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。1月1日、死亡(享年22)。


◆加藤能敬
 1949年生まれ。愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学。京浜安保共闘。あさま山荘事件で逮捕された加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達である。通称「加藤三兄弟」。彼らはそろって熱心な右翼思想の持ち主である父親に反発していた。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で、質素な生活をこころがけていた。この父親は3月3日付で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。能敬は1971年11月に是政アジトで逮捕され、12月に榛名ベースに入山。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。この時、森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。


◆遠山美枝子
 1946年横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。すらりとした美人で「お嬢さん」風に見られた遠山だったが、労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。67年佐藤訪越阻止羽田闘争、68年佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院反対闘争などに参加する。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親密になると、遠山が高原と付き合うようになった。1971年12月、新倉ベースへ。赤軍派では女王のようにふるまっていたが、早々と京浜安保共闘の永田に目をつけられる。髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされるが、関係者の話ではもともと質素な服装を好んでおり、彼女なりの偽装だったと見られる。(享年25)。


◆行方正時
 1949年生まれ。滋賀県大津市出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダー格にかつぎあげられた。やがて暴力革命を志し、ベ平連デモや東大・安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放した行方は膳所高の先輩である坂東について赤軍派中央軍に参加した。森に中央委員に任命され、京都の学生のオルグを任されたが、京都ではすでに新しい風が吹いており失敗におわった(詳しくは日本赤軍事件)。1971年12月、新倉ベースに入山するが、時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森に目をつけられることになった。(享年22)。


◆寺岡恒一
 1948年生まれ。文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここの学生、卒業生は多かった。1969年の革命左派結成時から参加している。その年の9月には反米愛国行動隊としてソ連大使館を火炎瓶を持って襲撃、逮捕された。吉野・尾崎らとともに真岡猟銃店襲撃に関わる。1971年5月、逃亡先の北海道から東京に戻り、小袖ベースに入山。8月には脱走した同士を殺害した印旛沼事件にも関与。最終的にメンバー内でナンバー6にランクされたが、杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる」などと陰で発言したことで総括を求められ、「俺は初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と発言したことで粛清される。寺岡の父親は「あさま山荘」に息子がいると思い、必死に呼びかけていた。(享年24)。


◆山崎順
 1950年生まれ。渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指していたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。1971年11月、新倉ベースへ。寺岡死刑の時、加わらなかったことを追及される。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められて殺害された。森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、組織から脱落しよう」としたとされ、死刑を宣告されたのである。(享年21)。


◆山本順一
 1943年愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ、卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、愛知県の父親が引き取り育てた。(享年28)。


◆大槻節子
 1948年生まれ。神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。67年に「反帝平和青年戦線」に加入。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働運動を目指してキャノンに入社後、71年頃からは革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には、陽動作戦として都内各所で火炎瓶騒ぎを起こす役として、逮捕された。板橋区の志村警察署上赤塚派出所を襲撃して逮捕された渡辺という男と恋人同士だった。かなりの美人だったが、暴行を受け永田に髪を刈られた。(享年24)。


◆金子みちよ
 1948年生まれ。横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野と出会う。1968年頃から運動に参加し、吉野の救援活動をきっかけとして革命左派に入った。京浜安保共闘では「神奈川人民救援会」の責任者となる。1971年6月、小袖ベースに入山。永田の嫉妬から妊娠8ヶ月で殺害される。(享年24)。


◆山田孝
 1944年東京・大森区生まれ。その翌年一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われる。理論に優れるということだけが良き指導者の条件ではないが、少なくとも森よりは格上の人物だった。1970年5月に結婚し、翌1971年11月に子どもが誕生した。赤軍派はやがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とはうまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡(享年27)。


【印旛沼事件】

 京浜安保闘争では、山岳ベースでのリンチ事件よりも前に脱走したメンバー2人を殺害していた。

 1971年8月4日、永田は吉野に脱走した向山茂徳(20歳)と早岐やす子(21歳)を始末するよう命令した。

◆早岐やす子
 1950年生まれ。長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」として呼ばれた。1970年末、京浜安保共闘に。翌71年6月に小袖ベース入りするが、7月に脱走。
 
◆向山茂徳
 1951年生まれ。長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗した。高校の同級生に岩田平治がおり、そろって上京して早稲田ゼミナールに通った。岩田は大学に合格したが、向山はまたも失敗した。それからは新聞配達店で働きながら勉強をしていた。たまに岩田の学生寮に遊びに行くことがあったが、そこにいたのが川島や坂口で、彼も京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。1971年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。

 やす子は7月に名古屋市の交番襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永田は他にの女性兵士全員に「なんとしてでもやす子を見つけ出して来い」と命令をしていた。

 やす子は故郷の佐世保に帰ろうとも思ったが、東京行きの切符を買った。そしてしばらく板橋区の友人のアパートに同居させてもらっていたが、ここもやがてメンバーに突きとめられた。
 
 やす子が暮らすアパートに小嶋和子がやって来た。
「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」
 やす子はその言葉を信用して小嶋について行った。
 連れて行かれたのは永田のアジトである葛飾区新小岩のアパート。そこには中村愛子、伊藤和子、金子みちよ、杉崎ミサ子が勢ぞろいしていた。彼女たちは永田から「やす子の飲む紅茶に睡眠薬を入れろ」という命令を受けていたが、まさか殺害するとは思っていなかった。

 しかし、やす子はなかなか紅茶を飲もうとしなかった。しびれをきらした瀬木は「外に幹部が待ってるんだ」と連れ出した。
 外の車には吉野と寺岡が立っていた。やす子が車に乗りこむと、運転席に小嶋和子、助手席に瀬木政児、後部座席のやす子の両脇に吉野、寺岡が座った。

◆瀬木政児
 真岡猟銃店襲撃、早岐と向山殺害にも参加。10月、寺岡らとともに永田から交番襲撃を命じられると、会津若松市の鶴ヶ城前の交番に下見に行った。運転手であった瀬木は逃亡ルートを決めるため交番の周囲をぐるぐるまわっていたが、誤って電柱にぶつけてしまい、車を乗り捨てて他の2人を喫茶店に置いたまま逃亡した。京浜安保からは5人目の脱走者となった。

 車内での詰問や自己批判の要求に対して、やす子は「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った。その時、瀬木はやす子の顔面を殴りつけ、吉野や寺岡も服をはぎ取って、胸や腹を殴った。
 やがて車は京葉道路の料金所にさしかかったが、ぐったりしたやす子に吉野が毛布をかけていたため係員は気づかなかった。

