宮崎学の叛乱者グラフィティ(論座 2000.7月号)

第三回 三上治 元共産主義者同盟・叛旗派議長 非転向という保身


 

 

一九七五年、三上治は自らが組織した共産主義者同盟(ブント)叛旗派を解散した。その原因や当時の考え方は後で述べるが、この時、三上は吉本降明を訪ねたという。その時の様子を、三上の言葉によって再現する。

三上が「ありがとうございました」と挨拶した後、「今まで女房と子供に迷惑をかけてきたので、これからは政治運動の発言は一切しません」と吉本に告げると、普段は滅多に怒らない吉本が、「何をばかなことを言っているんですか。何のために十五年もやってきたのか。それが無駄になるんですよ」と怒ったというのである。吉本の怒りの理由は「組織があるから政治表現があるとか、政治運動の表現があるというのは、これこそスターリン主義なんだ。一人でやれないで、なんで組織などやれるか。結局、あんたもその程度なのか」ということであった。

三上

六〇年のブントはよくやった。しかし、ブントの一番だめなところは、組織がなくなった途端にそういう表現をしなくなったことだ。例えば、立派な学者になっているのもいいだろう。だが、それとは別に、自分の背負った歴史の記憶を表現しなければいけない。それをしていれば、後の人たちがずいぶん変わったはずだ、ということなのです。

 

宮崎 吉本さんにはバチッと言われましたね。俺たちだけよければいいんだというのでは、それだけの話になってしまうものね。では、三上さんが叛旗派を解散することになった背景には何があったのか。

 

三上 闘争がだんだん、爆弾とかにエスカレートするでしょう。そうすると途端に大衆的支持を失う。そしてますます闘争手段は過激化する。そういう悪循環に入っていて、そこからもう抜け出せないと判断したからでしょう。その第一歩が赤軍派の発生でした。

 

そういう認識があって、三上は全力をあげて中央大学の若い活動家たちを説得する。彼らは泣きながら「赤軍に行かせてくれ」と言い続けたが、三上は「絶対にだめだ」と説得するのだ。

三上

中大というのは戦闘的なグルーブでした。右派と言われるのは屈辱で、死んでもいいから左派と言われたいと思っていた。だから、「左派と言われなくてもいいではないか、それは後でわかることだから」と、ともかくも説得したのです。、

宮崎

その状況を具体的にはどんなふうに分析していますか。

 

三上 

六七年から七〇年のゲバルトの意味というのは、俗にいう革命暴力ではないのです。異議申し立てという政治的意思の表現なんです。その新しさだったのです。だから、政治的意思を行動として表現する人が、自分でわかっていればいいです。体を張って見える形でやっている限りはよかったんです。自己で行動に対して責任を負う形だからです。それは、警備を強化してくるのに対して、その壁を突破するという対抗策であって、一種の自衛的な要素もあるわけだから、運動の境界線も見えてくる。だけど、これが爆弾とかテロリズムになったり、人を盾に取ったりした途端に大衆的な支持を失う。さらに、匿名の形になると腐敗する。行動は無責任になるんです。そこから退廃していきます。だからそれはだめと思っていました。

 だから、僕らは基本的には爆弾闘争はやらない、せいぜい言えば竹竿以上のものは持たないようにしよう、右派と言われてもいいんだ、このあたりが現実的な運動の境界なんだ、という考えがありましたね。

  時を経て、私も「よど号」のグループに会った時に同様のことをぶつけたことがある。「朝鮮民主主義人民共和岡に権力があり、民衆がいる。私たちにあり得る普遍性とは、民衆の側に立つということしかないのではないか」と。

 それに対して、彼らは「民衆の側に立つ」と答えてきたが、私には、それはお題目を唱えているだけであるように感じられた。そこで私は、「北朝鮮に養ってもらったという負い目があって、それによっていろいろなしがらみができているにしても、自分の覚悟で語ってくれないと困る」と彼らに強く言ったことがあるのだ。私のそういう経験を含めて、三上との話は進展していった。

三上

僕は「よど号」の連中というのは、公的には奴隷の言葉しかしゃべれない状態だと思う。彼らが、自分たちはどういう限界のある言葉をしゃべっているか、つまり、自分たちがどういう制約の中でしゃべっているかをわかってくれていれば、それでいいんです。これは僕の希望でもあるんです。

 

宮崎 わかる、そういうこと。

 

