神殿寓話 第四章


掲載サイト:ESSENTIAL  作者:ねざ

第四章 俺


 薄暗く狭い部屋に、暖炉が暖かいオレンジの光を放っている。
 床にはさまざまなものが散乱している。主人をなくした短剣の鞘。愛用のタオル。あまりに使い古して親指のところにちょっと穴の開いた皮のブーツは、まだ水を滴らせている。小さい頃から憧れた、勇者王の伝記。読み古していて、もう表紙なんか手垢に黒ずんでいる。ぼろきれのようなシャツが数枚、樫の木を削りだした練習用の木剣。蛾ペン、羊皮紙。さっき脱ぎ散らかした、神殿騎士の革鎧。
 壁には剣や、手製の弓が立てかけてある。二年前にもらった合格通知が、額縁の中で日に灼けている。
 本邦初公開、僕の自室だ。
 部屋には暖炉と、簡素な木製のテーブルと、ベルベット色のシーツのベッドだけっていう、すごくシンプルなものしか置いてない。まぁ兵士の一人暮らしったら、だいたいこんなもんなんだろう。確かめたことはないけれど。
 僕は水びたしになってしまった服に変わって着替えた布切れをなでながら、ぼうっと暖炉の炎を見つめた。組んだ薪が小さな炎に炙られ、かすかにパチパチとはぜる。誰にとってもどこか懐かしい暖かさの波動が、僕の頬を橙に染める。
 僕は今、ひとつきりの背の低いテーブルの上に腰かけている。なぜなら、ベッドはすでに先客で埋まっているからだ。僕はそっちをチラリと盗み見た。
 まだ水の滴る黒くまっすぐな髪が、炎の照り返しにさまざまに色を変える。閉じられた瞳のまつげは、思ったよりずっと濃く長くて上を向いている。寒さにすぼめられた唇は、時おりなにかをうわごとのようにつぶやいている。
 身につけているあのいつもの革鎧が、水を吸ってますます肌に張り付いていた。どんな凄腕の剣術使いだとしても、首筋から胸にかけての隠しても隠しきれない妖しい曲線は、やはり若い女性のもの。革を押して冷たさに硬く立った、ふくらみの中心の乳首を見たとき、僕はなぜだか分からないけど見てはいけないものを見た気がして、慌てて目をそらした。
 全身にボッと火がついて、ぶすぶす音を立てて燃えはじめる。参った。
 身体ごとあさっての方向を向いて、考える。彼女はなにものなんだろうか。どうして彼女は大司教の命を狙っているんだろうか。
 僕は自分の両手を、兵士だというのに剣ダコのひとつもない、妙にすべらかな手のひらを見た。体は芯まで冷たいはずなのに、手のひらはじっとり汗で湿っている。ゆっくり指を動かして握って、開いてを繰り返してみたけれど、原因はつかめそうにない。
 妙に心臓がごとごと高鳴っている。頬が赤いのは、決して炎の照り返しばかりのせいではないだろう。僕はまるで自分がとんでもなく悪いことをしている気がして、せいいっぱいに横目を使ってチラッと彼女をまた見た。
 閉じられた唇に目が吸い寄せられる。ダメだダメだと思っていても、その口紅もささない、青ざめた唇が視界いっぱいに広がって他のものが目に入らなくなる。寝言だろうか、時おりつぶやくその動きが、まるで魔物の幻術のようにうごめいて見える。僕の震えている手が勝手にそれに触れそうになるのを、グッと強く握り締めてこらえる。これ以上見ているとどうにかなってしまいそうだった。とんでもなく強い力でくっついている僕の視線を、意志の力で乱暴に引きはがした。それだけでもうヘトヘトだ。そんなことを、一体何度繰り返しただろうか。
 いったい、僕は何をやってるんだろう。そう自分を罵ってやろうとしても、口から洩れるのはやるせないため息ばかり。
 思い切って目を閉じて、薪が時おり爆ぜる音に耳を傾ける。大司教の屋敷の大騒ぎも、ここまでは届いてこない。身を切るような静寂。どんな喧騒よりも、圧力になって耳を聾する。
 その静寂に混じって、かすかに彼女の息づかいを聞いてしまった僕の心臓は、性懲りもなくまた早鐘のように鳴り始めた。
 うう、なんでだろう。ここは僕の家だっていうのに、さっきから妙な気分だ。まるで今まで一度も訪れたことのない、全くの他人の家に閉じ込められたような気分がする。
 だんだんと目を閉じているのもツラくなってきたぞ。瞼がピクピク動く。両手を組みなおしてそれに頭を乗っけてみても、それをほどいて頭の上に置いてみても、動悸はおさまりそうにない。
 ええい、諦めた。僕はため息をついて再び目を開いた。
 途端、驚いた。
 彼女がこっちを見ていたからだ。
「ぅあっ! 」僕の第一声は見事にうわずっていた。「ああ、目、覚めたかい」
 彼女は僕をじっと見つめてから、部屋に視線をうつした。
「……どこだ、ここは」
「あぁ、僕の部屋」作り笑いでも、しないよりマシだろう。「心配しないで。ここは安全だから」
 彼女はのっそり起き上がって、自分の体を見回した。痣や打ち身だらけだが、とりあえずは五体満足にくっついている。
「あ、ひどい怪我だったからさ。勝手に治させてもらったよ。回復系の魔法は得意じゃないから、大変だったけど」
 余計なことまで言う自分の正直さが呪わしかった。
「……そうか」彼女は自分の手首を確かめるように曲げてから、拳を握り締めた。
「それから、あのすごい剣は油塗ってそこに置いといたから」
「ああ」彼女は僕が指差した先にあった剣をチラリと一瞥した。「すまん」
「いえいえ、どういたしまして」ちょっと照れる。
 彼女はそのカタナっていう魔剣を鞘から抜いてためつすがめつ眺めると、やがて腰に仕舞った。次に彼女が懐から取り出したのは、風変わりな金鎖だった。
 彼女はそれを手に取りじっと眺めていたが、どこも壊れたりヘンになったりしているところがないのを確認すると、その鎖のどこかをいじって首の後ろに手を回した。どうやら、ペンダントらしい。
「あっ、そうだ。ひょっとしてその服、濡れて嫌だったんなら乾かすよ?」なんとなくそれについて聞くのがためらわれて、僕は全く別のことを口にした。「代わりの服、持ってこようか」
「いや、いい」彼女はそのままの格好で立ち上がった。首飾りの中心の鏡がキラリと反射した。「これ以上厄介になるわけにいかん」
「そんな、気にしなくても……」僕は笑おうとしたが、彼女が剣を手に取り、歩き出すのを見てハッとした。「そんな、もう行くの!?」
 慌てて腰を浮かしかけた僕は、彼女の鋭い視線に正面から押し戻された。
「これ以上ここに留まれば、奴に勘付かれるかもしれん。そうすればそなたにも危険が及ぶ」
「外はまだ見張りが居るかもしれないし、もうすこしここに身を隠したほうが……」
「礼の代わりに忠告しておこう」彼女は水の滴る黒髪を括りながら、肩越しに僕を振り返った。「奴を侮るな。奴に近づくな。どんなことがあっても、奴の手に触れてはいけない」
「レジェドリア大司教……彼は、いったい何者なんだい?」僕は食い下がった。「それくらい教えてくれてもいいだろ?」
「奴はもとはただの乞食だ。貴族の家柄も、坊主としての経歴も、すべて作られたものに過ぎん」
「……どういうこと」
「いいか。奴の手に触れられるな。わたしのように、記憶を消されたくなかったらな」
「それっ……て……」
 僕はなぜだか、それ以上尋ねることができなかった。聞きたいことは山のようにあったけど、彼女の燃える瞳の、でもどこか寂しそうな色に気がついてしまった途端、すべての言葉は霧散したから。
 彼女は僕に背を向ける。いつもそうだった。
 彼女の出て行ったドアが夜風にきしむ音を、僕は時も忘れてずっと見つめていた。


