■多摩の東京移管問題の背後に政治的思惑?
三多摩の移管について、踏み込んで書いた資料は多くはない。東京府がまとめた「東京府史」にも事実関係が簡潔に書いてあるだけだ。
東京都立図書館で尋ねたところ、この問題について詳しく書かれた文書が2つ見つかった。東京都がまとめた「水道問題と明治26年三多摩編入始末」と、神奈川県が書いた「神奈川県史」だ。それぞれ東京都、神奈川県側からの見方を代表している。
1952年(昭和27年)、東京都総務局文書課が書き上げた「三多摩編入始末」は、この問題に焦点を絞って書いた貴重な文書だ。
著者である川崎房五郎は、市域拡大など他の問題については経緯を記した書物が出版されているのに、移管問題については書かれたものがないと指摘。次のような疑問を呈している。
「三多摩地方の編入ということは、東京都の歴史の上から見ても、その行政上の範囲が一番広くなった大きな事件であるのに、何故当時『府域拡張史』とか『三多摩編入史』とかいうものが出なかったであろうか」
その上でこう推察する。
「恐らくこの事件が余りに政治的な問題を含んでいて、東京政界の種々な事情を反映して、府当事者がその当時の事情を明らかにし、出版することを遠慮したのではないか」
多摩の所属を巡って、どんな「事情」があったのか。2つの資料を読み解いてみよう。
■東京でコレラ流行、水源管理が問題に
東京都の文書は、移管に至った最大の理由は水道問題だった、と結論づけている。様々な思惑が絡み政治問題化したものの、三多摩は東京に移管するのが当然の帰結だとも指摘する。
明治時代前半の東京では、上水道の衛生面が大きな問題となっていた。当時、東京の上水道を担ってきたのが玉川上水。江戸時代に庄右衛門、清右衛門兄弟(後に玉川姓を賜る)が開削した水路だ。
玉川上水は多摩川の水を現在の羽村市にある羽村取水堰(せき)から分岐させ、四谷大木戸(現・四谷4丁目交差点付近)にあった「水番所」を経て市中へと引き込んでいた。
1886年(明治19年)、玉川上水への不安が一気に高まる事件が起こる。コレラが大流行したのだ。しかも「多摩川上流でコレラ患者の衣服を洗濯した」とのうわさが広まった。本当なら羽村から玉川上水を伝って東京の水道が汚染されてしまう。
実際に洗濯したのは多摩川の支流で、水道水に影響はなかった。しかしこの事件が「多摩の東京移管」機運を高めることとなった、と東京都は記す。当時、多摩川の上流は神奈川県に属していたが、見回りの強化などのためにも東京府が直接管理すべきだ、となったのだ。
この見方に真っ向から異を唱えるのが1980年(昭和55年)に神奈川県が編さんした「神奈川県史」だ。
多摩
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