 車は印旛沼のほとりに入っていった。成田闘争で、この辺には土地鑑があったからだ。男らはそこに死体を埋める穴を掘り始めたが、失神していたやす子がいつの間にか土手の方へ逃げ出していた。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。


 8月10日、向山のアパートに大槻節子が訪ねてきた。この日は弟が上京してくる日で、新宿駅まで迎えに行く予定があったが、大槻に飲みに誘われてついて行った。まだ学生でもなかった向山は、過激派がどんなに恐ろしいことをしているか、わかっていなかったのである。
 店では「岩田さん達と歓迎パーティーやりましょうよ」ともちかえられ、府中市の岩田のアパートに一緒に向かった。しかし、中にいたのは寺岡、吉野、瀬木の3人で、岩田の姿はどこにもなかった。3人は「なんで逃げたんだ」と向山を殴りつけた。血まみれで失神した向山は、やす子と同じくやはり小嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれることになったが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害された。向山はやす子のいる場所から少し離れたところに埋められた。


【総括! ―リンチ事件―】

 「共産主義化」の名の下に革命戦士に鍛える武闘訓練の間、自覚にかけたり、執行部に不満を持つ者が総括の対象となった。また男女がいちゃいちゃしているのを森・永田許さなかった。革命左派時代から恋愛は自由だったが、永田は組織内での男女関係に神経を尖らせていた

 「囚人狂時代」(見沢知廉・著)の千葉刑務所での吉野の発言によると、「報道はされなかったが、公安のスパイがもぐりこんでいた」というものがあり、メンバーは「スパイ探し」に疑心暗鬼になっていたことも考えられる。(毎日新聞は事件発覚直後、山田スパイ説をとった)
 また鈴木邦男氏の著書「公安警察の手口」によれば、公安部が意図的に「内部に公安のスパイがいる」との情報を流すことで、内部分裂をおこさせ、また他派への牽制を行なっていたという説もある。

 リンチ事件の発端は、合同前の共同訓練の際の水筒からだった。

◆リンチ事件の経過

―1971年10月24日―
 ・メンバー脱走を受けて、永田は「丹沢も危ない」と感じ、4組にわけて、ベース候補地の調査に向かわせた。この結果、榛名山中にベースを作ることを決定した。ベースから道路に出るのは、大久保清事件の被害者の墓を目印にした。永田は大久保清事件に異常な関心を示していた。


―11月12日―
・坂東率いる坂東隊が南アルプス・新倉ベース(山梨県早川町)に到着。


―12月1日―
・赤軍派メンバー・遠山美枝子、行方正時、青砥の3人が、迎えにきた植垣康博と新倉鉄橋で合流。


―12月2日― 
・革命左派の永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前田、石田、金子みちよの7名が、迎えにきた植垣と合流。植垣が「水筒を持ってきましたか」と聞くが、誰も持って来ていない。植垣、トランシーバーでベースに水を持ってくるように依頼。


―12月3日―
・新倉ベースに水や食料を持っていく進藤隆三郎と青砥らに、森が革命左派を批判するように指示。

・両派の訓練部隊は水を持ってきた赤軍派の山崎と進藤に合流。進藤は革命左派メンバーと初対面だったが、「何で水筒を持ってこなかったんだ」と批判。山崎も加勢し、気まずい雰囲気になる。昼頃には青砥が食料を運んできたが、彼も水筒問題を非難した。やって来た森らも批判し、永田が自己批判するまで気まずい雰囲気は続いた。

・坂口はこの水筒問題批判を森ら赤軍派が訓練の主導権を握りたいためのものだろうと推測。 

・永田は赤軍派の女性兵士だった遠山美枝子に目をつけ始める。赤軍派の紅一点だった遠山は重信房子と並び賞されていたほどの美人であったことや、他人の発言中に髪をブラシでとかしたり、リップクリームを塗っていること、森にぴったり寄り添っていたことが永田には気に入らなかったらしい。独自の「女性論」を持つ永田は、それに当てはまらない大部分の女性に敵愾心を持っていたと見られる。


―12月4日―
・銃の使用訓練。森と永田は2人で会議。森は銃の譲渡を要請するが、永田は保留。

・また永田は遠山の革命戦士としての資質に疑問を投げかける。それは合法時代と同じ指輪をしていたことや、メンバーから特別扱いされていることだった。特に遠山は赤軍派幹部・高原浩之の夫人であったので、意見しにくいのではないかと見た。後に殺害される山崎順や行方は遠山の味方をしたが、日頃から遠山に使われがちだった植垣は永田に加勢した。この場は森の「今夜のところはこれくらいにしよう」という言葉でおさまった。


―12月5日―
・実弾訓練の最中、遠山が自分の銃の発射反動で腰を強打してしまい小屋に戻ろうとした。そこに好意を寄せていた行方正時が「大丈夫?送っていってあげますよ」と声をかけた。これを見た永田はひどく激怒したという。

・腰を打った遠山は生理がとまらないようになり、元京浜安保の女性に「生理用品持ってないか」と尋ねた。これを永田は「女性兵士になろうという自覚に欠ける」と見た。


―12月6日―
・永田は「遠山さん問題が決着がつかないうちは、赤軍派との共同作戦なんてとてもできない」と主張し、その日から4日間行なわれた森とのトップ会談で「赤軍派の中の遅れた分子を徹底的にしごきあげよう」と要求した。


―12月7日―
・共同訓練最終日。両派の代表による射撃競争の後、全員が決意表明。森は生い立ちから第2次ブントの総括までを話すうちに感極まって泣き出す。最後に革命左派が赤軍派に猟銃1丁を渡す。


―12月8日―
・革左の永田と坂口はとどまり、森・山田と指導部会議を行なう。


―12月9日―
・森の行方・遠山・進藤に対する批判は続いた。この3人は4日に永田に反論したメンバーである。「雑談はするが討論には加わらない。自主的な判断に欠ける」(行方)、「愛人の女の逃亡問題に組織の責任を云々するが、自身の問題として総括していない。個人主義的な行動が多い」(進藤)といったもので、彼らは水汲み、炊事、洗濯をやらされるようになった。


―12月10日―
・永田と坂口は新倉ベースから引き上げて行く。


―12月12日―
・永田、坂口は榛名ベースに戻る。山本順一が入山。


―12月15日―
・ベースに小屋が完成。簡易的な建物にしてはなかなかのものだった。


―12月16日―
・森、坂東、山田は一足先に榛名ベースの京浜安保と合流するため、新倉ベースを出発した。森は途中まで送っていった植垣と青砥に「遠山はまだ重信房子と連絡を取っているらしい。いったい何をたくらんでいるのか。厳しく追及して欲しい」と言った。