 十隊の詰め所。僕は、いつもの机で足を組んで、外で草が風に揺られるのを見ている。
「ようっ、ティガちゃーん! ついにティガちゃんにも春が来たか? 頬杖に外の景色なんか眺めてため息なんてよ」ライズだ。
「……べつに」
「そろそろライントール隊長が拳骨落としに来るんだな。落ち込むのも無理ないんだな」ランライドもクロワッサンをもぐもぐしながらやって来た。「ティガも食う?」
「いらない」僕は手をひらひら振った。とてもそんな気分にはなれない。
「冷めてるねぇ……ひょっとしてお前、アレか? 大司教さまをちゃんと守れなかったのに責任感じてんのか?」
「そんなんじゃないよ」
 むしろ、その逆だ。でもそんなこと言えるワケ、ないよな。
「はっはーん」ライズは腕を組んでニヤニヤした。「じゃ、アレだな。こんなこと言ったらきっとまた真っ青モンだな」
 僕は振り返ってライズたちの顔を見た。「なんだよ?」
「ライズ、別に威張るほどのことでもないと思うんだな」
「それがよ。俺らさっきお前の思い人に声かけられちまったんだよな〜」
 ライズはさも誇らしいことであるかのように笑った。
 正直、その時僕はドキッとした。最初に思い浮かんだのはあの、顔に傷持つ美貌の彼女だったからだ。
「なっ、なんだよ、それっ」
「ははぁん、分かりやすい奴だね、お前って」
「そんなことを自慢げに言ってるライズも負けず劣らず分かりやすいんだな」
「それも、お前のこと聞かれたんだぜ?」ライズはやれやれと頭を振った。「めでたく両思いってか? やれやれだぜ」
「ライントール隊長も一緒だったんだな」
 隊長が? どうして?
 なんだか話の方向が変わってきたぞ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そのひとって、誰さ?」
「だぁーから。決まってンじゃねぇか。お前の思い人の」
「レジェドリア大司教なんだな」
 !!
 なんだって!!?
「レジェドリア大司教!?」僕は勢い込んで立ち上がった。木製の椅子が倒れて盛大に音を立てた。「どういうことだ!」
「うおっ! 何だよ、そんなに驚くことねぇだろ」
「まぁ一介の兵士に大司教さまのお言葉を賜えるなんて、そうそうないもんな」
「そういう問題じゃなくて!」
 なぜ大司教が僕のような所に? あの時彼女を助けたのが僕だってバレたんだろうか。それで裏切り者の役立たずを始末しようとしている、とか? いや、大司教は僕のことなど知らないはずだ。顔をチラッと見られただけだし、それも記憶に残ってるとは思えない。例えあの屋敷で顔を見られ、それを憶えられていたとしても、ランライドのいうとおり一介の兵なんかにいちいち注意を払うような身分じゃないぞ、大司教っていうのは。百歩譲って僕に注意を払っていたとしても、ここを、全部で三桁を数える神殿騎士の小隊のひとつを嗅ぎつけるなんて不可能に近いはずだ。
「そーゆーワケで、ティガ。レジェドリア大司教さまがお呼びでーす。行ってらっしゃい」
「ライントール隊長もいるから、早くしたほうがいいんだな」
 ありえない。ありえるハズない。
 だが、実際に彼はやって来ている。実際に僕の元までやって来て、扉を開ければすぐそこにいるんだ。
 僕は迷った。何を迷ったのかって、もちろん。
 今すぐここを逃げ出すかどうか、だ。
 すぐに逃げれば彼に会わずに済むかもしれない。逃げおおせる自信は、ハッキリ言ってないけれど。だが少なくとも、なすがままになるよりは……
(いいか。奴の手に触れられるな。わたしのように、記憶を消されたくなかったらな)
僕の脳裏に彼女の言葉が蘇った。その言葉がどこまで真実を言い表しているのか、あるいはとんだデタラメなのか。判断するべき材料は、あまりにも少なすぎる。
 だが、僕は「分かった」と一言だけ言うと、ゆっくり立ち上がった。
 逃げたい気持ちはあった。絶対に会いたくないと、このまま消えてしまいたいと思う気持ちのほうが強かった。だけどたとえこの場はうまくやりすごせたとしても、大司教からはきっとどれだけ逃げたって無駄だ。逃げ切れやしない。僕が立ち上がったのは、そんな気持ちからだった。彼女の忠告が真実だったとしても、運命から目を伏せているより、自分の足で運命を切り開いたほうがいい。
 なぁに、きっと大したことない。きっとうまくいくさ。
 僕は大股に、できるだけ堂々と歩いて、ドアのノブを回した。
 それから……





