日本人に「革命」と「暴力」に対する嫌悪感を植えつけたのは、もしかしたらこの女性なのかもしれない。
連合赤軍と言えば、あさま山荘事件の凄絶な暴力が映像として残っているが、その後、次々と明らかになった「総括」と称する凄絶な殺戮に世間は息を飲んだ。
総括し、自己批判する
殺されたのは12人で、全員が20代だった。遺体は激しい暴行を受けたあとがあって男か女かも見分けがつかないほどだったという。永田洋子はこの連合赤軍の幹部であり、総括を主導したひとりだった。
永田洋子。連合赤軍幹部 |
「総括」というのは、共産主義ではよく使われる言葉だ。
「総括」し、「自己批判」するというのは、革命において自分のやった行為を分析し、それに対して自分のミスや失敗があった場合、それを公の場で自分自身を批判するということだ。
中国共産党でもカンボジア・ポルポト政権の内部でも、体制批判者には「自己批判せよ」という激しい言葉が飛び交う世界であったことは歴史に残っている。
やがて、「総括」や「自己批判」という言葉はそれぞれの国で、誰かを吊るし上げる道具となって先鋭化していくものになった。
中国の文化革命の中では四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)ら文革派が、批判者を片っ端から自己批判させて公衆の前に引き回していた。
カンボジアでも、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)内部でイエン・サリとポル・ポトと対立する幹部が片っ端から自己批判を強制されて殺されていった。いや、殺すという言葉は違う。左翼用語では「粛清」だ。
連合赤軍でも同様だった。
左翼闘争の中であちこちの組織が集合して最終的に連合赤軍という組織になると、そこでいくつもの暴力事件が起こされて、それについて「総括」がなされたのである。
そして、その総括の中で自己批判が行われ、自己批判する人間をリンチにかけるという暴力に直結していくことになった。
それは自己批判した人間を縛りつけ、集団で殴りつけ、裸にして外に放り出すというものであった。凍死したら穴を掘って埋め、逃げたら捕まえて「総括」する。
「総括」して「自己批判」して「内ゲバ」して「粛清」する。
妊娠8ヶ月の女もめちゃめちゃに殴りつけ、永田洋子は腫れ上がって変形した顔をわざわざ鏡で本人に見せたという。
彼女が死んだ時に議論になったのは、「腹を引き裂いて子供を引きずり出そうかどうか」ということだった。
それに何の意味があって、なぜ議論になるのか、私には分からない。内ゲバを主導していた森恒夫はこれを「狂気」と表現した。
その森恒夫は1973年1月1日に東京拘置所で自殺している。
「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。 私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」
この「遺書」は、左翼たちの間では遺書とは言わない。「自己批判書」という。
日本人の誰もが左翼にも革命にも嫌悪
当時の新聞を拾い読みしていくと、このような左翼革命派の極端な事件は連日のように報道されていて、それが何年も続いているのに気がつく。
永田洋子は国内に残った赤軍だが、重信房子(しげのぶ・ふさこ)は海外に出ている。拠点はパレスチナである。
重信房子。日本赤軍幹部 |
偽装結婚した奥平剛士は1972年5月に計100人を無差別殺戮した「ロッド空港乱射事件(テルアビブ空港乱射事件)」の犯人であるのはよく知られている。
この空港乱射事件は国際的にも激しい批判にさらされることになったが、日本人の衝撃もまた激しかった。
何しろ、日本人が世界からテロリスト扱いされることになったのである。
当時の日本は高度成長を享受して、もうほとんどの国民が革命よりも物質的満足の追求に走っていた。いい迷惑だったことだろう。
日本において「左翼」「革命」という言葉が国民の指示も同情も憧憬も失ったのは、この永田洋子と重信房子という二人の女性が関わった事件が原因だと言える。
1970年前半には、もう日本人の誰もが左翼にも革命にも嫌悪していたはずだ。
武力闘争に対するトラウマ
内ゲバに無差別テロ。武力闘争の果てに起きた無意味な暴力。そのトラウマがずっと日本人の中にあるのだろうか。
政府批判のデモ、暴力デモ、民衆暴力による政権打倒、といういわゆる「政治闘争」は、年配者になればなるほど拒絶感も嫌悪感も強く持っている。
もうそんなものと関わりたくない、勘弁してくれ、という気持ちしかないだろう。
それがゆえに、これらの左翼革命の自壊のあとは、自民党がどれだけ馬鹿な政治をしても日本人は暴力デモを一度も仕掛けなかった。
そして、選挙で自民党を退場させたときはもうすでに手遅れだった。
民主党が尖閣諸島で中国に土下座するかのような外交をしたあと、保守派による反日デモがやっと起きたが、それは暴力デモとは成り得なかった。
だから、マスコミもナメてかかっていてまったく報道すらしない。
そこに暴力がないからだ。メディアは、無視すればやり過ごせるとたかをくくっているのである。
しかし、暴力闘争、暴動デモという言葉を聞くと、もう日本人はすくみ上がる。
日本人の中には未だに連合赤軍と日本赤軍の呪縛がかかって身動きできないのである。
暴力が必要なときになっても、永田洋子と重信房子という気味の悪い女ふたりが日本人の脳裏に思い浮かんで踏み切れない。
武力闘争に対するアレルギーが抜けておらず、金縛りのようになっているとも言える。
永田洋子と重信房子というふたりの女が日本人に呪いをかけており、その呪いを何とかして解かなければならないのだが、まだ誰もその処方箋を発見していない。
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