神殿寓話 第二章
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ESSENTIAL 作者:
ねざ
第二章 陰謀
「馬ッッ鹿もーーーーーんッッ!!」
神殿騎士第二大隊神殿部署『鷹の』第十小隊、通称十隊の詰め所に、今日も『忍耐の』ライントール隊長のカミナリが落ちた。
古くなった漆喰の壁から、パラパラと粉が落ちる。僕は塞いでた耳をおそるおそる取ると、僕に出来る限り最高の愛想笑いをした。だけどきっと、唇の端が引きつってただろう。情けない。
「はは……スイマセン」
「謝ってすんだら神殿騎士はいらん! お前は、どうしていつも単独行動に走る! その前に一言断っておけば、ひょっとしたら狼藉者を捕まえられたかもしれんのだぞ!?」
「そうですね……いや、全く、その通りです」
「反省の色が見られんッ! 今回だけじゃない。ティガ、どうしてお前はいつもいつもそう隊の規律を乱す!そもそもだな。軍隊というものは、全体がひとつとなって初めてだな……」
隊長どののお小言がはじまった。僕は下を向いて、自分に対する情けなさと恥ずかしさでうつむいて縮こまった。これが反省してしゅんとしてる姿に見えればいいなと思いながら。
「たーいちょぉぉ。そのへんにしといてやってくださいよ。ティガの奴だってそいつなりの正義感ってヤツにかられての行動なんスから」
近くのテーブルに足をのっけて、ナイフで爪を研いでいた兵士のひとりが言った。こいつはライズ。僕の同期で、趣味は博打と酒だ。
「そうだよな。おかげで犯人の動機と顔が割れたんだもんな」
隣でベーグルを食べてたふとっちょも同意して言った。彼はランライド。いつもなにか食べてる。
「やかましい!」隊長は今日はご機嫌ナナメらしい。無理もないけれども。「大司教さま護衛の任という偉大な任務中に、賊に襲われてその御身を危険にさらし、あまつさえ賊を取り逃がしたんだぞ!?」
ライントール隊長はあぁ、と顔を覆ってしゃがみこんだ。「今回こそは挽回をと一念発起しておったのにッ……きっと今頃、他の隊は噂でもちきりだ。『十隊のライントールは腰抜けだ、与えられた任務も満足にこなすことができない腑抜け野郎だ』とかなんとか……うーっ、またしてもしくじったなどと、妻にどう言い訳すればいいというのだ」
『忍耐の』ライントール隊長も、奥方には頭が上がらないらしい。
「そんな、隊長。隊長が責められることないじゃないですか。悪いのは僕なんだから、隊長はドーンと構えてれば」
「やかましいっ!!」隊長は得意の拳骨を一発、僕の頭にお落としになった。
目から火花が出るかと思った。
「う〜っ、つつっ。痛いなぁ〜。なにも本気で殴ることないのに」
「あんだけやって一発で済んだんだから、ラッキーだと思うぜ?」ライズが腰の剣に手を当てて言った。「ったく、お前は。非常事態ンなるとすーぐ目の前見えなくなるんだからな」
「とっさの判断力があるって言ってよ……ててっ」
「なんか違うと思うんだな、それ」ランライドが生クリームをねぶりながら言った。
ここはジェスクウ市内にある、大神殿の前。僕たちはいま、市内周辺の見回りをしている。
僕はまだチカチカする後頭部を撫でながら、青空の下に鎮座するシウス教大神殿――《白い森》と呼ばれてる――を見上げた。
青空をスパリと切り取る山型の屋根を、三列に並んだいくつもの柱が支えている。神殿区を見渡す高台のそれは、白く輝く縞模様をした石。下から見上げればまるで神々の居城にも似たそれは、近くで見るとしかしとても細やかで繊細だ。透かし細工を施した壁は、いったい何年の月日をかけたのやら、精緻で緻密な文様を所狭しと刻んでいる。まるで純白のレースのようで、とても石でできているとは思えない。水瓶を持つ双子の少年の噴水の傍らで、さんさんと降り注ぐ太陽の腕に惜しげもなくその肢体をさらしたその柱は、一抱えもあろうかという純白の大理石で出来ていて、下のほうにいくにつれてだんだんと紡錘型にむくんでいる。まるで、一昼夜飲まず食わずで強行軍をした後のランライドの足みたいに。