 それから……







 それから……














 コレガホントウノオマエダ









「……ぃ! おい、ティガ! ティガったらよ!」
 どこか遠くで呼ぶ声が聞こえる。視界が霞がかってぼやける。
「ティガ、大丈夫かッ!? おい、しっかりしろよ!」
 頬を叩く感触に、俺は、かすかに目を開いた。
「う……?」
 見上げればよく見慣れた詰め所の壁。救護室の、天井だ。
「よかった。目を覚ましたんだな」
 かすんだ視界を目をこすってはっきりさせると、ライズとランライドが心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「うぅ、俺は……」
「なにやってんだよ。大司教さまと話した後に、急にぶったおれちまったんだ。ったく、流行り病じゃねぇかって、十隊みんな大騒ぎだぜ?」
「治癒師によれば、目を覚ませばもう心配はないらしいんだな。隊長も珍しく取り乱してたんだな」
「ああ、すまない。俺は……どのくらい、寝てた?」
「かれこれ半日なんだな。でももう心配ないんだな」
 半日も眠ってたのか、俺は……
 起き上がろうとすると、まだこめかみに鈍痛を感じた。いったい何があったというのだろう。
「まだ調子、悪ぃのか? 無理せずに、ちゃんと休んどけよ」
 俺はまた横になった。さすがにまだ立つと辛いらしい。
 だが、なんだろう?
 この、空虚な感じは。
 まるで心にぽっかり穴が開いたような……
「今日はもう遅いから、家まで送るんだな」
「おう、そのほうがいいかもな」
「ああ……すまない。助かるよ」
 俺はふたりの肩に両手を預けて、ひょこひょこ歩いて家路についた。
 頭の痛みは一晩寝たら治まった。だが、心の空虚さはなかなか静まらなかった。


 次の日。いつもの風景、いつもの十隊詰め所。
 『忍耐の』ライントール隊長が、もったいぶって咳払いをした。
「ぁー、諸君! 今日は、第二大隊での合同訓練がある! 教会の要人襲撃における、迅速な反応を養成するための訓練であると同時に、君たちの平時の訓練の真価が試される時でもあぁーるっ! 全員、心して訓練に望むようにっ! 以上!」
 詰め所がにわかにざわつきはじめた。
 抜き打ちの合同訓練なんぞ、ヒマなお偉方が考えそうなことだ。
「おい、どうするよ、合同訓練?」ライズが近くで耳打ちした。
「さてな……ま、与えられたことを目一杯こなすしかないんじゃないか?」
「そりゃそうだけどよ。この時期に合同訓練なんかするのに、意味でもあんのかねぇ?」
「先日のレジェドリア大司教邸の襲撃事件を反省してだと思うんだな、うん」
 いつのまにかランライドも、腸詰めなんか頬張りながら話を聞いている。
「隊長も張り切ってるよなぁ」
「この機会に十隊の実力を見せつけたいんだろ? でもまぁ、いつもみたいになるのがオチだろう」
「相変わらず辛辣なんだな」
「静かにっ!」隊長が一喝した。「8008から8094までの各員は通常戦闘装備でB‐十一訓練場に移動。残りはここで待機。以上! 駆け足ッ!」
 詰め所全体が「了解ッ!」と声をそろえた。


