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2012年4月21日 (土)

ブルーニ神父らしい方からの文章を読んでください

始めに書いた2011/12/07付で「旧カトリック黒崎教会公式ホームページです」のコメント欄にブルーニ神父と思われる方からコメントがありました。そのまま転記します。

ブルーニさん、このブログは長崎教区所属の信徒が製作者で「旧カトリック黒崎教会公式ホームページ」の製作者ではありません。

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どういう権利でカトリック黒崎教会法人所有から管理人の個人所有に変更したでしょうか。
これを個人で決めることではずがないし、おとんど教会にいらっしゃらないのに、どうして本当の状態知ることができるでしょうか。
福音によると、問題があれば本人と話すことになります(マタイ18,15)。
その代わりに私について嘘も全国的に広めていますね。
ご存知のように、ホームページは閉鎖されてから、変化されたのはのは、ご自分の判断ではないでしょうか。黒崎教会にはいいものではないということよりも、あなたが何も言わないでかってに一人でしましたからです。これから主任司祭である私と直接に話したらどうですか。
それとも私が説明ができなくて裁かれるでしょうか。
一番のおきなうそは、私が”司教だったらこの教会をつぶす”という言葉をいったということです。
これが私の言葉ではありません。本当のことは、一人の司祭が黒崎教会のある出来事が起こったということを聞いて、”私が我司教だったら教会(建物、もちろん、しばらくのあいだ)しめる”。
ごらんのとおり、私の言葉ではないし、
(私が引用した言葉で)、”つぶす”という言葉が入っていませんでした。
どういうわけでこんなうそを全国に広めているでしょうか。
愛を込めて、兄弟である神父、
ジャンピエロ ブル二

投稿 Bruni Giampiero | 2012/04/09 22:48

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皆さん、この文章を読んで感想をコメントに書いてください。

コメント

KKさんへ

製作者さんがこのブログのコメントに書いていることを鵜呑みにしてブログに事実として書いていることに危険を感じたので外部からの情報にはより注意深くなってほしいと思ったものです。心配なのは誤解があったかもしれないのに、誤解だと認識をしないままでいることです。誤解があるかどうか、よく検証を行なったほうがいいのではないかと思いました。
あと、「カトリックの信徒としての本来あるべき行動」とは、カトリックの信徒として対立などの行動をすることは、ふさわしくないのではないかと思ったので書きました。

↓名無しさんへ。

「どうしてこのブログが存在しているのか」。そもそもの理由をまず考えた方が良いのでは?

それと、このブログの製作者さんではなく、「『司祭のひと言』の管理人」が「ブログの製作者」と間違えられ「手紙やメールで身に覚えのない理由で攻撃」されているとのことです。もしそれが事実なら、私はそこに信じたくない<逸脱>を感じてしまいます。

このブログ以外の手段でも、様々な方々が黒崎教会が抱える深刻な現実を外部へ知らせようとしています。
何故なら、皆がこの教会を変えようと望んでいるからです。

製作者さん自身が「見たり聞いたり」した事実のみを報告しなければ、このブログが成立しないとは思いません。製作者さんによる報告がすべて真実である、とも。
同様に「他の人が見たり聞いたりしたもの」の100%が嘘・虚構・デマであるわけでもありません。「客観」という視点が必要な場合もあるはずです。掲載したり、手を加えたりするのは製作者さんの自由です。

名無しさんのような方からこのブログが100%「悪」もしくはフィクションであるとみなされ、現実が放置され続けることを、私は何よりも恐れています。

「カトリックの信徒としての本来あるべき行動」? 
ちょっと意味が分かりませんでした・・・。


ブログのタイトルである「黒崎教会に何が起こっているのか」に「司祭のひと言」の管理人が攻撃を受けていることが書かれていますが、このブログがあるのが原因なのは明らかでしょう。
製作者さんがブログやブログのコメントに書いているのは、ほとんどが他の人が見たり聞いたりしたものですね。
カトリックの信徒としての本来あるべき行動をしてほしいと思います。

レイセンさん
貴重な情報ありがとうございます。感謝、感謝です。
ブルーニさんの光丘教会での様子を黒崎教会の信徒の方も聞いたそうですが、変な行動は無かったとので、では何時から、こんなになったのか、不思議でした。
(宮原司教も、「信徒と、もっと話し合うように」と促している)との事ですが、思いあたることがあります。
復活祭の日ミサ後、話し合いをします、テーマは「「共同体として、主イエスの復活の証人である私たち」と突然、案内がありました。私は部外者ですので、参加はしませんでしたが、参加した方から様子を伺ってまた、呆れてしまいました。まず、教室方式のテーブルでブルーニさんが前に座り、ひとりで喋り通したそうです。その内容が呆れます。復活祭に一人の洗礼も無いのは、「おかしい」と言って、参加者は怒られているようだったと話しておられました。これが話し合いですか?
今日はこれくらいにします。
レイセンさん、本当にありがとうございました。

 以前、この場で見当外れのコメントをして顰蹙をかったレイセンです。今回は頭を冷やしてきました。

 私なりに経過を調べてみました。一助になればと思っています。

1.以前の赴任地である「光丘教会」でも同じようなことがあった。

 赴任した際にそれまでの教会役員や世話役を辞めさせ、ブルーニ神父が新たな役員を任命した。

2.北九州地区を総括する小倉教会の主任司祭が調整を試みている。ブルーニ神父にも「歩み寄りを」との話があったようである。

3.宮原司教も、「信徒と、もっと話し合うように」と促している。

今も良い方向へ動きがあるよう、働きかけは続いているようです。

この文章はまともな日本語でないと思うのは私だけではないでしょう。
外国人だから、文章がきれいに書けないと言ってしまえば、それまでですが、幾十人も外国人宣教師を知ってますが、きれいな日本語の文章を書きますし、日本語の会話もちゃんと通じる、説教も理解出来ます。心に響いた説教も幾度もありました。しかし、ブルーニさんの説教は言語不明瞭、意味不明なことが多いのです。昔の防虫剤のコマーシャルではないですが、「ツマラン、オマエノハナシハ、ツマラン」

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