神殿寓話 第三章


掲載サイト:ESSENTIAL  作者:ねざ

第三章 陥穽


 足が震えだすくらい爪先立ちをして、精一杯に手を伸ばした。たぐる指先がようやく背表紙に手が触れたかと思ったとき、いつもつけ慣れない片メガネが情けない音を立てて落ちた。
 僕はふうっと息をついて、足元に転がったそれを拾い上げた。
 ここはジェスクウの郊外にある、ウィザーズ・タワーっていう建物の中。例によって説明すると、ウィザーズ・タワーっていうのは、このあたりでは最大規模の魔術精錬指南所……いわゆる魔法学校だ。生徒数もダントツ大陸イチだが、書庫に収められている本の量も半端じゃない。次元の狭間にあると噂される(つまり、実際あるのかどうか誰も分からない)忘却の書庫の次ぐらいの規模じゃないかっていわれるくらいの大きさを誇っている。なんでも、世界の知識の三分の二はここで手に入ってしまうらしい。誰が数えたのかは、もちろん知らないけど。
 で、僕はいまその大書庫の、一般人でも自由に閲覧できる区画に訪れてるんだけど、別に世界の知識を我が物にして悪だくみでもしようなんて思ってるわけじゃない。
 僕はもう一度手を伸ばして、『神官履歴年表』っていう、味も素っ気もない背表紙のファイルを引っ張り出した。積もった埃を払いながら、縒り紐をほどいていく。お目当てはもちろん、レジェドリア大司教の過去だ。
 ア、ドリア、レジェドリア……あった。
 今から五十八年前、ジェスクウの平民に生まれる。へぇ、貴族の出じゃないのか。意外だな。で、小さい頃から、F‐零三区画の小さな教会で下働きとして働き、そのころから牧師を志す。F‐零三の教会といえば、僕も時々耳にする。ウォルスティ家っていう、典型的な青系統の家の息がかかった教会だ。小さい頃は青に属してたんだな。二十八のとき、試験に合格してシウス教の僧になる。その後、顎(あぎと)荒野近くの修道院で修行した後、螺国らこくへ渡って数年間、地方の教会で神父を勤める。そこで司祭の地位を認められ、ジェスクウに凱旋。故郷に錦を飾る、ってわけだ。その後も司教、大司教とトントン拍子で出世を果たし、現在に至るらしい。なんと今の大司教に任じられたのは二年前。僕が神殿騎士になれたのとほぼ同じ時期だ。本当だとしたら、史上まれに見るスピード出世ということになる。
 これは僕が同僚から聞いた話だけれど、クァジェリド枢機卿も彼には一目置いていて、自分の取り巻きにしようとさかんにアプローチしているらしい。もしそうなれば、いずれは枢機卿から教皇じゃないかって、もっぱらの噂だ。教皇になるってことはつまり、シウス教のトップになるってことだ。当然ながら並大抵の人間には不可能なことだ。
 僕はファイルを閉じてため息をついた。これだけ出世ペースの速い平民出、っていうのも珍しい。よっぽど大きな貴族の後ろ盾がないと不可能なことだろう。
 もうちょっとツッコんでみる必要がありそうだな。
 ファイルを元の場所に(苦労して)戻すと、僕はF地区の細かい地図を探すために踵を返した。


 空はあいにく機嫌が悪いらしかった。ぐずるように雲が立ち込め、時折こらえきれなくなったように小雨がパラつく。それでも、調査に問題ない限り予定を変更するつもりはない。
 僕は首をすくめて教会のアーチ型の門をくぐった。中の暗闇に目が慣れるまでじっとしていたけど、どうやらお祈りの最中らしく、ひとの気配はあるのに教会の中はしんと静かだ。遠くで、低く流れるようにオルガンの音が響いている。席には、腰二重なる老婆、母親らしき子供を連れた女性、神殿騎士らしい若い兵士などがこうべを垂れ、聖書を手に一心に何かを祈っている。敬虔なことだ。
 あいにく僕はそれほどカミサマってのを信じてない。今まで十九年生きてきたが、神様にホンキで何かお願いしたことは、ほとんどない。その数回だって、願いが聞き届けられたことは一度だってない。神を呪って天罰が下った(と、僕は今でも思っている)ことは何度かあったけど。
 天罰といえば……一度、こんなことがあった。僕たちの詰め所にほど近い教会で、少年聖歌隊の美声を聞きに教皇さまが訪れたことがあった。僕はその時教会周辺の見張りをやってたんだけど、何日か前に子供を助けに川に飛び込んだせいで、ひどい風邪をひいて、熱にモウロウとしてたんだ。ツイてなかった。
