68年後の証言:奈良の戦争体験/15止 1945年8月15日 終戦に悲喜、風化に危機 /奈良
毎日新聞 2013年08月15日 地方版
15日は68回目の終戦の日。1945年8月15日正午からの「玉音放送」で、日本の敗戦が国民に伝えられた。県内で空襲被害に遭った人たちは、その日をどんな心境で迎えたのか。戦争体験の風化が進み、「平和」がきしみ始めたいま、何を思うのか−−。体験者に改めて聞いた。【宮本翔平】
45年当時住んでいた家に焼夷(しょうい)弾が落ちた濱田三重子さん(82)=奈良市=は、終戦の日は現在の三郷町にある母の実家に移っていた。「もう空襲におびえなくて済む」と喜んだ。
68年を経て、戦争を直接体験した人が少なくなり、危機感を募らせる。「世の中も大きく変わり、戦争を体験した人の発言が減った。外交問題で強硬な意見も目立ち、戦争に対する考え方が変わっている気がする」
戦時中、天皇の神格化への疑問を口にすると、両親から発言を慎むようたしなめられた。「空襲で家が焼けたのもかなわないけど、言いたいことも自由に言えない社会が許せない。憲法の定める戦争放棄や基本的人権はいつまでも守るべき」との思いを強める。
45年6月15日の空襲で地区の大半が焼けた田原本町満田。当時3歳だった川本益弘さん(71)に終戦の記憶はない。小学校長などを勤め、満田の空襲を体験した最後の世代として子供たちに伝えてきたが、その機会もほとんどなくなった。自宅の石垣や離れの屋根は空襲で燃え残った資材が使われ、赤茶けた石や瓦がある。同様の家は以前は多かったが、改築が進んだ。「時間がたてば、満田で空襲を体験した人はいなくなる。そのとき、誰も空襲について話さなくなるのは寂しいことや」と思う。
終戦前日の8月14日に自宅の専明寺が空襲を受けた大和高田市の脇屋昇超さん(77)は、寺で放送を聞いた記憶がある。敗戦は悲しかったが、それよりも食糧難が忘れられない。45年初夏、学校で収穫した小麦を使った餅が全校児童に振る舞われた。その時、米軍機が飛来し、教員の指示で机の下に隠れた。窓越しに米軍機を見ながら、手にした餅をほおばった。その頃はいつも空腹だった。味付けなどは覚えていないが、脇屋さんは「おいしかった」と記憶する。
「今は正月みたいな料理が毎日、食べられる。平和も満足な食料も当たり前になり、幸せを幸せと感じられなくなっているのでは」と語った。=おわり
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