仕事を拓く
若い民からの成長戦略
トップ > 特集・連載 > 憲法と、 > 記事一覧 > 記事
【憲法と、】第5部 不戦のとりで<上> 特高のキリスト教弾圧
第二次大戦中、私の家庭は常に特別高等警察の監視下にありました。それは家庭がキリスト教徒であったからです。(中略)現憲法によって、信教の自由はもっとも基本的な権利として大切にされています 本紙の憲法取材班に手紙を寄せた踊哲郎(おどりてつろう)さん(80)は、東京都練馬区の老人ホームにいた。傍らには、使い込んだ聖書と日本国憲法があった。 宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えた地とされる、鹿児島県伊集院町(現日置市)で育った。一九三〇年、町で最初のキリスト教会を麦野七右衛門(しちえもん)牧師が開き、踊さんの父末治(すえはる)さんは最初の信徒になった。 特別高等警察(特高)の警察官は、踊さんの印鑑店兼自宅に、客を装って訪れた。天皇批判をしたり、スパイをかくまったりしていないかを疑っていた。家の中での会話も盗聴されるおそれがあり、家族は声をひそめて話した。 毎週日曜の礼拝も見張られた。麦野牧師が平和の大切さを説こうとすると「中止!」と叫んで説教を止めた。 日本国憲法は二〇条で「信教の自由」を保障している。しかし、戦前の大日本帝国憲法下では「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於(おい)て」との限定付きだった。天皇を中心とする国家神道を、国民の求心力として利用しながら、政府は戦争へ突入していく。天皇以外を神と信じるキリスト教は弾圧の対象だった。 ■ ■ 伊集院町で麦野牧師が開いた教会は現在、孫達一(たついち)さん(44)に受け継がれている。 教会は戦争末期、軍に接収され司令部として使われた。祈りの場が戦いの拠点とされることは、何よりの宗教弾圧だった。一九九二年に亡くなった麦野牧師は生前、戦時中のことを多くは語らなかった。ただ、昭和天皇が崩御した八九年の礼拝で「キリストと天皇のどちらがえらいか、と責め立てられた」と説教で振り返った、との記録が残る。 達一さんは「あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさい」という聖書の言葉を「弱者のために自分に何ができるか考えること。憲法の理念と共通する」と解説する。県内で宗教を超えて、平和を願う集いを開いている。「この国が二度と戦争を起こさないようにしなければ」と話す。 ■ ■ 「恐れなく自分の考えを語っていくことこそが大切。社会の不正義と戦うことは苦しいことだけど、生きている人の特権だ」。戦時中に受けた抑圧から、踊さんの信念は培われた。 戦後、牧師になった踊さんは佐賀県に移り、貧しい人の生活支援などに取り組んだ。七〇年代にはキリスト教系私立高校の聖書科教師になったが、学校側から生徒のベトナム戦争への反対デモを止めるように求められると「平和のためなら叫んでいい」とデモの先頭に立ち、職を辞した。 体調を崩し、親族の住まいに近いホームで暮らす今、大学ノートに憲法を書き写す日々を送る。「この自由を守らにゃいかん。絶対に変えちゃいかん」 (大平樹) ◇ 憲法について強い思いが込められた手紙が、戦争体験者やその家族から取材班に寄せられている。終戦の月の八月、手紙の主らを訪ねた。 <特別高等警察> 1910年代に当時の内務省が、社会主義者や共産主義者などを監視する目的で各府県警に設置した。25年の治安維持法制定により、取り締まりを強化した。その厳しさを批判する小説を書いた作家小林多喜二は、特高警官による拷問で死亡した。 憲法にまつわる体験談や思い、この企画へのご意見をお寄せください。Eメールはshakai@tokyo-np.co.jp 手紙は〒100−8505(住所不要)東京新聞社会部憲法取材班。ファクスは03(3595)6917
|