 教皇さまが出てきた。群集がいっせいに歓声を、あるは祈りの言葉を叫んだ。僕はそれをフラフラしながら見てたんだけど、ふと見れば教皇さまの背後から近づいてくる黒い影があるじゃないか! そいつは音もなく、小走りに教皇さまの背中に迫る。僕はアッと思ったときには、そいつに飛びかかっていた。
 僕らはもつれ、転がった。敵はよっぽど驚いたのか目を白黒させ、必死にわめいている。僕を振りほどこうとしたその間諜をぶん回した時、教皇さまの足にぶつかって、神の代弁者である彼はたたらを踏んだ。それだけならまだよかったんだけど、たまたま僕の足がうしろから飛んで、バッチリのタイミングで教皇さまの足を払った。彼は裾の長いローブに足をひっかけて、花壇に頭から突っ込んだ。水をやったばかりだったらしく、泥水が盛大にはねた。
 もう分かってるかもしれないけど、僕がつかまえたその間諜ってのは、教皇さまおつきのいわゆる「影」ってヤツだったらしい。偉いヒトの手足となって、情報を裏から集める兵士。
 あの後はさすがにしっちゃかめっちゃかだった。後日隊長にさんざん怒鳴りつけられた僕は、思わず「そういうことははやく言ってくださいよ」ってこぼして、またさらにガミガミやられた。一ヶ月も便所掃除をやらされた。
 要するに、僕はなにをやってもツイてないのだ。
 思わず漏らした自分のしのび笑いの音に、現実に引き戻された。改めて礼拝堂の奥の暗がりを探すと、くすんだ藍のローブを着て、しわくちゃの顔をやさしく微笑ませているご老体を見つけた。髪は白いのが後頭部にわずかに残っているだけで、あとはツルッツルのピッカピカだ。
 探していたひとを見つけた僕は、足音を立てないように、お祈りの邪魔にならないように足早にその老人に歩み寄ると、耳元で囁いた。
「神父さまですね」このひとの耳が遠くなきゃいいけど。「ちょっと、お尋ねしたいことがあるんです。今、よろしいですか」
 老人は僕のことを頭からつま先まで観察するように見回すと、にっこり微笑んだ。「騎士の方ですね。どうぞ、どうぞ」
 僕は敬虔なかたがたのお祈りの時間の妨げにならないよう、そっと彼の後に続いた。良かった。いい人そうじゃないか。
 彼に続いて軋む鎧戸を開けると、そこは懺悔室だった。黴臭い匂いが、つんと鼻についたが、別にイヤな感じではない。ただちょっと、苦手なだけだ。
 神父さまはどうぞどうぞと、くすんだ樫の嵌め殺しのほうに僕を促した。
「あ、いや、違うんです」僕は慌てて両手を振った。「懺悔しに来たわけじゃありません」
懺悔することがないわけじゃないけど。
「おやおや、そうですか」と、あくまで笑顔皺を崩さない神父さま。「最近は騎士さまが贖罪を願いに来ることが多いものでしてね。なにしろ、このところいろいろと物騒ですから……」
 長くなりそうだったので、僕はそれを遮った。
「ちょっと、二,三点、お伺いしたいことがあるんです」僕は相手の表情の変化をわずかでも見逃すまいとして目を細めた。「……レジェドリア大司教のことについて」
「おお、あのかたですか」神父さまはいっそう笑い皺を深くした。このひとのクシャクシャの皺の半分以上は、この笑顔のためにできたのかもしれない。「えぇ、えぇ。よく存じておりますよ。あのかたが、あなたよりももっと若い少年だった頃から、ずっとね」
「よかった」僕も思わず笑顔になった。「彼がここで下働きをしていた時、あなたはここにいたんですね?」
「もちろんですとも。私はそのころからここの神父をやっておりましたから」
 ツイてる。今日はカミサマも僕に味方してくれたのかもしれない。
「それで……彼はどんな少年でした?」
「そりゃあもう、よく気がつく真面目な少年でしたよ。言われたことは文句ひとつ言わずにこなす。朝と夜は聖地に向けての祈りを欠かさない。二十より上の数字を覚えるより早く、聖書の言葉をすべて覚えてしまわれたほどです」
 そりゃすごい。典型的なシウス教少年だったわけだ。
「あの……つかぬことを伺いますが、彼が、誰かに恨まれてたとか……なにか、誰かに狙われたりしてたとか、そういうことはありませんでした?」
「いえいえ、あなた。とんでもない! あんな従順で優しい少年を、どんな悪魔でも呪うことができましょうか! 対立する貴族の方々でさえ、ウォルスティを無下に扱うには良心を押し殺さねばならなかったと聞きます」
 なるほどねぇ……よっぽど天使みたいな少年だったんだろうな。
 手がかりがなくなったな。ここで聞けることは大抵聞いただろうから……他に僕ぐらいの下っ端でも、当たれそうな所といえば。
 ん……?
