神殿寓話 第五章


掲載サイト:ESSENTIAL  作者:ねざ

第五章 討つ


 十隊の詰め所。僕はいつもの机に水晶を乗せ、それに両手をかざしている。
 採光用の切り掻き窓から洩れる生まれたての太陽の腕が舞う埃を金色に浮かび上がらせ、ついでに優しく僕の頬を撫でる。ちょうど彼女なら、眉間から顎にかけての傷があるあたりを。どこからともなく漂ってきた朝霧が狭い部屋にたゆたっていたが、それももう消えようとしている。
 僕は瞳を閉じ、両手を流れる意識――あえて言えば、『気』のようなもの――の動きに意識を集中した。十本の指を通り、腕から体全体を駆け巡る。肩を抜け、へそを通り、両足から腰を通ってまた腕へ。めくるめく流れる魔力を反発しあわないよう、たがいに強めあうよう流れをひとつにしてやる。それはまた撚りあわさりひとつの束となって手のひらに戻り、十本の指を嬉しそうに駆け巡る。魔力が空間に干渉していくとき誰もが感じる、あの肌の裏側を撫で回されるような感触が手から順に伝播していく。
 いまだっ……!
「よぉ、何やってんの?」
 僕はあまりにビックリして魔力を手放した。方向を持たず開放されたエネルギーが、てんでバラバラに霧散していく。
「あぁー……っ」
「ん? どうした?」ライズと、
「ティガが魔法の練習なんて珍しいんだな」ランライドだ。
「おっと、こりゃ失敬。ノゾキの邪魔でもしちまったかな?」
「あんまりいい謝り方じゃないんだな」
 ……こいつら……
 僕は肩でため息をついた。まぁ今に始まったことではない。こんなことでイチイチ目くじら立ててたら、彼らとは付き合えない。
「……もういい」僕は手をひらひら振って、机に乗っていた水晶球を懐にしまった。
「ったく、せーが出るねぇ……よぅ、それでお前、アレはもういいのか?」
「ああ。おかげさまで、どうにか」
「……ったく、なんか調子狂うよな。ティガが『僕』ぅ、なんて……」
 僕の記憶は整合されたけど、他の同僚は依然として記憶改ざんを受けたままだ。ティガの人格を『俺』だと未だに思っているヤツも、そう少なくない。
「最初は悪い冗談かと思ったんだな」
「まぁ、いいんじゃねぇの?こういうティガもさ。可愛らしくってよ」ライズは僕の頭をぐしぐし撫で回した「ほーれ、ヨシヨシ」
「ったあ、やめろよっ」僕は両手を振り回した。「くすぐったいっ!」
「なんかお腹へったんだな」
 しつこくいじろうとするライズの手をかわしながら、僕はなんだかよくわからない嬉しさで胸がいっぱいだった。
 これだよな、やっぱり。例え僕が人格がヘンになろうと凶暴になろうと、以前と変わらず接してくれる。どんなに僕が狂おうと、そのままの態度で側にいてくれる。友人って、やっぱり、そういうモンなんじゃないかな?
「おはようございまーっす!今日はまた早いねみんな、ティガさん」
 窓から顔を出した声に振り返れば、ハルベルトだ。まだくしゃくしゃの金髪を眠そうに撫で付けている。
「あー、おはよう。僕らも今来たトコなんだ」
「おーっ、ついに元に戻ったんだね、ティガさん!」ハルベルトは嬉しそうに歩いてきた。「いやー、やっぱりこっちのほうがシックリ来るなぁー」
「そーかぁぁぁ?」ライズは眉を寄せる。
「ま、そういうモンだよ」
 僕は曖昧に笑った。本当のところ、まだ彼らに記憶の改ざんのことは……レジェドリア大司教の力のことは、言ってない。もし言えば、ひょっとすると彼らにも危害が及ぶかもしれないからだ。レジェドリアがどんな理由で僕を狙ったかは分からないけれど、知ることそのもの、近づくことそのものに危険を伴う真実というのも、確かにあるんだと僕はこの一件で痛感した。
 そんなわけで十隊のみんなは、ただ僕が急に喋り方を変えたんだと思ってる。そんな僕の振る舞いに戸惑いを覚えつつも、あえて正面から問いただそうとは誰もしてこない。
 そんなやつらばっかりだから、ここは居心地がいいんだ。
「あぁ、そうだ、忘れるとこだった」ハルベルトが振り返って僕を指差した。「ティガさん、お客様だよ。表で待ってる。なんだか気味の悪いヤツだったけど……どうする?」
 僕は眉をひそめ、わずかに逡巡したが、すぐに頷いた。「分かった、いま行くよ。ありがとう」
彼女じゃ、なさそうだ。ひょっとしたらまた、大司教かもしれない。僕はゴクリと喉を鳴らした。
 でも、違うかもしれない。可能性からして、それはあんまりないんじゃないか、とも思う。再び僕の元に来る理由がないし、そもそもハルベルトが知らないらしい顔だ。レジェドリア大司教ってことは、ちょっと考えにくい。
 でも、他の誰かを使いにしただけで、大司教自身はそこらの影で身を潜めてるんじゃ……
ええい、やめだ。こういうことを考えるのは得意じゃない。どっちにしても、僕は立ち向かうと決めたんだ。運命から。
 僕は大股に、できるだけ堂々と歩いて、ドアのノブを回した。
 それから……


 
 それから……







 それから……
 
 
 
 
 
 
 キィと蝶番が乾いた音を立てて、ドアは開いた。
 ふぅ。別段変わったところはない。僕の手も、記憶も、ハッキリしてる。
 なんだよ、驚かせやがって。
 僕は高く低く主張を始めた心臓を抑えようと深呼吸をして、朝の空気を吸い込んだ。冷たい空気が僕の肺を満たし、清浄さと冷静さで潤してくれる。
 さて、お客様ってのは、誰かな?
「第二大隊直属、第十小隊のティガさんとお見受けいたしやすが、いかが」
 いきなり背後から声をかけられて、僕はもうすこしで無様に叫んでしまうところだった。
 振り返ると、黒い塊がじっと立っている。背の高さはせいぜい僕の肩ほど。全身を灰色のマントで覆っている。顔も、同じ灰のようなフードを目深に被っているものだから、どうにか見て取れるのはその引き結んだ口ばかり。どう見てもカタギの人間とは思えない。
「あ、ああ。そうだけど、何か」
「剣の乙女より、言伝を預かっております」と、その灰色は言った。「『日が大地に還るとき、そなたらふたりを砂浜で待つ』……そう仰っておりやした」
「砂浜……」
 剣の乙女と呼ばれるようなひとを、またそんな謎めいた伝言を残すようなひとを、僕はただ一人しか知らなかった。
「では、確かにお伝えいたしやした。あっしは、これで」
 そう言い残すと、灰色の何でも屋は宿舎の暗がりに消えていった。去るときもカサリとも音を立てない。
 僕は彼の伝言とやらを反芻した。日が大地に還るとき……夕暮れだ。おそらく、彼女は、あそこにいる。


