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【憲法と、】

第5部 不戦のとりで<中>軍国主義教えた国民学校

国民学校の教員免許や先輩教員からの手紙を手に戦中を振り返る藤川信子さん=埼玉県三郷市で

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 「子どもたちに命の大切さを教えられなかった。それが一番悔やまれる」。広島市の中心部にあった大手町国民学校の元教員藤川信子さん(88)=埼玉県三郷(みさと)市=は、セピア色の写真に目を落とした。担任していた二年生のクラス写真を見ると、今も涙があふれてくる。緊張した面持ちの子どもたちの三分の一ほどが原爆で命を失った。

 一九四三年春、女学校を出て十七歳で教員に。歴代天皇の名前の暗記や、わら人形を竹やりで突く訓練など軍国主義的な授業を、当たり前にしか思わなかった。子どもたちには「米兵が来たらやっつけるんだよ」と話すこともあった。

 それでも、違和感を覚える場面はあった。教員を集めて行われた修身の研究授業で、「神様って本当にいるんですか」と聞いた女の子が、職員会議で「危ない子だ」と糾弾されるのを聞き、背筋が凍る思いがした。神話の授業の指導書には「子どもたちに疑問を持たせぬよう教えること」と書かれていた。

 四五年三月に退職。家族の都合で転居した高松で八月、広島に新型爆弾が落ちたと聞いた。爆心地から約一キロの大手町校は全壊。疎開せず残っていた数十人が犠牲になった。校庭での朝礼中、整列したまま爆死したとの目撃談もあった。姉のように慕っていた先輩教員も亡くなった。

 終戦後、先輩の初盆を前に、長い手紙を書いた。「今度こそだまされぬ、正しい精神を持って、世界の人々から愛される国民にならなければ」

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 天皇に尽くす「皇国民」の錬成を目的とした国民学校は四一年から、戦後の四七年までの六年間設置された。従来の小学校よりも愛国心教育の色合いが強まり、修身や国語、国史などが国民科として再編された。児童は「少国民」と呼ばれ、教科書で日本は「神の国」と表記された。

 「私たちは一度も『小学校』に通ったことがない」と、本紙の憲法取材班に手紙を寄せたのは、東京都世田谷区の元学校職員高岡岑郷(しんごう)さん(79)。六年間を国民学校で過ごした唯一の学年だ。

 日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎と、その側近で後に海軍大臣となった大角岑生(みねお)から一文字ずつとって名付けられた高岡さんは、海軍に入ることを夢見る少国民だった。「戦争に行って死ぬ、それだけをたたき込まれた」

 その価値観が、終戦でひっくり返った。新制中学校に進み、新しい憲法を学んだ時のことを、鮮烈に覚えている。「戦争放棄の文字がまぶしかった」。自分たちのような教育を子どもたちが二度と受けることがないようにと、定年後の九九年、同級生らと「国民学校一年生の会」をつくり、平和憲法を守る活動を続けている。

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 藤川さんも、男女平等や平和主義が盛り込まれた憲法を歓喜して受け入れた。結婚して移り住んだ山口県の周防(すおう)大島で、二人の娘を産むとすぐ教員に復帰。憲法の授業になると、あの時代には戻すまいと熱意がこもった。

 憲法を変えようとする勢力が増えたことに危機感を抱き、高岡さんらの国民学校の会に参加。小中学生に戦争体験を話す活動も始めた。「私は戦時中、子どもを戦争に送ることに疑問を持てなかった。だから今は、おかしいと思うことに声を上げたい」。それは、国民学校の教え子たちへの罪ほろぼしでもある。 (樋口薫)

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