 ちょっと待て。
「ちょ、ちょっと待ってください」僕は慌てて尋ねた。「今、あなた何て言いました?」
「え?」神父さまは目をパチクリされた。「ですから、どんな悪魔でも、彼を嫌うなんてこと……」
「その後です、その後!」
「えぇと、ですから、対立する貴族の方々でさえ、彼を憎めなかったと」
「おかしい」喉に刺さった小骨に、ようやく気づいた気分だった。「彼とそんなに対立する貴族はいなかったはずだ」
「いえいえ、あれでなかなか大変だったそうですから。両親があのかたをこの道へ進ませたのはやはり、貴族同士の争いに巻き込みたくなかったというのが少なからずあったようですし」
「違う、そんなハズないですよ」僕は喉を押さえた。「彼は、平民の出だったんだから」
 大したことではないかもしれない。ひょっとしたら、ただ単にちょっとした思い違いなだけかもしれない。でも……
「おやおや、どこでそんな話を耳にされたのです?彼はれっきとしたウォルスティ家の次男坊ですよ?家督は長男が継いだようですが」
 そんな。
「本当ですか?」
「ええ、間違いありません。あの方を長年世話してきたわたしが言うんです。間違いようがないではないですか」
 資料のほうが間違っているのか、この神父さまが勘違いしているのか。
 それとも……
「変わった方ですね、そんなことを尋ねられるとは」神父さまはちょっと不審そうに僕の顔色を見た。きっと青い顔になっていたんだろう。
「い、いえ、なんでもありません」
 ほどこうとした糸は、気づかぬうちにさらにもつれ、絡まろうとしていた。


 十隊の詰め所。僕はいつもの椅子に腰かけ、分厚いファイルをひっくり返していた。
「ん、珍しいんだな、ティガが片メガネつけてる所なんて」ランライドが、ドーナツを片手に覗き込んできた。「なに見てるんだな?」
「ん……ちょっとね、昔の事件とかのファイルを調べてるんだ」
「なにか気になることでもあンのか、博士?」ライズも一緒らしい。
「ウォルスティ家の五十年ぐらい前の記録」僕はページをめくりながら答えた。「うーん。やっぱりないなぁ」
「なにが?」
「この当時のウォルスティ家に、次男がいたって話。ホラ、この時のハマーン高地への討伐隊に出征してるのは長男と、父親のウォルスティ卿と、叔父だけだ」
「ただ単に次男なんていなかったんじゃないのか?」
「それがさ」僕は振り返って、片メガネをはずした。「ウォルスティの教会の神父さまが言うには、レジェドリア大司教はあそこの次男坊だっていうんだ」
「レジェドリア大司教ぉ?」
「ティガ」ランライドが、太い腕を僕の肩に乗せた。「なにを調べてるのか知らないけど、あんまり派手に嗅ぎまわるのはやめたほうがいいんだな」
「なんでさ?」
「貴族同士の争いに首つっこむとロクなことないって、この前も言ったはずなんだな」
「そりゃ、そうだけどさ」僕は知らず知らずのうちに赤くなる頬をごまかそうとまたファイルに向き直った。あの女性が気になるなんて言えないじゃないか。「気になるんだ。探せば探すほどつじつまが合わなくなってくる。一体、大司教は何を隠してるんだろう?」
「おぉい、ティガさーん!」
 今の空気に似つかわしくないほどの元気な声が、詰め所の戸口を勢いよく開けた。
「よっ、ハルベルト。相変わらずやかましい奴だな」
「酒はいったライズよりマシだよ」ハルベルトは唇をとがらせた。「ティガさん、頼まれてたもの、調べてきたよー」
「あぁ」僕はいままで彼に頼んでいたことはスッカリ忘れていたんだけど、それが顔に出たかどうか。「ありがとう。で、どうだった?」
「うん。アニキに頼んでちょっと調べてきてもらったんだけど、やっぱり赤じゃないみたい」
「ホントかい?」
「そ。事件よりちょっと前、テンドロ家の末っ子が魔物に教われてたのを、ランディールの兵士に助けられてる。この流れからして、時間的に赤がランディールを落とそうとするとは、ちょっと考えにくいって、アニキが」