・植垣がアジトに戻ると、行方がストーブのそばで座っていた。植垣は「おまえ、幹部がいないと思ってなめるんじゃないよ」と、再び銃を持たせて小屋の外に放り出した。次に遠山にも重信のことや、過去の活動を持ち出して責めたてた。


―12月20日―
・森と坂東が榛名ベースにやって来る。指導部会議で、森が革命左派メンバー・小嶋らを批判。


―12月21日―
・指導部会議。永田が森の路線に歩み寄った形で新党結成が決まる。
 
・逮捕されていた加藤が不起訴となり、ベースに戻る。加藤は取り調べで刑事と雑談していたことについて自己批判を求められる。尾崎も合法部に銃の隠し場所を教えたことを批判される。
 
・山本が妻・保子と生後18日の長女を連れてやって来る。


―12月22日―
・森と永田、「これまでの各自の活動を総点検し、根底的な総括をする必要がある」と説く。

・夕食後の全体会議で、森が加藤に対して逮捕前後の行動を問い詰めて批判。


―12月23日―
・赤軍派・山田孝が榛名ベースに来る。
 
・夜、指導部会議。このときから、森、山田、坂東(赤軍派)と永田、坂口、寺岡、吉野(革命左派)の7人体制となる。


―12月24日―
・指導部会議で永田は「1969年の4・28沖縄デー闘争に参加すらできなかった自派は遅れている」と話す。

・森、革命左派の川島豪と決別。


―12月25日―
・批判を受けていた加藤能敬と小嶋が作業から排除され話し合う。


―12月26日―
・指導部会議中、中座した永田に小嶋が「加藤が夜、変なことをする」と話す。永田はこれを聞いて2人に腹を立て、会議で報告。森は「総括要求されている加藤がそれを隠しているのだから、もっと聞き出すために殴ろう」と提案。永田も同調した。

・山本順一は妻の保子と生後18日の長女を連れて榛名アジトにやって来たが、この異常なリンチを見て驚いた。山本は保子のリュックサックの中に赤ん坊のオシメを入れるのを手伝っているのを永田に見られ、「夫婦気取りで革命ができるかい」と目をつけられる。保子は目の前で夫がリンチを皆からリンチを受けているのを目撃。


―12月27日―
・未明、加藤の周りを取り囲み、森が「何か隠していることがあるだろう!それを言え!」と殴り、他のメンバーも「総括しろ!」と同調した。永田は坂口と坂東に小嶋を殴るように指示。暴行は朝まで続き、加藤はそのまま縛られた。

・総括要求のなかで、2人は様々な告白を行う。永田は加藤の2人の弟が手を出していないことに気づき、「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」と語りかけた。上の弟は泣きながら兄を殴った。暴行は明るくなった頃に終わったが、加藤はそのまま縛られることとなった。

・昼頃、大槻節子ら3人が榛名ベース入り。

・午後の指導者会議で、森は永田らに「川島との訣別−分派闘争」を再び迫る。永田は分派に同意。その時に手が震えたが、坂口がいつものようにそれを握った。森は新党を宣言。


―12月28日―
・森、小嶋を縛るように指示。

・夜の全体会議では、全員が自分の問題点を提起。森の尾崎に「日和見主義は敗北主義・投降主義に転ずる」と厳しく批判。


―12月29日―
・「敗北主義を克服させるため」として、尾崎は警官役の坂口と格闘させられる。尾崎が参加しなかった12・18闘争(上赤塚交番襲撃闘争)の再現である。縛られていた加藤、小嶋も「頑張れ!頑張れ!」「警官を殺すのよ!」と声をかけた。1時間の格闘後、尾崎が大槻に「ちり紙とってくれ」と言ったのを、永田は「甘えのあらわれ」とし、逆エビに縛られる。金子はこうした暴力的総括に対して批判的で、これ以後森は金子に批判的となる。

・指導部会議で、森は尾崎の「ありがとう発言」などを批判。総括要求が終わったと誤解している尾崎をシュラフで休ませず、「立ったまま総括しろ」と命令した。夜になって、尾崎は森に「休ませてください」と懇願したが、森は聞き入れず、吉野を見張りにつけて徹夜での総括を命令した。

・夜の全体会議で、杉崎ミサ子が「自立した革命戦士になるため」と、寺岡との離婚を表明。金子みちよも吉野との離婚を表明したが、永田はそれを認めなかった。


―12月30日―
・夜、中村愛子が入山。


―12月31日―
・東京に資金集めに行っていた山田が迦葉山ベースに到着。
 
・森、「すいとん、すいとん」という発言を行なった尾崎の腹部を思いきり殴る。指導部による暴行が続いた。その後、尾崎は縛られた。

・坂東と山本順一は、赤軍派の遠山、行方、進藤の3人を連れて戻ってきた。この時、加藤は座ったまま、小嶋は寝かされて逆エビ状に、尾崎は立ったまま柱にそれぞれ縛られた。

・夕方、尾崎が死亡しているのが確認される。ベースでの最初の犠牲者である。森は「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括しきれなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。さらに永田の「加藤、小嶋の2人を必ず総括させよう」という呼びかけに、メンバー全員が「異議なし!」と答えた。


―1月1日―
・未明、森は新倉ベースから到着したばかりの進藤に対する批判を行なうが、反論したため総括要求。「赤軍派への加入はM作戦の金が目的だった」「逃亡を考えている」と邪推したもの。森の提案で全員が進藤を殴りつける。進藤と一緒にベースに来たばかりの行方と遠山は初めて見る暴行の場面だった。行方は弱々しく殴り、遠山は当初殴ることを拒んだ。進藤はこの時点で肋骨を6本骨折、肝臓破裂という重傷を負っていた。

・暴行後、進藤を外に縛った。会議中、進藤は「もうダメだ!」と絶叫して死亡。見張っていた石田が目撃した。2人目の犠牲者。森は彼の死を「敗北死」と説明した。
 
・続いて降雨のため床下に入れられていた小嶋の容体が急変、森や山田が人工呼吸を行なうが死亡した。3人目の犠牲者。森は「敗北して死んだから醜い顔をしている。死者に対する礼など必要としない」と言い捨てた。


―1月2日―
・午後、植垣と山崎順が榛名ベースに到着。これで旧赤軍派の全メンバーが揃った。

▽旧赤軍派中央委員
森、坂東、山田

▽同被指導部
青砥、遠山、行方、植垣、山崎

▽旧革命左派中央委員
永田、坂口、寺岡、吉野

▽同被指導部
前田広造、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、伊籐和子、寺村雅子、石田源太、加藤能敬、加藤倫教 加藤M、山本順一と保子、中村愛子

