もともと特に興味のない事件だったんだけど、
今日の読売新聞のコラムを見てたらどうしようもない怒りが湧いてきた。
だから、今日は、例の通り魔殺人鬼さんを擁護します。
当然、人によっては胸糞悪い文章です。
(ところで前回の糞記事についたコメントの応酬は全員に読んで欲しい)
(糞ニートの糞ブログの糞記事を読むスタンス、というのが
あまり分かってない人が結構いるらしいので)
とにかく自分としては、
死刑覚悟で殺人を犯す人の行動原理を、否定しようがない。
その人の行動を物理的にも止めようがないし、
その人の価値観を否定することも出来ない。
「死刑覚悟で犯罪を犯す」
これは完全無欠だ。
この事件に対して
読売新聞のコラムでは、
「普通の犯罪ならば備えの盲点を検証し再犯防止を誓う事ができるが
怒り悲しむしか出来ない犯罪である」
~みたいなことを書いてあるのだ。
馬鹿なのか?
この事件は、犯人さんが言っていることをちょっと聞くだけで
ある程度は分かった気になれるぞ。
「自殺しようとしたが死に切れず、人を殺せば死刑になると思ってやった」
「家も仕事もなく、通帳にも20万円だけで、生きていくにはどうしたら良いのかと思い、自殺しようと考えた」
この2つだけでも、大体分かるではないか。
これだけで、
「犯罪者が出所した後のフォローがキチンと出来てないから起きた事件である」
くらいの認識が出来ても良いではないか。
出所後の人間の生活の保証をシッカリすればよい、というのが
見えてくるだけの事件だ。
(それだけの事件だから、大して興味がなかったのだ)
(それなのに、あんまりに酷いコラムを読んだから・・・)
(「そう簡単には出来ねーよ」、というのなら、こういう事件は起きうるモノとして、受け入れるべきだ)
それなのに、「再犯防止が出来ない」とはどういうことか。
「悲しむしか出来ない」とは、どういうことか。
嘆くだけなら、猿にも出来る。
そうでなくても、自分は
自爆型の犯罪というのは
犯罪者個人を叩いても仕方がない問題だと思っている。
目的と行動が一致しているのだ。
本人の中に、何の矛盾もない。
「人を殺したくなかったのに殺してしまいました」
「死刑になりたくないのに殺してしまいました」
「殺したけどやっぱり死刑は嫌です、許してください」
・・・みたいな事を言っている馬鹿犯罪者とは圧倒的に違う。
そういう、「目的と行動がずれている犯罪者」とは、違うのだ。
「死刑になりたいから、人を殺し、やはり死刑を望んでいる」
完璧ではないか。
この人の中で何の矛盾もないし、何の落ち度もない。
そして、この人はこの人の中のプランを完遂したのだ。
成功した人に、後から何を言っても仕方がない。
「死にたいなら一人で死ね」とか、
「人に迷惑をかけるな」とか、そういう犯罪者叩きは、本当にズレてる。
とにかく
「目的と行動が一致している人」の為す行為を
止めることは出来ないし、後から叩くことは出来ない。
それでも、
本当にこういう自爆型の殺人事件を減らしたいと思っているのなら、
「犯人叩き」以前にやることがある。
犯罪者にとっての「前提を覆す」ことだ。
出所後の人間が死にたくならないような社会を目指せば良い。
自爆型の犯罪者が生まれないような社会を目指せば良い。
もしくは、自殺幇助施設を作る
そんな努力は出来ないというのなら、
この程度の犯罪は、「人間がある程度集まって生きているのなら
当然発生してしかるべき現象」として、受け入れるべきだ。
嫌なら、前提を覆す、
出来ないなら、受けいれる。
2つに1つだ。
人間にとって犯罪を起こすのが当たり前の環境でありながら
そこで発生した犯罪者を叩くだけのメディアに、何の価値がある?