「おいおい」ライズが割って入った。「お前らひょっとして、この前の暗殺事件嗅ぎまわってんのか?」
「テンドロ家は『恩』とか『人情』とかをやたら重んじる、代表的な赤系統の家なんだな」ランライドは指をねぶりながらうんうんうなずいた。「テンドロ家に睨まれてまで、単独でランディールを没落させようとする家は、赤にも黒にもいないんだな」
「でしょ?」ハルベルトは自慢げに頷いた。「だからさ。これはひょっとしたら、どっかの貴族がやったんじゃないのかもしれない」
「あのイカレ野郎の単独犯だってのか?」
「うーん。それがね、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないんだ」ハルベルトは珍しく自信なさげだ。「あの暗殺者の身辺をランディールがその後調べてみたら、確かに物騒な所持品がいくつも出てきた。吹き矢やら、毒やら、あとは密談の内容を記したメモとか……被害者の言うコトだから、どこまで本当か分からないけど」
「……? ってことはよ。やっぱりどこかに雇われたスパイだった、ってことじゃねぇのか?」
「そこが難しいんだ」ハルベルトは頭をひねった。「確かに、あいつはランディールを落とすために侵入した。それは間違いないと思う。でもね」
「でも?」
「彼、本当に小間使いなんだ」
「??」首を傾げる僕たち三人。
「つまり、彼は先祖代々青に仕える中流家系だったんだ。そっち方面の世界の人間じゃなかった。闇に紛れて天井裏からコンニチハ、なんて人種じゃね。彼は、どこかの貴族の間諜でもなく、雇われて物騒な仕事を請け負うなんでも屋でもなく、ホントにただの召使いなんだよ」
「……うへー、アカン。頭、煮立ってきた」ライズは頭をぼりぼり掻いた。
「つまり、なんでもないただの召使いが、どういうわけか殺し屋として屋敷に潜入してた、ってことなんだな」
「そうそう、そういうこと」
「それって、どういうことだろうね……」
「分かんない。上もまだ詳しいことは掴みきれてないらしいし」
「確かなのは、あの男がエデス・ランディールを殺したことと、それは貴族の差し金じゃない、ってことだけなんだな」
「となると……じゃあ誰が依頼したんだろうね?」国か? それとも……教会か?
 ランライドも同じことを考えていたらしい。「これは思ったより、厄介そうなんだな」それが、その場にいた僕たち全員の意見だった。
「……ま、そんなモンかな。僕がパパに頼んで調べてもらったのは」
「それにしても、よくここまで調べられたね」
「ったく、貴族のボンボンの息子ってのは妙なことできるよなぁ」
「なーにさ! このオレのおかげでここまで分かったんじゃないか。ティガさんたちだけじゃ、こんな機密情報ゼッタイ手に入れらんないよ」
「そのとおりだ」僕は笑った。これは本物の微笑みだ。「ありがとう、ハルベルト。今度不寝番、変わってやるから」
「おねがいしますよぉ?」
 そう言ってハルベルトは手を振った。
 僕は腕を組んだ。パズルのピースがまた増えた。依頼人不明の暗殺、レジェドリア大司教の出生。そして……彼を狙う謎の女。いったい、僕たちの知らないところで何が回っているっていうんだろう?
 彼女の言ったとおり、大司教はただの神官じゃないのかもしれない。
「あぁ、そうだ、忘れるトコだった」詰め所の戸口から、ハルベルトがひょいと顔を出した。「頼まれてたレジェドリア大司教のことなんだけど。いろんな話があって信憑性がないからどーにも分からないって言ってた。じゃ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」僕は慌ててハルベルトを呼び止めた。「それ、どういうこと?」
「ん、だからさ。人によって話がまちまちなんだ。すごい貴族の出だとか、よそから来た修行僧だとか。螺国らこくで修行してきたとか、いやいや聖地の中でずっと祈りを捧げてた聖人なんだとか……」
 人によって話が違う……?