 弓の遠当てに、剣の合わせ稽古。三人一組で行動する戦術と、ひとりで大勢と渡り合う方法。それに、明らかに前の屋敷襲撃を意識した擬似戦闘。
 合同訓練なんて聞こえはいいが、要するにいつもやっていることと大して変わりはない。誰かが『合同訓練なんて部隊の我の張り合いの場だ』と言っていたことを、俺はぼんやりと思い出していた。
 ――やっぱり、話しておこう。
「な、ライズ、ランライド」その合同訓練の休憩中、俺はふたりに声をかけた。「今、いいか?」
「お、おぉ。いいぜ」
 俺は二人の間に腰かけた。
 青空はいつにも増して深く、太陽はまるですべてを支配したかのように堂々と中心に居座っていた。それを円形に取り囲むように雲たちがはいつくばっている。高いところに行くほど深くなっていく青さに、俺は目を細めた。
「ちょっと相談ごとなんだが」
「なんだ、珍しい」
「俺もそう思う」俺はちょっと笑った。自分でもうまく笑えていないだろうと思いながら。「俺さ、実は最近、妙なんだ」
「妙って、何なんだな?」
「それがさ、何ていうか……最近、フッと気がつくとちょっと前の記憶がなくなってたりするんだ。自分でもなんでこんなことしてるか分かんなくなったり」
「オイラもよくあるんだな、それ」ランライドは両手を手持ち無沙汰そうにしながら言った。今はなにも食ってない。「昨日の晩御飯なに食べたか忘れたり、しょっちゅうなんだな」
 ライズが「お前のは違ぇよ」とツッコみを入れた。
「そうじゃなくて……まるで記憶にポッカリ穴が開いたみたいになるんだ。覚えて入るのに、まるで現実感がない」
「……ティガ……」
「ときどき突然怖くなるんだよ。うまく言えないけど……俺はなんだか、他人の人生を生きてるんじゃないかって、意味もなく思えたりするんだよ。なにがなんだか分からなくなるんだ。ワケもわからずわめきだしたくなるんだ」
 俺の頭の中で、なんだかよくわからないものたちが渦巻いた。急に頭の中が真っ白になったり、真っ赤に燃え上がったりする。自分の中に住むもうひとりの自分が、ここを出せと頭の裏側から叩き続けている。
 俺は、いったい、どうしちまったんだ?
「ティガ……お前ひょっとして、疲れてンじゃねぇか? この前も突然倒れたりしたしよ」
「こんな退屈な演習なんかやめて、帰って休んだほうがいいと思うんだな」
「あぁ……そうなのかもしれない」
 俺が内心のわだかまりをうまく言葉に出来ないまま立ち上がった時、向こうからあわただしく走ってくる人影をみつけた。
「たいちょぉぉーーーー! 遅れてすいませーーーーん!!」
「ハルベルトなんだな」例によって目のいいランライドがつぶやいた。「あいつ、確か家庭の事情でここしばらく留守にしてたんだな」
「おおっ、ハルベルト! よく戻ってきたな。残念ながら今は休憩時間だ」隊長は顎髭のある口をニヤリとした。「今日の訓練の説明は……そうだな、アイツらにしてもらえ」
 隊長が俺のほうを指差した。まぁ、説明ぐらいいくらやっても減るものではないから、構わないが。
「はいっ!」
「よーよー、ハルベルトおぼっちゃん。俺たち差し置いて家族とリッチな旅行かい?」早速にじり寄るライズ。
「そんなんじゃないよ」ハルベルトはムスッとした。「パパの領地がずっと北にあってさ。そこの視察にくっついて行ったんだ」
「そんなこと言って、出る前より顔の血色がよさそうなんだな」
「いやー、そこの温泉が気持ちよくってさぁ〜」
「ンだおめぇ、結局のところ貴族の道楽じゃねぇか」
「へへ」
「なんにしろ、家族とゆっくり過ごせる兵なんて、ココのところ少ないんだな」ランライドはひとりうなずく。「よかったよかった」
「なーにさ、ランライドまで」ハルベルトはちょっと眉をあげて見せた。「ランライドだって、たまにゃあ親に顔見せてやったりしないの?」
 ランライドはちょっと視線をそらすと、うつむいて小声になった。
「……あんなの、家族なんかじゃないんだな」
「え、だって……」
「まぁまぁ、そのヘンの話はいいじゃねぇか」事情知ったるライズが、ハルベルトの肩を叩いた。「お前だって疲れてンだろ?つまんねぇ訓練なんて、サッサと終わしちまおーぜ。な、ティガ?」
「ハハッ、そうだな」俺はしかたなく笑った。だが。
「……ティガさん……?」ふとハルベルトが、俺の顔を不審そうに見回すんだ。
「ん? どうした?」俺の顔に、なにかついてるとでもいうのだろうか。
「ホントに、ティガさん……だよね?」
「なに言ってんだ?俺の顔、そんなに変か?」
 なにかの冗談か。それともひょっとしたら、ここのところの疲れが顔に出てるのかもしれない。ライズやランライドたちはずっとそばにいたから、気づかなかっただけのだろうか。
 だが、ハルベルトは俺の顔を見回すとますます眉根を寄せて、しかめっ面をするんだ。
「おかしい……絶対おかしい」ハルベルトは眉をはの字にした。「ティガさん、絶対なんかおかしいよ」
「おかしい? 俺が?」
「おかしいよ! なんか雰囲気と言うか……気配が違うしさ。それに、前までは自分のこと『俺』って呼んでなかったし」
「なんだ、それ……からかってるのか?」
 なぜだろう。喉がカラカラだ。
「なっ……からかってなんかないよ。うーん、なんかヘンな感じがするんだ。うまく言えないけど、前とは違う」
「じゃあ前は俺のことをなんて呼んでたんだ?」
 いつのまにか、俺は額に冷や汗をびっしりかいていた。
「え? ティガさんは……自分のこと呼ぶときいつも、『僕』って……」
「僕? なんで、そんなこと」
 チカリ!!
 僕……僕!?
 僕は……ティガ。ティガは僕だ。
 なに言ってんだ?ティガは俺だ、お前じゃない。
 いや、違う。昔からずっと、ティガは僕だ。
 違う!現に俺は、こうしてティガじゃないか……!
 違う!
 違う!
 違う違う違う!!
 ここから出せ!
 俺が僕が、いや俺は今までこうやって僕はこうして、俺って他のみんなもじゃあなんで僕だと、俺が僕が俺が僕が俺が僕が俺が僕が
 
 バリバリバリバリバリッ!!
 
「ぅうあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァッッッ!!!!」

「ティガ!しっかりしろ、オイ!」

 ビシビシビシッ、バキバキバキッ!!
 