・夜の全体会議で、植垣が「大槻を好きになったので結婚したい」と話す。森は大槻の美人であることや頭が良いことからの高いプライドを指摘した。

・引き続いて、森の遠山批判。「小嶋の死体を埋めさせることで・・・総括させよう」と提言した。遠山が立ち上がると、行方は「俺もやる」と表明した。


―1月3日―
・行方と遠山は小嶋の死体を所定の場所まで運び、穴を掘って埋めた。この時、寺岡が「こいつが党の発展を妨げてきたんだ」と遺体を殴るように命令。森はその報告を受けて、「敗北死と反革命の死は違う」と寺岡を批判。寺岡は新倉ベースに行った後、東京をまわっていたので、敗北死の規定は聞いていなかったのだが、それは考慮されなかった。

・戻ってきた遠山に森は再び総括を求める。「今までは殴って総括を援助してきたが、自分で総括すると言うなら自分で自分を殴れ」と命令した。遠山は小屋の中央に立たされ、自分で顔を殴らされた。動きが止まると、まわりのメンバーが罵声を浴びせた。”自分殴り”は30分ほど続き、顔は腫れあがっていた。その後、遠山は縛られる。
 
・夜の指導部会議で「C・C(Central Commitee =中央委員会)」が結成される。序列は森、永田、坂口、寺岡、坂東、山田、吉野の順。会議は翌3時頃まで続き、行方を縛りつけることを決めた。


―1月4日―
・未明、行方が縛られる。

・朝、森は加藤に「逃げようとしていたのだろう?」と追及。しばらくして土間に縛られた加藤は死亡した。4人目の犠牲者。永田は加藤の2人の弟たちに「今は泣きたいだけ泣いて良い。兄さんの死を乗り越えて、兄さんの分まで頑張って革命戦士になっていこうよ」と声をかけたが、三男は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣きながら飛び出していった。二男は永田の肩に顔をうずめて泣いた。

・中央委員会で、すでに死亡した4人を別の場所に埋め直すこととし、地図で選定した。森は前田、石田、寺村、植垣、青砥を党員候補に考えていると表明した。


―1月5日―
・山田、寺岡ら6人が死体を遺棄する場所の調査に出発。

・夜、死体を掘り出す作業。死体を車に積み、山田ら6人が埋め直しに出発。戻ってきたのは朝方。


―1月6日―
・森、行方を殴るとように指示。中央委員の他、植垣、山崎も殴った。寺岡は薪で殴っている。この間、縛られていた遠山は暴行を見て、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「お母さんを幸せにするから待っててね」と繰り返していた。

・夕方、男女関係を追及された遠山が「森を好きだった」と漏らし、森が激怒する。全員で遠山を殴打。縛り直しの時、寺岡は「男と寝た時のように股を開け」と遠山に指示。メンバーから笑い声が起こると、永田は「そういうのは矮小よ」と叫んだ。遠山は逆エビに緊縛される。

・石田、前田、寺村が党員となる。なぜか植垣は外されていた。


―1月7日―
・夕方、遠山が死亡。この死を受けても、気にせず立ち去る永田に対して坂口は「薄情だ」と言う。坂口は永田に謝罪を求められ、それに従う。


―1月8日―
・行方の衰弱が激しく、童謡を歌い始める。
 
・C・Cで新ベース設営の候補地について話し合いがされる。


―1月9日―
・行方の死亡が確認される。

・山田ら4人が遠山と行方の遺体を埋めに行く。


―1月11日―
・植垣らが迦葉山にベース調査に向かう。


―1月12日―
・坂東、寺岡によるベース調査。「結局、日光には候補地はなかった」という結果。なお森は寺岡について「政治的傾向が官僚主義的スターリン主義である」と調査中に総括を指示していた。


―1月13日―
・森と山田の話し合い。山田は妻と子どもを山に呼ばない森に批判を強めた。


―1月14日―
・森は電話連絡のため下山。戻った後、車の運転にミスし、連絡に間に合わなくさせたとして山本を非難。山本は激しく反論した。

・青砥と金子が改造弾造りをしていた際に鼻歌を唄っていると、森は「それが総括を求められている者の態度か」と咎めた。

・夜は寺岡の問題が議題とされる。森は永田に彼の活動歴を聞き、「分派主義だ!」と断定した。


―1月15日―
・山田、ベースに戻る。


―1月17日―
・寺岡と坂東がベースに戻ってくる。

・森は寺岡が杉崎ミサ子につきまとっていたことや、自分たちをなめたような陰口を叩いていたことを問題にする。CCである寺岡は抗弁しても殺されると考え、「お前等がリーダーなんて、ちゃんちゃらおかしいや!」と叫ぶ。森は「寺岡を死刑にする」と言い、全員が「異議なし!」と答える。坂東が寺岡の左肩をナイフで突き刺す。森も「お前はスターリンと同じだ。死ね」と、アイスピックで寺岡の胸を刺す。続いて肩を支えていた他のメンバーも心臓や首めがけて突き刺すが絶命せず、4人がかりでタオルで首を絞め殺害した。アイスピックを刺したのはすべて赤軍派の人間だった。


―1月18日―
・森は寺岡処刑の時、山崎順が輪に加わらなかったのを問題とする。
 
・名古屋まで小嶋の妹を連れ出しに言った女性メンバーが戻り、永田に恐れをなした岩田平治(当時22歳)が逃亡したことが知らされる。「もはや榛名はやばい」ということになり、迦葉山に新アジトをつけることを決める。


―1月19日―
・森、山崎に死刑を宣告する。山崎は「死刑にされて当然です」と涙を流しながら言うと、森は様子を見ることにして縛らせた。

・夜、坂口ら4人が寺岡の遺体を埋めに行く。


―1月20日―
・森はあらためて「逃げるつもりだった」と言う山崎に死刑を宣告。寺岡殺害の時にアイスピックで刺さなかった坂口を非難し、坂口はアイスピックで山崎の左太ももを刺す。続いて坂東、植垣、青砥が刺した。そして坂東と吉野がロープで首を絞めて殺害した。

・森、永田は「森に取り入ろうとしている」「主婦のように自分の権威を守る」などという理由で、金子・大槻らを批判。吉野も「僕の方から離婚する。もう金子さんに足を引っ張られたりはしない」と発言。

・夜、山田を奥沢が連れてくる。


―1月22日―
・9人が釈迦山にベース建設のため出発。出発する吉野の世話を焼く金子を見て、森は「あれは女房の態度」と言う。


―1月23日―
・夜、坂口は山崎の遺体を埋めに行く。坂口はこの後、ベース建設の応援へ。


―1月25日―
・夜、森は金子と大槻を追及。大槻へは60年安保闘争に関する「敗北」の文字を好んでいたこと、金子へは安易に離婚を宣言したこと、尾崎の格闘について批判したことを問題とした。金子は反論した。翌未明、2人の緊縛が決定される。


