記者の目:奈良の空襲通じ平和問う=宮本翔平(奈良支局)
毎日新聞 2013年08月29日 00時33分
◇「不条理」に耳傾けたい
神社仏閣などが多く残る奈良県で68年前、米軍機による空襲被害が十数回もあった。あまり知られていない事実だが、「平和」を改めて問い直そうと、体験者を訪ねて証言や記録を紹介する「68年後の証言 奈良の戦争体験」(全15回、毎日jpに掲載 http://mainichi.jp/area/nara/syougen/)を6月〜今月、毎日新聞奈良版で連載した。終戦間際の2カ月余りに、周辺に軍関連施設もない場所が攻撃されて多数が死傷し、体験した人たちは今も戦争への憤りや知人らを失った苦悩を抱えていた。「なぜこの場所が襲われたのか」「なぜ死ななければならなかったのか」。考えるほどに、戦争の不条理が浮かび上がってくる。
市町村史や民間団体の調査などを総合すると、奈良県内で最初の空襲被害は、1945年6月1日にあった。終戦前日の8月14日まで、県内各地で焼夷(しょうい)弾の投下や機銃掃射などが繰り返された。軍の飛行場や関連工場など、攻撃目標として明白な施設もあるが、多くはそうではない。寺や学校も被害に遭っていた。
連載は、68年前に空襲があったのと同じ日に、記事を掲載した。戦争体験者が徐々に少なくなり、風化が言われる中、日付を歴史に刻む意義は大きいと思うし、記事中に現在の情景や心境を盛り込むことで、68年という時の長さを意識しようと考えたからだ。
◇今も枯れぬ涙「戦争知って」
45年6月1日の空襲は奈良市の住宅街だった。東大寺の大仏殿から西約2キロに焼夷弾が落とされ、7歳だった平西良子さんが亡くなった。搬送先の病院でみとった親族の辻井京子さん(87)=同市=は「可哀そうに熱かったやろな。可哀そうに……」と目に涙を浮かべた。長い歳月にも心の傷は癒えず、「戦争のことを知ってほしい」と絞り出すように語ってくれた。
その2週間後の45年6月15日、県北部と中部をつなぐ幹線道路沿いの田原本町満田(まんだ)地区は、焼夷弾や機銃掃射で集落の半数程度が焼かれ、子供を含む4人が亡くなった。周囲は今も昔も田園風景が広がる。住民らは「農作業の機械が米軍のレーダーに反応したのか」などと推測するのが精いっぱいだ。
「娘を助けて」。自宅の和室に落ちた焼夷弾を消火したという藤本孝志さん(80)=同町=は、近所の女性が叫んでいたのが忘れられない。焼け落ちた家の跡で女性の家族は、娘の遺体を捜していた。藤本さんは「事故に遭ったと思うしかないんやろか。人を殺すのが当たり前になるのが戦争なんや」と言った。