「うああああっ、ぁあああァァァァァッ!! うああああァァァっ!!」

「どうしたんだよ!しっかりしてよ!」

「うおあああォォォォォァァァァ!! ぐおあああッッ……!!」









 ( 暗闇 )









 ふと意識が戻ると、僕は自室にいた。
 ――ゆっくり意識が戻ってくると、俺は自室にいた。
 ひどく汗をかいている。どうしたんだろう。
 ――胸に手をやると、汗まみれだった。いったい何があったというんだ。
 俺は自分の体を見回した。いつのまにか、自室にいつもいる時の動きやすい格好に戻っている。きっとライズたちが着替えさせてくれたんだろう。
 ――俺は自分が置かれた状況を思い出そうとした。なぜ俺は自室で寝てたんだ? 確か、今日は合同訓練があった。その休憩中に俺がふたりに相談事をもちかけて、それからハルベルトが戻ってきた。その後ハルベルトが俺のことを『ヘンだ』と言い出して、それから……
 ピシリ!
 ……ッッッ!!
 鋭い痛みに頭を抱えて、僕は愕然とした。
 今のは何だ? いったいどうなってるっていうんだ? 僕はいったい、どうしてしまったんだ?
 ついさっきまで、僕は僕ではなかった。この身体を操っている人間が、僕ではなかった。いや……僕ではあった。確かに僕はここにずっといたが……じゃあ、今のは何だ? 僕なら普通とらないような行動……普通ならゼッタイしないような言葉遣い。これは一体、どういうことなんだ?
 確か、そのなかで僕は自分のことを『俺』と……
 ピシリ!!
 ……ッッッ!!
 俺は頭を抱えて、荒い息をついた。脳の奥、中心近くで鈍痛がする。指先は自らの意思に従おうとせず、小刻みに震えている。
 俺はまるで、自分がこの世界のどこにも存在しなくなってしまったような空虚さを感じた。まるで、現実感が欠如している。
 心臓のうねりに応じて、こめかみがズキズキ痛む。
 ……いや、違う。これは『僕』だ。この痛みを感じているもの、自分の部屋で頭を抱えているのは、僕自身だ。
 では、さっきまでこの肉体を支配していた『俺』は誰だ?
 ――『俺』は『俺』。ティガであるものだ。お前こそ……『僕』こそ、誰だ?
 ――『僕』は『僕』。ティガであるものさ。きみこそ……『俺』こそ、誰なんだ?
 俺はティガだ。今までずっとティガで、これからもずっとティガであり続けるものだ。ティガは俺だ。お前じゃない。
 違う。ティガは僕だ。きみじゃない。
 それなら、『俺』は、誰だ……?
 いくら考えてみても、答えは出なかった。いや、いくら考えてみても、答えはひとつしかなかった。
 僕にとって、『俺』は僕自身だ。この感触も、この痛みも、僕が持っているすべては、『俺』も同時に持ち、所有しているものだ。
 だけど、違う。
 それは同じものを二人が同時に使っている、『共有』ではなかった。ふたりの男が、ひとつの肉体を『同時使用』しているのでもなかった。僕は『俺』が、僕を乗っ取ろうとしている誰かではなくて、きっぱり僕自身……うまく言い表せないけれど、いくら分離しようとしても自分のちょっと意外な一面ぐらいにしか分離できないものだと自覚した。そう自覚するのに、それほど時間はかからなかった。
 事態がだんだん飲み込めてきた。いまや『僕』も『俺』も認めざるを得なかった。どちらかが本物でもなく、どちらもティガなんだということを。
 いったい『俺/僕』はどうしてしまったというのだろう?
 じっとしていると、少しづつ頭が冷えてきた。相変わらず何がどうなっているのか分からないけど、とりあえず冷静に考えるくらいはできる。
 まず僕は、できるだけ『俺』の思考方法を排除して、一方の面から考えてみることにした。
 そもそも、こんな状態はいつから起こったんだ?
 考えてみれば、僕の意識が最初に途絶えたのは、あの詰め所にいた時からだ。レジェドリア大司教が僕を訪ねて来た、という話をライズとランライドから聞いて、会うしかないとハラをくくった。そして大司教に会って……会って、それからどうした?
 覚えてない。
 それからの記憶がない……!
 ひょっとして、大司教に記憶を消されたのだろうか。噂どうりに?
 でも、僕の『昔からの』記憶は、消されていない。ちゃんと覚えてる。覚えてるんだ。
 だめだ。次は『俺』からの視点でやってみよう。
 おそらくレジェドリアに何かされたというのは当たっているだろう。あいつは相当にきな臭かったからな。だが、昔からの記憶なら、俺にだってある。俺は確かにライズやランライドたちと同じ部隊に配属されて、確かにあの女剣士に遭遇している。二年前に合格通知を貰ったときのことも、正確に記憶している。
 どちらも、ティガであった記憶を持ってる?
 どちらかがニセモノってこと?
 そうかもしれない。その当時の話し方が『俺』のようだったのかまでは、思い出せないからな。ひょっとしたら自分のことを『僕』と呼んでいたのかもしれないし、そうではないかもしれない。そもそも自分の話した言葉を一言一句違えずに覚えている人間など、いるだろうか?
 しかし俺は、確かにいままでこの肉体で人生を歩んできた。少なくとも、俺の記憶ではそうなっている。