―1月26日―
・夜、坂口、吉野、坂東が山本を囲んで総括要求。無抵抗の山本に暴行が加えられた。終わると逆エビに縛られた。


―1月27日―
・森は「金子が子どもを私物化することを許してはならず、子どもを(腹から)取り出すことも考えておかねばならない」と発言。


―1月28日―
・金子への暴行が始まる。金子は「私は山へ来るべきではなかった」と洩らした。

・午後7時頃、青砥を残して新ベースに移動。

・奥沢の落とした運転免許証を地元の漁師が届けに来た。その際、小屋の建設を見られた。この頃、丹沢ベースが発見されたニュースが報じられていたので、危機感が芽生える。


―1月29日―
・新ベースの小屋はそこそこ完成していたので、テントを引き払い小屋に移る。縛られている山本、金子、大槻は皆で運び、床下の柱につないだ。山本夫人は「総括してよ、総括してよ」と夫の胸に顔を埋めて泣いた。

・山本、「C・Cの方が論理矛盾している」と反発し、舌を噛み切って自殺を図り、猿ぐつわをされる。


―1月30日―
・午前1時ごろ、山本死亡。9人目の死者。

・森、植垣に「新倉ベースで大槻とキスしただろう」と総括要求。植垣を含む全員で大槻殴打を提起し、床下に行くと大槻はすでに死んでいた。10人目の犠牲者。


―1月31日―
・東京から山田が戻ってくる。

・金子の子どもの様子を看護学生だった中村、伊藤、それに医学部の青砥が見る。


―2月1日―
・坂口、坂東らは山本と大槻の遺体を埋めに出かけるが、警官を目撃し、森・永田・坂口の手配ポスターがあるのを見つけ、延期した。

・中央委員会で森が山田に総括要求。「一兵士としてマイナスの地平からやり直すべき」と通告した。


―2月2日―
・山田、雪の上に正座させられる。「C・Cを辞めたい」という山田に対する追及が前夜から続いていた。森は彼に食事抜きでマキ拾いをするように命令した。


―2月3日―
・山田、マキ拾いへ。しかし、慣れた植垣と違い手間取り、結局皆に殴打され、逆エビに縛られた。


―2月4日―
・朝、金子の死亡が確認される。11人目の死者。

・夜、活動資金と車のカンパ要請のために森と永田が上京。ベースでは坂口が責任者となった。

・夜、坂東らが金子の遺体を埋めに行く。


―2月5日―
・榛名ベース解体のため坂口、坂東、吉野、植垣、青砥が出発。
 
・赤ん坊を取り上げられ、夫も殺された山本保子が逃亡。これを受けて坂口は中村愛子に「妙義山にアジトを移すから、山本の赤ん坊を連れて、尾道まで連絡に行ってくれ」と命じた。


―2月7日―
・坂東隊は榛名の小屋を焼き払い、湖畔から伊香保温泉までバスで行き、そこから渋川までバスに乗って下山した。ところがバスで1万円札を出して運転手に怒鳴りつけられ、また身なりや匂いから不審に思われ始めたため、沼田行きのバスを停留所で待とうとした。そしてこの時、前沢が突然駆け出して逃亡した。市街で前沢追えば大事になってしまうので坂東達はただ見送るだけだった。

・100万円を持たされ榛名ベースに向かわされていた中村愛子、山本の長女を連れてそのまま逃亡。タクシー運転手に自殺志願者に間違われ、いったん警察署に保護された。


―2月8日―
・榛名ベースが発見される。だが坂東隊はすでに焼き払い、引き揚げていた。

―2月12日―
・未明、衰弱が激しかった山田が死亡。12人目の死亡者。


―2月13日―
・永田、「坂口と離婚し、森と結婚する」と言う。


―2月15日―
・朝刊で「榛名ベース発見」と報道される。
・榛名ベースから20kmほど離れたところにある迦葉山ベースも発見される。こちらはあわてて逃げたのか解体されていなかった。


―2月16日―
・榛名ベース発見を受けて、第三のアジトである洞窟を放棄、茨城県袋田の滝方面にレンタカー(セドリックのワゴン車)で移動途中だったメンバーが警察の車とばったり会う。坂口、植垣、青砥の3人は奥沢と杉崎ミサ子に「お前ら、時間を稼いでろ」と言って洞窟に戻り、坂東、吉野らにも緊急を知らせて逃亡した。奥沢と杉崎は車の中に篭城した後逮捕された。坂口らは群馬から長野に向かって脱出行を続けた。

・夜、森と長田が妙義山に到着。暗闇だったため、雪の中で一夜を過ごした。


―2月17日―
・妙義湖近くで森と永田が逮捕される。


―2月19日―
・午前8時頃、小諸に向かっていた植垣、青砥、寺林真喜江、伊藤和子の4人が軽井沢駅で逮捕される。この4人は佐久方面に出て、衣類や食料などを買ったのち再び合流することになっていた。坂口ら他の半分は雪の洞窟で待機していた。
 
・坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の5人が警察に発見され、「あさま山荘」に逃げ込む。


―3月10〜14日―
・逃げていた山本保子、中村愛子、岩田、前沢が相次いで自首。


【裁判】

 1972年10月13日、中村愛子に懲役7年の判決。
 
 同10月31日、奥沢修一に懲役6年判決。

 同12月6日、前沢虎義に懲役17年判決。

 1973年、東京地裁での統一公判開始。永田、坂口、植垣、吉野、加藤(二男)が初出廷。1年ぶりに顔を合わせた。

 1974年4月3日、寺林真喜江に懲役9年の判決。

 1974年7月、永田は革命左派から離党。塩見孝也が結成した赤軍派(プロレタリア革命派)に植垣や坂東とともに加わった。

 1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠、52人の人質とひきかえに坂東ら7人の釈放を要求(クアラルンプール事件)。日本政府は「超法規的措置」として条件を飲み、坂東らはアラブへと飛び立っていった。坂口は辞退している。
 坂東はアラブで重信房子と会った時、「自分は同志殺害という誤りを犯した。査問委員会で裁いて欲しい」と申し出たという。坂東の行方は今もわかっていない。彼についての裁判は停止したままである。

 1977年8月9日、他の3人の対立のため吉野と加藤(二男)は統一被告団を離脱、分離裁判を選択。

 同9月28日、日本赤軍がダッカで日航機をハイジャック(ダッカ事件)。人質とひきかえに植垣ら9人の釈放を求めた。しかし、植垣は自分たちの問題を「総括」するため出国を拒否。