 夕暮れまではいくぶん時間があったから、僕はすこし寄り道をして時間を潰すことにした。
 ハルベルトたちに「今日はちょっと休む」と言い残すと、教えられたある地区へと足を向けた。
 ……僕はあの事件以来、目立たないように、でも前にも増して熱心に、レジェドリア大司教の周辺を聞き込んで回っていた。危険だし、これ以上首を突っ込むとこの前どころじゃ済まなくなってきそうだったけれど……逃げてしまうことは、隠れてしまうことは、僕の中の『俺』が許さなかった。やっぱり僕は、あの一件以来、少しづつ変わろうとしているのだろうか。
 それで、そうやってイロイロなひとに聞いてみて分かったんだけど、普段ならなんとなく聞き逃してしまいそうなものでも、そういう目をして――怪しいぞと思って見てみれば、彼の周囲の証言には話すことが明らかに筋通ってない、どう考えてもおかしいものばかりだった。記憶があやふやというか、話す人ごとに彼についての辻褄が合ってないものばかり。中には、同じ人が全く違う記憶を持っていたりして(『貴族出身』と『平民の出』というのをどっちも信じている人とか)、僕はうすら寒くなった。
 さまざまなひとのさまざまな話をかみ合わせ解きほぐして並べてみると、人々の話が……記憶が一致し始めるのは、おおよそ三年ほど前。レジェドリア大司教が今の地位に至る、そのほんのすこし前からだ。そこから後は不思議なくらい話が一致している。
 つまり、それ以前の記憶は作られたものだ、ということになる。
 それぞれが真実だと思っていることを、いかにも見知った風に話す人々の話に耳を傾けるうち、僕はだんだん怖くなった。中にはまるで自分が偉いかのようにレジェドリア大司教の偉業を並べ立て、僕がもういいですと止めるのも聞かず延々とまくしたててくれるご老人なんかもいた。
 その中に、ひとつ、僕の耳がピクリと動く話があった。
(そういえば、レジェドリアさまに歯向かって郊外の屋敷に閉じ込められた貴族の家があったのぉ。いつごろじゃったか……それほど前ではなかったわい。なんでも大司教が大詐欺師じゃとかなんとか言って、真っ向から名指しで非難しておった女じゃったんじゃが……おう、そうそう、その幽閉された貴族というのが貴婦人での。なんとも可哀想なことじゃが……まあ、大司教さまに歯向かったらどうなるか、思い知らされた一件じゃったわい。ふしゃ、ふしゃ)
 レジェドリアがその気になれば、幽閉なんてまわりくどいことをしなくても、もっと他に手があったはずだ。それをしなかったということは……したとしても、軟禁してまで遠ざけたかった人物だったとしたら……それだけで、会ってみる価値のある人物ではありそうだった。
 もちろん、話をしてくれたそのご老人の記憶が作られたものでないという保障は、どこにもないのだけれど。
 僕はG地区への道を外れ、教えられた屋敷へと向かった。橋を越え畦道を横切って進むうち、古ぼけた大きな屋敷が見えてくる。
 それは自然の中にポツリと立てられた、いかにも外れの屋敷、といった感じだった。塀は黒ずみひび割れていて、壁という壁には蔓草が縦横無尽に絡まっているけれど、広さだけは相当ありそうだ。
 家を見上げる門の前まで来ると、それまで朽ちた置物としか思えなかった、錆びた苔色の鎧がガシャガシャ動いてきて、僕の前を遮った。
「お止まりください」と、その男は言った。声はかすれて低く、ともすると聞き逃してしまいそうになる。「レディー・ノルディナはどなたともお会いになられません。お引取りを」
「ちょ、ちょっと待ってください」長槍でつき返されそうになるのを慌てて手で制して、僕は言った。「別にそんな大したことをしに来たワケじゃありません。ただお話をと思って」
「レディー・ノルディナはどなたともお会いになられません。お引取りを」
「だ、だからちょっと話を聞くだけだってば」
 番兵はうつむいたまま、錆の浮いた槍で押し返してくる。
「レディー・ノルディナはどなたともお会いになられません。お引取りを」
「だから、別に怪しいモンじゃ……」
「レディー・ノルディナはどなたともお会い」
「通してやりな」
 屋敷の奥から突然声がして、僕も番兵もギョッとした。思わず顔を見合す。
「たまの客だ。いいじゃないか」
「し、しかし……」
 苔色の番兵は口の中でもごもご呟いた。
「そいつは大丈夫だ。あたしには分かる」
「は、はっ」
 なんだかまだよく分からない僕をヨソにその番兵はひとつ大きく敬礼をすると、ススッと横にずれて道をあけた。
「どうぞ。レディー・ノルディナはどなたとも……いえ、いちばん奥の部屋です」
「……どうも」
 釈然としないが、どうも通してもらえるらしい。
 外から見た景色もなかなか古かったが、中に入ってみるとそこはもう古色蒼然としか言いよう がないアリサマだった。やけに大きいのに埃を被ったまま脇にどけられてある楯、色あせてもとの夕焼けからほど遠い色合いになってしまった絵。廊下を通るたびに、高価ではあるのだがどう考えても手入れ不足、注意不足の代物ばかりだった。
 召使いや掃除をするひとはいないんだろうか。
 やがて僕は廊下のつきあたりで立ち止まった。両開きの戸の内側から「おはいり」という声がかかった。
 扉を開けて、僕はちょっとギョッとしてしまった。そこに鎮座しておわしたのは、朽ちた老木そっくりの老女だったからだ。
「おどろいたかい。こんな大年寄りで」
 おばあさんは皺だらけの顔をすこし笑わせた。
「あなたがレディー・ノルディナ?」
「ああ、そうさ。まだ『レディー』なんて冠詞がまだ許されるとしたら、だけどね」
 老貴婦人は顎で椅子を指した。僕は一礼してから、床に腰を下ろす。
「ここに来てからもう3年になる。これだけ古臭いところにいれば、そりゃあ老いもするさ」
「ここにお越しになられた節には……」
「ああ、そんなしみったれた言い方はよしとくれ。もうあたしは貴婦人でもなんでもないんだ」
「じゃあ、噂は本当なのですか?」
 レディー・ノルディナはそれには答えず、くすんだ瞳でじっと僕を見つめた。まるで僕の心の底を覗き、やましいところがないかどうか隅々まで見回されているような感じした。
 視線をそらせば負け、それで終わりのような気がしたから、僕は真剣な目で、それを見返した。隠すことなんて、なにもない。
 どれくらいの間、そうやって睨みあっていただろう。
「これはまた、面白い客が来たものだ」レディー・ノルディナが口を開いた。「アンタもなかなか、奴に苦しめられてきたみたいだね」
これには驚いた。「分かるんですか?」
「あたしのところに来るなんて酔狂者は、そうそういないよ」
「では……」僕は唇を湿した。下手なことは言えそうもない。「奴というのは、誰のことです?」
「それはアンタが一番よく分かっているだろう」
「……と、いいますと」
 僕は大司教の名前を出したくなるのを、必死でこらえた。彼女が『記憶操作』を受けていないか、確かめる必要がある。
「……奴に会ったのは、ここに来るほんの少し前だ」
 遠くを見るような目で、貴婦人はポツリポツリと語りはじめた。
「奴はなにもないところから突然、風のように現れて、みるみるうちに貴族たちを席巻していった。飛ぶ鳥を落とす勢いどころじゃない、気づけばアッという間に、大司教の地位まで上り詰めていった。……だが、それに疑問をさしはさむ者はいなかったよ。みんな、記憶を書き換えられていたからね」
 ……どうやら、彼女で間違いはなさそうだった。
「なら、どうして、あなたは?」
 それに気づいている人間は、いないはずなのに。
「あたしは他の人間とは少し違った。あたしは奴の術から、身を守ることができたんだ。特別な技術や方法じゃない、生まれつき、そういう人間だったのさ」
 ……そんな人間もいるのか。
「だから、こんなところに」
「ああ。奴にとってみれば、自分の思い通りにならない人間がいること自体が我慢ならなかったんだろう。命を取られなかった分、不幸中の幸いではあったけどね」
「あなたが、特別な人間だというのは……それはつまり、どういうことですか?」
「来ると思ったよ。そうだね……口で言うより、実際にやってみたほうが早い」レディー・ノルディナは少し唇を持ち上げて笑うと、言った。「手を出してごらん」
 嫌な質問だった。
「……なぜです?」
「それが一番手っ取り早いからさ」
 僕は自分の手を見つめ、喉を鳴らした。彼女を、本当に信用していいのだろうか?
「心配ない」レディー・ノルディナは笑うばかりだ。「何もしやしないさ」
 僕は自分の手のひらを見、レディー・ノルディナの皺くちゃの顔を見、また自分の腕を見た。
「……はい」
 僕はゆっくり立ち上がると、おそるおそる手を……差し出した。
 骨ばって年老いた手が、その上に重ねられる。僕は反射的に目を閉じた。
「……ライズ、ランライド、ハルベルト……」彼女の口から紡ぎだされる言葉に、僕はギョッとした。「……そして、ライラ」
「!!」
 僕は目を見開き、その手を乱暴に振り払った。自分で自分の手を庇うように抱えると、部屋の隅まで後じさる。
「なっ……何を、した」
「『観た』のさ」彼女は少し悲しそうにかぶりを振った。「ちょっと覗いただけ。何もしちゃいない」
 観た……?
「どういうことだ」
「どうもこうもないよ。ただ、アンタの記憶をちょっと見させてもらっただけさ」
「観る……それが、あなたの力?」
「そうさ。そして、これこそが奴を拒んだ『力』……奴ほど強くはないが、あたしの中に確かにある、不思議な力」
 僕は混乱していた。彼女もまた、力を持つもの……?
「奴が記憶を書き換えようとすると、あたしの力が反発するんだ」すこしうつむいて、レディー・ノルディナは言った。「書き換えられる端から、奴から逆流する記憶が正しく再構成される、とも言っていいかもしれないね」
「じゃあ、奴が『記憶喰い』を使っても」
「ああ。直後に、元の記憶が流れ込んでくるんだ」
「それは」どんなにか、「辛いでしょうね」
「辛い」レディー・ノルディナは自嘲気味に笑った。「辛いよ。そのたびに身が引き裂かれそうになる。だが……アンタも、そうとう辛い喰われかたをしたみたいだね」
「……観たんですね」
「ああ」
「僕は、もう平気です。……それよりも、聞かせてくれませんか。レジェドリア大司教のこと。その力があるのなら、いろいろと知っているんでしょう?」
「……長くなるよ」
 そう言って、彼女は語り始めた。
 ――レジェドリア大司教と、奴自身は名乗っているが、本当の名前は誰にも分からない。奴が人間であるのか……魑魅魍魎の類でないのか、誰も確信のできるものはいない。ただ、あたしや奴のような、魔法とはまた違う不思議な力を持った人間は、思ったよりも多くいるらしい。特にジェスクウにはね。
 奴は、青の地区のあたりに群がる、ちっぽけな乞食に過ぎなかった。なんの力も持たない、なんの権力もない……それがいつ、あんな力を身につけたのか、あたしにも読めなかった。生まれつきなのか、そうでないのか……分からなかったんだ。ひょっとしたら奴自身、知らないのかもしれない。
 奴ははじめ、その能力を使おうとはしなかった。少なくとも、『読み取る』以外のことは、しようとはしなかった。自分でもコントロールができなかったのか……おそらく、使うのが怖かったんだろう。無理もないと、それは思う。
 だがある日、ゴミ屑の掃き溜めのような奴の住処に、青の貴婦人が通りかかった。あ、あたしのことじゃないよ、念のため。どこかへ行く途中だったんだろうが、お付きの人間は何人かいた。通りがかりに奴を横目で見た貴婦人は――たいていの貴族がそうするように――汚らしいものを、汚らわしいゴミを見るような目つきで、奴を見た。自分の力に恐れ神経をやられていたその男は、視線に逆上して貴婦人に襲いかかろうとした。たいていの男が考えそうなことを考えながらね。お付きの兵が驚いてそれを止めた。奴の指先が、ほんのすこし貴婦人の足に触れた。
……あまりこのへんは詳しく言いたくないから、端折って言うよ。その晩、その貴婦人は処女を散らした。自ら望んで、奴に犯されてね。
それから女は奴の奴隷になった。見るも汚らわしい肉奴隷に。奴が変わったのは、それからじゃないだろうか。少なくとも、それがなにかのきっかけになっているのは、間違いないと思う。
 奴は変わった。もはや恐れることはなくなっていた。自分の力で、自分の望むままの世界が作り出せる。どんな望みも、どんな我が侭も通った。奴の気持ちひとつで戦争を起こすことも簡単、望みのままになった。実際、大きな犠牲者を出したハマーン高地の討伐は奴が引き起こしたようなモンだ。反吐の出そうな話だけどね。
 奴は力を思うまま使った。だが、それがマズかったんだ。次第に、奴は『自分』にまで、その力を使うようになったんだ。
 ――自分に、だって?そんなことができるんですか?
 ああ、もちろんさ。……アンタだって、あるだろう? できれば忘れてしまいたい、なかったことにしたい思い出。後悔しても後悔しきれない、そんなことを引きずるのはもう重荷だと思っている思い出。奴は恐ろしいことに、自分の記憶を喰らったんだよ。それこそが何より、奴の恐れていたことだったのにね。
 次第に奴は、正気を失っていった。自分の記憶が信じられなくなったのさ。信じられなくなって、忘れてしまいたくて、また能力を使って、なぜ忘れているのか分からなくなって……そこからは、坂道を転がり落ちるようなものだった。奴は狂気に魅入られ、狂気へと落ちていった。
 それからの奴の人生は、悪鬼そのものだっただろう。自分がなんのために生きているのか分からず、自分が誰であるのかも分からず、ただ刹那的に訪れる衝動に従うだけの獣。どんな魔獣よりも汚らわしく、恐ろしい。
 ――じゃあ、あの暗殺者の一件は。
 ああ、すこし『観た』だけだけど、だいたいのことは分かった。奴はさっきも言ったように、青の貴族にいくらか因縁があってね。突発的な衝動で、ウォルスティ家を没落させようとしたんだろう。その暗殺者も、酔っ払いも、獣の哀れな犠牲者なのさ。ときどき、そういうことが絶えなかった。
 アンタの件だってそうさ。奴は哀れな犠牲者ひょいとつまみ上げては、自分と同じ狂気の中に放り込む。それがもがき、溺れて苦しむのを見て、膝を叩いて笑っているのさ。
 ――じゃあ、ライラも?
 ああ。彼女のことはわたしも多少耳に挟んだことがある。奴の命を狙う、美しき女剣士としてね……奴の考えることは、正気の人間には分かりゃしない。おそらく彼女は、ただ記憶を消されただけでなく、そこにほんのわずかな『復讐心』を植え込まれたんだろう。まるで白紙の上に、ポタリと墨を一滴たらすみたいにね。それがじわじわ広がって、やがて全身を支配するように。もはや奴は人間ではない。狂人でもない。夜と恐怖を纏いつかせた、獣のようなものなのさ……
 ひといきに話しきると、レディー・ノルディナは小さく肩を落としてうつむいた。
「……そんなことを、あなたはひとりでしょいこんでいたんですか」
「ああ。誰に話したって、信じてもらえるものじゃない。気が違ったのかと思われるのがオチだからね」
 僕は腕を組んで、さっきから考えていたことを口にした。
「ひょっとして、あなたの力を使えば、記憶を『喰われた』ひとを元に戻すことはできませんか。彼女の消された過去を、観ることはできませんか」
 老貴婦人はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくり首を横に振った。
「無理だよ。あたしがやってみようとしなかったとでも思うかい?」
「…………」
 どう言っていいか分からず、僕は黙り込んだ。
 沈黙が落ちた。
 記憶を喰らう男、レジェドリア。奴は一体、なぜ生まれてきたのだろう。
「もう、あたしは疲れた」
 ポツリと、レディー・ノルディナはつぶやいた。
「奴に狙われ、家を追われてからもう三年……頼るものもなく、真実を話せるものもいない。わたしを信じるものは、みんな奴に殺された。もう、生きている意味もない」
「そんな」僕は彼女に詰め寄った。「そんなことないですよ。あなたがいなければ、僕は真実を知ることができなかった。そんな弱気にならないでください。あなたは悪くないんだから」
「……あたし、いくつに見える?」
 唐突に、彼女が聞いた。
「え、どういうことです?」
「何歳ぐらいに見えるかって聞いてるのさ。正直に答えてごらん」
 彼女の容姿を見る限り、百に手が届いてもおかしくないほどの老齢に見えた。僕は「七十ぐらいですか」と答えた。
「……本当はまだ三十五なんだよ。いろいろあったせいで、こうなっちまったのさ」
 僕は絶句した。
「もう、奴には関わりたくない。ここで静かに一生を終えられれば、あたしはそれでいいのさ」
 それきり貴婦人はうつむいて黙り込んだ。
 何を言っていいか分からず、またどんな慰めの言葉も彼女を苦しめるだけのような気がして、僕は立ち尽くした。しばらく待ってみたが、彼女が口を開きそうな気配はない。
「……すいませんでした」僕はつぶやいた。「失礼します」
 僕は彼女に背中を向け、屋敷を出た。途中で立ち止まると、背後の部屋から押し殺した嗚咽が耳に届いてきた。
 僕は唇を噛んだ。
 ひょっとしたら、最初にレジェドリアの犠牲になったっていう貴婦人はやっぱりレディー・ノルディナそのひとだったんじゃないだろうか、という考えがふと僕の心に浮かんだ。
 僕は耳を塞ぎ心を閉ざし、その声からできるだけ早く離れてしまおうと、早足で屋敷を後にした。