犯人叩きをしたって、犯罪者が減るわけがない。
大体、なんで自分が自爆型の犯罪者を擁護するのかというと、
自殺者と殆ど同じだからだ。
自殺者は、将来に絶望して、自分を殺す。
自爆型の犯罪者は、将来に絶望して、人を殺して、死刑を望む。
人生に絶望した結果、
自分を殺すか、他人を殺すか、の差だ。
この人だって、ギリギリまで自殺をしたかったけど、
どうしても出来なかったから、通り魔になっただけの話だ。
だからその差は、本当にギリギリのところにあると思う。
人が自殺した時に
「死んでんじゃねーよ」
「死ぬ気になればなんでも出来たのに」とかの精神論を言う人は、
そういう人がギリギリのラインで犯罪者にならなかったとは考えられないのだろうか。
逆に、そういう人に限って
こういう自爆型の犯罪者を見たら
「人に迷惑をかけるんじゃねーよ」
「死にたいなら一人で死ねよ」とかの精神論を言ってそうだ。
一体どっちに転べばよかったというのだ。
自殺者も、自爆型の犯罪者も、本当に紙一重の境界にいるのだ。
(だからこそ、出来れば自殺者の方を評価してあげれば良い)
(「死にたくなるな?」 それは一番ありえない)
とにかく
自殺者だろうが自爆型の犯罪者だろうが、
人がこれだけ生きていれば当然起きるべきモノとして捉えるべきだ。
それでもそれを減らしたいのなら、環境と前提を変える努力をするべきだし、
それが無理だとわかっているのなら、やはり全てを諦めるべきだ。
この事件に関して、
遺族の人が面白いことをコメントしている。
「交通事故なら諦めがつくのに、こんな事で殺されるなんて・・・」
などと言っているのだ。
本当に、交通事故と通り魔の間には大いなる違いがあるのか?
むしろ自分にとっては、
この程度の事件も、事故とか災害の一種レベルで受け入れるべきに思える。
自爆型犯罪者が持っているあの突き抜けてる感覚は、
逆に無自己で、一種の自然災害のような印象すら受けるのだ。
今の日本は、一応安全ということになっているかもしれないけど、
やはり本当は
誰もが一定の確率で、交通事故で死ぬリスクを背負いながら生きていると思うのだ。
さらに交通事故に限らず、ありとあらゆる災害、人災、病気・・・
日々、何にぶつかって死んでもおかしくない中で生きている。
そして、その中に
「ある日突然通り魔に刺されて死ぬ」というリスクを、入れてあげてもいいんじゃないかと思う。
「犬に噛まれたと思って忘れろ」
これね。
・・・やっぱ糞記事だわコレ。
でも、犯人叩きを見ると無性に腹が立って、こんな文章を書いてしまうのだ。
何故だろう。
やはり自分が犯罪者側の視点でしか事件を見られないからだろうか。
①何もしない
②死刑を廃止する
③無痛安楽死施設をつくる
④自爆犯罪者を生まないような、生きやすい社会に変える
下に行くほど経済的・あるいは倫理的に高コストなので、実現されがたい
②の方向に議論が進む気配もないですね
結局、後にも先にも、行われるのは①でしかない
①は経済的にも倫理的にも超低コストです
金はかからないし、年間で数人、せいぜい数十人が殺し・殺されるだけで済む
死刑制度をなくしたり、年間三万人以上を公的に安楽死処理するよりも
はるかに安価で現実的な対応です
なので、読売のコラムの「怒り悲しむしか出来ない」というのは、
ある意味で的を得ている表現かもしれませんね
「怒り悲しむしかする気がない」とか、「怒り悲しむのが一番安上がり」の方が、
より正確な気もしますけど
要は、自爆型犯罪者は死刑にしつつ、被害者には黙祷を捧げつつ、
そのような犯罪が起こらないような応急的措置も根本的措置も高コストだからやらない、という
経済的合理性の表現としての「怒り悲しむしか出来ない」なのでしょう
「キチガイの犯行」だとレッテルを貼っておけば、福祉的改善の必要はありませんから
犯人叩きをメディアが吹き上げることに意味があるとしたら、
社会にたまった不満のはけ口として、だと思います
吐きださせることで感情を慰撫して、高コストな措置は先送りにできる
被害者視点も加害者視点も取りにくい自分には、おおよそこんな風に映りました
でも、もし、こーいうことを実名で言ったりしたら、きっと死ぬほど叩かれるんだろうなぁ・・・