 でも僕の記憶ではそうじゃないんだ。僕の記憶では僕は『僕』として人生を歩んできている。
 その時、ふと……
 その時ふと、誰かの声が聞こえたような気がした。
〈自分の記憶さえ頼りに出来なくなったら、人はどうやって自分の人生を確かめればいい?〉
 記憶に頼れなくなった時。
僕はこの時、本当にはじめて、足元の地面が突然ガラガラ音を立てて崩れ落ちていく、全てが失われるめまいのような感覚に襲われた。
 今まで信じていたものが、あっけなく崩れ去った時の――
 そう。
 記憶に頼れなくなった時。
 記憶が、信頼できる情報ではなくなった時。
 それは、自分としての存在の完全な否定を意味するんじゃないだろうか?
 記憶に裏切られる。自分を『自分』として認めることができなくなる。
 僕たちは……
 僕たちは……なんてうすっぺらい薄氷の上で生きていたんだろう?
 待て!
 待てよ。絶望的になるな。自分をしっかり保て!
 さっき『僕』は、自分を認識できなくなると言ったが、そんなことはありえないんじゃないか。もし自分の記憶に頼れなくなったとしても、だ。周囲の情報、周囲の状況から真実を割り出すことは、可能じゃないのか? もし覚えてなかったとしても、通った道に足跡は残るし、言ったことは誰かが聞いてる。そうだろう?
 確かにその通りだよ。僕が昔『僕』だったかそれとも『俺』のほうだったかは、確かな証拠、跡としてこの世に存在してるハズだ。
 だとしたら、ティガは俺だ。ライズだってランライドだって、俺が『俺』として話していても、なんの疑問も感じないようだったじゃないか。
 ……いや、それは分からない。ハルベルトは僕のことを『僕』だと認識してた。だからこそ違和感に気づいたんじゃなかったっけ?
 仮説をひとつ立てよう。ティガはもともと『僕』だった。でも、レジェドリア大司教がなんらかの記憶操作をして、僕の頭にニセモノの記憶を植えつけた。その嘘の記憶によると、僕はこれまで『俺』として生きてきて、同じように神殿騎士をしていた。そう吹き込まれたんだ。
 ニセモノだと? だが、俺の頭はこんなにスッキリしてる。これだけ確かな人格を……奴が、造った、だって?そんなことができる奴なんて、本当に存在するのか?
 ダメだ。人格がふたつあると、どうも雑念が混じる。集中しないと。
 仮説を続けよう。彼は僕に記憶を植えつける際、ライズやランライドほか僕の親しい人間にも同じ記憶を植えつけた。記憶が確かなら(ああ、記憶が確かなら、だって?)、ふたりもレジェドリア大司教と会ってるハズだ。そして多分、隊のほかのみんなも。その時ライズ達は擦り込まれた。……僕はもともと出会ったときから自分のことを『俺』と自称していた、という記憶を。それで誰も、僕の人格が変わったことに気づかなかった。気づかなかったというより、はじめから『俺』だと思い込んでいたんだ。
 それで、この仮説の本物らしいところは、ハルベルトの存在だ。彼はその間、旅行に行っていたから、その場にいなかった。だから記憶の改ざんを受けずにすんだ。違和感に気づいた。……っていうのはどうだろう?
 ……確かにこの理論には筋が通っている。そうすればいくつものことが説明できるし、不自然だった点もはっきりする。
 だが、もしそうだとしたら、なぜ『僕』のほうの記憶が消されていない? なぜふたつの記憶が同時に存在したりするんだ? おかしいじゃないか。記憶を書き換えられたのに、元の記憶がそのままあるなんて。
 それに俺は、昔から物事を理詰めで考えるのが苦手な人間だ。こうこう、こういうワケだからあなたは作られた人格ですよ、ニセモノなんですよと言われて、ふうんそうなのかと納得できる奴がこの世に何人いるだろう? たとえ理論的に、筋通ってそうなのだと言われても、じゃあそうなんだと疑いもなく信じれる人間が、どれだけいるというのだろう?
 俺は俺だ。すくなくとも、その可能性は捨てられなかった。たとえ本当は間違っているかもしれないと思っていても、頭のどこかでは俺こそがティガなんじゃないかと思ってしまう。
 それに、本当にレジェドリアが記憶をどうにかすることができるんだとしたら、こうも考えられないか?
 俺は俺。ティガはもとから俺で、ほかの何者でもない。奴が植えつけたのは、『僕』のほうの記憶、そしてハルベルトの記憶だった、というのは。ハルベルトは旅になど出てはいなくて、ティガという男についての記憶をすりかえられていて……
 そんなバカな! 十隊のみんなならともかく、ハルベルトの旅まででっち上げるのは状況的に至難の業のはずだ!
 ハルベルトの経歴も、俺たちが思っている通りか、本当に?
 ……う……
 だろう?
 俺の言った仮説が間違っているという……『僕』の記憶が正しいという確証でもあるのか? いや、そもそもどちらも正しくない、ニセモノの記憶かもしれない。十分考えられることじゃないか!
 ちくしょう! 僕は頭を叩いた。
 二人いるようで二人でない。同一人物のようで、違う人格……
 僕は考えることに疲れ、頭を抱えた。
 僕は、誰だ?
 俺は、誰だ?