 G区域には見識がないものだから、地図もなしにたどり着くのにはかなり苦労した。いったい何度間違えて角を曲がったやら。
 だけどとにかく無事に例の砂浜にたどり着いてみると、あの時来たときは丑三つ時だったから気づかなかったが、そこは意外と人通りが多かった。仕事を終えて家路に着くひと、これから始まる夜に仕事を求めるひと。砂浜には恋人たちが人目をはばかるように所々、肩を寄せ合わせている。
 時間帯が違うこともあるけど、ついこの前来たばっかりだというのにずいぶん雰囲気が違って見えて、僕は驚いた。人間、その時の気持ちひとつで見えるものはどんな風にも変わるもんなんだな。
 そんなひとたちの中に、肌という肌を真っ黒なマントで隠したひとが一人、座り込んで川を眺めていた。僕はすぐそれを見つけることができた。遠くから見ると、それはただのうち捨てられた頭陀袋にしか見えなかった。でも、僕が近づくとその頭陀袋は低く、素早く囁いた。
「尾けられてないか」
「大丈夫だよ」
 僕はそう言って、その傍に腰を下ろした。でも、お互い目を合わせようとはしない。何か言い出そうともしなかった。
 先に口を開いたのは彼女だった。
「奴から招待状が届いた。今夜、聖地で待つ、とな」
「聖地アヴルドラ……! 何のために……それに、よりによってなぜあんなところに」あそこは、誰にも入れないはずだ。
「さてな。だが、奴に侵入できぬ所などあるまい」
「それで、あなたは……」
「……わたしは、これを最後の戦いにしようと思う。明日ですべては終わる。今度こそは奴の首は胴体と分かたれるのだ」
「そんな、でも! どう考えたって罠じゃないか!」
「それでも、わたしは行かねばならぬ」彼女はふとこちらを見ると、フードの奥の瞳をかすかにほころばせた。「わたしは今まで、奴を殺すことをどこかで躊躇っていた。迷っていた。わたしがもっと早くに決断していれば、もしかするとこうなる前に、奴の息の根を止めていられたかもしれないのに」
「そんな」 
「だが、わたしはそうはしなかった。さして深追いもせずに退いたり、いたずらに暗殺予告を出したり……」彼女の声には、いままで聞いたことのない響きがあった。「わたしは、奴を追い詰めたかった。壁際に追い込みたかった。狩られ追い詰められ、なぶり殺される恐怖を味わせたかった。そうすることで、自分の気持ちをどうにかしたかったのだ。……いや、ひょっとしたら、怖かったのかもしれない。奴が、奴の力が。本当の意味で恐れていたのは、わたしのほうだったのかもしれない」
 どうして? あなたは、そんなに強いのに。恐れるものなど、迷うことなど、何もなにもないはずなのに。
「だが、今は違う。ようやく目が醒めたよ。もう二度と、そなたのような人間を出してはならない」
「……ライラ……」
「これで終わりだ。今回ですべてが終わる。これが終われば、ようやくわたしは……」
「…………」
「頼みがある」彼女は僕の目を見、そう言った。「明日もし私が帰らなかったら……いや、今の『わたし』でないものになっていたら……これを」
 彼女が懐から取り出したのは、いつか見た金鎖のブローチだった。くすんだ黄色が、夕焼けを受けてキラキラ輝いている。
 僕は両手を差し出した。彼女はそれを僕の手のひらの上にのせて握らせ、その拳を上から包み込むように握り締めた。ギュッと、何かを確かめるように。
「これは……?」
「形見だ」彼女はつぶやいた。「唯一残った、わたしの過去だ。……開けてみろ」
 指を開くと、そこにあったのはくすんだ金の鎖だった。途中に、穴の開いた鏡がふたつ下がっている。
 僕はそれを目の前に上げてまじまじと眺めてみた。どちらも大きさは親指の爪ほど。ひとつは丸みを帯びた楕円形、もうひとつは歪んだ菱形。楕円の鏡の端に、わずかに突端が突き出ている。僕はそれをそっと押してみた。カチリと乾いた音がして、銀の鏡が開いた。
 その中にあったのは、古ぼけたセピア色の写真。三人の人間が写っている。
 ひとりは目を細め笑う壮年の男。ひとりは首をかしげ貞淑に微笑む婦人。そしてその間にいる、満面の笑みをたたえた、黒髪の少女。
「これは……」
「分からぬ」ライラは言った。「そこに写るのが誰なのか、わたしには分からぬ。それがわたしで、それが両親なのかさえもな。どれだけ眺めても、何の感慨も浮かばぬ。だが……それでも、その写し絵だけが私に残された唯一の『過去』なのだ」
 僕はなんだかよく分からない気持ちに胸を締めつけられた。こういう時、何て言えばいいっていうんだ?
 古ぼけた写し絵にそっと蓋をし、もう一方の菱形のブローチを手に取った。こちらは扉らしきものはなく、蓋のような切り掻きもない。裏も表も細部まで見回したが、どうも開きそうにない。僕はそっと彼女のほうを見たけど、彼女は黙って首を横に振った。きっと彼女も開けられなかったし、無理に開けるつもりもないんだろう。
 大切なものだから壊してしまうのが憚られるのか、それとも真実を知ることを恐れているのか……僕にはそれを、訊ねることは出来なかった。
 代わりに、こう訊ねた。
「でも……そんな大切なものを、どうして僕に……?」
「もし……この戦いが終わったとき、わたしが『わたし』でなくなっていたら」彼女は自分の言葉を、ひとことひとこと確かめるように、噛みしめるように言った。「わたしの代わりに、それを弔ってくれ。そうだな……朝日が見渡せる所がいいな。東の燈台の。あそこの岬の土に、それを埋めてくれ。わたしの……骸のかわりに」
「だっ、ダメだよ、そんなの!」骸という言葉に、僕は思わず叫んでしまった。朝焼けに染まる海を前に、泣きむせびながらブローチを埋める、自分の姿を想像してしまったから。
「頼む」彼女はまぶたを閉じ、首を振った。「そなたの他に、頼れるものはおらぬ」
 ああ、なんてことだ。僕の胸はいっぱいになった。
 彼女は死ぬ気なのだ。明日より先に生きていくつもりなど、これっぽっちも持ってないのだ。自分を奪った仇を道連れにするために。あるいは、その仇の手にかかって自分が自分でなくならないために。
 冗談じゃない。そんなことあってたまるか。そんなこと、決してさせない。
「きみを死なせはしない」僕は瞳に力を込めた。ありったけの、意思の力を込めた。「きみは、僕が守る」
 彼女は僕の瞳に映る答えを探して、じっと僕を見つめた。
「ありがとう」彼女が心の底かの笑顔を返してくれたのは、これがはじめてじゃないだろうか。「嘘でも嬉しいよ。わたしは、誰かに、その言葉を言ってほしかったのかもしれない」
「そんな、そんなこと」
「もう行く。気取られぬうちにな。……さらば」
 呼び止める隙もなかった。彼女は漆黒のマントをひるがえし、足音も立てずに立ち去った。
 彼女が、明日、死ぬ。
 不意に忍び込んだその考えに、僕は自分の肩をかかえ、抱き寄せるように爪を立てた。金鎖のブローチを、痛いほど握り締める。
(ありがとう。嘘でも嬉しいよ)
 嘘じゃない。
 嘘なんかじゃないよ。
 体は冷たかった。けど、心のたぎりはそれよりも熱かった。