 1979年3月29日、東京地裁・石丸俊彦裁判長は、吉野に無期懲役、罰金4万円の判決。加藤(二男)は懲役13年が言い渡された。

 1980年7月、永田と植垣は、塩見と訣別。

 1982年6月18日、永田と坂口に死刑、植垣に懲役20年の判決。
 この死刑判決に関して、殺された12人の遺族は「当然」という心境を語ったが、ただ1人、向山の弟は複雑な胸中をのぞかせている。
「私は(極刑をのぞんでいる)父とは違い、兄は組織の一員として活動して、ああいう結果になったのだから、被告には死刑でなく、生きて事件をかえりみ、償いをしてほしいと思う」
 
 1983年2月2日、吉野、二審でも無期判決。3月に千葉刑務所に移った。

 1984年6月11日、永田、控訴審中に気を失って失禁。脳に腫瘍が発見され、7月に手術が行なわれた。

 1986年9月26日、東京高裁、植垣に一審と同じく懲役20年。永田、坂口についても控訴を棄却した。

 1989年5月、坂口の歌が朝日歌壇に初めて掲載される。坂口はそれから精力的に歌作にはげみ、1993年には「坂口弘歌稿」を出版。

 1993年2月19日、最高裁で永田と坂口の死刑が確定。植垣も懲役20年で確定した。ただしこれまで時点で20年間拘置所暮らしだったため、残刑は5年半となる。

 1998年10月、植垣、刑期を終え甲府刑務所を出所。

 2000年6月、坂口、再審請求。

 2001年6月、永田、再審請求。

 2006年11月28日、東京地裁、2人の再審請求を棄却。

 2011年2月5日、永田病死。享年65。


【トピックス 「人々が見た連合赤軍事件」】

 この大事件を、当時の識者達はどう見たのだろうか。「週刊現代増刊 連合赤軍事件 緊急特集号」によると、次のようなものだ。「青年たちをこうしたことに駈りたてた政治が悪い」「いや、煽ったマスコミや、そういった思想を植えつけた教育者が悪い」「極刑も当然」といった意見が挙がっている(肩書は当時)

◆外務大臣・福田赳夫
「『泥棒にも三分の言い分』と言われるが、三分の言い分があると言って泥棒は許されない。この度の連合赤軍には三分の言い分も成り立たない」

◆通産大臣・田中角栄
「犯人達に情状酌量の余地はない。法により厳正な処分を受けるべきである。ただ犯人たちと、その家族は別である。家族に対する心無い非難、中傷はするべきではない。家族は加害者ではなく、被害者だからである」

◆自民党総務会長・中曾根康弘
「公害だ、交通地獄だ、円切り上げだ、そんななかで若い純情な青年達が感情的になるのは分かる。しかし彼らを迷信的信仰に陥らせ、凶暴な行動に駆り立てた教育に携わる人の責任は大きい。その意味で、一番の犠牲者は、自殺された坂東国男の父親だったと思う」

◆参議院議員・石原慎太郎
「戦後日本の教育は歴史や伝統に愛着をもたせることを放棄し悪い面だけを階級的視点でとらえることばかりやってきた。その結果が赤軍派や連合赤軍を生ませることとなったと言っていい」

◆日本共産党書記局長・不破哲三
「わが党は国民とともに、各種の暴力集団の策動を根絶するために、引き続き闘っていくものである」

◆総評議長・市川誠
「暴力的な行為は断じて認めることはできない。しかし、青年学生をあそこまで追いこんでしまった政治を問題にしなければならない。とくに佐藤内閣の反動政治を強く追及しなければならない」

◆作家・山口瞳
土田夫人殺し新宿のクリスマスツリー爆弾、それに今回の事件を見ると、彼らが主張している『貧しい人民のために』という言葉と矛盾する行動じゃないかと考える。単純で幼稚な行動では、人民を味方につけることはできませんよ」

◆読売巨人軍・王貞治
「赤軍派の連中の無法ぶりは目にあまる。国家も警察も、決断した以上、徹底的にやるべきだと思います」

◆作家・大藪春彦
「あれだけ抵抗してみせたのだから、持っていた手製爆弾で自爆するのかと思っていたら、そうでもない。逆に捕まったときは、うずくまってブルブルふるえていたというから、まったく拍子抜けだ。どうにもカッコ悪いというほかない」

◆東大教授・寺沢一
「犯人はあれだけ銃撃戦を展開していながら、それでいて最後には逮捕されてしまった。これは我々戦中派には理解できないことです」

◆作曲家・団伊玖磨
「僕らは現実主義者だから、”根回し”のないことはしない。理想主義に走るのもいいが、もっと”根回し”のできる考え、行動をしろと言いたい。どうして中国の革命を見習って、気長に勉強することをしないのでしょうね」


【トピックス 爆弾の時代と赤軍派・梅内恒夫】

 植垣や青砥の欄で名前が出た赤軍派・梅内恒夫についてふれたい。


 1971年6月17日夜、明治公園で行われた新左翼各派の沖縄返還協定の調印実力阻止闘争が終わった後、警察部隊に投げられた鉄パイプ爆弾により隊員37人が負傷した。左翼過激派の爆弾により、多数の警官が負傷した初めてのケースであり、これ以後、土田邸爆破、クリスマスツリー爆弾、連続企業爆破などが起こり、新左翼の闘争は火炎瓶にかわって「爆弾の時代」を迎えていくことになる。

 デモで初めて爆弾を使用し、こうした流れを作ったのは梅内であったと言われる。自身で作った爆弾は「梅内爆弾」と呼ばれた。
 梅内の作る爆弾はすべて手作りだった。塩素酸カリウム、フェロシアン化カリウム、砂糖を調合した爆薬を鉄パイプに詰め、起爆装置として試験管に入れた濃硫酸を入れた。この鉄パイプを投げると、その衝撃で試験管が割れ、化学変化を起こして爆発するというものである。


 梅内は青森県八戸市生まれ。家はもともと薪炭商だったが、父親の代から海産物問屋も始めるようになった。梅内は両親にとって初めての子であり、何不自由なく大切に育てられた。わんぱくな子が多い漁村にしては、おとなしく礼儀正しい子どもだったという。
 小学校時代、体が弱く体育は苦手だが、それ以外の教科については抜群の成績を修めた。常に学年トップで、学年委員長、児童会長にも選ばれた。
 中学は市立第2中学校に越境入学。2年の時に美術が4だったほかは、3年間オール5であった。そして名門である県立八戸高校を経て、福島県立医科大学に進んだ。脳外科を専攻したいという希望があったからだった。梅内は弘前大学にも受かっていたのだが、もしこちらに進んでいたなら、過激派のメンバーにはなっていなかった可能性が高い。