三上 

だから、僕は塩見孝也が、チュチェ思想に共感するなんていうでしょう。急に、民族の自主とかいいますね。お前は奴隷の言葉でしゃべらなくてはならない境遇にいるわけではないだろう、それならぱそんなこというなというのが僕の意見なんです。あの「よど号」のメンバーは奴隷の言葉でしかしゃべれない。しかし、そういう自分をまた相対化している自分、または自己批判的に見ている自分があれば、必ず何かしら伝わるものなんです。それは沈黙の言葉でもあり得る。それを読み取れないようなヤツがアホなだけです。

 

宮崎

 だから、奴隷の言葉で話している時に、何らかの表情が見えるように、あるいは感じられるようにしてくれるかどうかということなんですね。僕は「よど号」のグルーブの人たちが、精神構造上、今の北朝鮮の権力を是認することはあり得ないと思っているし、唯一の可能性として、僕はそこに賭けたいと思っているのです。

三上 僕らも同時代を生きて闘ったんだから、せめてそう考えたいですね。

 

結局は三上と袂を分かっことになった赤軍派のメンバーであっても、いまだに彼らを思う気持ちは強い。

 

宮崎 重信房子や「よど号」の田宮高麿は三上さんが指導したんでしょ。

 

三上

 かつて一緒にやったということですね。だからいつも胸の痛むところがある。重信に何かうまく伝えられないかと思っても、何もできないわけですから。ただ、彼女は今、奴隷の言葉を吐くしかないだろうが、そういう状況を彼女が目指したであろうとも彼女の気持ちは酌み取りたいという気が、僕にはあります。

 

宮崎 当時、重信からはいろんな相談とかを受けていたんですか。

 

三上

 僕が中(巣鴨拘置所)に入っていなかったら、絶対赤軍に行かないように説得したと思います。出てきたらもう赤軍だった。しかし、僕が七〇年の六月ぐらいに出てきた時に、アラブに行くことについての相談を受けたんです。新宿のゴールデン街の飲み屋で飲んでる時に重信がたまたまやって来て、相談があると言う。「何だ」と尋ねると、「向こうのぼうへ行きたい」という。「とんでもない。行くな」と僕は強硬に反対したんだけれど。

 

六五、六年のころに三上たちは「ベトナム義勇軍構想」というものを練っていたことがあるのだが、重信はそのことを持ち出してきて、「ぜひとも行きたい」と言っていたそうだ。三上は「あれは若気の至り」だとも言えず、ただ「だめだ」「やめろ」と言うだけだったのだ。

 

三上 ベトナム義勇軍に行くと言い始めたのは、正直なところ、日本の革命連動に絶望し、家からは勘当され、大学には失望してという、にっちもさっちもいかない状態のときでね。何かどっかへ抜け出る可能性はあるのかというニヒリスティックな時代だったんです。

 

宮崎 重信もその時はにっちもさっちもいかなかったんだな。

三上

でもアラブに行ってたからよかったのかもしれない。行かなかったら、重信といつも一緒にいた遠山美枝子のように、連合赤軍で殺されていたかもしれない。

 

宮崎 最近、帰ってきた足立正生とかとはどうだったの。

 

三上

 僕も叛旗派をやっていたから、あの人とも七二年ぐらいまでは、相談されたりしてよく二人で飲んでいました。ある時、僕が「核戦争の時代だから大戦争は起こらないのだ。だから、逆に民族革命のようなものが起きる。そういう可能性があって、現代の戦争の性格は変わった」という話をしたら、足立が「その理論で俺はやる」と言つ。僕は「そういう意味ではない。逆に民族解放運動の限界をどう乗り越えるかを考えなければいけないんだと言ってるんだよ」と反論したことがあった。そういうことで、彼は行ってしまったのかなあと思った。まあ、彼の場合は帰ってきたので、落ち着いたら会いに行きたいと思っている。

 

宮崎 中大の周辺は奇跡的に赤軍に行かなかったけれど、行ってたらきついよね。

 

三上

 脇のほうにいたヤツは、ずいぶん流れていったからね。「なんで俺たちは右派なんて言われるような屈辱を背負わなければならないんだ」「運動資金も全部俺たちが作っているのに」とかいろいろあったけれど、「歴史の流れというのはそんなもんだ」と僕はいいました。僕の場合、たまたま六〇年安保の体験があって、運動の波ということに対する感覚があったから、こういう運動がどういうレベルであるかが判断できたんだと思います。人間の現実感覚というのは恐ろしいもので、あとから運動に参加して、それしか知らなかったら、「この運動はずうっと続<」と言われたらそういうふうに幻想してしまうでしょう。経験はブラスにもマイナスにも作用するんですが……。