 ……聖地アヴルドラは、半径およそ一キロほどの円形をした、シウス教で最も神聖かつ冒すべからざる領域だ。アヴルドラは神代語で《神の降り立つ土地》という意味で、昔むかし神の御子と呼ばれたクリストフ=シウスが、旧ジャザバザール帝国(今ジェスクウがある所にあった大きな国だ)によって処刑されたときに、この土地に神の怒りが降り注いだ場所なのだという。信者たちは聖地にありて神の加護を受け、背信者である皇帝ジャザバザールを倒した、そう伝えられるている。その辺の詳しい説明は金聖書レザーバイブルを参照のこと。
 でもそんなことは僕にとって大した意味はないし、興味もない。どうせ教会が布教のために作り出したプロパガンダに過ぎないのだろうから。僕なんかにしてみればそんなのより『教化』と称して弾圧し異端視され、儚く消えていった少数民族の神話とかのほうがよっぽど気になる。だいたいさ、そんな神聖な土地がジェスクウから徒歩で数時間、フォーファーに乗って飛ばせば半刻とかからない所にあるなんて、ちょっと都合が良すぎやしないか?
 そんな話は今は置いといて。
 僕にとって実際問題、たった今ヒジョーに厄介なのは、聖地アヴルドラはその警備の厳重さから絶対に侵入不可能と言われていることだ。聖地をとりかこむように聳え立つ城壁は《白亜の城壁》と呼ばれ、内側から特殊な固定系魔法を施してあるため、どんな剣も魔法も貫くことはおろか、毫ほども傷つけることが出来ない。東西南北に四つある門は通常硬く閉ざされ、近衛兵クラスの兵(彼らは皆、僕たちのような下っ端とはケタ違いの強さを持っている)が数人、交代で常時見張りをしている。聖地への門が開かれるのは教皇の許可があった時のみだ。そしてその許可を申請できるのも、今ではクァジェリド枢機卿のみとなってる。
 つまりここは難攻不落の鉄壁要塞。どんなに敬虔なシウス教信者でも、ここへ巡礼が許されるまでには血のにじむ苦労が必要と言われる。
 もちろん、見張りの記憶をどうにかできるなら話は別だけれども。
 僕はそんな聖地アヴルドラのほど近くに身を隠していた。といっても、《白亜の城壁》を取り囲むように座る信者たち(中に入れないから、こうやって外で祈っている)に紛れてるだけだから、簡単なことだ。
 時は夜。空は透き通り、ナイフで引っ掻いたような月が頭上で輝いている。こんなに空気のきれいな所だというのに、星たちはいっこうにその姿を見せようとしない。まるでなにかに怯えてるみたいだ。
 南の門で騒ぎがあったらしいことはもう聞いている(ちなみに僕がいるのは東門だ)。賊が見張りを破って聖地に侵入したらしい。確かめなくても、その賊が誰であるか僕には分かっていた。
 僕はこれから、その難攻不落の鉄壁要塞に、侵入しようとしている。常人なら絶対に許されぬ聖地の中に、一般人の代表みたいな僕が、だ。理由はもちろん、彼女のあとを追うために。約束を、守るために。
 僕は準備してきた道具たちを握り締め、深く深呼吸をした。僕には残念ながら、目にもとまらぬ剣技も、敵を吹っ飛ばす魔法もない。だが不思議と恐怖は沸かなかった。今日ばかりは、臆病も心の隅っこで小さく丸まってくれていた。こんな気分は初めてだ。僕は今、なにかを成し遂げられる自信というのに『理由』なんて必要ないと気づきはじめている。
 準備はした。そこらの信者たちに、入念に聞き込みもした。左の胸ポケットにはあのブローチも入れた。覚悟も決まった。
 僕は決然と立ち上がり、信者たちの間を縫って、見張り兵たちのほうへ大股で歩いていった。
「ああ、きみたち」僕はわざと高飛車に、できるだけ傲慢に聞こえるように言った。「いいかね?」
白銀の鎧に身を包んだ見張り兵たちが、不審そうに僕を一瞥した。
「なんだ、あんた?」
「あんたとは何事だ、図が高い!貴様らは大司教に対する口の利き方も知らんのかッ!?」
 正直に言おう。僕は今、大司教クラスの神官しか身につけない神官服を身につけ、豪奢な(ガラスの)指輪をいくつも嵌めている。同僚からのコネで、ちょっと倉庫から失敬させてもらったものだ。
「はっ、これは失礼いたしました」慌ててかしこまった見張り兵だが、まだどこか不審そうな顔をしている。「失礼ですが……どちらの区の大司教さまでしょう?」
「バカものッ! 貴様は私の顔も知らんのか!?」
「はぁ……不勉強ながら」兵はますます不審そうに眉をひそめる。「失礼でなければ、お教えいただけますか」
 僕は兵士たちを見回し、その視線を十分に引きつけてから、重々しく言った。「……レジェドリアだ」
「なんだって? レジェドリア大司教ぉ?」
 僕の見えないところで、兵士たちがなにやら囁きあっているのが分かる。
「それはおかしいな」中でも一番強そうで、喧嘩っ早そうな兵士が口を挟んだ。「レジェドリア大司教はもう中だ。さっきここを通っていかれた」
「なんだとっ!?」
「そんなに前じゃねぇ。また出てここに来るような時間じゃ、な。それに年恰好もアンタとは似ても似つかねぇ」兵はその顔をゆがめた。「テメェ一体何モンだ?」
「ぬぬぬっ……貴様ら、本当にレジェドリアをここに入れたというのか……!」
「ああ。みんな覚えてるぜ」
 せーのっ。
「馬ッッ鹿もーーーーーんッッ!!」
 僕は大声で怒鳴った。実際、これはライントール隊長のを真似てみただけなんだけれど。
「な、なんだっ」
「なにごとだ」
「なぜ入れた!? 大司教クラスの神官は許可なしにここには入れんハズだぞ!」
 僕のその言葉を耳にした途端、兵士たちの顔色がサッと変わった。不安そうに囁きあっている。
「どういうことだと聞いている!」
「それは」兵士の一人が恐る恐る口を開いた。「確か、勅令があったんです。教皇サーハルさまじきじきの。ええ、先日。間違いありません」
 その兵士がそうだよな? と尋ねるとほかの兵も、うんうんそうだそうだと請合った。が。
「オイ、ホントにそうだったか?」中のひとりが言ったのだ。「俺はついさっき交代してここに来たばっかりだが……そんな話、聞いてなかったぞ?」
 兵士たちが小声で囁きあう。まさか。ホントかよ?いや、確かだぜ。だって勅令の伝達が伝わらないなんてあるワケないじゃないか。でも、いやじゃあ、どうして……
「黙れッ!」僕は一喝した。「教皇様じきじきの勅令だと!? 適当なことを言いおって!」
「だが、俺たちゃ確かに聞いたぜ。この先一週間、レジェドリア大司教の出入りを許可する、ってな」
「ならば聞くが」僕は腹の底から、地獄の使いみたいな恐ろしい声を出した。「その特使の顔を、覚えておるか? 年恰好を、口調を。その特例の文句を一言一句違えずに言える者が、この中におるか!?」
 兵士たちの顔が残らず真っ青になった。
 これは記憶操作を実際に受けた僕だから言えることだけど、植えつけられ書き換えられた記憶というのは、どんなに精巧に作られていてもどこかに必ず落とし穴があるものだ。それをいったん見つけ指摘されると、その穴からほころびがどんどん広がって収拾のつかない恐怖に襲われる。ほとんど恐慌と言ってもいいくらいのそれといったら。おそらく常人には想像もつかないだろう。
「うぬぅ、貴様ら……それでも聖地を守るものか! そやつは真っ赤な偽者だッ!」
「にせもの!?」
「うむ。何者かが私の名を騙り、教会を混乱に陥れようとしておるのだ。このままでは聖地の《聖なる泉》が汚されるかもしれん」
「《聖なる泉》が!?」兵の誰かが叫びに近い声を上げた。「そんなことがあったら、シウスの怒りが……!」
もう一押しだ。「もはや一刻の猶予もならん! 貴様らはこのことをすぐ教皇さまにお伝えしろッ!わたしは偽者を追う!」
「しかし、この門は許可がないと……」
「そのような悠長なことを言っておる場合かッ!」
「ハッ、申し訳ありません!了解いたしました!」
 すかさず敬礼し、一列になる見張りたちを尻目に僕は大股に門に向かって歩いていった。
「門を開けよ」
「ハッ」見張り兵の動きは実にキビキビしたものだ。さすがに十隊とは違う。「開門!」
「開門!」
「開門!」
 内側から、ひと一人通れるだけの切り掻きが重い音を立てて開いた。僕はわざとゆっくり、それをくぐる。
「あの、大司教?」兵士の一人が、僕の背中に声をかけた。
「なんだ」
「あの……偽者を追うのは重要なことかも知れませんが、聖地には教皇の許可がない限り入れないのでは……」
「なにを言っておる」僕はこともなげに言った。「私には特例が出ておるのだろう?」
「ハッ、そ、そうでありました。大変失礼いたしました!」
「以後、気をつけるがよい」
 僕はローブを引きずって、門をくぐった。
 僕の背中で樫の木の分厚い門が閉じる、重苦しい音が響いた。
 ……ふうっ。
 侵入、成功。
 案外僕だって、やればできるじゃないか。
 僕はひと気のないのを確かめると、素早く木陰に隠れ、着ているローブを脱いだ。豪華できらびやかだけれど、こんなものを着て走ったら、いつか必ず裾を踏んづけて転ぶのは目に見えてたから。
 それにしても、記憶というのは恐ろしいものだ。あの兵士たち、どのレジェドリアが本物で、どのレジェドリアに許可が出てるか、てんで分からなくなってるじゃないか。
 こんなに不確かで頼りないものなのに、すべての人は記憶に頼りきって生きてる。もしあの見張りたちが僕との会話を思い出したら、きっと話しのメチャクチャさに憤慨するだろう。それはちょっと面白くないこともないけど。
 どんなに厳戒な決まりごとも、突き詰めてみれば結局は個人個人の記憶に頼って成り立ってる。王さまが王さまでいられるのは、国の人みんながそう思ってるから、国民の記憶にそれがあるからだ。シウス教だって結局あるのはみんなの記憶の中でしかないんだからな……なんて言ったら、神様に怒られるだろうか。僕は自分のあまりの信仰心のなさにちょっと笑った。これで神殿騎士だっていうんだから笑い話だ。これじゃ天罰のひとつやふたつ落ちてもおかしくないかもしれない。
 いつもの身軽な革鎧に着替えると、ようやく胸の高鳴りと冷や汗がおさまった。ローブを手早くまとめて木陰に隠すと、そっと頭を出してあたりを窺う。
 大丈夫だ。誰も見ちゃいない。
 僕は音を立てないように抜け出すと、闇に紛れて走り出した。
 特にアテがあるわけではない。記憶を操る男、大司教レジェドリアがどこで待っているかは知らないが、招待するとまで言ってきたということはおそらく、この聖地の中でも最も神聖な中枢……天に通じる門があるといわれる大聖堂のそのまた中心、創造神の間だろう。
 そんな所に自分が入ると考えただけで、とんでもなく罰当たりなヤツだと思う。もしシウス教信者が聞いたら卒倒するだろう。下手をすれば異端審問官に舌を引っこ抜かれるかもしれない。
 それでも、僕は行かなくてはならない。記憶喰らいレジェドリアが待っているから。女剣士ライラが待っているから。
 彼女の名前が僕を鼓舞した。彼女の燃える瞳が僕を勇気づけた。
 待っていろ、ライラ。
 決してきみを、ひとりで死なせはしない。