 自分でも気づかなかったけど、どうやら僕はフラフラと外にさまよい出てしまっていたらしい。真夜中の風は冷たく、ましてやこんな状態では身を切るような寂しさを感じさせる。
 どこへともなく、俺は歩いた。すでに人影はない。どの家も窓をかたく閉ざし、窓の明かりは消えている。滔国とうこく最大の都市、神都ジェスクウにだって夜は訪れる。それぞれが自分の居場所を持ち、自分の守るべきものを持ち、自分のベッドを持っているのだろう。
 フラフラさまよう足元はおぼつかず、僕は何度か転びそうになった。まるで足元の大地が急に消えてなくなったかのようだ。
 風が、やけに冷たい。
 明るいほうへ、明るいほうへと進むうち、いつしか僕は見知らぬ家並みに足を踏み入れていた。こんな夜更けにも、足元のおぼつかない酔っ払いや、きわどい格好をした女、あるいは黒装束に身を包みあたりをキョロキョロうかがう男……さまざまな人々とすれ違う。
 どの人も、俺とすれ違うときには不審そうな、怪しむような一瞥を投げてよこした。
 どうにも耐えられず、俺が手をついた看板には『G‐二十九』と書かれていた。その上には謎の落書きやら吐瀉物らしきシミが層になっている。
 場末の歓楽街だ。
 俺はとにかく、なにか華やかなもの、自分の気を紛らわせてくれそうなものを探して薄暗い道をふらふらと進んだ。だが、どんな美酒もどんな料理も、はたまたどんな美しい娼婦も、俺の心のドロドロを救う役に立つとは思えなかった。
 それは『僕』にしてみても同じだった。ひょっとしたら、もう誰も僕の心を救えないのかもしれない。僕はなにかに救いを求めて、でもまた心のどこかではそんなものは存在しないという絶望を引きずりながら、街をさまよった。
 ある一区画で、俺は歩きつかれて腰を下ろした。腰を下ろしたというより倒れたといったほうが正しいかもしれない。そこは魔法採光でテカテカと照らし出された賭博場のほど近くに流れる川岸、白い砂が人口の光に真紅から深緑までさまざまに色を変える砂浜だった。あたりに人の気配はない。
 『僕』の好みから言えば、そこはあまり一人で沈み込むにはおあつらえ向きな場所とはちょっと言いにくかった。けど、どっちの意見を優先するかなんて、ひとつに決めることは、僕にとってはあまりに難しい問題だ。本気で考えていたらきっと夜が明けてしまうだろう。
 傍らにある小石をちょっとつまんで川に放り投げたのは、逆に『僕』のほうの趣味だ。白くてつるつるした石は、濁った流れにさらわれてやがて見えなくなる。
 その時、背後に感じた気配に、俺は素早く振り返った。
「……そなた、なにがあった? さっきから後をつけていたが、尋常な状態とは思えん」
 彼女だった。
 『僕』のなかで、何かがドッと決壊するのが分かった。
「ああ」僕はそうつぶやいた。けどそれ以上は言葉にならなかった。
 女剣士はあの肌に張り付くような革鎧でなく、闇に紛れるような黒いマントを羽織っていた。流れる黒髪が反射を受けて七色に輝く。紅玉髄カーネリアンの瞳に、いま殺気はない。熾き火のような激情もない。だがその姿も、まるで夜の女王のように美しかった。
「なにがあった? よもや奴に勘付かれたのではあるまいな」剣を持たぬ女剣士は眉をひそめた。
「分からない」そう言ったとき、俺は『俺』だった。「そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらにしても俺にはたいして関係ない」
「そなた」女剣士は愕然としたようだった「まさか……!」
「なにか知ってるのか?なら、教えてくれ。もうどうにもならない。俺にも」そこで俺は頭を振った。「僕にも」
「奴め」彼女は歯軋りをした。「よりによって最も卑劣なやりかたを」
「何か、知っているのか?」
「……奴が貴族でも、坊主でもないことは前に話したな?」
「ああ」
「奴は『記憶喰らい』だ」彼女は吐き捨てるように行った。「奴の術に嵌った人間は、記憶を書き換えられる。偽の、奴にとって都合のいい記憶にな。奴の今の地位も、その術を使って貴族たちの記憶を書き換えたのだ」
「それじゃあ、俺は……」
「奴の手にかかれば、それまでの人生も、価値観も、愛するものでさえも忘れ、まったく別の人間になる。おそらく、記憶とはそういうものなのだろう。例え姿かたち、肉体はそのままでも、それはもはや、元の人間ではない」
 僕はなにも言えなかった。むしろ、『俺』の感じる、怯えにかき消されそうになっていた。
「人間が『自分』をどこに認めるのかと問われれば、おそらく記憶だろう。例え双子であっても、持つ記憶が違えばそれはまったくの別人だ。逆に言えば、どんなに姿かたち、また時代の違う人間であろうと同じ記憶を持てば同一人物となりうる。そのふたりはおそらく起こす行動も同じなのだろうな」女剣士は吐き捨てるように言った。「奴はそこに巧みに付け入る」
「じゃあ、俺は……」
「いままでさまざまな人間を見てきた。奴に踊らされた人形をな。死ぬほど奴を恨んでいた男は、ある日奴をかばって死んだ。旅一座の美しき処女は、ある日奴のメス豚になった。奴の服を汚した幼い少女は、直後にみずからの心臓を串刺しにして死んだ。ある女が……自分の記憶を消された。だが、そなたほど酷いものはそうはいない」
「俺は、いったい、どうしてしまったんだ……?」
「あの屑はそなたに、半分だけ記憶を植え付けたのだ。できるだけ相反し、否定しあうような記憶をな。同じことをされた人間を、わたしは何人か見たことがある」
「そいつらは、どうなった……?」
「残らず狂ったよ」
「そうか……」
「想像もつかん。自分の中に記憶が……思い出がふたつある、などというのは」
「……俺は……」
 俺は作られた人格なのだろうか。この感じ方、ものの見方までもが、すべて後になって付け足されたものなのだろうか。
 それとも、本当は僕のほうが……
 女剣士はしゃがみこんで、俺の目をのぞきんだ。
「まだ淀んでいない……たいしたものだな、そなた。これだけの仕打ちをされながら、まだ自我を保っていられるとは」
「明日には、分からないさ」
 それは心底、本当のことだった。
「ねぇ」僕は彼女を見上げた。「あなたなら、どうする?もし自分の過去が、すべてウソだと分かったら……?」
 彼女は眉を寄せ、唇を引き結んだ。
 そして、
 彼女は僕を、思い切り抱きしめた。
 ハッキリ言って、心臓が口から飛び出るかと思うほどビックリした。顔に血が上って真っ赤になる。
「すまぬ……!」肩のあたりで、彼女の声はかすかに震えている。「すべて、わたしの責任だ……!」
 彼女の胸のふくらみが、僕の二の腕につぶされる。