失礼、少々マズい表現があったかもしれない。
で。
とにかく、イーストランド全土のシウス教を束ねる場所、規模から言うと最大、神聖さから言っても聖地アヴルドラの次ぐらいに重要な、シウス教の総本山が、実はここジェスクウ大神殿だ。はるばる海を渡って巡礼に来る人も少なからずいるが、毎日こうして眺めていても納得できる。本当にこの場所こそが教化の中心、神都ジェスクウなんだろう、って。
あ、それで、そしてその神聖かつ重要な拠点であるシウス教拠点を守護し、犯罪者、異端者、ならず者、邪教徒その他モロモロから神の子であるシウス教信者たちを守るっていうのが、僕たち神殿騎士の役割であり、存在意義なんだけれど。
「ティガ、なに物珍しそうに神殿なんて見てるんだな?」ランライドが頬を膨らませたまま言った。「まるで螺国から来たオノボリさんか、シャバが五年ぶりのオッサンみたいなんだな」
「……オノボリさんで悪かったね」
「ホレ、とっとと歩かねぇと、歩哨してんだかサボってんだか分かんなくなるぜ」
「はいはい」
「ところでライズ、彼女の怪我はもういいんだな?」
彼女、って所を聞いて、僕は思わずギョッとした。話に出てきた彼女とは違うひとを思い浮かべてしまったので。
彼女ってのは、ライズのほうのことか。
「あー、おお、まぁ、大体だな」ライズはぽりぽり頬を掻いた。「まだ外には出られねぇ。……まぁ、一生出ないほうがいいかもしれねぇが」
「ライズも大変なんだねぇ」
「大変じゃないのはお前くらいだよ」ライズに指で小突かれた。
「そんなことはないよ。僕だって大変さ」僕はおおげさに両手を広げてみせた。「隊長にはゲンコツ落とされるわ、新入りにはナメられるわ、剣はなくすわ、お腹は減るわ」
そう言って僕は、ランライドの手元に大事そうに握られた専用食料庫(つまみ食い厳禁)をチラッと見た。
あっけなく無視された。
「ランライド……前から不思議だったんだけどさ」腹立ち紛れのお返しに、僕は指を指した。「そのなんでもポケットみたいな食料は、いつも一体どこから出てくるのさ?」
「企業秘密なんだな」
取りつく島もないらしい。
「おぅ、そういえばよ」不意にライズが口を開いた。「お前がさっき言ってた美貌の女剣士。そいつが使ってたっていう武器をちょっと調べてみたら、当たったぞ」
「ほんと!?」
「ああ。俺も遠目からかすかに見ただけだから、なんともいえないが……片刃で細身、それであんだけの長剣となると」
「海賊なんかが持ってる三日月刀や白兵戦でよく使う片刃剣とは、また違う?」と、ランライド。
「よく似てるが……多分、違うと思うぜ。たいていあーゆーのは、鏡になりそうな幅広のヤツか、肘までくらいしかない短剣まがいのヤツだ。だいたい、ファルシオンやそこらで大司教さまの駕籠が斬れるもんか」ライズは口をへの字に結んだ。
「すごかったもんな、あの剣」
「でも、どこの騎士団でもあんなに薄いブレードの長剣を使ってるなんて聞いてないよ? お目にかかったこともないし」
「ああ。あいつはおそらくこの辺で作られたモンじゃねぇ。見ろ。ちょっとツテがあって、武器屋のオヤジに描かせてみた。ちょっとヘタクソだが」
ライズがそう言って取り出したのは、一枚の羊皮紙。なにやら剣らしい絵が描かれてる。
「見てみな。こいつぁ『カタナ』って言うんだそうだ」
「カタナ?」
「ああ。ここじゃ採れねぇ特別な黒い鉄を使って、ここじゃ知られてねぇ特別な技法で作られる、魔剣だ」
「!」
「見てみろ。こいつを描いたオヤジも人づてに聞いただけらしいんだが……刃は波打ちながらスーッとエッジまで伸びて」そう言ってライズは絵の剣を指でなぞった。「ここで、グッ、と曲がってる。噂によりゃ、軽くて、硬くて、ちょっと触れただけで指が飛ぶらしい」
「すごい……これなら確かに、障壁も破れるかもしれないね」
「ああ。それに、人ひとり斬ったぐらいじゃ刃こぼれひとつしねえ、とも聞いたぞ」
「なるほど、そりゃ正真正銘の魔剣なんだな」