 ひたすら西へ西へと闇夜を駆け抜けるうち、やがてボロボロに朽ち果てた宮殿らしき建物にぶつかった。もとは左右対称な美しい聖堂だったのだろうが、年月の侵食を受けてところどころ崩れている。今まで見たこともない、もちろん名前なんて聞いたこともない節くれだった大樹の根が、大蛇のごとくのたくりまわって聖堂をがんじがらめに縛っていて、それでなんとか全体が崩れ落ちずに済んでいるような状態だった。さすがに出入りの規制が激しい聖地だけあって、補修や建て替えなんてのはできないんだろう。これだけ静謐な土地なのに、残念なことだ。
 僕は迷わず、積もった塵を踏みしだきながらその入り口に向かった。足許では貝殻のように白い鎧を身に纏った聖騎士がひとり、首を失って転がっていた。誰にやられたのかは、容易に想像がついた。レジェドリアなら、殺すより簡単な手段を使うだろう。
 聖地での警護を許されほどの戦士ならば相当の強者だったのだろうに、あの目にもとまらぬ銀光には敵わなかったのだろうか。僕は哀れな犠牲者の魂がシウスと共にあれるように(でもできるだけ直視しないようにしながら)少し祈って、それをひょいと飛び越えた。
 おそらく大理石か何かだろう、元白亜のアーチが、絡みつく植物たちに持ち上げられてどうにか原形を保っている。見上げてその下をくぐる時、僕は少し躊躇した。見上げたそれはいかにも危なっかしく、ちょっと足音を立てただけでガラガラと崩れ落ちてきそうに見えたからだ。でもよく考えてみれば、ここは何百年、ひょっとすると何千年もこのままの姿だったんだ。今さら僕がくぐったぐらいで崩れ落ちるなら、強い風が一陣吹いただけで耐えられるはずはない。僕は足音を殺して、そこを潜った。ほの暗い聖堂は、入るとすぐ階段だった。
 僕は崩れかかった階段を駆け上がった。手すりにも天井にも、蔦や茨がびっしり這い回っている。ここが作られてから、いったいどれだけの時が流れたのだろう?聖なる地というのも、あながち嘘ではなさそうだ、と僕は他人事みたいに思った。
 僕は階段を一段一段、慎重に上っていった。手元の手すりに目をやると、やがて確かに欠けて崩れてはいるが……目を細めてよく眺めると、ところどころ埃がなにかに拭い取られているのが見つけられた。中にははっきり、手形と分かるものもある。それがついてから、ほとんど時間はたっていないようだ。
 先に誰かがここを通ってるんだ。僕は確信を強めた。どうやらここで間違ってはいないらしい。
 崩れそうな階段を上りきると、一階と似たようなつくりの部屋に出た。違うものといえば、壁のそばに泉があることぐらい。あ、泉といっても、水はまったくなくて、とうの昔に枯れてしまっている。腰ぐらいの高さに、壁に刻まれた横一文字の切り掻きが、多分水の出る噴水みたいな役割を果たしていたんだろうけれど、今はそれも見る影もない。
 おそらくこれが聖書にある《神の抱擁》と呼ばれる聖なる滝だろう。それによると絶大な魔力を引き出せるとあるが、もう枯れていたとは意外だ。まぁ、今の僕には関心のないものばかりだけれども。
 と。
 ふと暗闇に気配を感じ取って、僕は腰の剣に手をあてた。振り返った闇の中に、ぼんやり人影が浮かび上がる。
「誰だッ」
彼女か、それとも大司教か!?
「それは私の台詞だな。……君は、誰だ」
 僕は一瞬あっけに取られ、それから慌てて目を凝らした。暗闇が、おぼろげに人の形をかたどっていく。
 現れたのは、大司教でも女剣士でもなかった。足元から少しづつ、シルエットが明らかになっていった、その姿は、片手に一本づつ、二本の剣を握った背の高い神殿騎士。僕は眉をひそめた。
「騎士……? なぜ騎士がここに。何者だ?」
「何者、か? それは、私の知りたいことだ。私は、誰だ……?」
 その顔がおぼろげに見えてくるにつれて、僕はハッとした。この顔には見覚えがある。確か、レジェドリア大司教の屋敷で、ライラと戦っていた二刀流の騎士団長。
 だが、どうしたんだろう?様子が変だ。どこかおかしい。
 その目は熱にでも浮かされたように熱っぽく潤んで、どこを見ているのかはっきりしない。頬はげっそりとこけ、血の気がない。悪鬼と言ってもいいほど凄惨たる顔つきに、漆黒の瞳ばかりがらんらんと燃え上がっている。
「あなたは……いったい、何があったというんですか」
「何が……? 何があったのか」騎士はカサカサにひび割れた唇で言った。「分からない。私は誰なのか、ここがどこなのかさえ……」
「……記憶が、ない? じゃあ、まさか、あなた……!」
 僕は思わず一歩後じさった。踵に小石が当たって、カラリと転がった。
 そういえば信者のひとりが言っていた。大司教さまが聖地に入るとき、お供の神殿騎士をひとり連れていたと。
 だが、まさか……関係のない、ただの騎士にさえ、レジェドリアは巻き込むのか……!?
「助けてくれ……助けてくれ」騎士はうわごとのようにつぶやく。「教えてくれ……このままでは、私は」
 言葉とは裏腹に、騎士から発せられる禍々しいまでの殺気を感じて、僕の踵がもう一歩逃げようとする。まるで手負いの魔物のような、危険な気配だ。
「落ち着いてください……あなたは、一時的に、記憶をなくしている、だけです。すぐよくなる」
僕はこんなに堂々と嘘をついたのははじめてだった。
「わからない……だが、思い出せることもある。それは……殺すこと。目にしたすべての命を、屠ること……そう、命じられていた。ああ、殺したい……殺したい」
「待て……おちつけ……!」
「すまないな、見知らぬひと」騎士はギラリと歯をむき出して笑った。それはまさに、地獄の悪魔そのものだった。「私はもう、狂ってしまっているのかもしれない」
「やめろっ!!」僕は叫んだ。だが、もう遅かった。
 疾風のような勢いで振り下ろされる二本の剣を、僕は横ざまに転がってかわした。背骨をしたたかに打ちつけ、鈍い痛みが走る。
 床にたまった何百年もの埃が舞い上がった。煙る粉塵に視界を遮られながら、僕は肘をついて起き上がろうとした。
 だが、腕に力を込めた瞬間、肩口に鋭い痛みが走る。僕は声に出さずに叫んだ。鎧の隙間が裂け、傷口がのぞいている。ギリギリで避けたと思ったが、かすっていたらしい。僕の喉元を冷や汗がつたった。
「ああ」
恍惚とした表情で、騎士が僕のほうを振り返った。
「殺したい……殺したい」
 うわごとのように何かつぶやく。
 それでも……自分のことをすべて忘れてしまってもなお、彼の動きは正確で、まるで騎士のお手本のように無駄がなかった。素早く剣を構えなおすと、右手の長剣を下段に、左手の剣を上段に構え、つまさき刻みにじりじり迫ってくる。
 技術も力も、相手のほうが圧倒的に上らしい。あまりいい状況じゃないのは間違いない。
 僕はなんとか逃げられる道はないかと必死に視線をめぐらせた。通ってきた階段まで行くにはどうしても彼のすぐ傍を抜けなければならない。他の入り口もすべて僕の位置から遠い。うまく剣をすり抜けられたとしても、背中を切りつけられるだろう。かといって背中は壁だ。
 そんなことを考えている間にも、二刀流の騎士はじりじり間合いを詰めてくる。
 どうにか逃げ道を拓こうと体をずらしても、歩み寄る敵は巧みにそれを遮ってくる。僕はせめて、その顔を目いっぱい睨んでやった。帰ってきたのは、歯が覗けるだけの凄惨な笑い顔。
「発狂した……彼とおなじく」
 逃げ場はなし。勝てる見込みもなし。このままでは、間違いなく僕は……死ぬ。殺される。
 くっ……万事休すか……?
 僕が死の恐怖に目を閉じた時。
 ふとどこかで、聞きなれた声が聞こえた気がした。
〈オイオイ、もうお手上げかよ。こんな所で《俺》はくたばるのか? 強い相手だからって、それですぐ諦めるのか? 俺は、ティガは、そんな弱い人間だったのか?〉
 ……なんだって?
〈確かにヤツは強い。騎士団長ともなれば、その実力はかなりのもんだろうさ。……だがな、ティガ。だとしても、だからそれがどうした? ヤツが俺より力を持っているからって、それが何だっていうんだ?
 忘れるな。思い出せ。俺には、やらなければならないことがあったはずじゃなかったか? どんなに辛酸を嘗めさせられても、どんなに苦痛を味わわされても、俺には成し遂げなければならないものがあったはずじゃ、なかったのか?〉
 僕はカッと目を見開いた。
〈ドジったっていいよ。カッコ悪く負けたって、殺されたっていいよ。せめて死んで後悔しないように、今やるべきことを精一杯やるんだ。あの世で彼女に顔向けできるくらいには、ちゃんと最後まで、かっこ悪くあがいてやろうぜ? それが……それが、男ってモンだろう? なぁ、違うか?……『僕』……!〉
 僕は握った拳に力を込めた。爪の隙間に塵が食い込むのも忘れて。
 おかげで思い出したよ。何のために僕がここにいるかを。
 行こう。彼女のもとに。
 狂気のように笑いながら迫ってくる騎士は、ふと涼やかな音を立て剣を鞘から抜き、立ち上がる相手をみて眉をひそめた。
「なめるな」『俺』は腹の底から声を出した。たぎった血潮が全身を駆け巡る。「俺は、ティガだ!!」
「記憶を……喰らいたい」
 その一撃には、予兆というか先駆けというか、攻撃を思わせる動作は一切なかった。一瞬にして、わずか二歩で間合いを詰め、騎士が上段から放った一撃を、俺は腰を落とし、寝かせた剣の腹でどうにか受け止める。金属がこすれ、歯の浮くような音を立てる。すかさず相手が下から振り上げるもう一方の剣筋は、おそらくオトリだ。本気で当てる気はない。本命はそれに気を取られて俺が身を引いたときの、上段からの一撃。
 俺はその逆をつき、力任せに前に進み出た。相手の懐に飛び込んでしまえば、右手の長剣は役に立たない。これだけ接近していれば、不恰好につばぜり合いをするのが精一杯だ。
俺と騎士は、ほどんど同時に魔法詠唱をはじめた。魔力が層をなして渦巻き、波紋となって空間を飛び交う。
 ほぼ同時に開放された魔力が反発して相殺しあい、俺も騎士もたまらず吹っ飛ばされた。互いに逆側の壁に背中から叩きつけられる。
「ぐはっ……!」
 俺は背骨を駆け抜ける痛みをこらえて、歯を食いしばった。視界が反転しそうになるのを、唇を噛んでどうにかこらえる。かすむ視界をなんとかこらせば、ヤツはもう立ち上がり、剣を構えている。さすがに百戦錬磨だ。俺とはくぐり抜けてきた修羅場の数が違うらしい。
「青への復讐も果たした。残るは、自らと同じ狂気を求め、夜を彷徨うのみ……」
 騎士は相変わらず何のことか分からないうわごとを呟いている。だが、表情とは裏腹にその足取りは確実に間合いを詰めてきている。
 俺はこの状況を打破できる、一発逆転の好機を探して視線をさまよわせた。瞬間、ある考えがひらめく。
 失敗すれば命はない。イチかバチか……だが、やるだけの価値はある!
「おおおぉぉぉっ!」
 俺は素早く上体を起こすと、魔力を左の拳に集中させた。空気の渦を凝縮させて、圧力の弾丸を作り出す。
 いけっ!
 左手から打ち出された圧縮空気を見て、騎士は一瞬ギョッとしたようだった。だが、冷静に首をそらしてそれを避ける。俺の詠唱スピードでは、避けてくださいと言っているようなものだっただろう。それは分かっている。しかし残念だな、俺が狙ったのはお前じゃないんだ。
 騎士の首筋をかすめるように飛んでいった弾丸は、その背後にある《神の抱擁》と呼ばれる滝のあった石壁を正確に叩いた。硬い音が響き、石壁の破片が落ちる。
 さぁ、伝説が本当なら、滝の名が偽りでないなら、蓋をされ圧縮された水が噴出するはずだ。その水脈がまだ枯れずに残っているのなら……双剣の騎士は驚いたように石壁を振り返る。
 一秒経った。
 噴き出せ。
 二秒経った。
 噴き出せ!
 三秒経った。が。
 「ふぅむ」
 いくら待ってみても、それらしい変化は起こらない。鉄砲水はおろか、一滴の水さえも洩れてこないではないか。
 クソッ……アテが外れた!俺は悪態をついた。何が『聖なる滝』だよ、これだから伝説なんてのは信用できないんだ!
 やっぱり俺は、ここ一番でツイてないじゃないかッ!
 騎士は再びにじりよってくる。思わぬ攻撃に焦ったのか、次で仕留めるつもりらしい。二本の剣を交差する構えは確か、一撃に二本の獲物を使う二刀流独特の技、回避も反撃も封じる技〈双頭の竜〉の構えだ。
 こいつは、少しばかり『絶体絶命』ってヤツだぜ……!
 俺は敵の目をキッと見返した。だが、だからといって諦める気は毛頭ない。最後の最後まで抵抗して、メチャクチャに暴れて、悪あがきしてやる……!
 悲壮な決意になぜだか笑いたくなった俺の目に、意外なものが飛び込んだ。
 これだ。
 これなら、やれるかもしれない!
 俺は勢いよく立ち上がり、剣を構えてヤツを睨む。
「悪ぃが、俺もタダでくたばるつもりはないんでな」息を整える。
「もう……死ね」
「……うぉおおおおおおおおお!!」
 俺は剣を脇腹に構えて、まっすぐ敵に向かって突っ込んだ。防御も第二撃も捨てた、捨て身の突撃……と見せかけて、腰を低く落とし、剣を振りかぶって、投げた!
 ヤツは一瞬目を見開いたが、焦ることなくそれを叩き落す。
 もちろん、その一瞬の隙さえあれば、俺には十分だった。俺は思いきり体を投げ出し、ヤツの足元を転がりぬける。俺からすれば、すぐ目の前に敵のブーツがある格好。奴からすれば、足元に俺の背中が丸出しになっている格好だ。振り返った騎士は、焦ることもなく、最も無駄のない動きで冷静に俺に向かって太刀を振りおろした。防ぐ手立てのない俺は右手を上げて、手甲のある場所でそれを受け止めた。革鎧ではその剣の勢いを殺しきれず、俺の手の甲に鋭い痛みが走る。
「クッ」
 俺は転がり込む形で《神の抱擁》に……石壁に左手をついた。ちょうど、さっき空気弾がへこませた、その穴のあるあたりに。
「騎士が背中を見せるとはなにごとだ」
 ヤツがもう一方の剣を振り上げるのが、奇妙にゆっくり見えた。落ちてくる銀色の光とダブって、彼女の後ろ姿が浮かんだ。
「死ね!」
死ねない……!!
 僕は左手に魔力を集中しはじめた。刹那、まるで水門に穴でもあけたように、目に見えない魔力が、壁から一気に押し寄せてくる。
「なに!?」
「生きようとする人間はな」僕は内側からふくれあがる光を感じながら叫んだ。自分の声が聞こえない。自分自身に言い聞かすように、喉も裂けよと僕は叫んだ。「殺しても死なないんだよおぉォっ!!」
 灼熱!!
 鉄砲水が噴出すように、雪崩が押し寄せるように、僕の右手からすさまじい白光が迸った。途方もないエネルギーの奔流が、圧力が、まるで氾濫した濁流が灌木を押し流すように敵の体をさらい、押し流し、吹き飛ばした……!
 部屋中を、聖堂中を、迸った灼熱の光が圧する。あまりの眩しさに、目を開けていることもできない。まるでなにか途方もないものが封印から開放され、僕の腕を潜り戸にして噴出したようだ。光となって、熱となって、圧倒的なエネルギーとなって。部屋中がビリビリ震えて、いまにも崩れだしそうだ。一気に噴出する生きた光の反動に、僕の体は嵐になぶられる木の葉みたいに揺らいだ。いままで触れたこともないほどの魔力の奔流が全身を駆け巡り、僕は絶叫した。膝がガクガク震え、いまにも倒れそうになる。
 光は駆け巡り、さんざめき、迸りぬけた。朦朧とする視界の中で、なにかを喜ぶように光が暗闇へと解き放たれていく。僕はわずかに意識を失い、地面に倒れた。
 やがて部屋中を埋め尽くしていた白い光がおさまり、僕が意識を取り戻すと、あたりは一変していた。
 白かったはずの壁は真っ黒に煤けていて、時おりパラパラと破片を落としている。天井にはぽっかりと丸く大きな穴が開いて、そこから夜空が洩れている。急激に逃げていった熱の名残で、あたりの景色はまだ陽炎めいて揺らめいている。《神の抱擁》はまるで鉄の手形で張り倒したように、指の形に窪んでいる。
 奴は……どうなった?
 だがいくら探しても、騎士の姿はもうどこにもなかった。
 視線をめぐらすと、床にポツンと投げ捨てられた剣の刃が目にとまった。持ち手の柄のあたりから途切れ、融けてなくなっている。鋼の刀身も熱にゆがんでいる。
 足元に目を落として、僕は驚いて尻餅をついたまま数歩後じさった。騎士であったものの黒い影が、本体に取り残されたように地面に焼きついている。
 ……なんてすさまじい、威力だ……
 一瞬、とっさの思いつきだった。窪んだ《神の抱擁》の穴から、かすかに魔力が洩れ出ているような気がしたんだ。
 崖の上にある岩を押し出せば、谷に向けて落ちていく。川の流れをせき止めた水門の壁にわずかな穴を開けてやれば、溜まった水が勢いよく噴き出す。例えそれが、目に見えぬ魔力の塊であろうと。
 伝説によればここには途方もない魔力が常に宿り、望むものにその恐るべき力を与えるあったから、ひょっとしたらと思ったけど、まさかこういう意味だったなんて……
 僕は立ち上がろうとしたけれど膝に力が入らず、すぐにヘナヘナと座り込んでしまった。足が震えている。
 丸く開いた天井から獣の爪のような月が、ものも言わずにこちらを覗いている。
 僕は、勝った、のか?
 不意に、僕は腹の奥からこみあげてくる笑いに気づいた。なんだ、なんだよ。僕だってやればできるじゃないか。ひとりでもできるじゃないか……
 とうとうこらえきれなくなって、僕は忍び笑いを漏らした。喉を震わせる自分の笑い声に最初ビックリして、それがまたおかしくなって、とうとう僕は声を上げて笑った。そうしたら、ますますおかしくなった。
 僕はだれもいない聖堂で大声で笑っていた。おかしくておかしくて、なぜだか分からないが無性におかしくて笑った。
 たったひとりで、聖堂の静寂を突き破って笑った。
 僕は笑って笑って、それからちょっと咳き込んで、それで黙り込むと、荷物を手に取り立ち上がった。
 もうすぐ、もうすぐだ。
 もうすぐ、最後の戦いになる。


