■西多摩・南多摩では激しい抗議運動 北多摩では東京移管に賛成論も
こうした一連の内海知事の動きに対し、「神奈川県史」は厳しく批判する。
「民意を一度も確かめたこともないのに『民意ニ適サザル』と表することは詭弁(きべん)も甚だしく、選挙区にしても行政上の積極的な理由になっていない」
実際、西多摩、南多摩では猛烈な反対運動が起こり、衆議院に対し48の村が連盟で抗議文を送った。役場を閉鎖する抗議運動も相次いだ。
ただし、激しい抗議は西多摩と南多摩が中心で、北多摩では賛成の声も多かったようだ。甲武鉄道(現・JR中央線)の開通で北多摩は東京に近くなり、東京への親近感を強める住民が多かった。
1893年、反対運動が続くなか、三多摩の東京府への移管法案はわずか10日の審議で成立する。自由党内部でも問題への温度差があり、国政レベルでは反対は大きなうねりとはならなかった。
ちなみに内海知事は法案成立の翌月には神奈川県知事を辞し、2年後の1895年には大阪府知事に転じた。一連の混乱が影響したのだろうか。
■東京移管後、神奈川県に戻す案や独立案が浮上
多摩の帰属を巡っては、その後何度も変更案が浮上した。
1896年(明治29年)には「武蔵県」構想が飛び出した。三多摩だけではなく、現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を1つの県とするプランだ。現在の中央区や千代田区などの東京都心部を東京市として、その周りをすべて取り囲む。名称は「千代田県」にするという案もあった。
1923年(大正12年)には鳩山一郎が三多摩を神奈川県に戻す案を提出。1924年(大正13年)には「多摩県」として独立するプランも出た。
いずれも水源地は警察が管理すればいい、としており、水源問題と行政問題とを切り離している。こうした経緯を見る限り、三多摩の東京移管には水道問題よりも政治的思惑の方が大きく働いたと考えるのが自然だ。
一方、多摩を東京から切り離す一連の構想に対して、多摩の住民からは反対の声が強かった。東京府に組み込まれたことで、経済的に発展していたことが大きな理由だったようだ。鉄道も道路も東京に向けて延びていき、政治情勢も住民感情も、10年ほどで大きく変わった。
1943年(昭和18年)、東京府と東京市は廃止され、東京都が生まれた。東京市は35区の行政区となり、三多摩は東京にとどまった。
多摩百年史研究会の原嘉文氏は「多摩百年のあゆみ」の中で、神奈川から東京への移管によって、「多摩は膨張する東京の受け皿となった」と指摘する。
東京の水源を管理し、人口増にはニュータウン建設で応じる。軍事施設や刑務所など都心部で抱えきれない施設をも受け入れてきた。
多摩地区の人口は現在、400万人を超えている。多摩が神奈川県だったら、あるいは独立していたら、今ごろどうなっていたのだろうか。(河尻定)
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多摩
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