意外と違和感を抱かれる話のようなので、書き残しておきます。
教育の網から漏れた「被害者」たち
すべての犯罪者、加害者には、何らかの「被害者性」があるとぼくは考えています。
誤解を招くので先に書いておくと、そうした被害者性によって加害行為の罪が軽くなる、軽くすべきだ、とかそういう話ではありません。罪の重さは変わらないが、事実として、加害者は被害者の一面を持っているので、その真実は見るべきだ、という話ですね。
たとえば秋葉原連続殺傷事件の加藤智大も、彼の書き込みを見るに、強い被害者意識を抱いていることを感じ取れます。事実、大なり小なり、何らかの被害を受けてきたのでしょう。
私は今の職場に要らないようです
ネットで出会いは気持ち悪いのだそうです 私の全てを否定されている気分です
つまり、私を産んだ男女への最高の復讐になるのですね よくわかりました
さて、そういう感覚からすると、冷蔵庫に入って炎上するおバカな若者たちも、ぼくの目には何らかの被害者として映ります。
彼らはいかなる意味で被害者なのか。それは、「愚行に至るまでに、適切な教育を施されることがなかった」という意味で、被害を受けていると捉えることができます。
彼らは「冷蔵庫に入ってふざけてはいけない」という常識と、それを「ネットで公開することで、いかなる影響が発生するか」を理解せずに育ってきて、ああいう状況に陥るわけです。
そういう愚行を彼らの自己責任として見ることも可能ですが、ぼくにはそういう態度は無責任のように感じられますし、何よりそれでは、問題の解決にならないと考えます。
ぼくの態度に対して、「迷惑を掛けた奴の被害者性に目を向けろとは何事か!被害を受けた人の感情を考えろ!」という反感を抱く方もいるでしょう。
ぼくは当事者ではないので、被害を受けた人の感情を100%理解することはできません。それは傲慢というものでしょう。ひとりの外野的市民としての態度を、ぼくは「彼らには被害者性があり、その点も見つめないといけない」と表明しているにすぎません。ぼくが店長で、冷蔵庫に入られたお陰で店が潰れたら(つまり当事者だったら)、流石にそんなことはいえなくなるでしょう。
より大切なこととしては、「被害者感情(この場合、店長)を尊重すること」と、「加害者の被害者性に目を向けること」は、相反するものでもありません。いかようにでも、両立は可能でしょう。
また、被害者性に目を向けることは、彼らが愚行や犯罪から離脱するためにも必要なプロセスである、という論点も提示されています。
本当の意味で更生するためには、自分がいかなる被害を受けてきたかを、自分の口で語れるようにならないといけない、という話です。
ここら辺は下記の作品に詳しいので、関心がある方はぜひ。「反省させると犯罪者になります」が一番お手頃ですね。
加害行為を犯した人、おバカな若者たちを、社会から排除するのは簡単です。しかし、それは問題解決を閉鎖した空間(刑務所、地域社会、家庭etc)に押しつけるにすぎません。
自分が直接的な被害を受けた場合はさすがに難しいですが、そうでないときには、加害者のもつ被害者性について冷静な理解を得た上で、ぼくらは彼らの更生に関与していくべきです(寄付、ボランティア、政策提言などなどの手段が用意されています)。それは市民に求められる仕事です。
「バカは死ね」などとバッシングする態度は、何ら生産的ではありませんし、自分の手でこの社会を生きにくくしていることに、気づいてほしいです。