 僕は無言で歩いた。
 さっきの衝撃で、聖堂の古い壁や床はところどころ亀裂を生じていて、うっかり踏むとズブズブと白い煙を上げながら割れ落ちた。あれだけ派手に暴れまわったら、きっともう僕がいることなんて大司教にまで知れ渡っていることだろう。
 知ったことか、と僕は思う。向こうはこんなに大掛かりなパーティーを用意したんだ。客が来なきゃパーティーは始まらない。いまさらバレないように進んだって、たかが知れてるじゃないか。いっそ正面切って堂々と乗り込んだほうが気持ちがいいってもんだ。それに僕は別に大司教を暗殺しようとここまで来たわけじゃないんだし。
 僕がここにいるのは、確かめるため。今さらながらに、僕は自分の中にある奇妙な義務感に気づいた。僕が行かなければ。この物語の結末を知ることができる人は、僕を置いて他にいない。僕が見届けなければ、彼女の為そうとしたことは誰にも知られないまま、誰にも語り継がれないまま歴史の闇に葬られてしまう。ある女性が命を賭けてまで自らの意思を貫こうとしたことを、そんなひとがいたことを、世界は知らないままに明日を迎えてしまうことになる。
 それに僕は彼女を守ると言った。心底本気で彼女を死なせたくないと思った。実力上、僕が守られるのが関の山かもしれないとしても。
 彼女だって、死ぬ時一人なのは寂しいはずだろ?だって、そんなの、あんまりに悲しすぎるじゃないか。そんなのって……
 僕は交互に踏み出されるつま先に目を落としたまま、黙って先を急いだ。舞い上がる何世紀ぶんもの埃を、無造作に踏みしだきながら。
 それとも、そんなのただの言い訳なんだろうか。そんな都合のいいことを言って自分を誤魔化しているだけなんだろうか。ただなんとなくそうしなければならないと思ってるだけ、また妙な正義感に駆られてるだけ、なんだろうか。
 それとも、どちらも結局、大して変わらないことなんだろうか。
 記憶の中にあるものだから。
 記憶、か……
 僕はいつか彼女の言った言葉を反芻していた。
 記憶って、何なんだろう?どこにあるものなんだろう?過去はその人間の行動を決定し、未来を方向づける。自分がいままで生きてきた足跡、自分と関わり、つながってきた(世界から見ればほんの僅かな)人たち。そうやって積み重なって経験たちは記憶の中に刻み込まれ、その小さな小さな粒が積もり、重なり、影響しあって僕というひとりの人間を形作る。まるでなんでもない砂たちが積もって砂浜となるように。小さな雨粒が川を為し渦巻くように。過去の出来事は決して現在に形を残さないけれど、これまでの川の流れは間違いなく、それからの流れを決定づける。
 僕はどこに存在してるのか、魂はどこにあるのかと聞かれれば、僕はきっと記憶の中と答えるだろう。僕という人格は何でできているのかと聞かれれば、それはおそらくちっぽけな経験たちの寄せ集めと答えるだろう。僕という人間は、チリみたいな出来事たちが集まってくっつきあい、ひとつの大きなものを為しているように見せかけているだけ、それが肉体という入れ物のなかに住んでるだけ……所詮人間なんて、みんなそんなモンさ。でも。
 それを、作り変える、だって?
あんな経験さえなければ、そんなバカな、ってアッサリ笑い飛ばしていたところだろう。そんなことあるかって、その恐ろしさを考えもしなかっただろう。
 そうだろう?だってそんなの、直視するにはあまりに怖すぎるじゃないか。
 もしあの時記憶を『完全に』上書きされていたら。あの時ふたりになった『僕』が、そのまま元に戻れなかったら。僕は今、どうしていたんだろう。考えただけでも怖気が走る。ひょっとしたら僕は、仲間たちのことも、彼女への思いも、この自分に属するすべてのことも忘れて、それでなんでもなかったような顔をして暮らしていたかもしれない。レジェドリアの手先に成り下がっていたかもしれないんだ。冗談じゃない。
 心の奥で再び、誰かの声が聞こえた。それは待て、と言った。それはどうして過去形なんだ? どうして過ぎ去ってしまったことのように言えるんだ? 今の記憶が作り変えられたものじゃないって、どうして言えるんだ? 十分にありえることじゃないか。俺は本当は、まったく関係のないどこかの誰かさんで、今までこんなこととは縁もない生活をしていたのかもしれない。俺はレジェドリアに敵対する誰かで、始末されるついでにこんな茶番につき合わされているだけなのかもしれない。そもそも、レジェドリア大司教なんてはじめから存在すらしてないかもしれないじゃないか。
 今僕が知っていることが、真実じゃないかもしれない。
 だとしたら。
 僕はぶんぶん頭を振って、その声を、自分自身の考えを隅にうっちゃった。
 だとしても、そんなことは考えたくない。僕が今、こうやって命を賭けてまで見届けようとしている覚悟まで、全部塗り替えられた真っ赤なニセモノだったとしたら、そんなの。
 そんなの、むなしすぎるじゃないか。
 ダメだ。僕はそれ以上その考えを追うのをやめた。頭の中で握り締めていたその考えを力づくでもぎ離した。余計なことは考えるな。それを考えることは危険だ。本気でそうかもしれないと考えてしまうことは、少しでも今の自分を疑ってしまうことは、とても危険だ。いずれは間違いなく、自分という存在そのものを否定してしまうことになる。今はただ、目の前にある現実、今やらなければならないことに全神経を集中させるんだ。そんなアヤフヤな状態のまま来ていい場所じゃない、ここは。
 と。床に違和感を感じて、僕は足を止めた。そこになんでもないように落ちていたものを、手にとってみる。
「……紙切れ?」
 拾い上げてみたそのくすんだ蝋紙は、握りこぶしぐらいの大きさで折り目がついている。ひっくり返してみたけれど文字や伝言らしきものはない。僕は首をひねった。どこかで見たことがあるような気がするんだけど……
 しばらくして、僕は気づいた。気づいてから、ハッとして蝋紙の表面をじっと観察した。埃やカケラはほとんどついてない。落ちてから、それほど時間が経っていないということだ。
 僕はそれを放り出すと走り出した。もうお気楽だなんて言ってられない。
 あれは旅人がよく使う保存食の硬パンを包む、一般的な包装だ。その真新しさからして、おそらく彼女だろう。
 すぐそこにいるんだ、ライラが。僕はもうすぐそこまで来ているんだ。
 僕の鼓動は乱れた。そういえば創造神の間はもうすぐだ。何をボサッとしてたんだろう、僕は!もうすぐ到着、もうすぐ終点、もうすぐ最終ボスだっていうのに!
 僕は階段を乱暴に駆け下りた。創造神の間は階段を上り、また降りた所にある。地面よりやや低い、地面に半ば埋まったような格好で造られている。いや、正確に言えば、そこでなければならなかったのだろう。僕はあまり信じてなかったけど、さっきの滝のことを考えるとひょっとしたらホントにそこには天界への門があるのかもしれない。だがそれも、僕にとっては大して興味を引く話ではなかった。少なくとも、今は。
 転びそうな勢いでこけつまびろつしながら階段を駆け抜けると、目の前に急に巨大な扉が立ちふさがった。僕はビックリして慌てて立ち止まる。
 それは、今まで見たこともないほど古く、今まで見たこともないほど荘厳な扉だった。僕は息を呑んだ。
 高さは僕が手を伸ばしても、上に届くか届かないかっていうくらい。薄暗がりに浮かび上がる、見たこともない青い一枚岩でできたその扉の表面に、うっすらと埃が溜まっている。最初に見たときそれはまるで四角い巨人の顔のように見えたけど、近くで見てみればそれは一枚の大きな絵画だった。天の高いところに大きな一つ目があって、全界を照らしている。そのすぐ下に巨大な樹が根を張り、世界中にその枝葉を張り巡らされている。これはひょっとしてあの『世界樹』なんじゃないだろうか。僕から見て右側には人間が、左側には魔物たちが描かれていて、それぞれ同族と争っている。
 どんな無知な人でも、どんな信心浅い人でもひと目で分かるだろう。創造神の間だ。
 僕はその扉に手の平を置いた。ひんやりした感触に体温が奪われた。
 いつしか僕の心臓はゴトゴト鳴り響いている。この先に僕が確かめたかったすべてがある。この先に彼女の結末がある。
 情けないことに、僕はその扉を開ける勇気が出なかった。神聖な場所だからじゃない。怖かったんだ。見るのが。知りたくない事実を知ってしまうのが。
 もし彼女がまだいなかったら、どうする?もし大司教のいるのかここじゃなかったら、どうする?
 もし……もし、うつろな目をして床に転がる彼女を見てしまったら、どうする……?
 もうただの肉の塊になってしまっている彼女のことを考えると、僕の手は自分でも驚くくらいに震えた。
 今までそんなことは想像してなかった。今まで無敵の女剣士ライラが負けるなんてこと、考えたこともなかった。だけど……そうさ、もちろんそれは十分に考えられるじゃないか。なにしろ相手はあのレジェドリア大司教だ。
 僕の体は、扉に手のひらをくっつけた体勢のまま固まった。手の震えはなかなか止まらない。ええい、往生際が悪い、さぁ、さっさと押せ、その扉を!
 僕は無意識のうちに、もう一方の手を左胸の上にあてていた。指先には確かな感触があった。ポケットのなかには、金色のペンダント。彼女がただの幻影でないことを示す、ただひとつの形見。
 ……形見だって?
(もし……この戦いが終わったとき、わたしが『わたし』でなくなっていたら、わたしの代わりに、それを弔ってくれ)
 考えまい考えまいとするのに、頭が勝手に動き、その景色を思い描いた。じゃあもし、そうなったら、僕はこのペンダントを……
 僕の目の前に、ここではないどこかの景色が広がった。僕は立ち止まり、前を見る。水平線が広がる岬の突端に、僕は立ち尽くしている。胸のポケットから取り出したブローチが、かすかに上り始めた陽光にきらめく。視線を上に上げれば、夜はもう明けようとしている。紫から茜色へと染まっていく東の空。
 僕はしゃがみこみ、無言のままにむき出しの土を掘る。爪が割れようが、砂が食い込もうが、気にもとめずに。やがて手を止めると、ペンダントををゆっくりそこに置き、包み込むように、再び土をかぶせていく。
 押し殺した嗚咽。その上にポツリと落ちる、一粒の涙。
 イヤだ。
 そんなこと、絶対に、あってたまるか。
 僕の胸の奥に小さな火が灯った。ちいさな炎は、僕の胸の奥であかあかと輝き、僕に、僕自身がまだ生きているということを実感させた。
 僕はまだ生きている。そして生きている限り、僕にはしなければならないことがある。反発が怒りに、怒りが炎に、炎が勇気に。僕の心を最後にひと押ししたのは、僕にその扉をひと押しさせたのは、生きようとする、前に進もうとする意思そのものだったのかもしれない。そして胸のぬくもりが、僕に扉を開けるための、ほんのわずかな勇気をくれた。
 僕は……扉を開けた。