「わたしがそなたを巻き込みさえしなければ、こんなことには……!」
「あ、あっ」僕は口をパクパクさせた。
 頭から蒸気が噴いた。なにがなんだか分からない。心臓はそこらじゅうに聞こえるんじゃないかってくらい高鳴っている。頭に限界まで上った血のせいで頭がクラクラして、いまにも卒倒しそうだ。
「すまぬ……!」
「あっ、ああ、いや」
 もし感情に力があったなら、僕は恥ずかしさのあまり、ドロドロの溶岩になって溶け出し、あたりを火の海にしていただろう。それくらい僕は驚きもしたし、当惑もした。
 だが実際は、顔をリンゴみたいに真っ赤に染めるばかりだ。
「どんな咎をも受けよう。どんな償いでもしよう!」
「あ、いや、そそ、その……」
 そのまま彼女は黙り込んで何も言わなくなった。肩が小刻みに震えている。
 ひょっとして、泣いてるんじゃないだろうか。そう思うと急に、熱が引いた。代わりに、えぐるような鈍い痛みが僕の心をかき乱した。彼女を悲しませたくない。こんなにも僕のためを思ってくれる、優しい彼女を。
 こんなとき、男というのはどうするモンなんだろうか。持ちうる限りの知識と勇気を総動員して、僕は彼女の背中にそっと腕を回した。情けないことに、その手は小刻みに震えている。
 背中に僕の手の感触を感じ取ると、彼女がビクッと震えるのが分かった。
 僕は深呼吸した。
「だだ大丈夫だよ」が、声は震えて裏返っていた。みっともないことに。
「ぼぼ僕は、きっとホラ、大丈夫さ……ホラ、僕、根が明るいから、ね」
 彼女はしばらく僕の胸に顔をうずめていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……そなた……?」
 僕を覗き込む瞳。睫が、涙の露を宿して揺らいでいる。
「だから、もう、僕のために泣くのはやめてください。ね?」
 彼女は、その大きな瞳で僕をじっと見つめている。紅水晶の瞳が、その美しい目が、僕の心の中で詰まり、道を塞いでいた何かを、しかるべき所にストンと落とさせた。
「あなたのせいじゃ、ありませんから」
 これは彼女の瞳をまっすぐに見つめて言った。まずまずの上出来だ。
「そうだ、あなたは悪くない。悪いのはみんなの人生をメチャクチャにした、あのレジェドリアだ!」
「う、うむ」
「そうだ、そうに決まってる! あなただって、ヤツのせいで記憶を植え替えられたんでしょう!?」
「いやっ、わたしの場合は、空白、消去だ。すり替えではない。だが……」
「だとしたらっ、あのエロオヤジこそが諸悪の根源じゃないか! あなたが謝る必要なんてこれっぽっちもないはずだっ」
「そうだ……が、いや、そなた……?」
「正義のために、ヤツを討とう! それこそ世界のため、死んでいった皆のためじゃないか!そう思いません? ねぇ、あなた……えーっと。そうか、ないんでしたね、名前」
「そなた」彼女はすこし笑ってくれた。それだけで僕の心はあったかくなる。「妙な正義感を持っているな」
「よく言われます」僕も笑った。
「わたしの生まれたときの名は知らぬ。だが、わたしを知るものはわたしのことをライラと呼ぶ」
「ライラ、ライラ……うん、ぴったりだ。いい名前じゃないですか」
「そうか」彼女……ライラは、街のほうを見た。「わたしはあまり好いてはおらんがな」
「名前がないより、ずっといいですよ。呼びやすいし」
「そうか」
 僕たちは上流から流れてくる風に髪を編ませた。
 風が抜けるたび、心がスーッと透き通っていく。知らず知らずのうちに胸の奥底にわだかまっていた何かが、清浄な風に洗い流されていく。
 と。
 ふとライラが僕のほうを見上げて言った。
「ところで、そなた……いいのか?」
「え?」
「その、つまり」
 いいのか、って……何が……
 あーーーーーーっ!!
 いつの間にだろう。僕はいつの間にか、『俺』を意識しなくなっていた。記憶をどう探ってみても、もう混同が起こらない。なにもかも、スッキリと明瞭だ。
「あ、あはは……」僕は作り笑いを浮かべた。「なんか、なおっちゃったみたい」
 ライラは肩を落とした。キッパリあきれられてる。
 仕方ない。自分でも何がどうなっているか、分からないんだから。
 理由なんてどうでもいいじゃないか。そう思ったけど、一応考えてみる。
 なんでだろう? 可能性を考えるとしたら、さっきのショックだろうか。あまりの驚きに、記憶がもとに戻ったんだろうか。
 彼女の思いが伝わって、悪い魔法使いの魔法がとけた、なんていかにもありそうな話じゃないか。普通は男女逆だけど。
 でも僕は、そんな安易な考えを否定する自分にも気づいていた。
 『俺』は決していなくなってはいない。今も僕の中にいるはずだ。証拠に、いま『俺』ならどういう反応を示し、どういう考え方をするか、手に取るようにハッキリ分かるからだ。彼の、いや『俺』の、思考回路はまだ僕の中にある。
 だけど、『俺』は負けていなくなったわけじゃない。僕と……そう、僕と、ひとつになったんだ。
 メロディーが歌になるように、土が草花になるように、言葉が魔法になるように。足りないもの不十分なものを補い合って、より完全な姿になる。
 それは切り捨てではなく融合、喪失ではなく獲得だった。
 ほら、今の僕には、こんなに自信が満ち溢れる。今の僕ならば、きっとどんなことだってやり遂げられる。そう心の底から思えてくる。
 僕は忘れやしない、俺を。あの時の、自分を。
 そして、もとに戻れたからには、僕には為さなければならないことがある。
 本当のところを言うと、僕はレジェドリアをそれほど恨んではいない。さっきまでは呪い殺してやりたいほど憎かったけれど、こうやって自分を取り戻してみれば、なんだかそれすらも僕にとって必要だったことのように思える。……そう考えることができるようになったのも、『俺』のおかげだろうか。
 いずれにしても、僕はレジェドリアの生死などそれほど気にしちゃいない。僕が知りたいのは、彼女だ。彼女が何をして、これからどうしていくのか……彼女が命を賭して為そうとしたことが、いったいどんな結末を迎えるのか……それだけが、僕にとっては重要なことで、そのためだけに僕はこの世に生を受けてきたんだと、そう思う。心の底から。
 そう思える自分を、誇りに思う。
 僕は拳を固めて立ち上がった。あふれる自信に胸が震えている。元気な僕を見せてやろうとして、力強く振り向くと。
「あれ?」
 なんとライラはすでに、もうどこにもいなかった。影も形も、全く。
 前言撤回だ。
 やっぱり結局、僕はいつまでもツイてないらしい。


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