 梅内は大学に入ると空手部に入った。この空手部にはKという2年上の男がいた。Kはもともと民青の活動家だったが、途中で社学同―共産同に転身、この大学の学生運動のリーダーであった。そしてKが空手部を辞めて社会思想研究会に入ると、梅内もそのあとを追った。森恒夫が先輩の田宮高麿に強く影響を受けたように、梅内もこの先輩と出会ったことで、学生生活は政治的な色を強めた。梅内は次第に講義に出席しなくなったが、研究会でのマルクス、レーニン読書会にはすべて参加した。

 1968年10月20日、梅内は仲間二十数人と一緒に、角材と赤いヘルメットを身に付け、霞ヶ関の防衛庁へ乱入、一号館の中央基地通信隊事務室をめちゃくちゃに破壊した。
 逮捕された梅内は翌年1月に保釈され、父とともに大学に呼ばれ、注意を受けたが、全国の医大で改革の火の手が上がり、福島医大にも波及したことなどで、彼の信念は変わることなく、理論ではKの上を行くようになった。梅内はしゃべるうちに興奮してしまうので演説は苦手だったが、高校生や労働者をオルグすることは得意だった。梅内に引き入れられた高校生の何人かは後の大菩薩峠事件で検挙されている。彼らは梅内の作った爆弾を、東京へ、山梨へ運搬する役割を持っていた。

 1969年10月21日、福島医大の封鎖は大学当局の手で解かれたが、バリケード生活のなかで梅内は逮捕されたKに代わって指導者となった。この後、梅内の姿は大学から消えた。彼は赤軍派が結成されると、運動の行き詰まりから赤軍派に参加、「みちのく赤軍」のリーダーにもなった。ただ地方にいたため、赤軍派幹部ではなく、一兵士であったという。

 赤軍派は大阪、東京戦争という名の武器強奪を展開していたが、思うような結果は得られなかった。そこで「殲滅戦が必要」と、より強い武器の入手が当面の目標だった。
 当時、爆弾づくりにおいては、ろくな教本はなく、梅内は失敗を重ねていた。そこで同じ大学の男に「東京へ行けば、もう少しましな本があるはずだが…」と依頼し、入手した火薬品取り扱いの本を読みながら、大学の産婦人科教室で実験を続けた。そしてついに梅内爆弾は完成した。
 大学を去った梅内は青森市内で借家で、仲間数人と爆弾を作っていた。この「爆弾学校」では、連合赤軍事件で逮捕された植垣康博、青砥幹夫に爆弾製造の技術を託していた。

 福島医大のバリケードが解かれたのと同じ日、赤軍派は国際反戦デーのために、拠点である東京薬科大学に鉄パイプ爆弾を準備をしたが、大学側がロックアウトしてそれらは押収された。
 その翌月、赤軍派の主要メンバーが検挙されるという大菩薩峠事件があったが、現場に残された爆弾からも、東薬大の時と同じようにやはり梅内の名が浮上した。これにより梅内は爆発物取締罰則第三条(製造、所持)違反で指名手配された。だが梅内はその直後、地下に潜行した。

 その後に起こったよど号事件のメンバーにも、あさま山荘事件の時も、「メンバーの中に梅内がいる」と噂されたが、いなかった。リンチ事件発覚時も、殺害されたメンバーの中にはいなかった。

 1972年5月10日、梅内は新左翼系映画雑誌「映画批評」に、「共産同赤軍派より、日帝打倒を志すすべての人々」と題する手記を寄稿。山陰地方からの郵送だった。
 梅内はこの手記のなかで当時「世界革命浪人ゲバリスタ」」を名乗っていた太田竜、竹中労、平岡正明についてラブコールを送っており、太田は「同志として公然と確認しよう」と答えたが、それに対する返答はなかった。そしてこれが梅内の判明している最後の動きとなる。

 1978年1月10日、時効成立。(同じ爆弾魔である草加次郎の事件もこの年に時効を迎えている)それからも梅内は姿を現すことはなかった。死亡説、海外逃亡説があるが、確かな情報はない。