「そいつがどこでコレを手に入れたのかは知らんが……そうそう簡単に手に入るモンじゃねぇ。国王騎士団の宝物殿に一本か二本あるかどうか、ってそのオヤジは言ってた」
「それじゃ、コイツの出所を探れば、その剣士にたどり着けるかもしれないんだな」ランライドは次の食い物を取り出しながら言った。
「あぁ。したら、俺たちの手柄だ!もしそいつを捕まえられたら、イッキに立身出世、給料うなぎのぼりだぜ!」ライズは握りこぶしを固めた。「……どした?」
「いや、別に」
僕は黙り込んで腕を組んだ。
僕がまたロクでもないことを言ったときの、隊長がカンカンに怒る姿が目に浮かんだ。僕には彼女が悪い人間のようには、どうしても思えなかったから。なぜか、そのセンで考えようという気が、サッパリ起こらなかったので。
そんなことふたりに言ったって「なんでだよ?」って聞き返されるだけなのが目に見えてたから、まだ言ってはいないけど。だって、聞かれても。答えられない。理由なんて、ちっとも思い当たらないんだから。
僕は昨日からずっと、頭の中で彼女の言葉を反芻していた。『レジェドリアに気をつけろ。奴はただの坊主ではない』……どういうことだろうか。彼女は何のために、あの行軍を襲ったりしたんだろう? いや、手口やタイミングからして、どう考えても彼女はレジェドリア大司教を狙ったとしか思えない。襲った時の雰囲気から察するに、きっとなにか個人的な恨みでもあったんだろう。なぜだかは分からないが、エライひとというのはどこかで必ず人の恨みを買って生きてるもんなんじゃないだろうか。平民出の僕には、想像もつかないけれど。
恨み、か。
これは少々、調べてみる必要がありそうだな。
僕がまずどこから当たってみようかなどと頭をひねっていると、通りのあちら側から誰か兵士らしい人影があわただしく走ってきた。
「ん、ハルベルトなんだな。どうしたんだろうな」ランライドは意外と目がいい。
ハルベルトっていうのは僕たちよりひとつ位が下の神殿騎士で、伝達兵っていうほとんどパシリみたいなことをやってる。名門の出らしいんだけど、どういうわけかいつまでたっても下っ端をやっているっていう、こいつもまた少々変わったヤツだ。
「たっ、大変だぁー!」いつものようにハルベルトは大げさに両手を振り回しながら走ってきた。「たっ、大変……はぁっ、はあっ」
「うぉいおい、どうしたっていうんだよ?そんなに慌てて」
「そっ、それが……」
「落ち着いてから話すんだな。ほら、深呼吸する」
膝に置いた腕で体重を支えながら、ハルベルトは肩で荒い息をついた。いつもおんなじことを繰り返すぐらいなら、初めからゆっくり歩けばいいのに。
そうも言ってられないことを伝えるのが、伝達兵の役目なんだろうけど。
「しょっ、召集があったんだ」ハルベルトは声になるかならないかの音で、ぜいぜい言いながら早口に言った。「市内警護の兵は、ぜんぶ集まれって」
「全部だと!?」ライズが言った。「いったい何があったんだよ!?」
「わ、分からない」ハルベルトはまだ肩で息をしてる。「どうも、貴族同士のもめごとらしいんだ」
「うぁっちゃ〜」
「貴族同士のイザコザに巻き込まれるとロクなことないんだな、うん」
「それで、隊長はどこ?」
「詰め所。伝令はもう各所に回ってるから、早く行ったほうがいいよ。オレもすぐ行くから」
「ああ、分かった」
さっきまで僕がどやされてた十隊の詰め所には、うってかわって重苦しい雰囲気の兵士たちでひしめいていた。みんな妙に重く沈んだ空気で装備を点検してるその空気から察するに、どうやらそれなりに緊急事態らしい。小声で囁きあう声以外は、みんな押し黙ったように静かだ。重苦しい雰囲気の中、僕たちはいつものように支給の革鎧に袖を通す。
突然の召集に、みんなも不安になっているらしい。ここそこで囁きあう声が耳に入ってくる。今度はどことどこだって? 赤系統と青系統がぶつかったらしいぜ。いや、それに黒も一枚かんでるって俺は聞いた。どうも襲われたのはランディール家らしいぞ。交戦中なのか? いや、間者はもう捕まったらしい。だったらなぜ俺たちが駆り出されるんだ? そんなことオイラが知るかよ。