「おいおい、あんま妙なことに首つっこむなよぉ?」
「ティガがこの調子だと……あの話はやっぱ言わないほうがいいかもしれないんだな」
 ひとによって話が違う。どういうことだろう……
 僕があった神父さまも、まさに記録とは違うことを言っていた。それもそのひとつだと考えていいのだろうか。それとも、あの神父さまはただのご高齢でちょっと入っちゃってるだけなんだろうか
 本格的に糸はからまり、僕をがんじがらめにしようとしているらしい。このままでは僕もからめとられてしまうかもしれない。
 うーん。
 ……ん?
「あの話って何だよ?」
 ライズがランライドのほうを睨んだ。口の動きだけで、バカッ、て言った。ランライドはハッとしてすまなさそうな顔をしている。
「ねぇ、おふたりさん? 何の話かな。僕たち仲間だよね?」
 ライズはむっとして黙っている。
「仲間だと思うからこそ、言わないほうがいいことって、あると思うんだな」
「ここまで言っちゃったら、もう遅いよ」
「……さっき上の偉いトコが動いてたんで聞いたんだけどよ」ライズが不承不承口を開いた。「殺人予告だと」
「殺人予告ぅ?」
「ティガの思い人の、レジェドリア大司教あてなんだな」
「!!」
「ホレ、目の色変えやがって」ライズはいわんこっちゃない、と肩をすくめた。「今夜貴様の命を頂戴する……いまどきそんな古風な手ェ使う奴があるかねぇ?」
「それで、大司教さまは!?」
「B区の自分のご屋敷なんだな」
「なんでか分かんねぇが、自分の屋敷にいるっつって聞かないんだと。神殿にいたほうがなんぼか安全なのにな」
 僕は天啓が下ったみたいにハッとした。彼女だ。
「なんでそんな大事なこと、もっと早く言わないんだよ!?」
僕は慌てて自分の革鎧を手に取った。彼女に、彼女に会えるかもしれない!
「やめとけって。もうお偉方さんが押さえてる。大体あのへんは第1(第一大隊神殿部署)の管轄じゃねぇか」
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
僕は急いで帷子を着込むと、腰帯に剣を差した。よし、準備万端!
「じゃ、隊長にはよろしく言っといて! あなたの頼れる部下ティガは正義に目覚めて管轄外の仕事を手伝いに行きました、ってね!」
「あー、また拳骨もらいたくなかったら、やめたほうがいいと思うんだな」
 そんなこと、かまってられるかい!
 行くぞ!


 いまにも降り出しそうな闇空のせいか、風がまったくそよがないせいか、夜のジェスクウはひどく蒸し暑かった。帷子の重みを受けて張り付く肌着を指で引っ張るのも、何度目になるか分からない。
 ここはジェスクウの北区、貴族や教会の重役たちが好んで住む住宅街。僕が生まれたあたりと違って、雰囲気もなんだか高級だし、家と家がこれでもかってぐらい離れてる。あたりにはよく刈り込まれた芝生が広がっていて、ところどころには夜の虫たちがその美声を競い合っている。
 すったもんだのその末に(あの後けっこうモメたんだ、実は)僕が配属されたのはひとけのない裏庭、食堂の窓のひとつ。戸じゃなくて、窓だ。こんな所から侵入される可能性なんて、あるのかなぁ? そうこぼしそうになったのも、何度目になるか分からない。まぁ正規の部隊じゃない一介の兵を入れるのに、そうそう重要な位置につけてもらえるハズはない。もっとそれらしい重要な所や屋敷の中は、第1大隊神殿部署『洛陽の』第四小隊と『電雷の』第五小隊が受け持つことになっている。本当ならそれに混ぜてもらえること自体特例に近いんだけど、まぁなにせ、予告の信憑性が薄いから。
 教会側ではこれはタダのいたずらだと踏んでるらしい。無理もない。自分が憎んでる相手を殺すのにわざわざ宣言するような奴は、よっぽどの自信家か愉快犯、さもなければ自殺願望者だろう。それでも警備をせずにいられなかったのは、相手が大司教だっていうことと、残りは……前回曲者を取り逃がしてしまった、教会の意地みたいなもんなんだろうけれども。