 部屋は薄暗くて、最初なにがあるのかよく見えなかった。キッチリ直線で切られた、立方体の箱を内側から眺めたような部屋。部屋の壁には燭台がずらりと横一列に並んでいて、ほの暗い蝋燭の明かりが異世界のような影を落とす。部屋はおおよそ枯葉色と鼠色、それに沈み込むような闇色で造られているらしかった。あれだけ外はボロボロだったのに、中には埃ひとつ落ちていない。
 ようやくちらつく暗闇に目が慣れてきたかと思った頃、部屋の真ん中に人影があるのに気づいた。僕は身をこわばらせた。座っている。何だろう……何か、寝台か、さもなければ棺のようなものの上に。
 僕はそれが彼女でないことはすぐ気づいた。だとすれば、誰であるのか、それも僕には分かった。
 はじめて見た時とは違う、夜を閉じ込めたかのような藍色のローブは、たしかに教会の高官が儀式の時に、それもとびきり重要な儀式のときに身につけるそれだ。頬を覆う襟の間から、灰色のまっすぐな髭と、小さな口が覗ける。その上には鷲の嘴のように鋭く、かすかに垂れ下がった鼻梁があり、その上には……すべてを見通したような、すべてを知り尽くしたような瞳がこちらを面白そうに眺めている。
 僕にはその瞳は、大司教レジェドリアは、邪悪にも狡猾にも見えなかった。あれだけのことをされたというのに。
「大司教レジェドリアさま、ですね」僕は低い声でどうにか言った。声は震えていたが、幸い壁に反響しエコーする僕自身の声にかき消されて分からなかった。
 壮年の僧侶はじっとこちらを観察していたが、不意に唇の端を上に持ち上げ、歯を覗かせた。笑ったらしい。
「そうだ」
 その声は一度目に聞いたものとは似ても似つかなかった。部屋の中心で反響がひどいからなのか、それとも僕の吐く息に混じった恐怖の匂いがそうさせていのか。
(もはや奴は人間ではない。狂人でもない。夜と恐怖を纏いつかせた、獣のようなものなのさ)
「僕がなぜここに来たのか……分かっていますね」僕は震える手を握り締めた。爪が手のひらに食い込む。
「もちろん、分かるとも」
 なにを面白がっているのか、大司教はこちらを不遜に眺めたまま立ち上がろうとしない。
 それからいくら待ってもそれ以上の反応がないのを知ると、僕は次の質問を心に浮かべた。だが、それを声に発するのには拳を強く握り、息を吸ってあたりの勇気をかき集めねばならなかった。
「ここに女の人がひとり、来たはずです」
「…………」
「どこにいるか、ご存知なんでしょう?」
 レジェドリアは黙ったまま答えない。ただずっと僕のほうを見つめている。何か……何でもいい、言え、言ってくれ。
 だが、次の答えは僕を当惑させた。
「いいや」
 なんだって?
「どういうことだ」
「言ったとおりだ。ここに女剣士など来てはおらん」
「……嘘をつくな」
「嘘ではない。そなたが最初の客人だ」
 まさか。そんなバカな。
 僕はなにか言い返そうとした。言い返そうと、なにをいいかげんなことをと罵ろうとして腹に力を込めた。だが、息がひゅうひゅう洩れるばかりで言葉にならなかった。
「……ふむ。そうだな。だが……」レジェドリアが顎をひねった。「来てはいないが、わたしはここに一人でそなたを待っていたというわけではない」
「なんだって? 何が言いたい」
「ふふ……そう急くな」
「ふざけるのもいい加減にしろ、レジェドリア」僕の怒りが恐怖にわずかに勝った。「彼女を……ライラを、どこへやった」
「ほう。お前は《黒猫》を、ライラと呼ぶのか」
 レジェドリアがふと傍らの影に視線を移した。
「なかなか悪くないな」
 いや、影ではない。彼の影になって分からなかったが、そこにあるのは漆黒の布だ。ひと一人ほどの大きさで、マントのようにたなびいている。
 ……漆黒の……?
 漆黒の、マントのように……!
「紹介しよう」レジェドリアが気取って手を差し出した。「わたしの新しい妻だ」
 その漆黒のマントがくるりとこちらを振り返った。差し出されたレジェドリアの手にやさしく手を重ね、振り返ったのは。
 黒くまっすぐな髪。
 すっと透き通った眉。
 背の高い体つき。
 鋭いが、大きな瞳。
 そこにいたのは、そこで微笑んでいたのは。
 …………ッッ!!!!
 僕の膝がガクガク震えだした。心臓が急に、張り裂けんばかりに痛んだ。全身の血が沸騰し、とめどもなく全身を駆け巡る。
「こんな、ことって……」
僕はそう喉の奥でつぶやいた。だが、声にはならなかった。
「ありえないと、思うか? こんなことは現実でないと、思うか?」レジェドリアが喉の奥で笑う。「目を見開き、よく見るがいい。これこそが真実、これこそがお前の追い求めてきたすべての結末だ」
 ライラが妖しく微笑んだ。その瞳はもはや燃えるような紅玉髄の朱カーネリアン・レッドではなかった。生あるすべてを凍てつかせるような、心の奥が透徹するような、冷たい瑪瑙の青アゲイト・ブルー
「……嘘だ」
「嘘でなどあるものか。これ以外に真実は存在せん。真実は……この世で信じられるものはただひとつ、自分の目の前に広がる景色だけだ。記憶など……過去など、この淀んだ世界では意味を為さないのだからな」
 僕の膝はついに僕自身の重みに耐え切れず、崩れ落ちた。僕は無様に膝をついた。
 もう言葉が出ない。
「黒猫は実に勇敢だった。今までとは違ったよ。自らの命さえ顧みなかった。だが……どこかに、心の隙があったのだな。私が黒猫の記憶を喰らったとき、おまえによく似た人影が見えたよ。今までは、こんなことはなかった」レジェドリアがクックックッと陰惨に笑った。「野良猫め、最後に失いたくない記憶と巡りあえたらしい」
 ……許さない……
 ……許さない……
 ……許さない……!
「お前だけは、許さない……!」
 僕は膝をついて立ち上がった。膝の震えも、心臓の鼓動も、もうどうでもよかった。
「お前には無理だよ、ティガ」レジェドリアは指輪のついた手を気だるげに振った。「やれ」
 彼女がマントを脱ぎ捨てた。蝋燭の明かりに、彼女の褐色の肌が浮かび上がったとき、僕は息を止めた。
 彼女は……なにひとつとして身に纏ってはいなかった。
 彼女はゆっくり、僕のほうへ歩み寄ってくる。引き締まった腿が、胸が、薄明かりにきらめいてテラテラと光っている。
 僕は急にわめきだしたい気分になった。もういい、もうやめてくれ。
「ちくしょう」僕はようやく、一言だけつぶやいた。
 僕はゆっくり鞘を払った。度重なる戦いに傷だらけになった剣が、炎の照り返しにゆらめく。その握りの手ごたえだけがはっきり現実めいている。違う、もういい。誰かこれは悪い夢だと言ってくれ。
「ちくしょおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉッ!!」
 僕は不器用なまでに剣をまっすぐ振り上げた。天井につかえそうなほど無様に振り上げて、天を突き上げる形のまま停止させる。
 許さない!
 振りかぶった剣を、大上段から思いきり振り下ろす。世界で最も憎い男めがけて。天も地も目の前の景色さえも、すべて裂けよとばかりに。だが、それは途中で、無様なかたちで止められた。
 彼女だ。彼女の手が、僕の両腕を頭の上で掴んでいる。いつ動かしたのか、全く見えなかった。どんなに力を込めてもビクともしない。まるで何もない空中に、虫ピンで止めつけられたように、僕の剣は動かない。
「う、くっ……!」
 僕はもがいた。どうにかその手を振り払おうと、必死になって体をよじった。それでも彼女は、その手を離さない。なにも言おうとしない。
 僕は彼女を睨んでやりたかった。その瞳を見つめて、以前の面影を探したかった。
 できなかった。僕は、彼女の顔を見ることすらできない。彼女のほうに顔を向けることも出来ない。その顔を……あまりに凄惨な現実を見つめるには、僕は絶望しすぎているから。
「ちくしょう、こんなことって……!」
 僕はうつむいたまま、もがくように肩を引っ張る。腕は振り上げられた形のまま、僕の頭上で動こうともしない。
「無様だな」レジェドリアがつぶやいた。「ちっぽけだ。そうまでして貴様、生きたいのか?」
「違う……!」僕はあえいだ。生きたい? ……違う!
「ならば、なぜ抗う?」
「かえせ……」僕は食いしばった歯の奥で唸った。「彼女をかえせ……!」
「面白いことを言う。お前の目の前にいるではないか」
「じょう、だんじゃ、ない……!」僕は精一杯、肺から声を絞り出した。「『これ』は……彼女、なんかじゃ、ない……!」
 と。
「あら、どうして?」
 彼女が唇を開いた。そのあまりの妖艶な、背筋が凍るほどの声に、僕は思わず彼女のほうを振り向いた。
 見なければよかったと思った。
 氷のように冷たい瞳は、なにか目に見えぬ悦楽を秘め薄く細められている。照り返しに濡れた唇は生き物のようにうごめき、ひとときとして留まらない。
「わたしのことを、忘れたわけではないのでしょう?」
「貴様ッ……! 彼女に、なんてことを……!!」
「そうね……そうよね、忘れられるはずがないわ」彼女は妖艶に笑った。
「うふふっ」
「こんなことが……こんなのが現実だっていうのか……!」
「フフッ、やはり若者の情熱というのはいいものだ。どんなに絶望的な状況でも、ありもしない希望にすがりつこうとする。……それさえもが、私に作り変えられ書き換えられたた記憶とも知らずにな」
 自分でも驚くくらい、ズキリと心が痛んだ。
「バカな! お前の言うことなんて、信じられるもんか!」
「なんだ、考えてみもしなかったのかね?」レジェドリアはやれやれ、といったふうに首を振った。「君がいま感じている悔しさ、絶望、憎しみは、すべてわたしが作り出したものだ。その上で泳がしておいたのだよ。神殿騎士としての過去も、その女への思いも、全てをお膳立てしてな」
「黙れ! そんな戯言をッ」
「ありえないことだと思うか? そんなはずはないと、言い切れるか?」レジェドリアは目を細めた。「だが君は、うすうす感づいていたんじゃないかね? 実際に感じた君なら分かるだろう。どんなに確かに思えたとしても、しょせん記憶は記憶。書き換えられればそれを疑うこともできん。……いや、失礼。記憶喰いを『実際に感じた』というのも、私が作り出した記憶だったかな」
「バカなッ……!」
 ありえる。十分にありえることだった。
 それでも僕は、信じたくなかった。いや、信じてはいけなかった。そうかもしれない、偽の記憶かもしれないと、少しでも傾きたくなかった。なぜならそれはまさに、僕自身がついさっき想像してみたことそのものだったから。その可能性も決して否定できないことを、ちょうどここへ来る前に空想した事だったから。
 負けるな。その考えに呑み込まれるな。信じてしまえば、自我を保てなくなる。正気ではいられなくなる。
 そこは暗闇、底なしの深淵。一度落ちれば、這い上がることは決して出来ない、永遠の奈落。
「これで何人目になるかな、君のような犠牲者は」レジェドリアはなにかを指折り数えた。「もうこれくらいしか楽しみがなくてね……いつ見ても壮観だな。狂気から必死で逃げようともがく若者のあがきというのは」
 だが。いや、たとえそうだとしても。
「《俺》は……負けん……!」
「ほお」レジェドリアの髭がぴくりと動いた。「驚きだな。これでもまだ正気でいられるというのは。それは私がおまえに与えた『もう一人の自分』のおかげかね?」
「違う!」僕は自分を取り戻そうと必死にもがいた。「そうさ、そんなわけあるはずない! これが作られた記憶なもんか、このライラへの気持ちが、お前なんかに作り出せるもんか!!」
「なるほど、大したものだ。……おい」
「ティガ」
 妖艶に囁く、低く歌うような響きに僕はハッとした。
「ラ、イラ……」
「そんなにもわたしのことを想っていてくれたのね。うれしいわ」
 彼女が耳元で囁く。褐色の肌が、僕の体に密着する。甘く熱い吐息が、僕の耳朶をくすぐる。
 電撃のような感触が、僕の背骨を駆け抜けた。
「よせ……やめろッ……!」
「そんなにも想っていてくれるなんて、幸せ者ね、わたしは」
「ううっ……うわっ……!」
 卵形の輪郭。浅黒い褐色の肌に、スッと通った鼻梁。長い睫、大きな瞳。
 彼女の顔が、いつかはじめて出会ったときと同じ、だが何かが決定的に違うその顔が、僕の間近に迫る。蛇のようにちろちろと出し入れされる舌が、その唇をヌラヌラと輝かせる。
 僕の目の前に、鼻と鼻がくっつくほど近くにその顔がある。いつかはあんなに遠いと思ったあの顔が、少し首を伸ばせば接吻できそうなほどすぐ近くにある。
 頭上の剣が、乾いた音を立てて床に転がった。
「やっぱりあなたの瞳はキレイね……吸い込まれそう。はじめて見たときから、ずっと思ってたの」
「違うッ……!」僕は必死に目をそらした。「お前は、ライラじゃない……!」
「どうして?」囁く吐息。頬の傷が、かすかに紅潮している。「わたしはライラ。あなたの永遠の思い人よ」
 体の震えが止まらない。
 僕は彼女から少しでも顔を遠ざけようと、腰を、肩を、全身を引いて踏ん張った。だが彼女の手は、それすらも許してくれない。爪先がむなしく地面を引っ掻くばかりだ。
 頬が冷たい。涙で視界がかすむ。輪郭がぼやけて、はっきりと像を結べない。
「うあぁぁっ……」
 嗚咽が喉からこみ上げてくる。
 イヤだ……イヤだ……! もうイヤだ……!
「どうして泣くの?」彼女はなおも囁く。「ほら、どうしたの? わたしを好きにしていいのよ。あなたの好きなトコロを触っていいのよ? ほら、触りたかったんでしょう? ずっと、わたしと、したかったんでしょう?」
「うぁっ……ああッ……!」
 とめどなくあふれる雫が頬を濡らす。僕はまるで子供のようにボロボロ涙をこぼす。
 と、彼女が僕の腕をぐいっと引っ張った。彼女の顔が視界いっぱいに近づいたかと思うと、気づいた時には彼女の唇が僕の口を塞いでいだ。