ふぅ。やれやれ、やっぱり説明しないといけないだろう。
ジェスクウには長い長〜い歴史があって、それに伴ってやっぱり昔からの名門の家というのはあるわけなんだ。多分ほかの国……特に、鴻国あたりから言わせると身分差別の激しいところ、っていうことになるだろう。ジェスクウの貴族でも特に有力な家は五大家名って呼ばれてて、国王に次ぐ地位と権限がある。いや、最近は教会側の進出が激しいから、ひょっとしたらそれと結びついて国王より多くの兵を動かせる貴族もいるんじゃないだろうか。
とにかく。
この五大家名ってのが厄介で、すべての貴族はなんでか知らないけどこれになろうと躍起になって策謀をめぐらしてるんだ。まるで貴族の家に生まれたからには何が何でもトップまで昇りつめなきゃならない、みたいに。まぁ貴族たちにとってみれば、そういう形のないものがいちばん大事なんだろう。五大家名は正式にではないけど、その会議のときの椅子の色から赤、青、緑、白、黒の五色で呼ばれることが多い。そしてほとんどすべての貴族がどれかの色に属していて、日々その椅子に座ろうと躍起になってるってワケ。詳しくは知らないけど、相当ドロドロした汚いことも、裏では行われてるらしい。そんなことは僕の関係ないことだけど。
そんなわけで、今回はその争いに僕たちが巻き込まれた形になる。貴族同士の覇権争いは表沙汰になることは滅多にないけど、ジェスクウで起こってる事件や犯罪は半分以上がこの争いになんらかの形で関係してるって言われてる。僕もそれはありそうなことなんじゃないかと思う。それほど詳しいことは僕も知らないから、もしもっと詳しいことが知りたければ、ウィザーズ・タワーの社会構造学か何かの講義に忍び込んでみることをオススメする。
だいたいそんな所だ。
僕はその噂話を聞くともなく聞いていたが、ライントール隊長の「静かに!」っていう声に顔を上げた。
「あー、ひょっとしたらお前たちも噂か何かで聞いているかも知れんが、今から半刻ほど前、F地区にあるランディール家の邸宅が襲撃されて、エデス・ランディール卿が殺された。絞殺らしい。犯人は数日前から屋敷に潜り込んでいた召使いらしいんだが、今行方をくらましてる。ランディールの私兵に手傷を負わされているから、そう遠くには行ってないはず、という話だ」
隊長はそこで一度言葉を切り、部下である兵たちの視線がすべて自分に集まっていることをことを確認してから、言った。「そこで、だ。我々には、ジェスクウの道を封鎖してそいつを追い込む作戦の、第二級任務が下った。各自の配置をこれから読み上げる! ハイク、レンドラ、ムラージュの三名はD‐十二の三叉路! D‐十三の細道には……」
隊長が担当を読み上げる間、僕はひとり考えにふけっていた。
殺されたランディール卿は、青のなかでもかなりの地位を占める名門だ。特に通商方面でその権力を振るい、商業都市マーシナルにもコネクションを多く持っている。青の資金関係のイザコザはほとんど彼が発端とさえ言われているくらいだ。
その家が没落して得をする家といえば……赤か、黒か……
ダメだ。あまりにも多すぎる。競争の激しいこの世界で、他の家がつぶれて喜ぶ貴族なんて、掃いて捨てるほどいるんだから。
「オイ、行くぞ」声に顔を上げれば、ライズだった。「お前とランライドとで、D‐十八商業区画だそうだ」
「あそこかぁ……あんな所にホントに来るのかな?」
「来そうなところはもっと上のお偉方が押さえてンだろ。ホレ、とっとと準備していくぜ」
「あぁ、それともうひとつ」と、これはライントール隊長。「もしこれが五大家名の覇権争いに絡んでいるとすれば、首謀した……あるいは真実の露見を恐れるどこかの家が犯人を逃がそうと、検問を襲撃するかもしれん。各自、背中にはじゅうぶん注意しろよ」
ありそうな話だ。僕は背筋がぞわぞわしてくるのを自覚した。
願わくば流血沙汰なんて起こりませんように。