 

宮崎

 イデオロギーが一番人を殺すという時代だったのではないだろうか。例えば、梁石口の小説『血と骨』に出てくる主人公の父親のような乱暴者で凄まじい人までも、あれは実像に近いと思うのだが、そういう人までも北朝鮮は吸収してしまったんですよね。あの時代は幻想というものが見事なまでにあった時代であり、そこまで引っ張っていけたイデオロギーというのは、逆の面から見れば、それによっていくらでも人を殺せたということになると思う。

 

 六〇年代から七〇年代を振り返った時、自省的に言うと、この当時間われていたのは「いかに負けるか」ということではなかっただろうか。少なくとも「負け方」を視野に入れておくべきだった。ところが当時は勝つことばかりを考え、負け方を全然考えていなかった。しかし、三上は唯一の例外であったのかもしれない。赤軍派が勇ましく登場してきた六九年の段階で、三上はすでに後退戦をイメージしていた。豊かな想像力と先見性がそこにあった。学生運動に限らず、組織の中では一見勇ましい言葉が主流になりがちである。「卑怯者」あるいは学生運動の中にあって「右派」という汚名を恐れず、あえて後退をはっきり公言したところに三上の誠実さがあり、部下のメンバーの跳ね上がりを抑えきったところに、指導者としての資質の深みがある。六〇年代以降の学生運動の中にあって、上手に負けることができた唯一の指導者ということになる。これは、三上と同じブントのリーダーだった塩見学也との対比で見ていくと、よりわかりやすいと思う。

 私の知り合いに、かつての塩見にかなりの幻想を抱いていた者がいる。彼は、出所後の塩見のブザマさを見せつけられるのが、つらくて耐えられないから早く消えてくれ、と真顔で言うのだ。三上を「右派」とあざけった塩見の今の惨状はいったい何なのかとも言う。

 

 塩見がそこまで言われるのは、三上と違って、負け方を誤ったからだと思う。彼の場合、「非転向」出獄ということになっているが、強要もされないような状況での「非転向」というのは有り得ないのではないか。いつまでも「非転向」だと力んでいるのは「俺は責任を取らないぞ、総括もしないぞ」と言っているのと同じことになるのではないか。あるいはいつまでも指導者の顔をしていたい彼は、今や「非転向」を自己保身のための金看板にしているのかもしれない。かつて、「非転向」という言葉にはある種、崇高な響きがあった。しかし、自己保身のためにそれを掲げ続ける場合には、シニカルな響きしか持たなくなってしまう。塩見を指導者と仰いでいた者が、つくづく「非転向と曹いて保身と読む」と私に語った。負け方において、きちんとおとしまえをつけた指導者の場合には、好意的な神話が生まれることもあるというのだ。ここに一枚の写真がある。六〇年五月二十日、日米安保条約の強行採決に抗議する学生デモ隊の中に三上の顔が鮮明に写っている。三上治、大学一年生の初夏であった。三上の「学生運動」はここから始まり、吉本の家を訪ねた七五年に終わった。三上が苦闘し、のたうちまわり、挫折を重ねた十五年間というのは、いったい何であったのだろうか。行動形態の跳ね上がりが、精神の過激性とはむしろ相反することを、六九年当時の闘争で見るに至った三上の感性は、吉本の言う「横超」という思想に向かう。

 

 三上の十五年間は、社会変革というものが、イデオロギッシュに意思統一された党派の指導者によっては絶対になし得ないことを、白らが証明した歳月であったと私は考える。旧ソ連が東ドイツを崩壊せしめたのは、党派ではなかった。むしろ、闇市場に見られる、人間の自然なあるがままの欲求が、巨大帝国を解体させた。重ねて言うが、党派によってなされた業ではなかったのである。また、三上の十五年間は、日本のラジカリズムの十五年間であったと思う。結果として壮大なゼロであったということかもしれない。しかし、一方でこの壮大なゼロが予測しないものを創った。それは、自己の精神を解体する、新たな精神である。賽の河原の石積みにも似た試行を繰り返しながら、三上が辿り着いたところは、三上自身が予期せぬような、自由な居場所だったのではないだろうか。

(文中敬称略)

 

 

 

みかみおさむ

一九四一年、うまれ。企画編集制作会社・聚珍社代表取締役。六〇年、中央大学法学部入学。六六年、同大中退。

著書に『戦後世代の莫叩』『三島・角栄・江藤津』、『今、戦争について考えることの一つとして』など。近著に『1960年代論』がある。