内田樹先生の「呪いの時代」のレビューを読んでたら、気になる批判を見つけました。
主観に基づく意見に価値はない?
【主張に客観性が皆無】
この内田樹という人物は、物事を語る際に具体的なデータや、他者の発言、文章の引用などを殆ど行いません。
エッセイならそれでも良いですが、それをさもちゃんと研究したうえでの客観的事実であるかのように語るのでは大問題です。
本書に書かれている内要は、あくまで内田樹という人物の、主観に基づいたごく個人的意見であるということをお忘れなく。
この種の批判はぼくもよく受けます。いわく「自分の思い込みを語っているだけだから、イケダハヤトは『宗教』だ」「会社を辞めたお子様の勝手な意見だ。何の根拠もない」云々。
このように、さも当たり前に繰り出される「客観性がないじゃないか!」という批判に対しては、強い違和感を抱きます。
第一に、「主観的な意見」にも価値があるという事実。
現にぼくは内田先生の本を読んで感銘を受けました。何か物事を伝える際に、定量的なデータがないとその論考の価値が落ちると考えるのは、不自然な考えです。
たとえば、「歌詞」などは何の根拠もない主観的な意見ですが、それでも人の心を震わせ、行動を促す力を持っています。
科学的な検証をしようとしているわけでもなし、主観的な意見「だから」ダメだ!というのは、いまいちピンと来ません。「客観的なデータがないと主張してはいけない」なんてことはないでしょう。
第二に、「客観性」というものが、そもそも原理的に不完全だという事実。
先日「[ブログ運営] 「十分な調査」とは何なのか」という記事を書きましたが、たとえ大規模な調査を実施したとしても、その調査の正当性について疑うこと、引用の主観性について疑うことは、エンドレスに可能です。
実際、客観性を取り入れるために厚労省のデータなんかを引用して記事を書いた際に、「それは主観的な引用だ!」と批判されたことがあります。こういう人たちは、データを丸々引用したとしても(もはや引用とは言いませんが)、「そもそも自分に都合がよい調査を選んでいる!」と批判するのでしょう。パートナーに浮気を疑われているようなエンドレス感。
「客観性が足りない!」と批判する人は、いったいどの時点で疑いをやめるんでしょう。その判断はどうあっても「主観的」にしかなりえないのではないでしょうか。つまり、客観性の欠如を批判する人自身が、主観的にその判断を行っているということです。このジレンマについて、「客観性が足りない!」と叫ぶ人は、どのように回答するのでしょう。
というわけで、客観性の欠如について批判する人は、
1. 「主観的な意見にも価値があること」についてどう考えるのか
2. 「『客観性の有無』自体が主観的にしか判断できないものであること」についてどう考えるのか。どのようにして、客観性の欠如を、客観的に判断できると考えるのか。
という疑問について考えてもらいたいところです。ぼくは主観的意見にも価値はあると思いますし、さらに「客観性」の追求はエンドレスだと思うので、必要に応じて用いるに留めるようにしています。
ほんとにうんざりするので二回書きますが、逆にデータを用いて論述すると、「恣意的にデータを引用している!」という批判が来るんですよねぇ。あんたらいったいぼくにどうしろと。
というわけで、大変良い作品ですのでぜひ。低評価レビューが面白いですね。