 それは心臓も凍るような、死神のくちづけ。

 僕はなすすべもなく、ただ涙を流すばかり。

 やがてじんわりと、僕の脳髄を甘い痺れが覆った。筋肉が弛緩し、全身の力が抜けていく。
その名前は諦めだった。その名前は絶望だった。
 もう、どうでもいい。そんな言葉が浮かんだ。どんなに嘆いても、もう彼女は戻ってこない。何もかも諦めてしまおう。そうすれば、少しは楽になれるかもしれない。涙はとめどなく溢れてくるけれど、心はべったり黒いけれど、それももうどうでもいい。もう、どうでもいい。
 まるで彼女は、僕の心を読み取ったようだった。僕の瞳を見て、その目を嬉しそうにうっすらと細めた。そして、わずかに身を引くと
            ズブリ。

 氷のような鋼の冷たさが、遅れて痛みが僕を貫く。僕は胸を押さえると、スローモーションのようにゆっくり、床に倒れる。鈍い音が響く。
 指先からじわじわと冷たさが、這蟲のように忍び寄ってくるのが分かった。その蟲の名は死だ。心臓の高鳴りが急に萎れていく。僕の体が、生きることをやめようとしている。諦めようとしている。
 彼女が僕の胸から、カタナを引き抜くのがかすかに視界の端でわずかに見えた。
 堰を切ったように、胸から鮮血が迸った。彼女は床に倒れる僕を無造作に見下ろして、カタナを鞘にしまう。彼女は黒髪をたなびかせて、踵を返し、僕に、背を向ける……


















( 暗闇 )
















( 死…… )









 浮遊感が僕を包む。
 両手を広げて、暗闇の中で、支えるものもなくぼくはひとり、静かにたゆたっている。
 僕は、死ぬのか……
「――ぃ――ぉい、おい」
 暗闇の中で、かすかな明かりがゆらめいている。誰かの声が僕を呼ぶ。誰かが僕の頬を叩いている。
 ここは……どこ……?
「――い! 起きろ。このま――に」
 どこかで聞いたことのある声。前世のような昔に、ひどく思い焦がれた声。
 遠くなったり、近くなったりする。
 ……ここは、天国……?
「おい――きないのなら、放って――くぞ」
 その低い、歌うような声。
「おい!」
 僕はその声に、ゆっくり目を開いた。かすかに見えるシルエットは……誰だ……?
「あれ……?」
 僕は薄く目を開いた。創造主の間の、くすんだ灰色の天井がぼやけながら視界に広がっている。
「気がついたか」
 彼女は少しホッとしたような顔で、僕を覗き込んでいる。その瞳は黄昏の赤。氷山のように冷たい瑪瑙の青アゲイト・ブルーではない。
 頭の奥がかすかに痛み、あの甘い痺れがまた僕を包んだ。
 ああ、じゃあこれは、きっと夢なんだ。死の間際にある僕のまぶたの裏に映った、幻影なんだ。
 なんて幸せな、なんてお気楽なヤツなんだろう。この期に及んでこんな暢気な夢を見られるなんて。
 でも、これで悪くないじゃないか。最後がこれでよかった。最後にもとどおりの彼女の姿を見られてよかった。せめてもの救い、ってヤツだ。だって、あのまま終わるなんて、あれが僕の追い求めてきた結末の姿だなんて、あんまりに悲しすぎるじゃないか。
 世界は穏やかで、妙に歪んでゆらめいている。手足の感覚が妙にはっきりしているのも、通り過ぎてはならない段階をすでに通り越してしまったからのように僕には思えた。
 これが、エンディングか……
 そう思うと、僕はなんだか無性におかしくなった。
 僕は不意にこみあげてきた笑いをこらえきれず喉を震わせた。喉を震わせるそれはうまく笑いにはならず、気道で詰まったまま震えた。僕は咳をした。ゲホゲホやって、喉を押さえてから、急にハッとした。
「僕……生きてる……?」
 僕は上体を起こし、左胸を触ってみた。血はすでに流れきっていて、淀んでなかば固まっている。
 信じられないが、本当に生きているらしい。
 どうやら、僕が倒れてからそれほど時間はたってないらしい。僕はハッとして、慌てて胸の傷に手を当ててみたが、不思議なことにほとんど痛みすらない。
「急所が、はずされてる……?」
 それどころじゃない。心臓をかすめるように走った傷は、血管をほとんど傷つけていない。まるで大事なところをすべて避けて、隙間を縫っていったように。
「ああ」彼女は黒いマントをまた羽織っていた。「なぜだか分からんがな。まぁ、神の奇跡としか思えまい」
 僕は痛みを起こさないように、ゆっくり治癒のために魔力を注ぎ始めた。
「痛っ……あのあと、どうなったの?」
「見ろ」彼女は顎をしゃくった。棺の上に倒れているのは、まぎれもなくレジェドリア大司教。だが、無造作に投げ出された生首が、胴体とは違う所に転がっていた。白く濁った目が、ここではないどこかを見つめている。
「……死んだの?」
「ああ。そなたが刺され倒れた時だ」彼女は自分の眉間を指差した。「急に、醒めた」
 何が? と聞く必要はなさそうだった。
「そう、だったんだ……」
 なんだかわからないものに胸を締め付けられて、僕は息を吐いた。
 そんなことを言われても、にわかには信じられなかった。まだ夢でも見ているんじゃないかと疑ってしまう。まぶたの裏に焼きついた絶望の陰はあまりにクッキリ濃く、あまりに現実的だったから。
 だが現に、僕はここにこうして生きている。両手両足、五体満足にくっついている。
「だが、そなたの傷は……なぜか分からぬ。あの時、わたしは確かに……」
 僕も分からない。あの時確かに、心臓を貫かれたように感じたのに。わからないことだらけだ。
 ひょっとしたら、ここが『創造主の間』だから、かも知れない。神の奇跡っていうものを、僕はあまり信じちゃいないけれど……信仰というのはある種のエナジースポットを生む。世界中の祈りが、ある種の魔法詠唱のような効果をもたらすことは、実際にあるらしい。それが回復魔法のような効果をもたらした、とも考えられる。
 それとも、あのとき彼女は、心のどこかで……
 これは奇跡なのかもしれない。理論的ななにかじゃなく、真っ向から奇跡なのかもしれない。僕はそう思った。だとしたら、あまりにロマンチックじゃないか。
「もうちょっと信心しようかなぁ」
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもないッス」
 僕は笑った。彼女も、少し笑った。背中を向けていて僕には見えなかったけれど。
 僕、本当に生きてるよ……
「な」彼女は振り返った。「そなた、いらない袋か何か、持っておらぬか?」
「袋? なんで?」
「もちろん、このクズがそなたと同じく蘇らんように、首を持ち帰るのだ。いくら不死身でも、首なしでは生きてゆけまい? それに、首さえあれば自らを疑うこともない。間違いなく、こやつを仕留めたのだということをな」
 げ。……だからって、そんな不気味なことをよく思いつくな。
「なんだってそんな怖いことを……それに、使うなら自分のマントを使えばいいじゃないか」
「そうしたいのは山々だが」彼女はムスッと眉をしかめた。「わたしはこれ以外に身につけるものを持っておらん」
 げげっ。そうだった。
「そ、それならそうと早く言ってよ」僕はあわてて顔をそむけた。「よ……っと。ハイ。これでくるんでやるといいよ」
「すまん」
 彼女が僕の外套――神殿騎士の徴である三角十字が刻んである――で首をくるんでいる間、僕は横目で彼女の背中をそーっと盗み見ていた。が、確かに曰く言いがたい、間違いなく女性であることを証明する曲線を認めてしまい、あわてて咳をして目をそらした。それから、深くため息をつく。
 いまこうやって振り返ってみると、今までのことがなにもかも夢のように思える。彼女との出会いも、それからの不思議な出来事も。
 そして、創造神の間での出来事も、変わってしまった時のライラの顔も。まるで空想の出来事のように現実感がない。
 ひょっとしたら僕はまだ、レジェドリアのかけた記憶操作にはまっているんじゃないだろうか?
「まさかね」僕は声に出して言った。そうでもしないと、その考えに飲み込まれてしまいそうだったもんだから。
「なにをしている?」彼女は振り返ると、こともなげに言った。「ボヤボヤしていると置いていくぞ。それとも、出口で大騒ぎしている見張りどもと自分ひとりでやりあいたいのか?」
「冗談じゃない!」僕は震えた。
 もう二度と、こんなことには関わらないぞ。


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