リンク

自主日本の会
http://homepage2.nifty.com/patri/

1969-1972 連合赤軍と「二十歳の原点」
http://www12.ocn.ne.jp/~chi0010/


≪参考文献≫

朝日新聞社 「朝日新聞一○○年の記事に見る(6)奇談珍談巷談 下」 朝日新聞社編
朝日新聞社 「週刊朝日85周年記念増刊 週刊朝日が報じた昭和の大事件」
朝日新聞社 「戦後再考」 上野昂志
朝日新聞社 「歌稿」 坂口弘
朝日ソノラマ 「朝日新聞記者の証言3 公安記者の戦後史」 鈴木卓郎
アスペクト 「実録 戦後殺人事件帳」
インパクト出版会 「死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない」 日本死刑囚会議・麦の会
笠倉出版社 「江戸・明治・大正・昭和・平成 日本の女殺人犯101」 日高恒太朗 
角川書店 「57人の死刑囚」 大塚公子
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
角川書店 「神曲地獄篇」 高木彬光 
河出書房新社 「文藝 2000年秋号 緊急特集 赤軍 RED ARMY」
河出書房新社 「現代日本殺人史」 福田洋・著、石川保昌・編
河出書房新社 「常識として知っておきたい昭和の重大事件」 歴史の謎を探る会・編
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」 
研究社 「講座・コミュニケーション5 事件と報道」 編集委員・江藤文夫 鶴見俊輔 山本明
原生林 「隠語で綴る事件簿 犯罪手帳」 高田重夫
現代書館 「FOR BEGINNERS 全学連」 
幻冬社 「自殺者 現代日本の118人」 若一光司
コアマガジン 「実録戦後女性犯罪史 日本毒女たちの凶状録」
講談社 「週刊現代増刊 連合赤軍事件 緊急特集号」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第15巻 石油危機を超えて」
講談社 「週刊 日録20世紀 1972」 
講談社 「日本の公安警察」 青木理
講談社 「生き方の鑑 辞世のことば」 赤瀬川原平
講談社 「ビジュアル版・人間昭和史 昭和の事件簿」 扇谷正造監修
講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎 
講談社 「全学連と全共闘 戦後学生運動の軌跡」 高木正幸
講談社 「過激派学生 何が彼らをそうさせたか」 中川友吉
講談社 「歴史エンタテインメント 昭和戦後史 下 崩壊する経済大国」 古川隆久
恒友出版 「女囚52号の告白 実録!塀の中の女たち2」 崎村ゆき子
国書刊行会 「報道は真実か」 土屋道雄
彩図社 「判決から見る猟奇殺人ファイル」 丸山佑介
彩流社 「兵士たちの連合赤軍」 植垣康博
彩流社 「連合赤軍27年目の証言」 植垣康博
彩流社 「優しさをください」 大槻節子
彩流社 「永田洋子さんへの手紙 十六の墓標を読む」 坂東国男
彩流社 「あさま山荘1972 上」 坂口弘
彩流社 「続あさま山荘1972」 坂口弘 
彩流社 「連合赤軍事件を読む年表」 椎野礼仁
彩流社 「赤軍派始末記 元議長が語る40年」 塩見孝也
彩流社 「戦中生まれの叛乱譜 山口二矢から森恒夫」 田中清松
彩流社 「獄中からの手紙」 永田洋子
彩流社 「十六の墓標 (上) 炎と死の青春」 永田洋子
彩流社 「十六の墓標 (下) 炎と死の青春」 永田洋子
彩流社 「私生きてます 死刑判決と脳腫瘍を抱えて」 永田洋子 
彩流社 「戦後世代の革命」 三上治
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編
ザ・マサダ 「囚人狂時代 My Sweet-home Prison」 見沢知廉
三一書房 「戦後50年 メディアの検証」 朝日新聞取材班 
三一書房 「過激派壊滅作戦 公安記者日記」 滝川洋
産経新聞出版局 「週刊サンケイ 1972年4月14日号」
三省堂 「別役実の犯罪症候群」 別役実
潮出版社 「連合赤軍 この人間喪失」 読売新聞社会部
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
社会批評社 「検証内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓」 いいだもも他 
ジャパンミックス 「猟奇殺人のカタログ50」 CIDOプロ・編
集英社 「連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ」 田原総一郎
主婦と生活社 「悪女と呼ばれた女たち 阿部定から永田洋子・伊藤素子まで」 小池真理子
小学館 「週刊ポスト 72年3月24日号」
状況出版社 「状況 73年5月号 連合赤軍の軌跡」 状況編集委員会 
祥伝社 「『あさま山荘』籠城 無期懲役囚吉野雅邦ノート」 大泉康雄
新書館 「現代の犯罪」 作田明・福島章編
新書館 「犯罪ハンドブック」 福島章
新人物往来社 「別冊歴史読本 反逆者とテロリストの群像 謎と真相」
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
神泉社 「『赤軍』ドキュメント 戦闘の黙示録」 査証編集委員会編 
神泉社 「新左翼二十年史 叛乱の軌跡」 高沢皓司 高木正幸 蔵田計成
新潮社 「週刊新潮 07年1月4・11日号」
新潮社 「封印されていた文書」 麻生幾 
新潮社 「死刑の理由」 井上薫
新潮社 「連合赤軍少年A」 加藤倫教 
新潮社 「光の雨」 立松和平
新潮社 「スクープ音声が伝えた戦後ニッポン」 文化放送報道部・編 
新潮社 「日本の大量殺人総覧」 村野薫
新風舎 「昭和史の闇<1960−80年代>現場検証 戦後事件ファイル22」 合田一道
星雲社 「連合赤軍『あさま山荘事件』の真実」 北原薫明
青年書館 「戦後殺人事件 謎の真相記」 社会問題研究会
騒人社 「戦中・戦後五十年 忘れ得ぬあの日その時」 朝日新聞東京社会部OB会
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 死刑囚 最後の1時間」
宝島社 「別冊宝島 実録刑務所丸秘通信」
宝島社 「別冊宝島 昭和・平成 日本テロ事件史」
宝島社 「別冊宝島 隣りの殺人者たち」
宝島社 「別冊宝島 日本タブー事件史 誰も触れないあの事件の真相」 
宝島社 「別冊宝島 日本の右翼と左翼」
宝島社 「日本の『未解決事件』100」
宝島社 「別冊宝島 猟奇事件ファイル 【悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書】」 
立花書房 「別冊治安フォーラム 過激派事件簿40年史」
立花書房 「検視官 死体は訴えている」 影山栄造
立花書房 「極左暴力団・右翼101問」 警備研究会 
筑摩書房 「公安警察の手口」 鈴木邦男
創出版 「創 05年9・10月号」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
東京法経学院出版 「戦後女性犯罪史」 玉川しんめい 
東京防犯協会連合会 「事件記者の目」
国書刊行会 「あさま山荘事件 ―審判担当書記官の回想―」 白鳥忠良
徳間書店 「人間臨終図鑑 上巻」 山田風太郎 
図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三
図書出版社 「日本テロリストの系譜 暗殺百年史」 森川哲郎
土曜美術社 「新左翼三十年史」 高木正幸
日本文芸社 「歴史を動かした昭和史の真相200」 保阪正康
日本文芸社 「突破者流 殺しのカルテ」 宮崎学
日本文芸社 「捜査四課元刑事が見た昭和事件史」 渡辺忠
批評社 「戦後ニッポン犯罪史」 礎川全次
扶桑社 「戦後史開封 昭和40年代編」 産経新聞「戦後史開封」取材班・編
二見書房 「衝撃犯罪と未解決事件の謎」 日本テレビ「スーパーテレビ情報最前線」・近藤昭二編著
平凡社 「『犯罪』の同時代史」 松本健一・高崎通浩
文藝春秋 「文藝春秋 2010年10月号」
文藝春秋 「連合赤軍『あさま山荘』事件」 佐々淳行 
防犯信州社 「長野県犯罪実話集 捕物秘話 第8集」
毎日新聞社 「1億人の昭和史 8 日本株式会社の功罪」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」 
毎日新聞社 「20世紀事件史 歴史の現場」 毎日新聞社・編
マルジュ社 「兵士達の闇」 高沢皓司 
ミリオン出版 「死刑囚のすべて」
ミリオン出版 「別冊ナックルズ 昭和三大事件」 
友人社 「一冊で昭和の重要100場面を見る」 友人社編 
読売新聞社 「赤い雪 ドキュメント総括/連合赤軍事件」 角間隆
「証言連合赤軍 1 大菩薩への道」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 
「証言連合赤軍 2 彼らはいかに生きたか」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 
「証言連合赤軍 3 獄中の指導者」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 
「証言連合赤軍 4 毛沢東派の潮流」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 
「証言連合赤軍 5 25年目に跡地を巡る」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 
「証言連合赤軍 6 東大闘争を突き抜けた先に」 連合赤軍事件の全体像を残す会編
「証言連合赤軍 7 革命左派の成立」 連合赤軍事件の全体像を残す会編


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