 僕は目を閉じて、ささやかな鈴虫たちのオーケストラに聞き入った。虫の鳴き声っていうのは、不思議なことにいくら鳴いても、いや、鳴けば鳴くほどあたりの静寂を増すだけだ。他に聞こえるものはほとんどない。風がないせいか、木々も今夜はおしゃべりを慎んでいる。他に耳に入るものといえば、屋敷の裏を流れているらしい、水の流れるかすかな音ぐらい。ここからその川は見えないけれど。
 ふと、ほど遠い草がカサリと音を立てた。僕は目を開けて音のしたほうを見たけれど、特に変わって見えるものはなにもなかった。
 気のせいかな。
 再び目を閉じようとした僕の首のあたりで、不意にカチャリ、という金属音がした。片目をちらっとそちらに向けて、僕は喉の奥で悲鳴を上げた。
 そこには、あの魔剣があったからだ。
「動くな。声も上げるな」
 低く歌うような声に、僕ははっきり聞き覚えがあった。目だけ動かして、その剣の先を追う。
 そこには、あの女性が、触れれば切れそうな気配を漂わせたあの女剣士が、鋭い目をこちらに向けていた。
 やっぱり、来たんだ。やっぱり、あなただったんだ。
 僕は何か言おうとしたが、言葉は喉のあたりでからまってうまく形にならなかった。顔が熱い。
「ここを動くな」
 僕はゴクリと唾を飲み込んで、それからコクコク必死にうなずいた。
 僕に敵意がないのが伝わったらしい。彼女は無言のままにスッと剣をおさめた。闇夜のなかでも映える漆黒の長くまっすぐな髪が、フワリとたなびいた。頬を走る一文字の傷がまぶしい。紅玉髄カーネリアンの瞳が燃えるように輝いている。
「わたしが来たことを」
「大丈夫。誰にも言わない」僕はようやくそれだけ言えた。上出来だ、と自分でも思った。
 女剣士はちょっと驚いたようだった。まるで今気がついたかのように僕の顔をじっと見回して……ちょっと、表情が和らいだ気がした。
 僕は嬉しくなった。とはいってもそれは、氷の城の窓がちょっとだけ開いたようなもの……冷たい風が吹き出して、かえってその冷たさを意識させられてしまうようなものではあったけれども。
 夜の麗人は、食堂に通じる窓を慎重な手つきで調べて、それから引いてみた。鍵がかかっていて、開かない。彼女はちょっと舌打ちしてから、剣の峰を向けて窓を割ろうとした。
「待って」僕は思わず言ってしまった。自分でもどうしてこんなことをしているのか、意識できないままに。
「何だ。邪魔する気か」
「違うよ……ちょっと下がって」
 僕は意識を、窓の鍵があるであろうところに集中させた。周りの誰かに気配を感づかれないように、ほんのわずかだけの魔力を針の先のように集中させる。ゆっくり渦巻いていく魔力の気配を感じながら、ほんのわずかの力の魔力で、鍵を軽く、ツンとつついてやった。
 カチャリと乾いた音がした。
 僕はふうっと息をついた。成功したらしい。
 女剣士は驚いたように僕を見て……それからフッと笑った。
「なんのつもりか知らんが、おぬしの首を絞めることになるぞ」
「大丈夫さ」僕は笑った。「これくらいなら、ゲンコツ二発ぐらいだよ。大したことない」
「そうか」
 彼女はふと真顔になって、窓のほうを向いた。「奴はこの中か」
「うん」
 なにかの決意のこもった瞳でキッと屋敷を睨む彼女の横顔を改めて見れば、やっぱり息を呑むほど美しかった。その姿はまるで人間などではなく、美しく高貴な彫像のように見えた。頬の傷さえも、なにか高貴でかけがえのない、彼女にしか許されない特別な紋章のように思えるほどに。
 戦士の美だ、と僕は思った。戦うものの美、自らの命を何度も死線にさらし続けたきたものの、磨耗し鋭く尖った美。吹きすさぶ荒野を、夜の肉食獣を、闇夜に浮かぶ青ざめた月を思わせるその気配。一度や二度、自分の生死を偶然に賭けたぐらいでは、これほどまでに迫った涼やかさは手に入れられないだろう。
「生きていればまた会おう、若き兵よ」彼女はこちらを見ずに言った。
「ちょ、ちょっと待って!」僕は大きな声になり過ぎないように声を落とした。「あなたは、何者? どうして大司教を狙ってるの」
「奴は」彼女は眉を寄せた。僕には想像もつかないほどの怒りに、瞳が燃えている。「わたしから過去を奪った」
 過去……?