杞憂っていうヤツだろうか。
結論から言うと、僕たちのところに、その犯人は来なかった。
その時僕たちは通りを(といってもひとがようやくすれ違えるぐらいの道幅しかないけど)封鎖して、通る人すべての所持品と状態、そしてもちろん警備兵にやられた怪我をないかチェックしていた。
ちょっと情けないことに、僕はひょっとしたら彼女を見かけることができるんじゃないかってしじゅうキョロキョロしっぱなしだった。けど、そう簡単に会えるもんでもないらしい。またまた例によって、ハルベルトの奴が息急き込んで駆けてきたののほうが先だった。
「おぉーい!」手を振る姿はどこか嬉しそうだ。「暗殺者、捕まったってー!」
僕とライズとランライドは、それぞれキョトンとした目を見合わせた。
「……そっか。なーんだ」
「意外だな。トットと雇われ主に始末されてるかと思ったが」
「なんか、あっけない解決なんだな、うん」
「教会側に捕まるまで指をくわえて眺めてたのかな。だとしたら、ちょっと間抜けだけど」
「それでよ、その犯人とやらは今どうしてんだ?」
「いま、向こうで尋問受けてる。他の貴族のところの兵がやると詰問に見せかけて口封じに殺しちゃうかもしんないから、教会のほうでやるってるんだって。いま行けば見れると思うよ」
それもまた、ありそうな話だ。
「死人にクチナシってか……どうするよ?」
ライズは僕のほうを見て言った。
「任務完了か……まぁ、僕らが駆り出された理由ぐらいは聞きたいよね」
「だな。決定」
「そんなこと言って、ふたりとも結局、物見高いだけなんだな」
うっ。そのとおりだけど。
ハルベルトは場所を教えると、次の隊に伝令するからと言ってまたどこかへ走り去った。
あいつ、走るのが好きなんだろうか?
ウワサの暗殺者とやらは、大地に生えた三角十字(シウス教のシンボルだ)に結わえられ、後ろ手にしばられていた。暴れたりはしていない、大人しいもんだった。闇に紛れる紺青の服、腕に絡まるサラマンダーの刺青。肩から二の腕にかけて、なるほどだれかに刺されたらしい血の跡がこびりついて黒ずんでいる。おおかた弓矢にでもやられたんだろう。
あたりは騎士や一般のひとだかりでごった返している。真実を大衆に知らしめるため、っていう名目の公開尋問は、実質上単なる見せしめに近い。これから尋問が始まるっていうのに、ヒマな見物客たちが(僕もその一員だけど)後から後から押し寄せてくる。喧騒にまぎれて、どこかで昼間っから酔っ払いがなにごとか嬌声を上げるのが聞こえてきた。気楽なもんだ。
男の前には茶のローブを纏った壮年の男が立って、暗殺者を見下ろしている。教会直属の裁定者、異端審問官だ。
「神の名に調和を。神の剣に慈愛を」
髪の毛も髭も真っ白の壮年審問官は、眉間に皺を寄せてお決まりの台詞を二度つぶやいた。
彼ら異端審問官は僕たちと同じ神に仕える戦士、主に犯罪者や異端者(邪教徒や、教会に逆らった犯罪者)を裁く役目を負っている。僕たちと同じ『佩剣を許されたシウスの子』、ただこれはちょっとタチが悪い。
「神の御名において問う。貴様は誰の命令で、ランディール卿の命を狙った?」
「…………」
異端審問官が男を尋問している。だが、男は黙秘を決め込んでいるらしい。
「なるほど、少しはホネのある奴らしいな。だが、口が固いだけでは闇の剣は務まらん」
異端審問官がニヤリと笑って懐から取り出した金色の針は、大人がめいっぱい開いた親指から小指くらいの長さのある、太くて頑丈そうな針だった。太陽の照り返しを受けても、妙にくすんで輝かない。
異端審問官の、拷問道具のひとつだ。
審問官はまるで宝石でも見るようにその長い針をためつすがめつ眺めると、素早く男の首筋につきたてた。ズブリと鈍い音がして、針の付け根あたりまでひといきに埋まる。一見それほど急所とは思えなかったが、それでも刺された男は、まるで両腕を切断されたかのような断末魔のような叫び声を上げた。思わず耳を塞ぐ。
