渋沢敬三(1896-1963)が書いた文章に、「井の頭学校生徒手記 二、三」というのがあります。『竜門雑誌』第498号(1930年3月号)に「井の頭学校生徒手記二三」として発表され、最終的に『渋沢敬三著作集』第1巻(平凡社, 1992)にまとめられたものですが、最初のパラグラフで、イギリス近代の作曲家レイフ・ヴォーン=ウィリアムス(Ralph Vaughan Williams, 1872-1958)の「ロンドン交響曲 A London Symphony」(1914年作曲)に言及しており、興味をそそられます。
井の頭学校生徒手記二三
ドリアン・グレーの初めの部分に、蒸し蒸しする夏の日の午後高台にある宏壮な邸宅の窓を開け、ロンドンそのものゝ名状すべからざると云はふか唸りと云はふか、この大都会のありとあらゆる喧騒が合して一つになつた音が聞こえて来るのに聞き入る一節がある。正しく大都会の声である。大都会にあらざれば生じ得ぬ又聞き得ぬ音である。ヴォーン・ウイリアムスもロンドン・シンフォニーで此の大都会の音を音楽的に取扱つた。田舎の人は都会に出て来ると此の音に幻惑されて陶酔する。都会の人は此の喧しさを嫌つて一日でもと静寂な郊外に歩を運ぶ。處が、都会に生れ都会に育つた者にとつては此の大都会の音は如何に嫌つても如何に逃れんとしても尚且つ忘るゝ能はざるものである。大都会の音は都会人の心の奥に一種の執着を植えつけて居る。其の音を懐しくも、嬉しくも思はないのに拘らず、全然之を欠如した時は、却つて淋しさに耐へ難い程に強い魅力がある。
―― 『竜門雑誌』第498号(竜門社, 1930.03) p.67より
冒頭の「ドリアン・グレー」というのはオスカー・ワイルド著『ドリアン・グレーの肖像 The Picture of Dorian Gray』のことで、敬三の「祭魚洞文庫」(現在は流通経済大学図書館所蔵)には原書(Paris: Charles Currington, 1908)で収められています。第1章の冒頭部分を福田恆存の訳で引用してみましょう。
[前略] 時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が泛んでくる。刈られぬままに長く伸びた草の合間を飛びぬけ、すいかずらの埃にまみれた金箔の距の周囲を単調な執念深さで巡る蜂の鈍い唸りは、あたりの静かさをいっそう重苦しく感じさせ、かすかに響くロンドン市街の騒音は、遠くのオルガンから聞こえる最低音をおもわせた。
―― オスカー・ワイルド著、福田恆存訳『ドリアン・グレイの肖像』(新潮社, 1967改版) p.9より
敬三が前掲の文章を発表したのは、日本の洋楽がまだ発展段階にあった1930(昭和5)年です。彼は東京帝国大学を卒業した後、1922(大正11)年から1925(大正14)年にかけて仕事でロンドンに滞在しており、ヴォーン=ウィリアムスの「ロンドン交響曲」を聴いたとするならばその時か、もしくは1925年に録音されたSPレコードによって、ということになるでしょう。作曲者は1920年のプログラムで、「ロンドン交響曲」を絶対音楽として聞こえるように作曲したつもりであり、「ロンドンっ子による交響曲」というのがより適切なタイトルだったかもしれないと述べているようですが、その一方で、指揮者アルバート・コーツによる描写的な解釈による楽曲解説も容認したそうです。敬三がコーツの解説を知っていたかどうかはわかりませんが、彼の文章からは、敬三がクラシック音楽だけではなく、外界の音というものに対して極めて明敏な感覚の持ち主であったことがよく伝わってきます。また、戦前期に同時代の日本人が言及したイギリス音楽の記録として貴重であることも、間違いのないところかと思われます。
さて、渋沢敬三記念事業実行委員会では、2012年9月に公式サイト「渋沢敬三アーカイブ」*) を開設し、今年の6月からは、デジタル化した『渋沢敬三著作集』全5巻(平凡社, 1992-1993)等の公開を順次進めています。デジタル版『渋沢敬三著作集』の閲覧には、国立情報学研究所のご協力により、同研究で開発された先進的な電子読書支援システムが使われています。このシステムによって敬三の書いた文章は解析され、インターネット上の別の情報と結びついたり、統計的な処理によって詳細な索引が作られることで、様々なトピックが顕在化するようになりました。経済人、文化人、そして幅広く深い教養を持った国際人の視点から書かれた敬三の文章は、その内容が豊かで洞察力に富んでいるだけに、貴重な情報が大量に眠っている可能性があります。私たちはデジタル版『渋沢敬三著作集』を通じて、どんな小さな事柄であれ、それを必要とする人々に敬三の文章が届くことを願ってやみません。
なお、デジタル版『渋沢敬三著作集』の公開にあたっては、著作権者(著作権継承者)の皆様からデジタル化およびインターネット公開のご承諾を賜りました。また、出版社である株式会社平凡社様からは格別のご理解、ご協力を頂きました。渋沢敬三記念事業実行委員会に代わりまして、ここに厚く御礼申し上げます。
*) 渋沢敬三アーカイブ - 生涯、著作、資料 - 渋沢敬三記念事業 公式サイト http://shibusawakeizo.jp/
(実業史研究情報センター 専門司書 茂原 暢)
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