 それだけ言うと、彼女は身軽に窓枠をつかんで屋敷の中に踊りこんだ。ふわりとたなびいた長髪から、スミレの匂いが漂った。
「過去? 過去って、どういうことさ!」
 彼女は中を油断なく見回すと、逡巡して音もなく走り去った。立ち去りぎわ、背中越しにひとこと言い捨ててから。僕はやっぱり、呆然と取り残された。
「記憶だ」
 彼女は立ち去り際に、確かにそう言ったように聞こえた。
 僕は呆けたように、その言葉が頭の中で反響するのを聞いていた。


 それからどれくらい、呆然とそこに立ち尽くしていただろうか。屋敷の中が騒がしくなるまで、自分がそうやってボーッと突っ立ってたことにも気がつかなかった。
 屋敷の中でなにかが割れる音に、僕は急に現実に引き戻された。甲高く乾いた音が響いたかと思うと、にわかに騒々しい声が届いてきた。どやどやと騒ぐ叫び声に、ものが壊れる、あるいは折れる音が混じる。
 ハッとして、僕は思わず、目の前にある開けた窓を元通りに閉じてしまった。閉めてから、途端に後悔した。僕は一体、なにをやってるんだろう?
 屋敷の中からは、神殿騎士たちの騒ぐ声が混ざり合ってひどい騒音になっている。逃がすなー、だとか、お守りしろー、だとかいう声に混じって、耳を覆いたくなる悲鳴がほかの喧騒をかき消している。
 相当ハデにやってるみたいだな。
 僕はどうしようか迷った。彼女のあとを追って屋敷のなかに入るか、それともここで気絶したふりでもしておくか。サッサと逃げるか、それとも彼女のために逃げ道を作っておくか。
 ん、逃げ道を作っておく?
 なに考えてるんだ僕は。
 と、屋敷の三階で「覚悟ッ!」と叫ぶ声が聞こえた。ここからでも聞き間違えようがない。
 考えるよりも早く、僕の体は窓枠を飛び越えていた。闇になれない目で手探りに食堂を駆け抜ける自分の足音が、無機質に耳朶に響く。
 二階へと続く階段にたどり着くと、そこはもうしっちゃかめっちゃかの大騒ぎだった。
 高価そうな大理石でできた少年の像が、倒れて無残な半欠けになっている。階段の金の手すりが根元から折れて、その上には甲冑の神殿騎士が血を流して倒れている。床を覆う絨毯が身の毛もよだつほど紅蓮に赤いのは、もともとの色ばかりではないらしい。スッパリ両断されて、目も覆いたくなるような騎士の屍骸もここそこに散らばっている。僕と目が合うと、そのなかのひとりがいっそう苦しそうな低いうめき声をあげた。どうにかしてあげたいけど、あいにく僕は回復魔法は得意じゃないんだ。僕は目を背け、真っ赤な絨毯が敷き詰められた階段を睨んだ。とりあえずは、上だ。
 一段飛ばしに階段を駆け上がると、その先で檄を飛ばしている白銀のパラディン(魔法聖騎士のこと)と目があった。ここの警備を指揮しているお偉方らしい。
「君! まだ無事か!?」
 そのひとは僕を見るなりそう叫んだ。それで気がついたんだけど、左手で首筋を押さえている。どうやら、やられたらしい。
「クッ、賊め! 我ら神殿騎士をここまで愚弄しおるか」
 パラディンの騎士がその掌から魔法力を開放する気配がした。左手を首から離すと、傷がふさがっている。
「だっ、大丈夫ですか」
「ああ。それより上に行って大司教さまをお守りしてくれ。我々も相当数やられた。このままでは賊に逃げられる」
「分かりました!」
 僕は複雑な心のうちを紛らわそうと、いっそうがむしゃらに階段を駆け上がった。
 階段を駆け抜けるあいだにも、打ち壊された陶器の破片やら、真っ二つに割られた高価そうな絵画やらがそこらじゅうに転がっている。なにもここまでメチャクチャにすることないのに! 階段の踊り場に放り出された、いかにも重くて重厚そうな全身甲冑の上を飛び越えた時、そこからかすかにうめき声が聞こえた。置物だと思ったら、人間だったらしい。