「ふふん、痛かろう。これなるは真実の針。神に背きし者、真実を語らぬ者がこれを受ければ、その罪の重さに等しき痛みを与えられる。そのため、罪が露見するというわけだ。案ずるな、過ちを犯したものよ。この針が致命傷で死ぬことはありえない。たいてい、そのまえに激痛のあまり気が狂ってしまうからな」
異端審問官は悪鬼でも気分が悪くなるようなことをサラッと言ってのけた。
あんなので刺されたら、誰だって痛いに決まってるじゃないか。その上、彼らは人間の痛点を熟知している。
男は地面に突っ伏して、首筋の痛みに震えている。ここからはその表情は伺えない。あたりでざわつく野次馬の喧騒や、どこかの酔っ払いがなにごとか吹っかけている声がやけに遠く感じる。
「どうする?話すか、話さないか。話さなければ……まぁ、それも面白いが」
ニヤリと八重歯むき出しに笑う審問官。
プロだ。
「……い……いい、やめてくれ……」
「話す気になったか?」
「……それは……」
「欲張りな奴だ。まだ足りないのか」
「ぃや! 頼む、もう許してくれ! それだけは、それだけはカンベンしてくれ!」
男はぶんぶん頭を振った。可哀想だが、仕方ない。もしずっと黙秘を続けていれば、処刑は免れなかっただろう。どんなに重罪でも、貴族同士の争いに巻き込まれて命を落とすひとを見るのは忍びない。
「ならば吐け」
「……オレは……」
そこまで話したところで、異変が起こった。ひとだかりから、神殿騎士と審問官たちの壁をすり抜けて、ひとりの酔っ払った中年の男が歩み出てきたのだ。
必死で押し戻そうとする人たちの手をかいくぐって、酔っ払いは覚束ない足取りで異端審問官の前にふらふらと進み出てきた。
「……ぅおう、アンタッ……そんな偉そうにしてるがよ、ウィック。いったいなにさまの、つもりだってぇんでぃ、べらぼうめぇ」
「なんだ貴様は」異端審問官は目をすがめた。まずい。「神聖なる裁きの場を汚す気か」
「っっだよ、いーぃじゃねぇかっ、こんのくらい……うぉっとっと」酔っ払いのオヤジは千鳥足で、いまにも転びそうだ。「……ンな辛気臭いツラすーなってぇぇの。おう、どうだい、アンタ?いっぱい、やるかい?」
そのときだった。
男が懐に手を入れて酒瓶を出そうとしていた。異端審問官はあきれた顔で男に何か言おうとしていた。野次馬はこれから不幸な酔っ払いがどうなるか固唾を飲んで見守っていた。そのときだった。
僕が、その酔っ払いがニヤリと含み笑いをしたのを見たのは。
これから起きたことは、僕にしてみれば永遠みたいに長い時間だったけれど、きっと刹那の出来事だったんだろう。
酔っ払いの男が異端審問官の茶色いローブに勢い余って倒れこんだ。異端審問官はカッと驚いたように目を見開いた。誰かが、そいつを捕まえろと叫んだ。赤ら顔の酔っ払いが、その外見からは想像もつかない素早さで囚われの暗殺者に駆け寄り、そのロープを手にした短剣で掻き切った。自由になった暗殺者自身も、なにがなんだか分からないような顔をして酔っ払いを見た。異端審問官が胸から溢れ出る血を手で押さえて、前のめりに倒れた。我に帰った暗殺者が、素早い身のこなしで人ごみを掻き分けていった。野次馬の誰かが悲鳴をあげた。
時が一気にもとの速度で動き出した。囁きがざわめきになり、ざわめきが騒ぎ声になり、騒ぎ声が悲鳴まじりの混乱になるのに、そう時間はかからなかった。そこから逃げようとする人々と、なにが起こったか確かめようと押し寄せてくるひとが押し合って、尋問所はとんでもない騒ぎになった。押しあいへしあいする人々をかいくぐって、神殿騎士の誰かが酔っ払いの背中を切りつけた。もう酔っ払いでもなんでもなくなったそいつが、耳障りな声を上げて倒れる。僕はそれを目の端で見ながら、ひとごみを縫って駆け出した。
もちろん、逃げた男を追うために。
(どこかの家が犯人を逃がそうと、検問を襲撃するかもしれん。各自、背中にはじゅうぶん注意しろよ)
なんてこった。まさかこんな形になるなんて。
人の流れに逆らって走ると、急に視界が開けた。すでに神殿騎士が数人、あたりを駆け回っている。
どっちに逃げた?
焦って見回してみても、それらしい影はない。このあたりは住宅もまばらで、見通しのいい一本道が続いてる。でもその分人通りは少なく、目撃されずに逃げるには格好の場所でもある。
ええい、立ち止まってても始まらない。
僕はカンを頼りに、石畳の続くほうへと走り出した。花壇にはさまれた遊歩道を駆け抜ける。残念ながら、このあたりの道には見識がない。行き当たりばったりに角を曲がり、上り坂を駆け上がり、また下る。つきあたりを右、三叉路を左。時おりすれ違うひとが、走る僕に不審そうな一瞥をくれる。だが、逃亡者の形跡は、いくら走っても見つからない。
くっ、逃げ切られたか?
平和な昼下がりの家並みを、たわいない人々の談笑を切り裂いて、僕は走った。このままでは十隊の名誉どころか、貴族間の関係が一気に悪化するかもしれない。疑心暗鬼にかられた貴族たちは、まず間違いなくロクでもない事件でジェスクウ市内を持ちきりにしてくれるだろう。冗談じゃないぞ。
三叉路に着いた。どちらへ行くか逡巡している僕の目にふと、まったく予想していなかった意外なものが飛び込んだ。朽木色の外套に全身を包み、まるで隠れるように気配を殺している。一度見ただけだけど間違いない。
レジェドリア大司教だった。
大司教はこちらには気づかず、左側の通路の先を歩いていく。お供もなしでひとりきり、こんな所でなにをしているんだ?僕は迷わず、左側の通路に足先を向ける。
だが、結局こちらに視線を向けないまま大司教は、そのまま建物の陰へ消えていった。急いで後を追う。ひょっとしてこの事件となにか関係が……?
通路を抜けると、そこはどこかの屋敷の庭園だった。遅咲きの花たちが、懸命に美しさを競っている。だが、いくら見回してみても、そこに大司教の姿はなかった。おかしい。どこに行ったんだ?
大司教の影を探して視線をさまよわす僕の目に、これまたまったく思いがけなかったものが飛び込んだ。僕は驚いたのと同時に、拍子抜けした。
暗殺者。逃げているはずの、さっきの殺し屋だ。ぺたんと座り込んでいる。
僕は剣にするか魔法にするか一瞬迷ったが、結局、青くて透明な、拳大の水晶球を取り出した。
「動くな!」僕は水晶を眼前にかざし、できるだけ強面になるように眉を寄せて叫んだ。「動けばお前の体は、その草花にバラバラに切り裂かれるぞ!」
庭園に座り込んだ手負いの暗殺者は、逃げようともせず、全くそれに似つかわしくない顔つきで僕のほうをポカンと見た。
なんだこいつ……今さら他人のふりでもするつもりか?
男の二の腕にからみつくサラマンダーの刺青と、それを覆い流れる黒ずんだ血を確かめて、僕は一歩、一歩と足を進めた。こういう時がいちばん危険なんだ。頬を汗がつたう。喉の奥がカラカラに乾いている。男はまだ、僕のほうを物珍しそうな目で見ているだけだ。
とうとう観念したのか?それとも、そう見せかけて油断するのを待っているのか?