 僕は一瞬立ち止まり、それを振り返った。このまま放っておけばこの人は危険だ。ひょっとしたら、死んでしまうかもしれない。下に連れて行って、介抱してやらなければならない。だが、上には……
 僕は逡巡して、また上に向かって階段を駆け出した。僕には動けないほどの重症を癒す力はないし、かといってあの重厚な鎧をひとりで担ぎ下ろす自信もない。後から駆けつけた、回復魔法のできる人がきっと助けてくれるさ。そう自分に言い聞かせたけど、ひょっとするとそれはただの言い訳なんじゃないかってことも、心のどこかでは分かってた。
 彼女にあったら一言言うことができた。こりゃあんまりやりすぎだ。
 もとの荘厳さなど見る影もない階段を段飛ばしに上りきると、目の前に突然両開きの扉が立ちふさがった。扉の向こうで、かすかに剣戟の響きが聞こえる。
 僕は迷わず、その扉を蹴り倒した。
 その部屋はおそらく寝室だろう。十隊の詰め所の倍ほどはあろうかという豪奢な部屋に、無残にも斬殺された兵たちが転がっている。まだ動いている人間は、僕を除けば三人。両手に二本の剣を持った隊長らしき騎士と、儀式用の錫杖を構えて、部屋の隅でじっとしているレジェドリア大司教、そして。
 彼女の魔剣が一閃すると、隊長騎士の構えた剣が甲高い悲鳴を上げ、根元から折れ飛んだ。
「クッ……!貴様、こんなことをしてタダで済むと思っているのか!?」
「天誅と思えッ!」彼女は目にもとまらぬ速さで剣を振るう。
 その銀光が閃くたびに、騎士は壁際に追い詰められる。防ぐのが精一杯のようだ。金属のこすれる嫌な匂いがあたりに充満している。
 女剣士が振るう剣には一瞬の遅滞もなく、それでいて相手の動きを完全に封じていた。僕には目で追うこともできないほどに。出る足、引く足、まるで僕たちには聞こえない音楽にあわせて踊っているように繰り出される剣舞ソード・ダンスにはわずかな無駄もない。頭上から、はたまた足元から迸る銀色の閃光に、鎧の騎士も後退を余儀なくされている。
「トドメだッ!」
 彼女が剣を振り上げた瞬間、しかし僕の肌は突然、ゾロリと音を立てた。肌の裏をなにか目に見えぬ無数の蟲が這い回るような……体中の毛がそそけ立つような感触。
 僕の胃に嫌なものがこみ上げた。魔法力が近くで開放されるときに感じる、魔力反応だ。
 意識に上るより早く、僕の喉は叫び声を上げていた。
「あぶない! 逃げろッ!!」
 大司教が錫杖を中空に向かって振りおろした。その周囲に目に見えぬ力場がほとばしり、魔力が駆け巡る。振り下ろされた錫杖から発したエネルギーが不可視の壁となり、衝撃波となる。大司教の発した魔法は、彼女の肢体を、まるで紙細工でもあるかのように吹っ飛ばした……!!
「ぐあああぁぁぁッ!」
 彼女の体が宙を舞う。天井まで届く両開きの窓ガラスが甲高い音を立ててコナゴナに飛び散った。彼女は、そのまま窓を抜け、なにもない空中へと身を投げ出される……!
 バッシャァァァン!!
 彼女の体が視界から消えた。階下で、彼女が川に落ちた音が、僕の耳にウソみたいに届いた。
 なにが起こったのかすぐには分からなかった。僕はあっけに取られてそこに立ち尽くしていた気がしたが、たぶん実際はほんの一瞬、ためらっただけだったんだろう。すぐさま膝が顎を蹴るほどの勢いで地面を蹴ると、自分でも信じられないくらいに駆け出した。
 どうしてだろう。
 どうして僕はその時、真っ先に大司教さまに駆け寄ってその身の安全を確かめようとしなかったのだろう。
 どうして僕はその時、言葉にならないわめき声を上げながら窓枠を飛び越え、川に飛び込んだりしたのだろう……


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