男は、僕が目の前に来るまで身じろぎもせずに僕のことを見るだけだった。まるでじりじり足を運ぶ僕が、すぐそばまで来るのをじっと待っているといった感じだ。
ひどく嫌な感じがした。
「観念しろ」僕は喉の置くからせいいっぱい低い声を絞り出した。「もうすぐ仲間が来る。もう逃げられないぞ」
男は僕がつきつけた水晶球をぼうっと眺めているだけだ。
ふと男が口を開いた。
「ねぇ、おじちゃん、誰?」
さすがの僕も、これには面食らった。
「なっ……何だって?」
「ねぇ。僕はパパとママがここでおとなしくしてなさい、って言ってたから、ここでちょうちょサンと遊んでたんだけどさ。いつのまにかパパもママもいなくなっちゃって。ついさっきまでそこにいたのに……あ、ひょっとしてさ、もうおうちに帰っちゃったのかな?」
「見苦しい芝居はやめるんだ。それとも、おとなしくつかまる気になったのか?」
「つかまる? なんで?」傷を負った暗殺者は、その顔に全く似つかわしくない純真な目で僕を見つめた。
言い返そうとして、その言葉が出なかった。こんなとき、どうすればいいのか……こんな場面は想定したこともなかった。どんなに厳しく詰め寄っても、この男にはさきほどまでの危険な感じが微塵も感じられない。それどころか、普通の人間にはとうていできないような無垢な瞳までやってのける。
やましい所を持たない人間は、怯えない。
「くそっ……とにかく、行くぞ。異端審問官に引き渡す」
「行く? どこへ? いたんしんもんかんって、どんなひと? やさしい? アメ玉くれる?」
「……それは」
言葉に詰まる。この男には本気で逃げる気がないらしい。少なくとも、今は。
必死で言葉を口の中で探した。どんなに探しても、次の文句が出てこない。
「ねぇ、どこに行くの?」暗殺者は首をかしげる。やめてくれ!「あ! ひょっとしてさ、おじちゃん、おとうさんのおともだち?」
男はいかにも子供っぽい手つきで僕の手を握り締めた。固まりかけの血と僕の汗に、手がぬめった。イヤな感触だった。
もし彼を連れて行けば、さっきのような尋問をまた受けるだろう。
「おとうさんはね、えらーい兵士さんなんだよ。ふふん、スゴイでしょ」暗殺者は僕に満面の笑みを向けた。頼む、やめてくれ。
あの尋問をもう一度受けて、この子が絶叫する姿が浮かんでくる。イヤな汗が流れた。
「あ、じゃあおにいさんはお仕事の部下のひとだ。おとうさんの」
違う、そうじゃないと、わめけない自分が情けなかった。
「ふーん、そうなんだー。じゃあ、ひょっとしておとうさんのところに、つれていってくれるの?」
僕は、次の一言を言う自分を、激しく嫌悪した。激しく嫌悪した。
「……ああ。そうだ。行こう……こっちだ」
十隊の詰め所。僕は机の前に腰かけ、組んだ腕の中に頭をうずめていた。
ほかの同僚たちが、剣を磨いたり、鎧を磨いたり、故郷への手紙を送ったり、めいめいが気ままに過ごしている。
いつもの風景。
「よおっ、ティガ! ン年ぶりのお手柄、おめでとさん!」いつもの調子で、ライズが肩に手を置く。「……なんだ? まだ塞ぎこんでやがんのか。ったく、しょーのねぇ奴だなぁ……」
「あいつは」僕は頭を上げないまま言った。鼻先の机で声がくぐもった。「あいつは、どうなった?」
「あぁ、あの殺し屋のことか? コイツがよ、素直に捕まりやがったから妙だと思ったら、どうも頭のネジがゆるんじまってたらしいんだな。いくら尋問しても泣きわめくだけで、ちっとも出てこねぇんだとよ」
「……あいつは狂ってなんかない」僕は、絞り出すような声で言った。「いくら尋問したって、出てこないさ」
「一度は白状しかけたのになぁ……。ったく、哀れな奴だよ。ギロチン台に首乗っけるためにわざわざティガにつかまるとはな」
僕は、他のみんなに見えないようにそっとため息をついた。
逃げてからあの庭園までに、彼に何があったんだろう。あのときの彼は、間違いなく子供だった。演技でも、あるいは気が違ってしまったのでもなく。純粋に少年だった。
彼が何かをされた……と考えるのが、いちばん妥当なセンだろう。彼をああして何か得をする奴がいるとすれば、そりゃあもちろん真実の露見を恐れる奴らだ。まず考えられるのは、口封じになにかされた、ということ。次に可能性としてありそうなのは、あの時酔っ払いを装った男に何かをされた、ということ。いずれにしても彼が邪魔になったなにものかの手によると見て間違いないはずだ。
問題は、どうやってあんな状態にしたか、ってことだけど……
そして僕には、他の人が持たないパズルのピースをひとつ隠していた。
レジェドリア大司教。
あのひとは、あの時、あそこで何をしていたのか……?
彼の周りにからまる糸が、すこしづつ明らかになっていく。解きほぐそうとすればするほどそれはからまり、複雑さを増す。でもどの糸として単独で存在してはいない……どの糸も、必ずどこかで全体とつながっている。関係のないものはひとつとしてありえはしない。そんな気がした。
ひょっとしたらこの一件、あの美しき女剣士ともなにか関わっているのかもしれない。早急に調べる必要がありそうだ。
落ち込んでばかりも、いられない。
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